まず、ディアナ様はソシエの母親じゃないよね。ソシエから見るとディアナは母親なんだけど、あくまで別の家の母親。
だから、母は全てを奪うというのが、ギンガナムとかにとっては当てはまるとは思いますが、ソシエ・ハイムにはどうかなあと思います。
「ロランは、キエルさんに憧れを感じていたし、ディアナ様を尊敬もしていた。そして、ソシエをいとおしく思っていた。
そして、ソシエにはそれがわかったから、ロランをディアナ様にあげたのだ。」と、∀の癒しにあるので、奪われたというのはソシエにとっては違うと思うんですよねえ。まあ、作者の言葉だからと言ってもエッセイを作品の解釈に利用するのは少し楽屋落ちっぽくてアレなんですけど。
じゃあ、なんでソシエはロランと別れて泣き叫んだのかというと、いくら納得してロランをディアナ様に預けたとしても、そこで泣かなかったらソシエが可愛くないからですよ。
ソシエは可愛げがあるよなあ。ソシエもソシエなりにディアナ様と姉妹のようにすごすなかでディアナ様のためにロランを渡してあげようという気になったんじゃないかなあ。いじらしいなあ。
カテジナさんの「引き裂かれた愛」のラストシーンよりもソシエの失恋(?)のほうが明るい未来があると思います。(カテジナさんに未来が無いといってるんじゃないぞ!)
カテジナさんは友達いなかったからなあ。ソシエにはメシェーというモンチッチがいてくれて本当によかった。
僕の持論として、ニュータイプを狂わせるか狂わせないかというのは、恋人がいるかどうかというよりも、友達がいるかどうかに左右される、と思うのですが。
アムロ、ホワイトベースのクルーやサイド⑦の難民仲間
カミーユ、大人の中で孤立
ジュドー、シャングリラの仲間達
シーブック、高校のクラスメイトとマザーバンガードの仲間たち
ウッソ、戦災孤児たち
というふうに。
友達がいると、イライラしているティーンエイジャーとしての自分を半分鏡を見るように見ながら立ち振る舞いを正していったり、影響しあったり出来て安定するんじゃないでしょうか。
クェスにとってクリスチーナが友達だったかどうかは微妙なラインなんですけどね。
あ、でもガンダムイボルブで富野監督が構成を担当した逆襲のシャアの新訳ショートフィルムでは、クェス・パラヤも健やかに新訳されていたな。そうすると、閃光のハサウェイに繋がらないから微妙ではあるんだが・・・。
あー、そう考えると、カミーユはファ・ユイリィを恋人として抱いた、というよりは女友達として抱いたという方がいいかなあ?
そうだよなあ。宇宙駅弁の一回くらいで俺の女扱いするのも止めて欲しいか?友達同士でもセックスくらいはする時代だしなあ。昔のシンデレラ・フォウという運命の女に翻弄されていた恋愛中毒のカミーユよりも、軽く女友達を抱いてみせるという方が健やかなのか?
カミーユエロ過ぎる。