玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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現実認知の繰り返しはファーストガンダムからと

劇場版ファーストガンダムを劇場で一気に見て気づいた事のは、機動戦士Zガンダムのテレビ版の雰囲気はある意味し方がなかったと言う事。
と、言うのは、現実認知の物語としては機動戦士ガンダムでも同様に行なわれていたからだ。
ただ、ラストの雰囲気が違うだけで。
つまり、「求めた物は手に入りません」と言う事の繰り返しなんだなあ。それでも求めつづける。
「あこがれたって 何になる 居はしないのさ そんな人 今日はひとり 風にのる そして あしたは きっと
なぐさめあって 何になる 居はしないのさ そんな人 今日はひとり 風が吹く そして あしたは きっと」
ある意味、あしたのジョーみたいなアムロ・レイ
なんというか、アムロは自己肯定感を求めつづけて、何度も肩透かしに会ったり直前でワヤにされたりするんだよね。ここらへんは、エヴァンゲリオンにも似ているかも。
順を追って言うと
テムに放って置かれ、機械いじりで満足していたアムロ→ザクによって生活を破壊される
父親に助けを求めるアムロテム・レイアムロより人間よりガンダムが大事
ガンダムに乗ってヒーローになるアムロ→誉めてくれるパオロ艦長は死に、嫌味なブライトが残る
大気圏突入をしたりしても誰も誉めてくれんので不眠症でガタガタ出撃拒否をしてアピールする→ブライトに「シャアを越えられる奴」と言われ、フラウに発破をかけられて、やる気復活
立派になったところをママンに誉めてもらおうと思う→ボロクソに言われた上に間男
ママンから離れたので、仕事で一生懸命やりすぎて独断専行→誉めてくれる人になったと思ったブライトとミライにガンダムを降ろすとか言われる。んで、脱走。
脱走した先で、ランバ・ラルに誉められる。→依存対象がランバ・ラルに移行
グフに勝ったらガンダムの性能のおかげで勝ったと言われる→あの人に勝ちたい
白兵戦のランバ・ラルに勝とうとする→ランバ・ラルは自分とは関係ないところで破れ、自決
マチルダ・アジャンリュウ・ホセイ、クラウレ・ハモン、ウッディなど、誉めてくれる人が次々と死ぬ。→シャアが復活するので、シャアに勝つことが依存対象に
再会した親父は酸素欠乏症→その矢先にシャアと対面、ララァと宿命の出会い
シャアに勝ち、ララァニュータイプとして分かり合おうとする→ララァ・スンを殺す
目的を見失い、戦争に打ち込もうとする→地球連邦軍の3分の1と誉めてくれたレビル将軍死亡
連邦、ジオン両軍とも先の見えない戦闘を行ない、アムロはその中でザビ家を倒して平和を勝ち取ろうとする→シャアに邪魔される。ザビ家はシャアが倒すし、ガンダムア・バオア・クーは落したが和平工作は別の人が勝手に進めた。
ホワイトベースの金髪さんたちを守るために闘う→金髪さんはシャアの妹でしたー\(^o^)/そんなセイラさんなんか、嫌いだ!


もう、死にたい_| ̄|○

ガンダムララァによって生かされて、どうでもよくなってるけど、わけもわからず、悟りの境地でホワイトベースの仲間を救う

仲間たちの手を握る直前で、物語は終わる。




結局、アムロという少年は求めれば求めるほど、ことごとく奪われる少年なのである。
運命とか世界とかによって。
だからこそ、視聴者はフラストレーションを解消するカタルシスをアムロに仮託できる。
また、富野喜幸の言うように、死んでいったものたち、戦争によって奪われたものたちの代弁者としての資格を得る。
そして、その奪われても奪われても求めつづける力が生命力となる!
あー、だから俺はトミノアニメが好きなんだなあ。
そういう、ガッカリして、満たされないで生きる感情ってみんなあるし、僕は特に在る。人生を失敗してるし。
だけど、アムロ様は誰にも誉めてもらわんでも誉めて欲しがるし、何も手にはいらなくっても手に入れようとする。
終わりのないディフェンスでも構わない!
それがアムロ様の気迫になるんだろう。
だからこそ、ガンダムジオングに肉薄した時、シャアはジオングの口と腰部のメガ粒子砲でガンダムを焼く事が出来なかったのだ。アムロ・レイの思惟に圧倒されたのだ。
そこが、シャアがキュベレイに同じ事をして、負けた理由だろう。シャアはどこかアムロよりももろいんだな。欲がなく、自分のこともどこか他人のように達観している。だから強いのだけど、アムロには勝てない。
アムロは必死である。死んで居るのである。死中に活を求めているのである。
求めても手に入らないのである。それでも手を差し伸べるのである。
それが、ニュー・タイプ。
だから、アナザーガンダムでオールドタイプを表現する時に、ガンダムセンチネルのように

これまで自分が努力してきたことがニュータイプと言う一言で全て崩壊してしまうのである。自分がいくら努力してもこれでは報われない。

と、そのように書いてしまうことが、重力に魂を引かれているオールドタイプの言う事!
ガンダムニュータイプが強いと言う事はただのアニメ設定だと思っている人にはガンダムが好きになってもメカニックや記号的な物語しか見えることはない。
それではガンダムである意味はないよ。
もっと、見たものを信じるんだ。オールドタイプとニュータイプはそんなに分かれたものではない。誰しもがニュータイプになりたいと言う願望、奪われても手に入れたいという命が在る。それを表現できる物がニュータイプなのではないか。


ニュータイプ論に逸れてしまったが。
閑話休題


だから、機動戦士ガンダムはあのタイミングで、みなの手を取る直前で終わらなければならなかったのだし、それが美しい。
もし、続編が作られるとしたら、またアムロは奪われなければならないし、事実、そうなった。
幽閉された引け目からララァと宇宙を怖がってヒーローになれなかった。
世界の人たちも、ニュータイプ的な素養をほとんどの人間が持ちながらも個体と言う壁を越えられずに新世紀は来なかった。
カミーユ・ビダンが崩壊したのは、ただ、それをはっきりさせるためだけに作られたエピソードであり、ファーストガンダムの希望のラストシーンと紙一重の違いしかない。


機動戦士Zガンダムがあのような作品になったのは富野由悠季監督の当時の苦悩や製作体制に対する異議申し立て、リアルロボットブームに乗った作家性のエゴだけで無く、最初の機動戦士ガンダムの流れから、続いていた事だったのだ。
一気に見て、僕はそう感じました。


そして、ガンダムが20数年をたって、歴史すらも輪廻させる∀ガンダムが作られたことや、手に入れようと思っていなかった傍らの青い鳥的なファ・ユイリィカミーユが抱く事が出来たのは、非常に感慨深い物があります。
ガンダムシリーズは現実ともリンクしながら、非常に奥が深い。
うぉぉおおおおお!!トミノーー!!!!!愛してる!! お前に夢中だぁああ!! トミノぉおおおおお!




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