玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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まおゆうファンと1stガンダムは過去に囚われて、丘の向こうから目を背ける

私のまおゆう魔王勇者感想↓
まおゆう魔王勇者が何故、虫けらに支持されているのか、ガンダムの歴史から - 玖足手帖-アニメ&創作-
に影響を受けた、はてな匿名ダイアリーを見つけた。

これを論破しようと思う。簡単に言えば、まおゆうのヒットの文脈は「三丁目の夕日」と同じノスタルジアである。

まおゆうがガンダムを踏まえて、より先へ行こうとした部分 ガンダムシリ..

  • まおゆうがガンダムを踏まえて、より先へ行こうとした部分

 ガンダムシリーズはそのほとんどが、最終話においては「明日がやってくる、希望を持って生きよう」という方向性に収束する。

(中略)
 「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、アムロや勇者は「信じられる!」と叫ぶ。それは、彼らが彼らの魂を担保として叫ぶわけだ。その強い輝きによって闇を飛び越える。

 これらはストーリーとしてはよくできているが、じゃあ、それが、読者である我々にも適用できるか? といわれると返す言葉に困る。つまり、我々があの種の絶望におとされたあと、再び立ち上がって「人類に絶望もしちゃいない!」と叫べる保証はどこにあるのか? という点だ。

(中略)

 これにたいして、まおゆうは別の答えを読者に提供しようとする。それは歴史的な視点だ。


 読者は現代日本に住んでいる。色々問題があるし、苦しみもある。でも、500年前とくらべてみれば明らかに恵まれている。みんなご飯をそこそこちゃんと食べている。
電気が通っている。暖房も冷房もある。乳幼児死亡率は極限にまでへらされた。もちろん大きな戦争もエネルギー問題もある。が、飢え死にばかりしてた頃に比べて、漸進していることは確実だ(この認識にぐだぐだ文句をつけてる人間が中国やアフリカ奥地に移住した例を知らない)。


 その視点を提供した上で、魔王は「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問に答える。


 「信じられる。だってそれは歴史を見れば明らかだ。人間は愚かかもしれないし、間違いを沢山起こすが、それでもここまでやってきた。この先にいけないはずがない」と。

 この具体性や説得力は、アムロにもキラ=ヤマトにもなかったものだ。

 主人公個人の精神的高潔さや勇敢さに仮託をせずに、読者にも実行可能なやり方で「英雄を超克」させてくれる物語上のギミックだ。

(この部分の指摘が、「物語三昧」には欠けているようにおもわれる)


(中略)
そしてこの視界は、英雄の苦難や高潔をもたないでも、誰にでも(それこそWikiを検索する程度の労力で)手に入る。

 まおゆうがガンダムを踏まえて、より先へ行こうとした部分があるとすればここだし、物語の類型を一歩進めた部分も、まさにここにある。

そうだね。中世よりは文明、科学技術はいささか一般社会に浸透して死亡率は減ったね。
ただし、新しい問題もある。エネルギーや資源の大量浪費。増えすぎた人口の受け皿がないことに起因する失業率の高騰や民族主義の暴走。
などなど。やっぱり僕たちの世界には困り事がたくさんだ。
しかも、戦争等は昔からある人類固有の問題だが、それが近代科学技術の発展そのものによって悲惨の度合いを増している。核戦争、毒ガス、またバーチャルに取引される情報や資源、増えすぎた人口のエネルギーを維持するために処理できない核物質まで必要とする社会、なども近代が生み出した病根と云えましょう。
つまり、魔王勇者で魔王がラスト近くで「人間は愚かかもしれないし、間違いを沢山起こす」と言ったその間違いの只中に、我々は生きているのである。そのような我々が丘の向こうを目指すためには、魔王が教えたような近代技術そのものを見直して批判的に改良した上で前に進まなくてはいけないのです。


ですが、そのような現代を生きる読者視聴者が魔王勇者やガンダムを見て「僕たちは今までも生き延びてこられたので、これからも生き延びられるはずだ」と考えることは、決して丘の向こうを見ようと考える姿勢ではない。自分たちの直近の過去を美化して「自分たちのやってきたことは間違っていなかった」と無意識的に自己欺瞞して、しかもそのことにも気づかず無邪気に現代を肯定したつもりになるだけの行為だ。美化された過去を思い返して、公害や職業差別や犯罪率の高さや冷戦を無視して「戦後日本には元気と技術と希望があった」と悦に入る、ALWAYS 三丁目の夕日'64のようなものだ。それはクレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲に既に10年前に否定された態度だ。
つまり、このようなファンの態度こそが、実はまおゆうやガンダムのテーマ「未来への意志」を否定する態度であるというのが、まおゆうファンの歪んでいて、興味深いポイントである。


まおゆうで描かれている科学技術は近代レベルで止まっていて、我々の現代の向こうの問題に立ち向かう姿勢はない。せいぜい、中世に変革をもたらした農業改革、騎馬戦、火縄銃、種痘検疫、程度である。もちろん、まおゆうは所詮ドラクエファンタジー世界の”リアルな”パロディというジャンルなので、「中世によく似た異世界に近代技術をもちこんだらどうなるか?」という発想はそれほどトリッキーなものではない。(ドラクエの発売前、今から30年前に、既に聖戦士ダンバインというアニメで中世風異世界に20世紀冷戦時代の軍事力を輸入するという移植ファンタジーアニメがあった)
だが、まおゆうの奇妙なところは、それが「ファンタジーと現代技術の融合」というエンターテインメント要素にとどまらず、「丘の向こうを見る」という未来志向のテーマ要素になっている点だ。
ただし、何度も言うが、まおゆうで提示される近代技術は近代のおそらく20世紀の人類がつかの間の夢と希望を見ていた時代までで止まっていて、その先はない。
思想的にも20世紀中盤までのもので、現代の民主主義を無邪気に肯定するものだ。
メイド姉の演説は感動的だ。キング牧師のようだ。

メイド姉「みなさんっ。

 望むこと、願うこと、考えること、働き続けることを

 止めては、いけませんっ。

 他人に譲り渡して、考えることを止めた虫ですっ。

 それがどんなに安逸な道であっても、

 宝物を譲り渡した者は虫になるのですっ。

  わたしは虫を軽蔑しますっ。

 わたしは虫にはならないっ。

 わたしは“人間”だからっ」

2スレッド目

http://maouyusya2828.web.fc2.com/matome04.html

ここは、痛烈なまでの、自立を尊ぶ宣言であることが、わかります。リベラリズムの流れですね。これは、「個」の独立宣言になると思うんです。
他者に依存しないで生きるものこそ人間だ、との主張。教会と暗黒の中世に支配されたヨーロッパで、カソリック教会による「モノを考えず教会に従え」という刷り込みの否定を促したプロテスタンティズム、そして、人間の尊厳と美しさを歌い上げたルネサンスの主張がここには、溢れています。人間の「内面の発見」です。うーん、近代啓蒙主義の流れですねー。
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4) - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために

この非実在青少年メイド姉の演説は感動的だ。その人権平等主義や民主主義の発見は中世社会では大発見だったかもしれん。だが、高度通信技術と経済によって動くポピュリズム民主主義社会を生きる我々、資源の奪い合いによるテロや戦争によって自国民と外国人の命の重さを選別して身代金取引やテロ組織殲滅戦闘を続けている我々現代人にとっては、現代の民主主義の基本であるからこそ、逆に諸悪の根源かもしれんのだ。


そのように、我々は現代の問題に対して向き合って悩まなくてはならん(もちろん、全員がそうする必要はない。たいていの人間は精子卵子の混合に過ぎない)のだが、まおゆうを見て「現代に続く近代の過去が正しいように見えるから、現代も正しいし、これからも正しい」と考えることは思考停止である。そして、それはまおゆうやガンダムのテーマ「未来への意志」を否定する態度である。

 まおゆうにおける最終的な敵対概念は、守旧というか停止主義だ。既得権益をまもるために世界を静止させようとした。
http://anond.hatelabo.jp/20130118081901

つまり、まおゆうで思考停止して、まおゆうで自己肯定してもらってるような人間は、21世紀日本で適当にインフラが整備されて(建築劣化や技術者劣化は無視する)、食べ物を腹いっぱい食べられて(水資源の枯渇予想や輸入コストは無視する)、娯楽が氾濫してヌクヌクと生きていられる現代の快楽だけを享受したいとぼんやりと感じているだけの虫です。
さらにタチの悪いことに「自分が思考停止している」ということも気づかないふりをして、それどころか「自分たちは未来に向かおうとしているんだ!」と思い込んで免罪符を信仰している最悪の虫だ。

メイド姉「望むのは平和。ほんの少しの譲歩。


 それだけで、わたし達は立派にやっていける。

 その後のことは“みんな”が上手く形にしてくれる。

 私はそれを信じています。」

この無責任に「みんなを信じています」というカマトトぶった欺瞞性は全く吐き気を催す邪悪だ。少なくとも、僕は乳児死亡率が減った程度で世界がうまくいっているとは思わない。富める者が弱者の臓器を食って生きてるような医療だよ。
(まあ、それでも課題があるからには人間は何かするでしょう。ただ、それは無批判に肯定できるものではなく、常に人類自身を疑い続けて、謙虚且つ雄壮にやらねばならん。辛いところね)
つまり、まおゆうに身をゆだねているファンはまおゆうのテーマに反しているという自家撞着を起こしている。


実は機動戦士ガンダムの1stもそのようなものである。
ガンダムの総監督富野由悠季、も講演会や書籍やインタビューでこのような発言をしている。

富野由悠季ガンダムは過去を承認するノスタルジーでしかなかった」



機動戦士ガンダムがなぜ人気が出たのか考えてみると、ガンダム第二次世界大戦までの陣取り合戦をアニメにしたものだったからだ」
ガンダムではベトナム戦争以降の戦場の区別ができなくなった現代戦は想定していない」

「つまり、ガンダムは20世紀前半までの文明が発達拡大していく右肩上がりの成長という過去を承認するノスタルジーでしかなかった」
富野由悠季「ガンダムは過去を承認するノスタルジーでしかなかった」 | ログ速@2ちゃんねる(net)

ガンダム者―ガンダムを創った男たち

ガンダム者―ガンダムを創った男たち

まおゆうも結局、「右肩上がりの成長が続いていた20世紀中盤までの近代文明発達」の過去を承認して「自分は間違ってない」って思い込むようなものだ。
だから、ガンダムファンとしては、まおゆうのやってることはガンダムの縮小再生産に見えて「ああ、また人は同じことを繰り返す。同じように過去と未来に希望を見て現代から目をそらす愚民どもが」って思う。
むしろ同族嫌悪と自戒もある。だから、ガンダムを見てきた立場でまおゆうの盛り上がりを見ると「その向こう側には何もないよ。カミーユとウッソが見てきた。」と、冷めたことを思う。


ただ、富野由悠季本人はガンダムオタクと違い、「ジークジオン!」というナチズムのノスタルジックなカッコよさに30年以上も遊んでいるガンダムファンと違い、丘の向こうの未来を作品で模索していたようである。
宇宙植民時代を描いたイデオン、人類が絶滅して新人類が生まれたあとのザブングル、ファンタジーと冷戦核戦争の融合したダンバイン、戦争商人を描いたエルガイム、現実認知の機動戦士Zガンダム、未来の象徴であったスペースコロニー制度が経年劣化したガンダムZZ、変わらない愚民どもへの絶望と諦めに似た希望の葛藤を描いた逆襲のシャア、民主主義に抵抗する貴族主義革命を描いたF91、地球連邦民主主義が瓦解して地域紛争が続く宇宙戦国時代の宗教戦争を描いたVガンダム、自然災害と資源の枯渇で地獄となった地球で科学と絆を使って生き延びようとする人々を描いたブレンパワード、遠大なる過去の黒歴史の重みと呪いを受け止めた上で健やかさに回帰しようとする∀ガンダム、管理社会の崩壊すら予定に組み込まれた未来世界で一人ひとりが人生を謳歌しようとしたキングゲイナー第二次世界大戦から冷戦を経て21世紀のグローバリゼーションとテロという現代の問題をファンタジーの手法でひと続きにまとめたリーンの翼
富野は30年以上、常に丘の向こうの未来に何があるのか、もがき続けてきた。だからかっこいい。(実際の成果が出たかどうかは、所詮は虚構ですが)
でも、まおゆうファンには

ガンダム』の世界において、もはや、善悪二元論は意味をなさない。


 それでは、『ガンダム』は二元論を超克したのか。そうはいえないだろう。『ガンダム』は二元論を廃したために極端に構造がわかりにくくなってしまった。シリーズ第二作『機動戦士Ζガンダム』などは特にそうである。ぼくは一応、全話を通して見ているはずだが、あまりの複雑さにほとんど内容を憶えていない(笑)。
『ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。 - Something Orange

わかってもらえない!


結局、現実の複雑さをある程度描こうとした作品は受け手に理解されないのです。複雑すぎて。現実の複雑さを踏まえて、その向こうを模索した作品は、現代に留まる鑑賞者には理解されないのです。
で、結局ヒットするのは、ノスタルジーを記号的に整理した作品です。結局、大勢の人々は「丘の向こうを見に行きたいという気持ちはある」と思うだけで、実際には丘の向こうを見に行くことはしないのです。
それは、まおゆう自身が20世紀中盤までの過去の成長までで物語を終えて、20世紀中盤までの栄光の上に立つ読者自身に肯定感を与えて支持されたという事実が証明していうる。悲しいことに、過去のノスタルジーを未来だと錯覚させた魔王勇者が受け入れられたということそのものが、未来を否定する行動なのです。


ちなみに、魔王は図書館族という全宇宙の叡智を収めた図書館で技術を学ぶ魔族の一部族でして、アカシックレコードのような図書館の性能を考えると、魔王は21世紀以降の問題点や環境問題や人口が増えすぎることによる大衆の劣化なども知識としては知っていてもおかしくない。(魔王は「いくつもの世界が滅んできたのを見た」と証言している)だが、そのような「発展することに伴う罪深さ」は魔王勇者では結局描かれることはなく、世界を停滞させようとした大魔王を倒して、勇者と魔王は無責任に新天地に旅立つ。魔王と勇者と女騎士が新大陸をまた繰り返し啓蒙していくという循環構造を予感させて物語は終わる(ドラクエでも新大陸はありましたしね)。
丘の向こう=近代発明から生じた問題の尻拭いをする現代は描かれないからこそ、甘ったるいロマンなのだ。描いたら、それはただの現実の課題だ。


そして、まおゆうファンは過去の栄光にすがりつく。その栄光は多くの犠牲の上に成り立ったものだということも忘れ、過去と、それによって作られた現在の自分を美化する。
そして自分が懐古主義者であることも忘れ

 ぼくは時代的閉塞感の先の物語を見たいと思う。その火が遂に上がった! そのことにわくわくしているのだ。「丘の向こう」には何があるのか? それはわからないが、いずれにせよ、素晴らしい景色に違いない。はてしない血と泥のかなたにある景色なのだから。
『ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。 - Something Orange

と、あたかも自分が過去ではなく未来を見ているように思い込む。



でも、僕は過去を無批判に肯定し、「美しい歴史から生まれた自分は未来に向かっていける」なんて現代をきちんと見つめることなく思考停止したものは虫だと思う。考えることを止めた虫ですっ。

 それがどんなに安逸な道であっても、

 宝物を譲り渡した者は虫になるのですっ。

  わたしは虫を軽蔑しますっ。

 わたしは虫にはならないっ。

 わたしは“人間”だからっ


だが、虫の人生は短く、そして虫は本能に沿って同じような生活サイクルの行動を繰り返す。
それは仕方ないのかもしれない。
Vガンダムのラストや∀ガンダムのラストのように「ただ、1年、冬を越した」たったそれだけを喜びとして積み重ねていくことしか、人間という知性も能力も限定された動物には、できないのかもしれない・・・。
丘の向こうにはただ、同じような丘があるだけで、人生は終わりのないディフェンスに過ぎないのかもしれない。それで良しとしなければ、救われないのか・・・。救いようのない・・・。
それでも、常にその時の現在でディフェンスをし続ける。そういう宿業か?


ただ、僕は科学技術が嫌いではないし、リベラリストでもあるので、せめて、ニュートン力学からの系譜くらいの文明は途絶えないで欲しいとは思っている。核兵器を使うか、教育の劣化と技術のブラックボックス化を推し進めれば石器時代には簡単に戻れるけどね。


  • 上記のこと↑を自ら全否定

でもまあ、そんなに深く考える必要性も実はなくて、まおゆうなんか所詮、ドラクエをパロディにしながら軽く経済のおさらいをして、魔王のおっぱい萌えを楽しむ程度のアニメでいいと思うし、その程度のアニメで時間と資源を浪費して行くのが先進国の我々という生き物なんだよ。