玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

どろろ 第16話「妖馬みどろ」(富野演出回)荒削りなテーマ性とトミノらしさ

DVDは出ているもののレンタルビデオ店にもめったにない作品だが、GyaO!で無料配信しているので見ている。3月24日まで配信。
http://rd.yahoo.co.jp/gyao/wmp/link/*http://gyao.yahoo.co.jp/player/00923/v00042/v0000000000000001189/
1969年、若干28歳の富野喜幸が演出を手がけた一作。富野喜幸どろろどろろと百鬼丸)への登板はこれが最後である。
当時、富野喜幸は新卒入社した虫プロ鉄腕アトムのテレビシリーズの絵コンテを数多く書いたあと、実写CM業界に行ってからアニメ業界に出戻ってきた。虫プロ作品。総監督、杉井ギサブロー
16話の脚本はアトム、W3、巨人の星河童の三平などの佐脇徹(さわきとおる)。
主演は野沢那智。ゲストとして大御所大木民夫が脇を固めている。

  • 若く荒削りな富野

映像の原則を上梓し、演出論にはうるさいところのある富野だが、正直、ファンの目から見ても、どろろの時点ではまだ完成されているとは言えない。
今回、カットつなぎのテンポが悪かったり、情報の時間あたりの密度の変化がぎこちなかったりする。アニメーションとしての作画リソースはもちろん1969年の白黒アニメなのでよくはない。この十年後の1979年の機動戦士ガンダムはまだ作画がひどくても演出を見ているだけで面白いのだが、この時点の富野はまだ演出家として完成されちゃあいない。
しかし、随所随所にトミノらしくおもしろい場面や、後年の富野由悠季に通じる要素がある。

  • 原作との相違

タッチですら原作とかなり雰囲気を変えて写実的にした杉井ギサブロー監督なので、漫画っぽい手塚治虫の原作からはかなり変わっている。これは脚本段階から変わっているといえよう。絵コンテの時点で脚本を変えることで有名な富野だが、今回は自身の監督作でもないし、どの程度筋書きに手を加えているかは不明。
脚本のわかりやすい相違点では、原作では次回に百鬼丸の一時的なライバルとなる武芸者、賽の目の三郎太が妖怪に取り憑かれた馬「みどろ」に乗るという展開が、アニメではまるまるカットされている。三郎太はアニメには出てこない。
これは少年サンデーでの原作萬画が途中で連載打ち切りになって、賽の目の三郎太というキャラクターが全体の流れからは微妙に要らなくなったので、再度整理されたアニメではライバルを出す必要がなくなったのであろう。
むしろ、名馬みどろに乗る侍の時野景行や、その家臣でみどろを育てた馬士の老人(新助)のドラマが増幅されている。
身分と実力と武功で出世が決まる武家社会の中で、景行は馬のおかげで出世したことを他の侍に妬まれたり、馬が妖怪に取り憑かれて不祥事を起こしたことを主君の大名に叱責されて出世の夢を絶たれる。このように強い戦士である景行が軍の組織の中で孤立して命を捨てるような戦いを強いられるのは、後のガンダムランバ・ラルに通じるものがある。
この中間管理職の人間の男が上司や家臣や同僚や怪異など、さまざまなものから板挟みにされて逃げ道を失っていくのは、富野喜幸らしい人間観である。人間の悲哀を感じさせる。演出的には、景行がみどろに悩みながら晩酌をする場面で酒を酌む手が画面のフレームの外から出てくるのを繰り返すことで、景行が微妙に焦っているというのを表現している。また、景行を叱責する主君も体がフレームの外にいて、イライラしている腕のみの登場という演出なので、景行の孤立感を高めている。
原作ではライバルとして三郎太の方が活躍しているので、時野景行はあっさりとみどろに殺害されるのだが、アニメではみどろに反乱を起こされる主人の側のドラマを描いている。中年の男が分不相応な夢を見て、怪異という超現実に破滅させられる悲哀
また、馬士の新助老人が、景行の執事のように振舞っているのが無敵鋼人ダイターン3のギャリソン時田のようである。新助はみどろをさらに強い軍馬にするために、みどろが産んだ仔馬を強引に売ったが、そのことでみどろが死んだ馬の魔性を呼び、その妖怪の操るファンネルのようなものに殺害される。ファンネルのアイディアは妖怪のサイコキネシスなのか。まあ、サイコミュ自体がサイコだからな・・・。
そういうわけで富野っぽさがある。

育てた馬を酷使することで恨まれて裏切られ殺される人間というのは、ロボットに反乱される鉄腕アトムの人間に近い。道具でありながら命を持つという馬や家畜は人工知能ロボットに近いものかもしれない。
この点ではアニメ版の「妖馬みどろ」の方が手塚治虫のアトム要素を表現しているかもしれない。
原作では「馬や農民を使い捨てる侍は悪い!」という一面的で単純な描き方だったのだが、アニメでは「道具に裏切られる人間の哀れさ」とか「馬に頼らなければ社会に殺される成り上がりの侍の苦しさ」とか、そういう人間の多面的な感覚が描かれている。
また、「道具」と人間の関係性、「道具を使うのか、道具に使われるのか」については富野由悠季は後年のロボットアニメシリーズで何度も描いているテーマ性である。伝説巨神イデオンなどは道具に人間がとり殺される話でもあるし。バイストン・ウェルガンダムシリーズなどでよく出てくる核兵器もそういうものだ。アトムでも、富野はロボットが人間に反乱する「青騎士の巻」だったからなあ。
また、人間を社会や道具との関係性の中で位置づけられる存在という客観的な面と、そういう存在でも自分の夢や希望を持ったり打ち砕かれるものであるという主観的な感情面の両面から描いているのも富野らしい。
やっぱり富野喜幸手塚治虫系譜であるなあ。



  • 富野演出っぽさ

そういう訳で、使い捨て脇役で死んでいくキャラの人間ドラマが濃厚な分、主人公であるどろろと百鬼丸の出番は少ない。特に原作での百鬼丸が賽の目の三郎太と対峙する緊迫感のあるシーンが、アニメではまるまるカットされているので、百鬼丸は単に妖怪みどろを追って駆除するだけの役割行動しかしていない。
だが、そのように少ない出番でも主人公を光らせるのが富野演出である。
宇宙時代の人間ドラマを活写した機動戦士ガンダムであってもガンダムは単なる主人公ロボで敵をやっつけるだけでなく、ガンダムとしての意味性を持って心に響かせた富野である。
どろろが可愛がっていた仔馬の母のみどろを百鬼丸は執拗に殺そうとする。そこでどろろ百鬼丸に「兄貴だって妖怪といっしょじゃねえか!」「妖怪を殺そうとする兄貴だって妖怪だ!」と叫ぶ。
富野喜幸らしい善悪の相対化である。
もちろん、60年代〜70年代には石ノ森章太郎仮面ライダーキカイダーサイボーグ009が善悪の相対化とか敵と主人公が同じ存在っていうのをやってるんだが。ウルトラマンメフィラス星人の関係もそんな感じでしたしね。


絵づら的に面白かったアクション。
「馬が人間を踏んで殺害する」とか「馬を人間が殺害する」という、動物を愛護する実写ではなかなか表現が難しい(というか馬に演技させるのは難しい)のをやってるし、アニメならではの迫力がある。(CGでそれをやったらアニメーションである)
百鬼丸が馬をぶち殺す山場のアクションも、義手から刀を出す百鬼丸が全身を使って馬とぶつかって斬るという、実写では実現できなさそうな絵ならではの迫力だった。
富野喜幸シートン動物記の絵コンテを切ったし、世界名作劇場ガンダムシリーズでも効果的に動物を使っていた。ロボットものをたくさんやって、SFの人とみられがちな富野だが、人間ではないが力と命を持つ存在、という動物は意外と、富野に合っているのではないだろうか。人間に似ているが人間ではないロボットと、動物っていうのは似ているかもしれない。ブレンパワードは動物だし、オーラバトラーもオーバーマンも半分動物だしなあ。
はっきりと動物とメカの両方が得意なのは、やっぱり宮崎駿なんだろうけど。
ロボットアニメっていうジャンルはあるけど、動物アニメというジャンルは意外と無いのは、アニメート作業が難しいからだろうか?動物擬人化アニメとかあるけど。ポケモンか?ポケットモンスターは動物アニメで大ヒットした日本アニメと言えるかもしれない!(モンスターだけど)
ディズニーの動物ものもモンスター系になってきてますしねー。まあ、ダンボもミッキーも動物というよりモンスターなんだが。


そして、やっぱり映像の原則の話になるが、画面上手から下手に向かう突進力で妖怪みどろを仕留めた百鬼丸が画面の下手に落ちているのが、いい。

この上手から下手へ百鬼丸が移動する処のつなぎを、ドアップになった百鬼丸の瞳がぎょろりと動く動作で処理しているのが技である。アクションの動作からの慣性や残心を感じさせる。生理的な動きの感覚だなあ。
(みどろと対峙する新助の不自然なミドルショットのイマジナリーライン越えは下手だったと思うけど)


そして上手には母を殺された仔馬と、殺した百鬼丸を罵るどろろがいる。どろろは死んだ母を愛していた子供である。百鬼丸は両親に愛されなかったことを悩んでいる青年である。そんな青年が画面下手で小さくなりなって、上手に位置する死んだ親を想う子供の愛情という「正しいもの」の圧力に苦しむ、という映像表現が素晴らしい!百鬼丸は頑張って戦って、たくさんの人を殺した妖怪を退治したのに、相棒のどろろに憎しみを向けられ、親を亡くした仔馬を見せつけられ、ものすごく後ろめたい気持ちになる。
つまり「敵の妖怪をぶち殺しても、なんの喜びもない」という「戦いの虚しさ」の表現で、すごく富野っぽい!ザンボット3っぽい!
しかも、それが「戦いは虚しいのである」という決まりきった標語や警句として描かれているだけではないのがすごい。有機的に活かされている。
虚しい戦いを終えたあと、妖怪を倒すと体の欠けていた部分を取り戻す百鬼丸は初めて涙を流す。自分が何で泣いているかわからない百鬼丸
「なんだ、この水は」


産まれた時に妖怪に体の48箇所を奪われて、今まで泣いたことがなかった百鬼丸は何で自分が涙を流しているのかわからなかった。
でも、演出的に絵ヅラとして百鬼丸がかわいそうな親子の馬を見てる絵の連続を見ると百鬼丸が泣いてしまうのも当然に見えるし、視聴者ももらい泣きをしそうなものである。そういう悲劇性を「人間らしさを取り戻していく百鬼丸」という作品全体のテーマに接続してるのが本当にうまい!
悲劇の普遍性と個別性の両面が描かれていることでドラマとして多面的で良いものになっている。
そして、その涙で百鬼丸の「親子関係というものへの葛藤」、親への愛と憎しみと寂しさとエゴがという色々な感情を同時に一気に掘り下げることにもなっている。


かわいそうな仔馬とか、かわいそうな息子である百鬼丸とかいろんな要素があるが、百鬼丸が泣くのはすごく共感できる。
「人間性を獲得することでの涙」なのだ。人間とは何か?という人類共通のテーマでもある。
これは綾波レイにも通じるんだが、綾波が自爆するときに何で泣いてるのかは、実は視聴者的にはあんまり共感できない演出になってて、それはそれで綾波らしさの表現だよなあ。綾波はなんだかよくわからない奴だというのが持ち味だし。


それはそうと、どろろが可愛がった馬の母のみどろを屠った百鬼丸に向かってどろろが「兄貴はどっかに行かなくちゃいけないんだろ?もうここには妖怪はいないからな!」と皮肉たっぷりに事実を述べるのは富野らしい腹のうちの二面性だ。そう言って怒っているどろろの後ろ姿に向かって百鬼丸がモノローグで「俺だって、ほかにやりようはなかった・・・」と後悔と開き直りの混じる言い訳をつぶやくのも、すごく富野セリフっぽいですね!


そういえば、どろろは男装の少女なので、そういう目でどろろと百鬼丸の関係を見ても面白い。
男が一生懸命戦いに勝っても、女の子に文句を言われて怒られて、男は「こうするしかなかったんだ・・・」とか言うつらさ、すごく富野っぽい。コスモとカーシャとか、ガンダムアムロやシャアやウッソやクロノクルに対するヒロインたちのキレ方とかにも通じる。
まあ、どろろはそんなに美少女じゃないんだけど、男が戦いに勝っても女の子に評価されないとしょんぼりするっていう人間臭さはありますよねー。幾原邦彦にもそこら辺は継承されてます。
女の子は戦いとか利害に関係なくキレるし、そういうところはあるって逆襲のシャア友の会で幾原監督がクェス・パラヤについて言ってたし。どろろの頃から富野ヒロインって、そういう・・・。
同じ手塚原作で、富野初監督アニメの海のトリトンのヒロインのピピもかなりのツンデレロリ幼女全裸人魚だったしなあ・・・。

富野の話ばかり書いたが、杉井ギサブロー総監督の「全体的に抑制された雰囲気で、あまりセリフや絵を盛り込まず、省略することで、逆に想像の余地をふくらませて作品に広がりを持たせる」っていう方向性はすごいアニメ版どろろの雰囲気づくりだし、杉井ギサブロー監督の後年の作品群とも通じるものがある。
これもワビサビで良いよなあ。