玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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数か月越しにかぐや姫の物語のストーリーの感想。

マーニーを見て思い出したので、この勢いで吐き出してしまおう。
ちなみに、今まで黙ってたけど、かぐや姫の物語な、表現としては最高に評価しているけど、物語としてはインテリ左翼のダメな部分が出過ぎていて大っ嫌いです。
昔の人の暮らしを丁寧に書くというのは良い。原作通りに話を丁寧に進めたのは良い。しかし、致命的にダメな部分がある。
なんだよ、あの御門の露骨に差別的な顔。あの不自然に長い顎。
色んな人がいて、キャラクターの顔を声優を戯画化したものに似せて書いているのだが、御門だけ、中の人よりも数倍顔が長く、気持ち悪い成金趣味のキンキラ金の権力者としてわざとらしく書いてある。本当に、インテリ左翼が帝王に対して抱く理屈が先走って、キャラクターを歪めている
かぐや姫がいろんな愛情や人間に絶望して「地上には本当のものは無い」と、アニメーション表現そのものにもメタ的な絶望を突き付ける話なんだが、そうして彼女を絶望させて月に帰すための段取りとして、「御門を生理的に嫌う」って言うのを入れて、その説得力を「顔の気持ち悪さ」にしているのが、本当にストーリーテリングとしてダメダメ。
かぐや姫の物語のラストで、御門は原作の竹取物語と違って、全然頑張らないし、ちゃんとした恋をしてないじゃないですか。 何でかって言うと、「貴族社会ではちゃんとした恋はできないのだ!」って言う高畑勲の左翼思想の理に走って、原作を歪めたんじゃないかって思うわけ。
「地上には本当のことはないんだ!」っていう基本設定の思い込みに縛られて、御門だけ原作と行動を変えている。
むしろ、地上の権力者が命がけで愛する人を留めようとして万策を尽くすが超越者に屈服させられる悲恋、屈服させられてもなお思い続ける恋心、それほどのかぐや姫の魅力、と言うのが原作の筋だったんですが、高畑勲監督はそのラストの部分を思いっきり変えちゃったなあ。やっぱり、左翼の人だから御門や権力者は敵としてしか描けないのか?
村の子供の時の初恋の相手との浮気も感動的に描いておいて「これはかぐや姫が変えることが確定した後だから」って設定の理屈を主導させた言い訳に感じる。
男たちがかぐや姫を月に帰さないように頑張る代わりに、おじいさんとおばあさんと謎の侍女が頑張る、と言うラストシーンはファミリー層やファンシーキャラ好きには受けたのだが、男の愛情や熱情が描かれていない。


そういう点で、出崎統源氏物語千年紀 Genjiの方が数億倍名作。
源氏は権力を持ってるしいろんな女と逢瀬をする。じゃあ、それは単なる快楽主義とかマザーコンプレックスや権力の気まぐれなのか?っていうと、肺がんに冒された晩年の出崎統の源氏は振り絞るように「罪は罪…。されど、愛は…!」と絶句して終わる。須磨に流されるところでアニメは終わり、まだ源氏物語は中盤で源氏はこれからも生きるのだが、Genjiの光源氏は最終回で暗殺者に襲われて殺し、夢の中では敗軍の将となって心臓に矢を受けて死にかける。つまり、命がけの愛を描いている。
少なくとも出崎統の中では、貴族でも権力者でも本当の愛、本気の熱情にかける生き方が信じられていたんだ。
かぐや姫の物語では御門が権力にものを言わせた強引なアプローチをかぐや姫にしたから嫌われたのだが、むしろGenjiは逆で、権力を持っていても女に強引なアプローチをする時の本当の男は身一つ、心ひとつで向き合う、ってそういう切実な愛し方がある。
僕は高畑勲さんほどのインテリではないので、出崎統の方を愛する。
というか、テーマの理屈に引っ張られて登場人物の見た目や行動を歪める権利は作家にはあるんだけど、やはりそれは登場人物に対して失礼だと思う。

でも、かぐや姫の物語は絵としては綺麗などで鑑賞物としてはいいと思います。