玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

ベルサイユのばら第39話「あの微笑はもう還らない! 」第40話「さようならわが愛しのオスカル」歴史、そして思い出

第39話 あの微笑はもう還らない! 脚本:篠崎好 絵コンテ;さきまくら 演出:竹内啓雄 西久保瑞穂 大賀俊二
第40話(最終話) さようならわが愛しのオスカル 脚本:山田正弘 絵コンテ;さきまくら 演出:竹内啓雄 西久保瑞穂 大賀俊二


名作の完結である。4人の死を軸に感想を述べたい。

原作や舞台のように華々しく仲間たちと戦いながらの死ではない。アニメ、特に理由もなく出会くわした歩哨が偶然撃った弾丸にアンドレの心臓は貫かれる。
即死してもおかしくないのだが、アンドレはしばらく生きていた。傷ついたアンドレを守ってオスカルと衛兵隊は馬でフランス兵の包囲網を突破する。それまで、アニメのオスカルはほとんど誰の命も奪わなかったが、アンドレをテュルリー広場に運ぶため、衛兵隊の騎馬突撃でオスカルは敵兵を次々と斬り倒す。オスカルはアンドレのために逆上したのだ。
しかし、戦闘が終わった夕暮れの広場でアンドレは死ぬ。死ぬのだが、アンドレはどうも自分がどういう傷で死ぬのかよくわかってないようだ。目が悪いせいか、傷で頭が朦朧としたせいか。心臓を貫かれたまま、気力だけでしばらく生きていた。心臓を貫かれたアンドレは「何を泣く、オスカル」と問いかける。半ば死んでいるアンドレである。これまでにもアンドレは色々な罪を許したり苦しみを背負ったり、自分を大工の息子だと名乗ったり、キリストのようなところがあった。受難のアンドレは聖人のようだ。
そして、死ぬことが分かり切っているのに、オスカルはアンドレに原作では戦闘が始まる前に言ったセリフ、アニメ版では言いそびれていたセリフ、「この戦いが終わったら結婚式を挙げてほしい」と、広場の皆の前でアンドレに語りかける。
アンドレは「そうだね…そうだ…そんなはずはない…全てはこれから始まるんだから…俺とおまえの愛も…新しい時代の夜明けも…全てがこれからなんだ…こんなときに俺が死ねるはずがない…死んで…たまる…か…」と、涙を流す。そして、死ぬ。
目を開けたまま死んでいるアンドレに気づかず、オスカルは「いつかアラスへ行った時、二人で日の出を見た…あの日の出をもう一度見よう、アンドレ…あのすばらしかった朝日を…二人で…二人で…生まれて来て出会って…そして生きて…本当によかったと思いながら…」と語りかける。アンドレはもう動かない。オスカルの言葉は届かない。だからアンドレが死んだことにオスカルは気づく。風が、目を開けたまま死んでいるアンドレを包む。キリストの遺骸を包んだ聖骸布のように。
オスカルが「この戦いが終わったら結婚式だ」と、言いそびれて、アンドレが死ぬ直前に言うこと、アンドレが死んだ後に「アラスに行こう」と言った事が伝わらないこと。
言いそびれること、聞いてもらえないこと。「死」を前にして人のコミュニケーションが断絶すること。その未練、もの悲しさ、やり残し。こういうことで、アニメーションの中のキャラクターの死という虚構が現実の人生で体験する人の死と相似形を描いて、真に迫る。
アンドレが死んだ後に、バリケードの中で衛兵隊の生き残りはいつものようにポーカーをするが、彼らもその時に「そう言えば、アンドレは最期まで俺たちと一度もカードをやらなかったな」「そうだな、どこか変わっていたな」と、語る。死んでからその人のことに気づくことも、生きている間には気にも留めなかったことのやり残しに気づくことも、死んでから何かしてやればよかったと思うことも、また「死」に関わる人の営みと言う感じがする。だから、胸に迫るのだ。


話は少し前に戻るが、アンドレの死の間際、夕暮れにオスカルは「今日の戦いは終わりった。銃声一つしないだろう」と言い、アンドレは「ハトがねぐらに帰っていく羽音がする…」と呟く。
アンドレは平民でありながら両親を失い幼少のころから祖母が住み込みをしている主人の貴族の屋敷に奉公していた。オスカルとアンドレは兄弟のように育った。だが、そこは彼の家ではなかった。しかし、フランス革命で平民と貴族の壁がなくなり始め、オスカルとも気持ちが通じ契り、そして彼は初めて自分の家を持つ男になろうとしていた。そんな彼にとって、目が見えないで耳が鋭いという以前に、「鳩がねぐらに帰っていく羽音」とは初めて彼が手にする安らぎの家の予感だったのかもしれん。そう考えると余計せつない。


オスカルはアンドレを喪って、アンドレが安置されている教会の前に座り込んでいる。彼女をたずねるアラン。

「隊長…安っぽい慰めは言いたかねえが、アンドレは幸せもんだよ…あんたへの思いが一応は通じたんだからよ…元気出せや」
「アラン、待ってくれ…明日からのわが隊の指揮はお前に頼む…。私は…私は…もうみんなを引っぱっていけそうもない…」
「やめなよ、オスカル。そんなことを言い出したらキリがねえ…。あんたの深い苦しみとはくらべようもねえだろうが、奴が逝っちまって傷ついてるのはあんただけじゃねえ…。朝までにゃみんなの前に顔を出してくれや…。すべてはこれからなんだからよ…」
アンドレは死ぬ間際に「すべてはこれから」と言い、アランもそれをもう一度繰り返した。アニメのアランは妹を死なせた社会を倒す復讐心で戦っていることを自覚している。だから、戦いはこれからだ。
平民が旧体制を破壊して、そして新しい時代を作るのは、これからなんだ。
だが、オスカルにはもう未来は残っていない。原作ではアルコールによる肝硬変だが、アニメでは結核になっている。吐血するオスカル。激しい戦いは彼女の体を破壊した。



  • 詩人の死

発作とアンドレの死の悲しみに苦しむオスカルは、自分の白い愛馬にまたがり、バリケードを抜けて夜のパリを走る。ともに馬で駆けたアンドレの思い出を追うようにオスカルは走る。が、夜警のフランス軍の兵士がオスカルの馬を殺した。投げ出されるオスカル。思い出に逃げることも許されず、アンドレとの思い出を共有する馬も死んだ。
オスカルにはもはや、「これから」も「これまで」もないのだ。
キレるオスカル。虚ろな目で、しかし鋭い剣技で敵兵を追い散らす。戦いながら、オスカルは泣く。
(…愛していました…アンドレ。おそらくずっと以前から…気づくのが遅すぎたのです…。もっと早くあなたを愛している自分に気づいてさえいれば…ふたりはもっと素晴らしい日々を送れたに違いない…)
(…あまりに静かに、あまりに優しく、あなたが私のそばにいたものだから…私は…その愛に気づかなかったのです…)
(…アンドレ…許して欲しい…愛は…裏切ることよりも…愛に気づかぬほうが…もっと罪深い…)
フェルゼンとの愛、マリー・アントワネットの恋、それよりも自分が罪深いと、もはや帰らぬ人に懺悔するオスカル。
泣きながら敵兵と切り結ぶオスカルの顔は壮絶に美しい作画だ。そして、命がけでありながら演技は静かなのだ。
そして、夜の街を馬を失い、兵の銃に追われて走る。
アンドレ…答えて欲しい…もはやすべては終わったのだろうか…?)
セーヌ川のほとりでオスカルが佇んでいると、そんな女主人公に見向きもしないように、死んだ詩人の遺体を背負った息子の少年(野沢雅子)が歩いてくる。彼は父の遺言通り、詩人の遺体をセーヌ川に流す。オスカルは自分を無視する少年に声をかけるでもなく、後ろをついて行き物陰から彼を見る。革命の戦闘のさなかだというのに、オスカルは何故一人の死んだ男の水葬を見るのか?「これから」も「これまで」も失ったオスカルにとって、同じように愛するものを失った少年だけが親近感を持って見るに値するものだと感じられたのだろうか…。視聴者にはわからないが…。
そして、セーヌ川を父が流れていくのを見送りながら、父のハーモニカを演奏しながら、息子は父から継いだ歌を歌う。
「セーヌの流れは止まりゃあしない・・・」
(父ちゃんの口癖だった)
「それでもいつもセーヌは流れる・・・」
「かなしいことつらいこと全てを飲み込みセーヌは流る」
(ずっとずっと夜は続くが…)
「やがて日が昇り明るい朝の中で、涙した人がドアを叩く」
(するとそこに)
「いつものようにセーヌがとうとうと優しく流れている・・・」
息子の歌を聴きながらオスカルは立ち去り、ふと振り返ると、セーヌが流れている…。


難解なシーンだ。およそ戦争中とは思えない芸術的な出会いだ。
詩人は出崎統バージョンのオリジナルキャラクターの語り部だった。だから、出崎統のアニメ版では何かしらのテーマ性を持った男だったんだと思う。その男の死。
思えば、彼はいつも「人の世」と「変化」を歌っていた。

「ベルサイユの事なんか知らないねぇ オーストリアから来た王女だって? スウェーデン貴族との火遊びごっこだって? 知らないねぇ俺たちは それより欲しいぜたった一杯の酒 たったの一杯…」 (第20話「フェルゼン名残りの輪舞」)


「貴族の時代はもうすぐ終わりよ 王室がおれたちフランスの全てだとも、もう思わない 昨日、グラヴィリエ街で子供が死んだ パンが買えずに子供が死んだ おとといタンプルでは女が死んだ 子供に乳をやろうとして働きすぎて女が死んだ 死ね! 太ったブタはみんな死ね!」 (第25話「かた恋のメヌエット」)


「何でセーヌは濁っちまったんだろう 花のパリは、どこへ行っちまったんだ ひとっかけらのパンの為にだれもが目の色を変える 花を歌い、恋を語ったあのセーヌはどこへ流れていくんだ」 (第33話「たそがれに弔鐘は鳴る」)
https://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2007/05/post_ca23.html

死ぬ前の37話でも彼は暴動の民衆を見ながらいつもの橋の下から上がってきて

「ああ、人の波は自由への轟音をとどろかす。もう誰も止めることはできない。海辺の大きな岩でさえ波がその形を変えることができる。自由平等そして博愛、翻る我らの旗を見よ!セーヌよ忘れるなこの日のことを!歴史を作り出すこの大きなうねりを!」
と叫んだ。
変わる人の世の中を歌ってきた彼であるが、死んだ後に「セーヌ川は変わらずに流れる」と息子に託して歌わせる。どちらが彼の本心だったのだろうか。息子は詩人の全てを受け継ぐことができたのだろうか。息子でさえも彼の本心そのままを受け継いだのではなく、歌っていた歌、口癖を真似ているだけなのだろうか。だが、オスカルは知らないが、アンドレが詩人に出会った時、詩人は

「あたしゃ足が悪いが、あんたは目がダメらしいねそれに恋にお悩みだ。

人はこの世にふたつの光を見る
ひとつは陽の光、星の光
目さえありゃ見える光さ


そしてもうひとつは
人の心と希望の光

こいつは目があるだけじゃ見えやしねえ
でも、必要なのはこいつの方さ


こいつさえありゃ生きていける
とことん落ちても生きていける(笑顔&涙)

心だよ・・・兄さん
愛し合うのは心と心だ


目ぇなんてやつぁ
飾りみてえなもんさね

元気だしなよ
元気だしなよ、兄さん」

と語りかけた。なら、きっと息子は父に愛されていたんだろうと思える。ならば、息子は父に代わって生きていた頃には父が歌えなかったことを歌ったのかもしれない。詩人は「人の世が変わる事」を歌っていた。だが、息子の口で語られる本心では「人の世で、人が辛く悲しいことを味わっても、自然の川は変わることなく流れていく」と、歌いたかったのかもしれない。だが、それも100%の真実や本心ではなく、息子の歌には心の中で口に出さなかったモノローグが差し挟まれていて、歌った事と歌えなかったことが折り重なっている。
自然の川は変わらずに流れ、また人が死に子が生まれるという営みも変わらない。だが、ゆく川の流れは絶えずして、しかし、元の水にはあらず。
だから息子の考えは少し父とは違っているし、父と息子は別の人間だ。そして、一人の人間の中でも口に出した事と言えなかったこと、隠していたことなどが微妙に違っている。これを見るに、ベルサイユのばらは歴史マンガだが、歴史が完全な真実ではなく、歴史に残らなかった人々のエピソードの見えないミッシングリンクが歴史の構築と不可分である、というアニメーション作家の「絵と言葉」と「絵と言葉には表されていない暗示演出」の両方を扱う芸術家としての意識が見える。



ベルサイユのばらと同じく少女革命ウテナに影響を与えた寺山修司の「世界の果てまで連れてって」という本にこんな一説がある。

  • 私は地理が好きだった

私は少年時代から、歴史の授業が嫌いであった。
それは何時でも「過ぎ去った日」について語るか「たぶん、やってくると思われる日」について耳をすますだけで、現在進行中のものではなかったからである。
(中略)
「地理の方が好きだ。世界はすべて地理的存在だって考えたい。国家として考えるよりも土地として考えることの方がはるかに新鮮だし、それに人間的な気がするもの」
(中略)
彼ら「歴史上の人物」は皆、死んでしまって逢うことのできない人ばかりであった。私は「地理」について考えた。それは「直接の生」の代名詞のように思われた。

世界の果てまで連れてって (ハルキ文庫)

世界の果てまで連れてって (ハルキ文庫)


アンドレの死で「これまで」を、自分の病気で「これから」を失ったオスカルがなぜ最終決戦の前に放浪してセーヌ川を見るということが必要だったのか?を考えるに上記の寺山修司が考えたことのような「土地の持つ直接性」を再度実感して「現在進行形」となることが必要だったからではないかと考えるのだ。
もちろん、「人の世が変わっても川は変わらずに流れる」という、歴史の大河ロマンと地理的な大河の対比の美しさを見せるという演出的な芸術的バランスの意図もあるだろう。歴史の大河と地理的な大河を対比しつつ、セーヌの絵から歴史の大河という数十分のアニメでは表現できない膨大なものを連想させるという効果もある。
しかし、ベルサイユのばらは「読んでいればフランス革命の歴史が分かる」と言われるような歴史の教科書的な叙事的な説明的な部分もあるし、そのように読者に受け入れられた面もある。だが、出崎統は「歴史」という過去の決まりきったことを描くだけで満足はせずに、その隙間の「人生」をドラマとして、生命力の「美」として芸術を見せる演出をしていると思う。
「アニメは錯覚なんだ」と出崎統は言った事があるらしい。アニメはたくさんの絵を連続で見せて、その隙間を繋いで認識する錯覚を利用した芸術だ。出崎統はそのフィルムのコマとコマの間の「一瞬の命の煌めき」とか「一時の感情」を描こうとしたんじゃないかと思う。少なくとも、僕はそう言う所が好きだから出崎統のアニメを見ている。

  • オスカルの死

バスティーユ牢獄を襲撃するベルナール・シャトレとロザリーが率いる民衆の軍団に、オスカルが合流する。
オスカルは路地裏に倒れて朝を迎えたが、呼びに来たアランをアンドレと混同して気が付く。
アランはオスカルに「朝までにみんなの前に出られるようにしてくれ」って約束していたが、オスカルはそれを破って寝ていた。だが、アランはオスカルを探していたのだろう。
で、アランに見つけられたオスカルは、彼にアンドレの面影を見る。アランはアランでアンドレの親友だったからだろうか。
アランに借りていたコートを返したら、オスカルは自分の体が冷え切っていることに気づいたように、両手で自分を抱く。アニメでは省略された、牢獄のマリー・アントワネットの体が冷えるという終盤の展開をここで入れたのだろうか?分からない。体の冷えだけではなく、アンドレを失った心の寄る辺なさだろう。
オスカルはアランの胸で、少し、泣く。



感情をふり捨てたオスカルは民衆と合流し、指揮を執って大砲を鬼神のごとく撃ちまくる。
大砲の発射爆炎を背後に金髪を逆立てるオスカルはまさに鬼神。


が、ふと、爆炎の隙間に鳩が舞うのをオスカルは見る。偶然だろう、その瞬間にバスティーユ牢獄の警備隊がオスカルを一斉射撃する。冷静な指揮官のオスカルだ。空に鳩が舞わなければ、自分を一斉に狙う銃列に気づいただろう。だが、オスカルは鳩を見ていた。鳩を、見ていたのです。その鳩にアンドレを連想して、倒れるオスカル。
オスカルもアンドレと同じく、鳩のように「どこかへ帰りたかった」んだろう。
だが、出崎統のアニメにおいて生きることは戦いの旅である。帰るとき、旅が終わる時、それが死なんだ…。


戦いの中での鳩はジョン・ウー監督が有名だが、ベルサイユのばらのアニメ版の79年はジョン・ウー監督が有名になる前だろう。
ジョン・ウー監督は映画の中で暴力を描く事によってその残酷さを伝える意図があり、また上述の「鳩」に「平和」の意味を込めていると述べている。


なので、期せずして出崎統監督とジョン・ウー監督は同じように白い鳩を使ったんだろう。帰る場所があるということが平和であり、安らぎだ。しかし、生きることが旅すること、駆け抜けることだとするとそれが終わる所が死だ、飛び続けるんだ、と言う思想も出崎統にはある。あしたのジョーもそうだったし、あしたのジョーが好きだった寺山修司もレース中に死んだ競走馬を愛していた。
女でありながら軍人として戦い続けてきたオスカルの人生もまた安らげる場所はない旅だったのだろう。彼女はとても疲れて、五分だけ休むつもりで、死んだ。
ベルサイユのばらは基本的にはベルサイユとパリの往復がメインのアニメで、たまにオスカルがノルマンディーに海を見に行くくらいで、旅の要素は薄い。
だが、アンドレとオスカルは身分違い、性別違いの人生を生きていた。その異邦人っぽさもまた、出崎統らしい旅だったのだと、死ぬ所を見て分かった。


オスカルは死ぬ直前にアンドレに抱かれた夜を思い出し、アンドレを思いながら、ロザリーたちに「アデュウ」と別れを言って、死ぬ。
「愛すること、誠実に生きること、その苦しみから解き放たれるオスカル。そして今、アンドレの待つ天国に召され、再び光と影は一つになる。民衆の勝利の声を聞くこともなく…。」
と、予告のナレーションは言う。
愛することと誠実に生きることは苦しみだったのか。



そして、思い出を視聴者に語るように荒木伸吾氏と姫野美智氏(おそらく)の原画が次々と流れる。

革命から5年。
アラン班長は衛兵隊から黙って消えた。彼は海辺の岬にある妹と母の墓を守りながら百姓をしていた。彼の頭上を舞うのは、帰宅の象徴の鳩ではなく、旅の象徴として出崎アニメによく出てくるカモメだ。土を耕し定住したアランの旅はまだ終わっていないのか?それとも自由に空の旅を行くカモメを見ながら、もう飛ばなくなった自分をアランは思うのだろうか?
そんな彼の元に、ベルナール・シャトレとロザリーがマリー・アントワネットの死の知らせを持ってきた。
最終回Bパート。残り15分はマリー・アントワネットが死に至るまでのダイジェストをアランに語るベルナールとロザリーの回想として描かれる。
ハッキリ言って、演出としてナレーションが多すぎだし、原作ではマリーを死にゆく主人公として割と長いページ数で革命の経緯を描いたのを圧縮しすぎているので、テンポが悪い。オスカルが死んだところで物語は絶頂を迎えてクライマックスを終えたのだ。蛇足である。
だが、最終回の終盤が面白くない回想話だ、と言う所がまた「歴史」に対する出崎統の態度を表しているのかもしれない。


アランにとってバスティーユ牢獄襲撃以降の革命の経緯は「アンドレとオスカルは見なくて済んだ醜さ」だったのだ。妹と母を死なせた政治体制と戦ったアランだが、その戦いが終わった後に新しい政治体制を作ることからは身を引いたのだ。彼は自分の復讐心が満たされた後、それ以上に殺すことも何か権力を得ることにも興味がなかったのだ。


で、バスティーユ牢獄についてナレーターは「ロベスピエールのような革命のエリートではなく、民衆の意志統一による自然発生的な初めての行動だった」と、言っているが。
民衆の統一意志、また96パーセントの人口を平民が占めるから正義であるという多数決主義の民主主義が正義である、と言う風にはなっていない。
原作でもマリー・アントワネットが刑死するまでに民衆に虐待された経緯を語って、大衆の醜さを描いている。
出崎統のキャラクターの典型のようなアニメ版のアランも「その後の革命の醜さ」と言っている。


ちなみに、ここの王妃、すごくウテナっぽい。


手塚治虫萬画虫プロっぽい、ともいえる。



怒り狂った女たちのパリ行進、マリー・アントワネットの人民へのお辞儀、フェルゼンの国外逃亡計画、ルイ16世がフェルゼンを返すところの三角関係(画面三分割でのマリーのリアクションと、泣き叫ぶフェルゼンの止め絵が凄まじい)、マリーの白髪、サン・ジュストロベスピエールの裁判によるルイの死刑、王子シャルルとの別れ、マリー・アントワネットの刑死などの原作エピソードが描かれる。一つ一つのシーンは綺麗に演出されているので事実っぽいのだが、主人公が死んだ後のダイジェストの回想の断片だし、全体的にテンポが悪く、歴史の教科書の年表を見るような味気なさがある。
ベルナール・シャトレからその5年間の話を浜辺で聞かされるアランはあんまり興味が無いようで、もしゃもしゃトウモロコシを食って、食い終わって、捨てる。アランにとって「王妃がどうなったかなんて俺には興味が無い」し、トウモロコシを一本食う間の話でしかない。実際、面識はない。
この「興味が無い」ということを描いてしまうというのが壮絶である。実際、テレビアニメや映画、あるいは小説と言う物はいかに視聴者や読者の興味を引くか、と言うのが大事なのだ。悪の教典という暴力小説を書いた作家の貴志祐介氏はハッキリと「話の中で人が死んだりするのは読者の興味を引くための道具であり、小説家の飯の種だ」と言った。
だが、ベルサイユのばらの終盤、アランと視聴者は「オスカルが死んだ後のことなんか興味がない」と思う。
前述の寺山修司の言葉のように、歴史は面白くないのだ。

それは何時でも「過ぎ去った日」について語るか「たぶん、やってくると思われる日」について耳をすますだけで、現在進行中のものではなかったからである。

彼ら「歴史上の人物」は皆、死んでしまって逢うことのできない人ばかりであった。


また、ベルナール・シャトレは新聞記者として「フランス革命小史」を書いていて、それにマリー・アントワネットとオスカルたちのことを書きたいという。
これも寺山修司の「世界の果てまで連れてって」にある。

歴史は一冊の書物に過ぎない
(中略)
過去は、ストーリーであり、未来だけがエクスペリエンスであり得る。
(中略)


また、寺山の著書によると、フランス革命の歴史が「自然発生的な大衆の意志統一」というのにも疑問符がある。

アランことエミール=オーギュスト・シャルティエの「改めようのない自然の歩み」という幸福論の考え方には、私たちが可変できる歴史の一部分といった感覚がまるで抜けていて、自然はすべて「在る」ものだと考えられているが、自然は「成る」ものであって、そこにはもっと鮮やかな肉体的行為の痕跡がとどめられていなければならないのである。
アランにとってもヒルティにとっても「幸福論」は、書物的に閉じられた世界である。そこには、「現在」との対話が欠けていて、可変的な自然への挑戦がみられない。


私も、フランス革命の経緯とそこから繋がるナポレオン戦争、世界大戦、現在も続く民族紛争を見ると、バスティーユ牢獄の襲撃を「市民の自然な意志の統一」と言うのは嫌いだ。「正しい歴史、正しい法則、正しい理念」に従えば「大衆は自然に正しく意思を統一できる」という考え方は共産主義の社会計画であっても資本主義の神の見えざる手による経済活動であっても、私はそんな甘っちょろい言い訳は嫌いである。
私も寺山の意見の全てに賛同するわけではないが、世の中にはそんな決まりきった正しさなどなく、何となく人間が行動したり足の引っ張り合いをしたり闘争して結果的にできてしまった物をしかたなく歴史と呼ぶだけだと思う。


なので、終わってしまった歴史を教科書的に見るようなものはエピソードとして出来がよくても、出崎統が重視した「本気」とか「情念」からはかけ離れている。だから、つまらない。そういう意味で、出崎統キャラクターの典型として殴り合いとか感情を重視して生きて戦ったアランの視点で、原作の終盤のマリー・アントワネットの帰結のダイジェストを「つまんねー話だなー」って描くのは、アランにとっても視聴者にとっても歴史はつまらない、という面白くない感覚を描くことに挑戦している。これは「原作がつまんねえよ」っていう演出家による原作者への人間関係的な危険行為でもあるし、また、面白がらせてテレビを見させるのが目的の娯楽アニメにおいて「つまんねえなあー」って感覚を意図して描くというのも非常な危険行為だ。




だが、その、「つまらない女の一生や知ったことではない歴史を聞かされるのはつまらない」という男の子が少女漫画に触れる時の感覚をこのBパートで具体化するのは非常に大事。というか、「原作つまんねえな!」というのをはっきりと表明してしまえるというのは物語が終わった最終回のBパートだけに許された最後の賭けです。


で、アランも視聴者も「ベルナールの嫁はクッソつまんねー話をだらだらするなー」と、思っていた所で、最後のどんでん返しがあるのがすごい!

ロザリーは白い化粧紙でできた造花のバラの花を出して来て、アランに見せた。
「これは、最後の日の朝、王妃様が私に下さったものです。独房の中にあった化粧紙でオスカル様に思いを馳せて作られたと…。そしてこう言われたのです」

“ロザリーさん、このバラに色をつけて下さいな、オスカルの好きだった色を”

「そう言われて、あらためてはっとしました。…私、オスカル様がどんな色のバラが好きだったかなんて、…聞いたことがなかったんです」
ロザリーはオスカルの面影を再び思い出し、涙を流した。


「…オスカルは知らねえが…アンドレならきっと…白が好きだって言うぜ…」
アランは短く答えた。



「じゃあ…このままのほうがいいですね」
「ああ…それがいい…」
https://animebell.himegimi.jp/kaisetsu40-3.htm

そして、この止め絵にナレーションが雑に歴史的にロベスピエールサン・ジュスト、フェルゼンの死を解説して物語が終わる。
歴史のナレーションは、ラストのロザリーとアランとベルナールがオスカルを強烈に思い出す止め絵のショックの合間で適当に形式的の物語を締めるだけだ。本当はそんなことは大事ではない。止め絵のショックで視聴者やアランは歴史的事実を効かされることなどどうでもよくなっているくらい感動する。
感動と言うか、改めてオスカルとアンドレが死んだ!という生々しい実感を再確認させられるのだ。


回想録を書いているベルナールとロザリーから歴史を聞かされて

アランにとってもヒルティにとっても「幸福論」は、書物的に閉じられた世界である。そこには、「現在」との対話が欠けていて、可変的な自然への挑戦がみられない。

と、過去は変えられないと、思っている時に、「どんな色のバラが良いでしょう?」と、「現在」のアランが
唐突にロザリーから選択肢を持ちかけられてしまう。ここで、アランがどの色を選ぶかが「在る」歴史を「成る」歴史に描き変える選択肢として、提示される。
ロザリーから、聞かされるマリー・アントワネットの話はアランにとってはどうでもいい他人の話だった。それがいつの間にか親友のアンドレとオスカルについての話にすり替わって自分が選択の当事者にされてしまう。この驚き!
「枠物語」とか叙述トリックみたいなものである。ミヒャエル・エンデはてしない物語のバスチアンが本に呼ばれるようなものである。聖戦士ダンバインとか。
むしろ、近年ではこういうトリックはノベルゲームで多く行われていると思う。
物語の最後で聞き手が「これはあなたの人生の物語」って突き付けられるようなショックな。旧エヴァンゲリオンとか寺山修司の映画でスクリーンの中から観客に呼びかけられるようなもの。ある意味、哀しみのベラドンナの女子大生エンドもそう言う系譜。
ただ、出崎統ベルサイユのばらのラストはそのようなメタフィクションの構図を使っているけど、前衛映画ほど技巧が鼻に付く感じではないのは、視聴者に突き付けられるのではなく、アランが付きつけられる、という所でワンクッション置いているからである。それで物語としての自己完結性の完成度も高い。


ベルナールとロザリーが語る革命の後日談は原作通りなんだが、演出としては明らかに「ダレ場」として作られている。だが、その回想の「ダレ」があるからこそ、最後にアランがマリー・アントワネットがオスカルに送った薔薇を見せられて現在に引き戻されてハッとするところのラストがすごく引き締まるんですねー。
この演出はすごく見事。ラストに引き締めるのは、宝島の「いたんだよ、俺のジョン・シルバーが」とも同じ。
と、同時に技巧的に見事なだけではなく、「そう言われて、あらためてはっとしました。…私、オスカル様がどんな色のバラが好きだったかなんて、…聞いたことがなかったんです」と言うロザリーの言葉で、「死んだ人にはもう些細なことも聞くことはできない」という人生の普遍的な哀しみを表現していて、人間性を感じさせられる所ですね。アンドレが死んだ後に「そう言えば、あいつとは一度もカードをしなかったな」と死んでから気づくことのリフレインです。死んだ後に初めて気づく想い残しと言う感覚はすごくある。
親しい人の死を経験した人なら誰でもこういう感覚は経験したことがあると思う。
だから、我が事のように感動できる物語になるんですね。


でも、女性としてオスカルと同居していたロザリーですらオスカルが好きだった薔薇の色が分からないし、ましてやアランも知っているわけではない。とりあえず、「白」と答えるが、その事で「このままのほうがいいですね」ということで、死んだ人の作った花の色が変えられないということで、「死」とか「歴史」が変えられないと実感させられる。(オスカルの肖像画の幻想についてのアンドレのの言葉を考えるに、アンドレ白薔薇を好んだというのは間違いないだろうと視聴者は分かるが、アランはそれを知らない)
また、「死」と「歴史」の不可逆性が強調されるからこそ、「生」の可変性も同時に立ち上ってきて、生命力を感じさせるラストになっている。
その、生と死、歴史と現在、決定と可変の混じり合った所に、このアニメのラストシーンの壮絶な美しさがある。
寺山修司も「あらゆる歴史はストーリーであり、思い出である。 思い出ということばは、科学を裏切る。人は思い出を持つことができるが、事物は思い出を持つことができないからである。思い出は、個人的な蓄積であるが、ときには疎外された人間たちの失地回復の<緑の土地>になることもあり得る」
と言っている。
ベルサイユのばらは歴史漫画なんだが、アニメ版のラストでは歴史叙事詩と言う「ストーリー」にはとどまらず「バラの思い出」を強調することで、歴史に名を残さない個々の人間の生命や人生を賛美するという要素を付け足している。
歴史は悲しい悲劇なのだが、その中でもそれぞれの人は生々しく生きた。歴史の教科書には残らない花の好きな色がどうのこうのとか、そういう細かい思い出を残しながら生きた。でも、現代の我々から見ると彼らの思い出を覚えている人もなくなっているし想像するしかない。これはこれで哀しみであるが、人の心や思い出はプライベートなもので演出家や視聴者であってもキャラクターの全部を知ることはできない、という点でそれぞれのキャラクターを人間として尊重してる感じもあって、それでまた美しいのだ。
で、「ベルサイユのばら」と称されたマリー・アントワネットが最後にオスカルの思い出に対して造花を作って、それをアンドレの思い出を持つアランが見るラストで「ベルサイユのばら」というタイトルの意味に多重性を持たせるのも非常に美しい。多重的だし、想像の余白をたっぷり持たせているうえに普遍的な人間的感情を盛り込んでいるので、視聴者はそれぞれの自分の人生に引き合わせて物を思うことができる。
美しいな…。
出崎統のアニメはやっぱり美しいし天才的だ。技巧的に美しいだけでなく、人生とか生命に対する尊重する意識が美しい。思い出や生理的感覚の普遍性に訴えるところも美しい。死んだ人の思い出と未来の可変性については、同じ池田理代子先生の原作の「おにいさまへ…」のアニメ版でも出崎統監督は表現していて、とてもいい・・・。


https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/6FXSDSAVKI1Z

著者へのプレゼントはこちら
nuryouguda.hatenablog.com
 このブログは最後まで無料で読むことができますが、無職の著者に食料を与えると執筆期間を伸ばすことができます。資料を与えると文章の質が上がります。オタクグッズを与えると嬉しいです。

(この記事が良いと思ったら読者登録お願いします!)