玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

ベルサイユのばら第28話「アンドレ 青いレモン」人が分かり合えない!

ついに見てしまった。問題作「アンドレ青いレモン」。
アニメに詳しく、アニメ様を自称するWEBアニメスタイルの編集長で少女革命ウテナの原作グループ「ビーパパス」のメンバーである小黒祐一郎氏も28話を一番好きな話としてあげている。
http://www.style.fm/as/05_column/365/365_034.shtml


フェルゼンとオスカルが別れ、オスカルが近衛連隊を辞め、アンドレがオスカルの服を破くって言う性的暴行を加えるという問題の詰まった話。


先日、ベルサイユのばらの第一クールの感想について、「グダちんさんはオスカルのジェンダーとか書いてるけど、解釈が間違ってるし女心が分からない」と、手厳しいコメントをいただいた。私はそれに対して「人が人の心を分かるなんて、自分の心さえもわからないのさ」と返答したのですが。
もちろん、少女漫画原作で女性ファンの多いベルサイユのばらに対して、出崎統ファンの私が男目線で原作の女性らしさやフェミニズムの理屈っぽさに批判的に書いているのは、ファンの方には気に障るかもしれない。


しかし、やっぱり人と人の心は分かり合えないですよ。僕もさかしらに感想ブログなどを書いていますが、28話、登場人物が何を考えて何でこんなことをしてるのか、かなり分からない。
そもそも、何が青いレモンなのかが分からない。いや、多分、アンドレの性欲みたいなのを青いレモンって例えたんだろうけど、アンドレがオスカルの服を脱がせたのは性欲や愛だけかと言うと、それも怪しい。青いレモンって言う割に、アンドレもオスカルももう三十路だしな!
そこら辺からもうよくわからん。


出崎統監督はかなり独自の理屈や感性で原作を改変するし、そこに一本筋が通っている男らしい改変だからカッコいい、と言うのはある。同時に、出崎統監督は、心の最後のベールを大事にしていた人で、よく自作品のキャラに対して
「あいつはこう思ってたと思うんだ。本当のところはあいつにしか分からないけどよ」
というような事を述べている。
なので、よくわからないです!


よくわからんけど、僕はそれに対して勝手な感想を書きます。自分でも何でこういうブログに無意味に時間を費やしているのか、よくわかりません。多分、どこかいかれているんだと思う。

もうね、母の愛というのもアニメ版では通じ合えてないんですよ。
今回の冒頭、マリー・アントワネットの息子のルイ・ジョセフが高熱を出したので、侍女たちが大騒ぎして、マリー・アントワネットも病床の息子に付き添ってオイオイと泣く。
ルイ・ジョセフは脊椎カリエスで革命前に7歳で亡くなった皇太子で、原作のベルサイユのばらではオスカルに惚れる薄幸のショタキャラとして、彼の病気とかオスカルとの逢瀬とかをかなり美化して描いている。ギリシャ神話っぽくマルス姿のオスカルと、クピドのようなジョセフの絵が描かれたり。
アニメでは、ジョセフの病気描写はここまで省略されていたので、アニメでは描かないのかなーって思ったのだが、ここにきて登場です。
また、原作ではマリー・アントワネットは前半は贅沢ゆえに国民と対立し、後半は母の愛で家庭を守ろうとして国民と対立する、って言う図式なんですが。なので、原作のマリー・アントワネットの母親としての愛情は割と肯定的に美しく描かれているのですが。
アニメ、酷い。
今回、病床のルイ・ジョセフが高熱で「お父様助けて」ってうめくと、マリー・アントワネットは宮殿の中の礼拝堂に駆け込んで、キリストの十字架像に向かって「ジョセフは、いつも一緒にいる私じゃなくて、国王様に助けを求めたのです!これは私に対する罰なのでしょうか?私がフェルゼンを愛していることに対する神の試練なのでしょうか!」みたいなことを叫ぶ。
う、うわぁ・・・。
夫婦関係も母子関係も上手く行ってない・・・。息子が国王である父親を尊敬するのは、別に間違ってないとは思うのに、マリーはそれが分かってなくて「いつも息子と一緒にいるのは私なのに!」とよくわからない方向でヒステリーを起こす。それから発想が飛躍して「フェルゼンを愛している私への罰なのですか!」とか。病気に苦しんでいるのは息子なのにね。ここでのマリー・アントワネットは、息子が病気になっているのに、自分が息子に愛されていないと思い込むこととか、自分の不倫のこととかばかり考えていて、あんまり息子を心配する言動は少ない。親子でもわかり合えないですね。
こういう親子関係がこじれまくっているの、出崎統作品には結構重要視して描かれるモチーフだったりする。親子でも分かり合えないし、母の愛も無償の愛とは限らないんだー、みたいなニヒルな面があります。
で、フェルゼンは侍女が騒いでいるのを宮廷で見つけて、そのままマリー・アントワネットに声をかけそびれたまま、マリーが「フェルゼンを愛しているから息子が病気になったのなら、フェルゼンと会うのを辞めます!」ってキリストに訴えるのを聞いてしまって黙って去る。
不倫の恋人たちも分かり合えない。
で、むしゃくしゃしたフェルゼンは、何となくオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの家に遊びに行く。
そしたら、片目を失明して、残った右目の視力も落ちていてむしゃくしゃしているアンドレがオスカルと剣の稽古をしていた。アンドレは視覚障碍者なのでオスカルに負ける。そこにフェルゼンが高らかに「わっはっはっは!勝負あり!」って叫びながら登場。野沢那智ボイスが男らしすぎる。
フェルゼンに限らず、アニメ版はみんな男ぶりが上がっているのだが。むしゃくしゃしていたらオスカルの家に遊びに行くって言うフェルゼンの思考回路も結構よくわからないものがある。多分構ってほしかったんだろうけど。原作ではオスカルが偶然フェルゼンの妹のソフィアを助けてフェルゼンのフランス邸宅に言った所にフェルゼンが帰ってきたわけだが。アニメのフェルゼンは積極的に動きますね。

  • 苦しみの愛

で、ダラダラ宅飲みするフェルゼンとオスカル。ブランデーを二人でくるくる回しながら「特別嬉しいことも悲しいこともない」と言うフェルゼンはアダルティ。で、積極的にオスカルの手を取って、「やはりあの時の舞踏会の貴婦人は君だったのか!」と、自分から言って女装オスカルの正体を見破るフェルゼン。
「瞬間的な身のこなしは隠しようがない!」って、地味に梶原一騎車田正美みたいなセリフ回し。


そんでオスカルがウワーって成ってブランデーのグラスをガシャーンって倒して逃げる。庭に出てオスカルが泣いてたら、フェルゼンが後ろから来て、原作に有ったような「最初から女性だと気付いていたら…」との別れのセリフを述べる。
それに対して、

「この世に愛は、ふたつある。喜びの愛と、そして、苦しみの愛だ」とオスカルが言えば、フェルゼンは「いいや、オスカル。この世の愛は、たったひとつ。苦しみの愛だけだ」と返す。フェルゼンも、オスカルと同様に、悲しい愛に生きる男なのだ。
フェルゼンが立ち去った後、オスカルは言う。「神よ。フェルゼンに御加護を。そして、いつか喜びの愛を彼にお与えください」と。こんな凄まじいセリフなのに、照れくささを感じないのは、ドラマのテンションの高さと、作り手の美意識ゆえだろう。
http://www.style.fm/as/05_column/365/365_034.shtml

喜びの愛、苦しみの愛っていうのは原作にはないけど、これは多分、宝塚歌劇団バージョンの「愛、それは〜」というテーマソング「愛あればこそ」から来ている台詞でしょうね。


また、手塚治虫先生が宝塚オタクだったり、歌舞伎ファンだったり、出崎統監督が虫プロ出身だったり、宝塚歌劇団のベルばらの演出が歌舞伎系の長谷川一夫さんや植田歌舞伎ということだったり、日本アニメ界の創世のくもとちゅうりっぷが歌舞伎の女形もする瀬川瑠璃之助こと政岡憲三さん問いこともある。ベルサイユのばらのアニメと歌舞伎や、女形や性別を超えた芝居みたいなものの関係性は、考えると深いかもしれない。


しかし、「いつか喜びの愛を彼にお与えください」というオスカルは喜びの愛を知っているんでしょうかね?ロザリーとベルナールはアニメではまだ結婚していない。アンドレの好意もまだ曖昧。(今回のラストで告白される)だから、オスカルが何を考えているのかもいまいちよくわからん。
分からんけど、かっこいい。それが出崎統アニメの美学。


そんで、フェルゼンが帰った後、もそもそと割っちゃったグラスの破片を片付けるオスカル。アンドレはオスカルがフェルゼンに泣かされるのを物陰から見ていたのだが、いかにも「今通りかかりましたよー」みたいな感じで「手伝おうか?」っていう。
アンドレはオスカルの従僕である。「手伝おうか?」じゃないだろ。主人がガラスの破片を片付けてるのに、手伝わない!オスカルも「いや、いい」っていう。オスカルの私室だからかな。
アンドレがオスカルの部屋を片付けなかったのは、泣かされたところを立ち聞きしていたとオスカルに気づかせたくなかったからか?
っていうか、目が悪くなっているアンドレはそもそもガラスを拾えないんだ。
だから、やっぱりここでもアンドレがなんでこういう行動をしたのか、フェルゼンとオスカルが庭で名セリフを語り合っている間にアンドレが何をしていたのか、よくわからないんだけど。よくわからんけど、まあ、色々あるんだろうな。って言うニュアンスはある。

  • 衛兵隊が前倒しで登場

オスカルが終盤に隊長を務めることになる、平民や下級貴族の兵隊を中心にしたフランス衛兵隊だが、アニメではオスカルより先にアンドレが酒場で出会う。
いよいよ視覚障害が悪化して、なんだかむしゃくしゃしたアンドレは酒場に行って、フランス衛兵隊のアランたちが飲んだくれている宴会に合流して、なんだかわからないけど笑いながら殴り合いのけんかをしてストレスを発散する会に参加する。荒くれ!
「宝島」の海賊たちみたいですねー。
原作ベルサイユのばらの衛兵隊たちはアラン以外はチビで子供っぽく描かれている。実際、三十路を超えたオスカルが女性管理職として引っ張っていくので、20代そこそこの部下は子ども扱いされる。それが独特の年増萌えとして描かれていて、実は原作を10代の時に読んだ時は正直萌えましたね。オスカルも「私が鍛えた衛兵隊」みたいなことを言ってて、風の谷のナウシカ萬画版のクシャナ様みたいな感じで萌えます。金髪でバリキャリの女隊長…いい…。
ですが、出崎統は衛兵隊の男たちをむさくるしい巨漢たちとして描く。初登場シーンから酔っぱらって、給料日に酒場でお互いを殴り合ってゲラゲラ笑う荒くれ者として描く。
アランは原作では三十路のアンドレよりも若く血気盛んな若者として描かれたけど、アニメでは逆なんだなー。アランがアンドレを「そこのわけえの!いっしょに飲もうや!」と、ゴロマキ権藤みたいに誘う。
少女漫画からかけ離れたなー。宝塚でも少女漫画でもできないことをしよう!みたいな意識だろうか。
でも、アニメのアランは割れた顎として言われがちだけど、でも、荒木真吾絵で、割と涼しげな眼差しだったりもするんですよねー。


アニメのアンドレは平民の勉強会に行ったり、原作よりも独自の行動が付け足されている。原作では啓蒙思想を勉強するのはもっぱらオスカルの方だったけども。まあ、でも、それは方向性の違いと言うより、むしろ原作終盤やスピンオフ萬画でのアンドレとオスカルのコンビ性とか、宝塚歌劇団バージョンでアンドレがオスカルに並ぶ美形花形として演出されたことの流れでもあるよね。


この海賊の歌みたいな衛兵隊の歌、誰の作詞作曲なんですかね。衛兵隊の歌は宝塚でもありましたね。そう言うのをブレンドしてアニメにしていく意識がある。
「あばよミレーユ 浮気はするな 俺のゲンコツは 敵の弾より おっかねえぜ! いくぞ いくぞ 戦うぞ でっかい喧嘩は男ののぞみさ だからミレーユ おまえのくちびるは お預けさ」

  • なんだかわからない気持ち

で、むしゃくしゃして殴り合っていたアンドレは夜明けに衛兵隊たちが歌っていた歌を歌いながら馬を飲酒運転して帰るんだけど。
「いくら飲んだって騒いだって、きっといつか、俺は右目からも光を失うんだ。うおおおおああああ!!!」って、アンドレは顔の半分を口にして叫ぶ。酒を飲んでもなんだかわからない不安みたいなのは消えないんですな。
でも、ひとしきり叫んだあと、明け方に帰宅したアンドレは従僕の癖に、オスカルの前では冷静に振舞う。「眠れないのか?おいおい暖炉の火が消えかかってるじゃないか」とか、帰る前は酔って乱闘して、一人で叫んでいたのに、オスカルの前では表面上は平静に振舞うのが、深い。
アンドレが朝帰りということは、オスカルは徹夜して考え事をしていたようだ。オスカルもオスカルで、アンドレが飲んだくれている間に、フェルゼンと別れた後にずーーーーっと暖炉の前で考え事をしていたのだ、と、それとなく匂わせる演出が上手い。この時間経過が並列で進んでいくって言う感じはアニメならではですね。舞台やマンガだと、時間経過のリアルタイム性ってのは出しにくい要素。もちろん、アニメは時間の進む速度も編集とかで変わるんですが。
で、オスカルはいきなり「私は、近衛を、辞める」って言う。何考えてるんだこいつは!って、何考えてるかよくわからないですね!


で、「辞めさせてください」っていうオスカルに対して、マリー・アントワネットは「訳をおっしゃいな!」と言うんですが、オスカルは渾身の3回パンで「どうしても訳は申し上げられません」って首を垂れるのだ。出崎統3回パンはアクションシーンで使われる事が多いが、こういう会話の重みづけで使われるのもまた、味わい深い。
この時のオスカルの「マリー・アントワネット様に言ってもわかってもらえないだろうし、黙ろう」という雰囲気がすごい。人が分かり合えない感じ。
「言ってもわかってもらえないから訳を言わない」という態度なのに「離れていてもオスカルの心はマリー・アントワネット様のおそばにあります」って言うのが、また、どこまで本心で発現してるのか謎で、心情の深さを感じさせる。ずるいよなー。
で、「しょうがないオスカルっ」って笑うマリー・アントワネット様の表情も微妙に都合がいいんだけど、百合っぽくもあり。しかし、マリー・アントワネット様は今回の冒頭に息子が病気になってキリストの前でめっちゃ泣いて叫んでいたけど、どうやって機嫌を直したのか、謎です。



この「なんでオスカルは近衛連隊を辞めたくなったのか?」「何考えてるんだこいつは」って言う感じを探るのが28話の後半1/4で視聴者の興味を引っ張る演出なんだが。「考えてることが分からない」っていうのは
アンドレが「フェルゼンやマリー・アントワネット様から遠ざかりたいからか?」と推理するのも、ミステリ的に視聴者の興味を引っ張る演出。
「何故だオスカル・・・何故近衛を辞める・・・ フェルゼンとの決別の辛さに耐えきれずにか・・・ フェルゼンの愛するひと、アントワネット様のお傍から逃れたい為か・・・・・ 逃げて逃げきれるものならオスカル、俺だってとうの昔におまえの傍から逃げ出していたぞ・・・!おまえがもがけばもがくほど、俺は・・・俺は・・・・」


原作では、ベルナール・シャトレに「王室の飾り人形」って言われたり、近衛隊の部下のジェロ―デルに「近衛隊に入れたものは容姿端麗でございます」って言われて、そんな王室の飾り人形ではなく、もっと民衆とフランスを実力で守るような軍隊に転属したいと思った、とかそんな理由。
あと、ジャン・ジャック・ルソーヴォルテール啓蒙思想や平等思想を読んで貴族主義に反発したから。
それと、最終的にオスカルはフランス革命のときはバスチーユ牢獄を襲撃するフランス衛兵隊に身を置いて、そこで死ぬ、っていうプロット的な都合の伏線を作るため。
なので、他人の意見を気にしたり、自由主義の理論に則ったり、作者の都合だったり、という、結構論理的で分かりやすいニュアンスの理由での除隊嘆願なんですが。
アニメはもっと感情的。
「23年前だ。私がまだ自分をてっきり男だと思いこんでいたころだ。まだ愛することも恋することも知らなかった。男として育てられた私だ」

「これからの一生、より男としての人生を送ったとしても何の不思議もあるまい。だから私は近衛を辞める」

「男として生きたい。女も甘えも忘れさせるほど男でなければできない任務につきたい。一兵卒でもよい。銃を持ち、川を渡り敵と戦う。恋も愛もないぎりぎり命を懸けたそんな日々を送りたい」

「私はより男として生きたい。私は自分を男だと信じていたあの頃に戻る・・戻ってみせる・・」

何考えてるんだこいつは。
男よりも男らしい!というフレーズの宝塚歌劇団バージョンを経た後のアニメ版で、オスカルは「恋も愛もないぎりぎり命を懸けたそんな日々を送りたい」って、男でもなかなかできない、力石死後の矢吹丈みたいな抱負を語る。オスカルにとって、フェルゼンとの失恋の後は力石死後みたいな感じなんでしょうか。
正直、男の私から見ても意味が分からないですね。矢吹君みたいな生き方にはついていけないですね。
1クール目の長浜忠夫監督(巨人の星)と出崎統(あしたのジョー)が梶原一騎のマッチョ思想でリンクしましたね!


原作でも、「子どものころは自分が男だと信じていた」「子どものころに戻りたい」っていうオスカルの述懐はあるんだが、アニメでは「男になるために一兵卒になるぞ!」と、男らしさの観念を追求するあまり過激な方向に行くオスカル。
まあ、オスカルがアンドレに語った「男でなければならない生き方をする」って言うセリフもどれだけ本心かは謎で、やっぱり単にフェルゼンやマリー・アントワネットから離れたいって言うだけかもしれないし、よくわからん。
革命思想に染まって平民の味方になりたいから、と言う原作の理由とは違うと思うが。まあ、アニメのオスカルの本心は分からん。
人の考えていることは分からない!


アンドレもおばあちゃんに対して「医者の所に行ったのは検査じゃなくて、前の御礼診察に花を届けてただけだよー」って平気でうそをつくからな。原作だと、お婆ちゃんはアンドレの病状を知ってて、「医者にかかるのはお金がかかるから身分不相応だし、オスカル様達に黙ってろ」って言うんですけど。アニメのアンドレは普通に診察を受けて、普通におばあちゃんにすら隠している。
ベルサイユのばらのアニメのキャラクターは肉親に対しても平気でうそをつく人ばっかりなので、ヤバい。


で、オスカルが男道にめざめちゃって寝る前に
「アンドレ、より男として生きるためには、いつまでもおまえの力を借りるわけにはいかない。まだどこの隊へ行くと決まったわけではないが、私が近衛を辞めたらもう私の供はしなくてもよい」

「自分の好きなようにしてくれ。私はまず、一人で生きることから始めてみたい。」
とかよくわからんことを言い放つ。原作では、衛兵隊に入るときに「アンドレが影のように居てくれるから助かる」って頼ってましたけど、アニメのオスカルは男道なので、アンドレを拒絶していくスタイル。


そこで、アンドレです。
「オスカル、これだけは言っておきたい。赤く咲いても白く咲いてもバラはバラだ。バラはライラックになれるはずがない」
Zガンダムの「サボテンの花が咲いている…」に匹敵する何を言ってるかわからないセリフですね!
原作でも後半はギリシャ神話になぞられたポエム的なセリフが増えるんですが。ポエムっぽい上に、平気でうそをつくし秘密を抱えたキャラクター同士の会話なので、なんだかわからないです。
で、原作ではその後オスカルに対してアンドレは訥々と二十年間ずっと思い続けていたとか、オスカルの髪の毛や瞳や唇が魅力的だと語って「愛している!愛している!」って押し倒すのだが。
アニメ版は男らしいというか、雄なので、無言でキスしながら押し倒します。
この、キスしながらもみ合う吐息がエロいですね。
そして無言でオスカルのシャツを引き裂く。
「それで・・私をどうしようというのだ・・アンドレ・・」
「すまなかった。もう二度とこんなことはしないと神にかけて誓う」
どうするつもりだったんだろう。性欲だったのか、それとも過激な男道を目指すオスカルは女だと知らしめたかっただけなのか、視力を失う不安からおかしくなったのか、わからない。わからないんだ。


泣く二人。だが、互いに顔を背けあって涙は見えない。
原作とは逆に、やっちゃった後に語るアンドレ。
「バラはライラックにはなれはしない。オスカルがオスカルじゃなくなることなんてできはしない。
20年間、おれはおまえだけを見て、おまえだけを思ってきた。愛しているよ・・いや・・愛してしまった。たとえようもないほど、深く・・」
バラはライラックになれない。どういう意味なのかさっぱりだ。
どこに行ってもオスカルはオスカルだと励ましているのか、それとも平民の自分とは結ばれない口惜しさを花に例えたのか。


アニメのベルサイユのばら、基本的によくわからない話です。


でも、ひりひりした感覚、登場人物が必死に生きてもがいている感覚、そう言う雰囲気は伝わってくる。
キャラクターが何を考えているか分かりませんし、私の解釈も無意味です。
でも、どんな解釈があっても、ベルサイユのばら出崎統バージョンは、美しく、好きです。
それだけ感じ取れれば、細かい所は構わないのではないでしょうか。


キャラクターが何を考えているのか、本質的には分からないけど、混乱してるけど、とりあえず、オスカルはフェルゼンとちゃんと決別して、アンドレは曲がりなりにも愛していると伝えた。
それだけで、いい。それれは真実だと信じたい。