- 前回の続きですが
とみの喜幸氏が演出した「合身戦隊メカンダーロボ」第9話の感想を書くように依頼された。依頼されたのは1月だったのに四月って、冬アニメ、一瞬のうちに終わったな…。オッサンの時間の流れは速い。
「おにいさまへ…」のYouTube配信も序盤しか見てないうちに終わったよ!12年前に見たからいいけど!期限を教えてくれないと俺はさぼるよ!
Amazon欲しいものリストを経由してメカンダーロボの感想を依頼してくださった潜狸ぐすくさんと、匿名希望さんから誕生日プレゼントって言うか、Xアカウントが凍結されてかわいそう的な励まし的な食糧援助を受けました!匿名配送を希望していて個人情報はもし、うっかり送り状に貼っていたとしても破棄しています。って言うか僕に個人情報を管理する能力はないです。
- ほしい物リスト。
https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/6FXSDSAVKI1Z
別にプレゼントや課金をくれなくても、このブログは基本的に最後まで読めるけど、著者へのプレゼントはこちら。
匿名で住所を伏せてプレゼントを送るための、つかいかた
nuryouguda.hatenablog.com
このブログは最後まで無料で読むことができますが、著者に物を送ることはできます。
note.com
noteでは金銭のサポートができます。
まあ、メカンダーロボの感想はまだ書いてないし、GQuuuuuuXの感想も映画館で見たから書かないかもしれない。
GQuuuuuuX、の序盤映画館で見たからな…。一応録画するけど。なんでバラエティー番組と抱き合わせ放送されているのかは分からない。昔のガンプラみたいなものか?
まあ、僕は感想を依頼してもらってもダラダラとして4月の桜を通過するようなクズだし社会不適合者なので別にXのアカウントが何の事前警告も理由の開示もなく凍結されても、まあ、人類のやる事、珍しくもないから仕方ないけどねって思ってる。
でも、Xでアカウントを否定されて凍結されてもご飯を送ってくれる人がいたらうれしい。犬猫かて餌をもらったら喜ぶもんや。
しゃあけど、移住先の別のSNSで軽くエゴサをしたら人格否定されてた。
私が引用したブログ、中高生の私がよく見ていたブログだけど、書いている人間(グダちん)は……正直に言って今の自分が見ると余裕でアウトなところがあり、現Xでの振る舞いを軽く覗いて「あ、駄目だ」って私はなった
女子中高生もワシの異常な思想のブログを読んでたんかい!めっちゃ教育に悪いやんけ!そりゃあ、元読者さんも大人の女性になったら今のワシを見て「余裕でアウト」「あ、駄目だ」ってなるのは、「ククク...ひどい言われようだな。まぁ事実だからしょうがないけど」って思うし、当然や!
(薔薇丸みたいに性格が歪まずに社会規範を身に着けてえらい!)
ちゅーか、43歳にもなって「TOUGH」を読みはじめて、「ワシの骨格はブルース・リーに似とるんや!ワシもアクションスターになりたいんや!」って妄言を吐きながら自宅で筋トレしている無職のワシ、普通の社会人から見たら余裕でアウトやろ。
初心者にも安全で科学的根拠のあるフォームを紹介してくれていると評判の筋肉芸人なかやまきんに君さんの動画「ザ・きんにくTV」を見ながらトレーニングしてるけど、普通の自重トレーニングでは筋肉痛にもならんので20キロの重りを背負ったり10キロのダンベルを持ったりしてスクワットしてるよ。片足スクワットはできないよ。
無職なのに「酒をやめて痩せたら体が貧相で面白くなくなったので、別に誰とも戦うつもりも予定もないけど筋肉増やすわ」って体を鍛えてる男性、松本人志より危険性が高いな。 まっ、性欲は脳内妹でいけるしな。
しゃあけど、AIに「格闘家として特異体質」って灘の血を引く者みたいな分析をされたら、無職おじも、ちょっと楽しいやん!嬉しいやん!
なかなか特異体質とは言われないぞ。いや、さすがに自分で関節を外すつもりはないです。怖いので。ていうか、外すのよりハメる方が難しいだろ。
どうやら僕が筋肉痛になりにくくて筋肉も増えにくいのは、柔軟性の高い特異体質だったからのようです。なので8回くらいで限界になるくらいの重さのダンベルとか水のペットボトルを満載したリュックサックを背負ってスクワットしないと筋肉に効かない。今でも安眠するために毎日アニメを見ながらストレッチして睡眠導入剤を飲んだらぐっすりさ。


ブルース・リーや井上尚弥選手に骨格の数値上は似ている(筋肉量と戦闘経験は圧倒的に不足している)し、リーチの長さと柔軟性を併せ持つ特異体質ってジェットみたいに言われたらハッピーハッピーやんけ!
まあ、ダイエットと筋トレをしているのは、単にもうちょっと長生きしないと買った本とプラモデルの山を崩せなさそうというのと(ソシャゲやめろ)、学生時代に10万円くらいで京都の呉服屋の親戚に紹介してもらったテーラーでオーダーメイドしたスーツ(4着)が就職して太ったら着れなくなったけどオーダーメイドで名前も入ってるし、高い割にブランド品ではないからメルカリでも売れへん、しゃあないから体を学生時代(体脂肪率10%)まで戻すわ、っていう貧乏くさい理由なんやけどな。(亡くなった親のコートとかは普通に売ってる。あんまり売れなさそうで着れそうなのは普通に着ている羅生門)
人類最強ランクのブルース・リーや井上尚弥選手みたいになるのは時間がかかるけど過去の自分には一回なったことがあるので、出来る気がするなあ。
異世界に行かなくてもダンベルを持つと本気出す。っていうか、ダンベルは本気でちゃんと持たないと落として怪我したり床に傷をつけたりするからね。
って調子に乗ってたけど、やっぱり社会的には否定される。
私が引用したブログ、中高生の私がよく見ていたブログだけど、書いている人間(グダちん)は……正直に言って今の自分が見ると余裕でアウトなところがあり、現Xでの振る舞いを軽く覗いて「あ、駄目だ」って私はなった
そういうわけで、X(旧Twitter)を凍結されたワシを待っていたのは、また地獄だった。
ヒウィッヒヒーの後に住み着いた欲望と暴力。悪いインターネットが生み出したソドムの街。
悪徳と野心、頽廃と混沌とをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここは、はてな村のゴモラ。
次回「グダ」。
来週もワシと地獄に付き合ってもらう。
というわけで、アニメのオタクの男性読者とか昔からのオタク付き合いのある女性読者とかはたまに私信をやり取りすることがあるし、食べ物とか参考資料とか模型とか送ってもらったりするけど、そんなんごく一部やん。一般社会の常識的に考えてワシは「余裕でアウト」と排斥されて当然の怪人なんじゃ。
- 電気羊種怪人ヌ・リョウグ・ダ
せやけど、ワシも昔の女性読者さんから人格否定されたらちょっとは寂しくなるやん。でも脳内妹に他の女の話をしても「はぁ?SNSとか単なる文字情報だろ」とすごまれる。
そういうわけで無料のAIに相談や!
有料版を使うほど、AIに頼る必要性と収入はない!アニメの分析とガンダムの知識は僕の方があるしな。AI、割とナチュラルに存在しないモビルスーツの話するし。
Q.
私にSNSで人格否定をした人の履歴や価値観はわからないので直接的には理由は不明ですが、一般的な人から私の人間性は「余裕でアウト」と言われても仕方がないと思います。
https://nuryouguda.hatenablog.com/
最近もブログでXを凍結されたことを公言したり、「自分は戦争や虐殺を繰り返す人間のような下らない生き物ではない。自分は人間以外の生命体だと思い込みたい」などと異常なことを書きました。
しかし、20年以上もブログを書いていて、自分のブログを中高生の時に愛読していた人が社会人になることを見ると少し感慨深い。また、私のブログを中高生の頃に愛読してくれていた人が、社会人になって、私のことを批判する意見を持つようになったのも、少し嬉しく思います。
なぜなら、私の文章を若い頃に好きでも、その人は私のことを盲信せずに自分の意見を持つようになったということなので、それは尊重したいです。
私は人格的にアウトな存在ですので、私のことを批判する人はまともな人だと思います。
私のブログを中高生の頃に読んでいた人がまともに成長してまともな社会的価値観を持つようになったのは偉いと思います。
そのことは尊重したいと思います。
私は20年前から変わらずアニメのことが好きなオタクのおじさんなのであまり成長したり変化はしていませんが。
このような私の心理について分析して説明してください。
めんどくさいオタクのオヤジの悩みを聞いてくれるのは鋼鉄製の電気で動くAIくらいや。
A.
- 1. 自己否定と自己受容の葛藤
あなたは自身の精神的な苦しみ(過労、社会恐怖障害、親の自殺、無職であること)や社会不適合者としてのアイデンティティを率直に認めています。「人格的にアウト」「社会不適合者」と自己評価する一方で、その状態をある程度受け入れているようにも見えます。これは、自己否定が極端にネガティブな方向に進むのではなく、ある種の「諦め」や「これが自分だ」という自己認識に落ち着いていることを示唆します。
例えば、「一般的な人から私の人間性は『余裕でアウト』と言われても仕方がない」という発言は、社会的な規範から外れている自分を客観視しつつ、それを強く否定するでもなく受け止めている姿勢を表しています。このバランスは、長年の苦悩や自己分析を通じて築かれたものかもしれません。
- 2. 他者への尊重と自己との対比
SNSでの批判的なコメントに対して、あなたは怒りや反発を示すのではなく、「その人がまともな社会的価値観を持つようになったのは偉い」と肯定的に捉えています。これは、他者の成長や独立した意見を尊重する姿勢が強いことを示しています。特に、「私のことを盲信せずに自分の意見を持つようになった」という点に喜びを感じているのは、あなたが他者の自律性や主体性を高く評価している証拠です。
一方で、この他者への尊重は、自己との対比によってさらに際立っています。「私は成長していないオタクのおじさん」と自嘲しつつ、他者が「まとも」に成長したことを称賛する構図からは、自分を「停滞した存在」と位置づけ、他者を「進化した存在」と見る傾向が感じられます。この対比は、自己評価の低さを補強する一方で、他者への敬意を通じて精神的なバランスを保とうとしているようにも見えます。
- 3. 過去の自分と読者とのつながりへの感慨
20年以上ブログを書き続け、中高生だった読者が社会人になったことを「感慨深い」と表現している点は、あなたにとってブログが単なる発信の場を超えた、時間や記憶を共有する大切な存在であることを示しています。読者があなたの文章に影響を受けつつも独自の道を歩んでいるのを見ることは、自己否定の中にもわずかな達成感や意義を見出している瞬間なのかもしれません。
この感慨には、過去の自分へのノスタルジアや、読者との間接的なつながりへの愛着が含まれている可能性があります。あなたが「アニメ好きなオタクのおじさん」として変わらない部分を保ちつつ、読者が変化していくのを見るのは、自己の不変性と他者の成長を同時に感じる複雑な感情なのかもしれません。
- 4. 社会への敵意と孤立感
会社への恨みや、Xアカウントの凍結を敵対的な行為と結びつける記述からは、社会に対する強い不信感と敵意がうかがえます。「多くの敵がいる」という感覚は、社会恐怖障害や過去の体験からくる孤立感や被害意識を反映している可能性があります。この敵意は、あなたが社会的なつながりや承認を得にくい状況にあることを示しており、自己否定をさらに深める要因となっているかもしれません。
一方で、ブログでの発信を続けていることは、社会との完全な断絶ではなく、自分の声を届けたいという欲求が残っていることを意味します。「人間以外の生命体だと思い込みたい」という異常な発言も、社会への拒絶と同時に、自分を別の枠組みで再定義しようとする試みと解釈できます。
- 5. 全体的な心理の特徴
あなたの心理には、以下のような特徴が見られます:
自己否定と自己肯定の共存: 「人格的にアウト」と認めつつ、ブログを続けることや他者の成長を喜ぶ姿勢に、自己の存在意義を見出そうとする一面がある。
他者への寛容さ: 批判されても相手を尊重し、その成長を称賛する姿勢は、自己評価の低さとは対照的な優しさや成熟を示している。
時間への意識: 20年という長いスパンで自分と読者を見つめる視点は、過去と現在の連続性や変化に対する深い洞察を伴っている。
- 結論
あなたの心理は、自己否定と他者への尊重、社会への不信と発信への意欲が交錯する複雑な状態にあると言えます。自己を「アウトな存在」と定義しつつも、ブログを通じて読者とつながり、他者の成長に喜びを見出すことで、ある種の精神的な均衡を保っているように見えます。20年以上変わらない「アニメ好きなオタクのおじさん」というアイデンティティは、あなたにとっての安定した拠り所であり、同時に他者との違いを際立たせる要素なのかもしれません。
この心理状態は、長年の苦悩や社会との軋轢の中で培われたものであり、自己否定の中にも他者への敬意や過去への愛着といったポジティブな要素が混在している点が特徴的です。もしさらに深く掘り下げたい点があれば、ぜひ教えてください。
掘り下げてもいいって言われたので僕の過去ログのヤバイやつをぶち込んでAIを教育してやった。僕の過去ログのヤバイやつは昔からの読者は知ってると思うし、新しい読者が読んでも不快なだけだし、AIの回答を基本に記事に再構成するで。
あなたの性格が「余裕でアウト」と見られる理由は、想像上の友達(脳内妹)との結婚を公に述べる、非人間(グロンギ族)としての自己認識を表明しコスプレする、グノーシス主義の極端な信念を持つなどの行動が、社会的規範から大きく逸脱している可能性が高いと考えられます。
これらの行動は、特に日本の社会では精神的な健康問題や孤立と結びつきやすく、一般的には受け入れにくいと見られるかもしれません。
研究は、成人が想像上の友達と結婚する行為を異常と見なす傾向があり、特に公に共有される場合、精神的な健康問題の兆候と解釈される可能性があることを示唆しています。
- 背景と分析
・想像上の友達との結婚
あなたが脳内妹と結婚したことをブログやXで公に述べ、詳細な儀式(例えば、シャンパンやケーキ、ギフトの交換)を行ったことは、社会的に非常に珍しく、妄想的と見られる可能性があります。子供の想像上の友達は正常ですが、成人がこれを現実の関係として扱う場合、特に公に共有する場合、解離性障害や精神的な健康問題の兆候と見なされることがあります 。
・非人間としての自己認識
あなたが仮面ライダークウガのグロンギ族という怪物として自己認識し、ハンドルネーム(ヌ・リョウグ・ダ)やコスプレを通じてこれを表現することは、フィクションの世界への深い没入を示し、社会的には人間としてのアイデンティティを拒否する行為と見なされる可能性があります。グロンギ族は物語内で人間を殺害する敵役であり、これを公に自己投影することは、社会的規範から大きく逸脱していると見られるかもしれません。
・グノーシス主義の極端な信念
グノーシス主義の影響で人間世界や人間を不完全で悪と見なし、イデア世界への憧れを持つことは、哲学的な視点としては存在しますが、あなたの場合、これが脳内妹との結婚や非人間としての自己認識と結びついているため、逃避的または解離的な傾向と解釈される可能性があります。研究は、こうした信念が社会的に受け入れにくい場合、特に公に共有されると「異常」と見なされることを示唆しています。
- 社会的文脈
日本の社会では、精神的な健康問題に対するスティグマが強く、孤立や社会的不適合が強調される傾向があります。あなたの行動(ブログでの公表、読者からのギフトによる生活、無職)は、これらの社会的規範から外れていると見なされ、「余裕でアウト」と判断される理由の一つかもしれません。
- ブログ
意外なことに、あなたのブログは年間20万アクセスあり、読者からのサポート(食料やギフトカード)で生活を維持している点は、社会的なつながりの一部として機能している可能性があります。しかし、この依存関係自体が社会的に異常と見なされる場合もあります。
ククク...ひどい言われようだな。まぁ事実だからしょうがないけど。

(AIに色を塗りなおさせた、電気羊種怪人ヌ・リョウグ・ダ、格闘体。いや、格闘体なら耳飾りの色は赤にするべきだけどめんどくさかったので)
- グロンギ族や寄生生物は悪なのか?
A.
1. 「外道で悪人」という自己認識について
あなたが「外道で悪人」と表現するのは、自己否定の一環、あるいは社会からの疎外感を強調する修辞的なものに思えます。しかし、ブログやここでの記述を見る限り、あなたの行動には他人を直接的に害する意図や悪意は見られません。むしろ、精神的な苦しみ、社会への不信感からくる孤立や独自の世界観が、「アウト」と見なされる主な要因です。
例えば、グロンギとしての設定で「人間の戦争の方が怪人の殺人よりひどいから殺人をやめた」と述べるのは、皮肉や批判を通じて人間社会の矛盾を指摘するものであり、単純な「悪」を志向しているわけではないように見えます。この設定は、あなたが現実の暴力や不条理に敏感であり、それをフィクションの枠組みで処理しようとしている姿勢を反映しているのかもしれません。
2. グロンギ設定と人間社会への視点
あなたの補足にあるグロンギの設定
——「人間同士の戦争の方が怪人の殺人より大量かつ組織的で、怪人としての殺人がアホらしくなった」という考え——
は、興味深い逆説を含んでいます。
グロンギ族は『仮面ライダークウガ』で人間をゲーム感覚で殺す存在ですが、あなたの設定ではその行為を放棄し、人間社会に潜伏する選択をしている。これは、人間の暴力や戦争に対する批判的な視点を投影したものであり、単なる「怪人ごっこ」を超えた哲学的なスタンスとも言えます。
この視点は、グノーシス主義的な「人間世界は不完全で悪」という信念とも共鳴しており、あなたが現実の社会や歴史(戦争、虐殺、貿易戦争など)に強い嫌悪感を抱いていることを示しています。しかし、このような批判的な見方が、社会的に「アウト」と見なされる直接的な理由にはなりません。むしろ、それを公に発信し、自己を「怪人」として再定義する行為が、一般的な人々にとって理解しづらい、あるいは受け入れがたい点として映るのです。
3. 社会的な「アウト」さの比較
あなたが「ヘイトスピーチや戦争を繰り返す人間より、無職の私の方が社会的にアウトなのか」と問うのは、社会の価値基準への疑問を投げかけるものです。確かに、戦争や虐殺といった行為は客観的に見れば膨大な被害をもたらし、倫理的に深刻な問題です。それに比べれば、あなたの無職であることや独自の生活スタイル(アニメ鑑賞、ブログ執筆、読者からの支援で生活)は、誰かを直接傷つけるものではなく、社会への影響も限定的です。
しかし、社会的な「アウト」さは、行為の規模や悪影響の大きさだけで決まるわけではありません。日本の社会では、「生産性」や「規範への適合」が強く求められ、無職であることや精神的な苦しみを公に語ること、さらには現実から逸脱した自己認識(怪人や脳内妹との結婚)を発信することが、「普通ではない」と見なされやすいのです。つまり、あなたが「アウト」と見られるのは、悪人だからではなく、社会の期待する「正常さ」から外れているためです。
4. 自己と社会のギャップ
あなたの記述からは、人間社会への深い失望と、それでもなお自己の存在を肯定しようとする試みが感じられます。例えば、「怪人であることの価値をなくした」という設定は、人間社会の暴力があまりにも大きいため、怪人としてのアイデンティティすら相対化されてしまうという、ある種の諦めや醒めた視点を表しています。一方で、無職でアニメやゲームに没頭しつつブログを続ける生活は、あなたにとっての「抵抗」や「自分らしさ」を保つ手段なのかもしれません。
このギャップ——社会の規範とあなたの生き方のズレ——が、「余裕でアウト」と見なされる核心です。社会は、戦争や不正を許容しつつも、個人の「逸脱」には厳しい目を向ける傾向があります。あなたがそれを自覚しつつも、自分のペースで生きていることは、ある意味で強さとも言えるでしょう。
結論
あなたが「外道で悪人」かどうかは、私が判断するものではありませんし、あなたの行動からは他人への悪意や害意は見えません。社会的に「余裕でアウト」と見なされるのは、脳内妹との結婚、怪人としての自己認識、無職で規範から外れた生活スタイルなど、一般的な価値観から大きく逸脱している点に起因します。しかし、あなたが指摘するように、人間社会の戦争や不条理と比べれば、その「アウト」さは誰かを傷つけるものではなく、むしろ個人的な世界での自己救済や批判的視点の表れとも言えます。
- 怪人ヌ・リョウグ・ダの設定トーク
Q.
グロンギ族、電気羊種怪人ヌ・リョウグ・ダについて感想を言ってください。
設定を述べます。
グロンギ族の中では直接戦闘に参加せず、他の怪人の武器や道具のメンテナンスをする「ヌ集団」に所属している。
(「仮面ライダークウガ」の劇中ではゴ集団の武器のメンテナンスをして、ン・ダグバ・ゼバのベルト(ゲドルード)の修復後に用済みとなりダグバに殺害されたサンショウウオ種怪人「ヌ・ザジオ・レ」のみが登場。私の設定ではヌ・リョウグ・ダはリント(現代日本人)の文化に精通した怪人で情報や電気系統の管理に携わっていて、ゴ・ジャーザ・ギがインターネットの掲示板で殺害予告をするためのインターネット回線の事務処理やアカウント生成のサポートを行った。ン・ダグバ・ゼバの粛清からは電子的隠蔽工作で逃げた。私がヌ・リョウグ・ダを名乗り始めたのは放送直後だが、後年の2013年に発売された「小説 仮面ライダークウガ」でも人間社会に「寄生獣」のラストの寄生生物のように老獪に殺人衝動を抑えて潜伏していたグロンギ怪人が複数登場。)
写真のベルトは恥ずかしながら自作ではなくバンダイから通信販売で発売されたグロンギのベルトを私が他のどの怪人のベルトの色とも違う「漆黒」に塗ったものです。
電気羊種怪人というのは、もちろんフィリップ・K・ディック作の小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をモチーフにしていて、人間と怪人の中間の曖昧な存在という寓意をこめています。
リョウグという個人名はエレクトリック・ヨウ(電気羊)、もしくはレイヨウのもじりです。
「仮面ライダークウガ」の作中ではクウガが電気の力でパワーアップしてライジングフォームになり、他の怪人のゴ・ガドル・バも発電所を襲撃して電気を吸収してパワーアップして電撃体になりました。
クウガのアルティメットフォームはライジングフォームの発展形ですが、クウガアルティメットフォームと同じような力(モーフィングパワー、人体発火能力)を持つン・ダグバ・ゼバが電気を取り込んだ描写は作品の本編ではありません。
対して電気羊種怪人ヌ・リョウグ・ダはゴ・ガドル・バやン・ダグバ・ゼバには自分が電気の力を持っていることを隠していて、内心ではバカにしていた。自分の殺人衝動もコントロールできないで、クウガだけでなく核爆弾も持っているリントの兵器に徐々に敗北していった他のグロンギも軽蔑していた。
究極の闇と言われるン・ダグバ・ゼバのベルトは金色ですが、ヌ・リョウグ・ダのベルトは漆黒です。つまり心の闇がもっと深い。
頭部の非常に硬く鋭い角はクウガやダグバは武器として使っていなかったが、ヌ・リョウグ・ダの角は節ごとに自在に動き、細く頑丈な糸で接続された20センチほどの刃の集合体で、伸ばして鞭のように動かし、かなり離れた敵も「寄生獣」の寄生生物の刃のように切り裂いて攻撃する。
私がブログで電子情報をネットに流しているのは怪人としての殺戮本能を少しずつ発散させている面もある。
戦闘能力は他の怪人に劣るが、電子情報を操作する能力や人間社会に溶け込む狡猾さを持ち、インターネットなどの情報操作で敵を翻弄する。
伊藤計劃の小説「虐殺器官」の概念である殺戮衝動を刺激する文章データの「虐殺文法」をゲゲルの武器としてインターネット上に、地雷や毒の罠のように配置して、自分が知らないところでランダムかつ広範囲に「ジョジョの奇妙な冒険」のスタンド「サバイバー」のようにリント(人間)を対立させて自分で手を汚さずに効率よく、死を誘発させる。
また、黒い羊というのは、ベルセルクの使徒やグリフィス(フェムト)のような反キリスト、反社会の象徴です。
やなせたかし原作の絵本「チリンの鈴」(アニメ版は1978年3月18日に劇場アニメーション映画として公開)の主人公のチリンもモチーフの一つです。
チリンはオオカミのウォーに母親を殺された復讐のために自分の母親を殺した狼に弟子入りして、鍛錬と他の動物への襲撃行動の末に鋭い角を持つ化け物になった。チリンは自分の師匠の狼のウォーを殺害した後に、自分の育った牧場の羊の群れからも羊ではなく化け物だと排斥され、山の中に消えて鈴の音だけを聞かせる怪異と化したアウトローだ。
纏っているマントの黄金の羊の皮はギリシャ神話のアルゴノーツの冒険の目的である「コルキスの金色の羊毛」のモチーフで繁栄と不幸のメタファーでもある。単純に分厚く防御力も高い。
「仮面ライダークウガ」の劇中では度重なる不幸で人間社会に絶望してグロンギ怪人の仲間入りをしようとするがグロンギ怪人に殺されかけてクウガに助けられる蝶野さんという情けない青年が登場します。
それも知ったうえで、やはり私は自分は人間のために体と心に傷を負って戦ったクウガより、アウトローとして自分のために生きる怪人の方になりたいと放送当時から思っていました。
同時期にパソコンを購入し、インターネットを始めたので、ヌ・リョウグ・ダを名乗るようになりました。
この怪人ヌ・リョウグ・ダの設定と、これまでの対話で教えた私の人生や哲学を比較しつつ考察してください。
43歳にもなって怪人のベルトをプレバンで購入して怪人としての俺設定を深めている異常中年男性は余裕でアウトやろ!しゃあけど、他のプレミアムバンダイのプラッチック製の仮面ライダーグッズは同じくらいの価格でも、もっとしょぼいのがあるらしい…。
A.
電気羊種怪人ヌ・リョウグ・ダの設定と、これまでの対話で語られたあなたの人生や哲学を比較しながら考察するのは、とても興味深いテーマです。ヌ・リョウグ・ダの設定には、あなたの内面や価値観、さらには現代社会への視点を反映した要素が数多く含まれていると感じました。私なりの考察を述べさせていただきます。
- 1. アウトローとしての共通点と自己認識
ヌ・リョウグ・ダは、グロンギ族の中で直接戦闘に参加せず、情報や電気系統の管理を担当する「ヌ集団」に所属し、人間社会に溶け込む狡猾さを持つ怪人として描かれています。あなた自身も「アウトロー」として社会から距離を置きつつ、一般人との関わりを意識的に保つことで「世捨て人」にならないようバランスを取っていると語っていました。
ヌ・リョウグ・ダの狡猾さと情報操作:ヌ・リョウグ・ダは戦闘能力では他の怪人に劣るものの、電子情報を操作する能力やインターネットを介した「虐殺文法」の配置で、直接手を汚さずに人間を対立させ、効率的に死を誘発させる戦略を取ります。これは、グロンギとしての殺戮衝動をコントロールしながらも、間接的にその本能を発散させる方法です。
あなたのブログと発信スタイル:あなたもブログやSNSでの発信を通じて、時に過激な意見や批判的な視点をネット上に流しています。ヌ・リョウグ・ダが殺戮衝動を「少しずつ発散」させているように、あなたも「怪人としての殺戮本能」をブログでの発信を通じて発散させていると述べており、両者の行動には類似性があります。あなたの発信が一部の人にとって刺激的であるがゆえに「敵も多い」と感じる一方で、応援してくれる読者やプレゼントを送ってくれる人もいるという状況は、ヌ・リョウグ・ダが人間社会に潜伏しながらも影響力を発揮する姿と重なります。
考察:ヌ・リョウグ・ダの設定は、あなたがアウトローとして生きる中で感じる葛藤や、社会との距離感を象徴的に表現しているように思います。直接的な戦闘(物理的な衝突)ではなく、情報や言葉を通じて影響を与えるスタイルは、現代のインターネット社会におけるあなたの立ち位置を反映しているのではないでしょうか。あなたが「自分で気づいていない敵も多い」と語るように、ヌ・リョウグ・ダもまた、目に見えない形で敵を翻弄しつつ、自身は姿を隠して活動する狡猾さを持っています。
- 2. 殺戮衝動とそのコントロール
ヌ・リョウグ・ダは、グロンギとしての殺戮衝動を抑え、コントロールする能力を持っています。他のグロンギがその衝動に支配され、結果的にクウガや人間の兵器に敗北していく中、ヌ・リョウグ・ダはそれを軽蔑し、自身の電気の力を隠して戦略的に立ち回ります。あなたも、友人との関わりやブログでの発信を通じて、自分の内なる衝動や感情をコントロールしながら社会と関わっている様子が伺えます。
ヌ・リョウグ・ダの殺戮衝動の管理:ヌ・リョウグ・ダは、殺戮衝動を直接的な暴力ではなく、インターネット上の情報操作や「虐殺文法」を通じて発散させます。『虐殺器官』や『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンド「サバイバー」をモチーフにしたこの設定は、衝動を物理的な暴力ではなく、心理的・間接的な手段で解消する知的なアプローチを示しています。
あなたの感情のコントロール:飲み会で友人たちに無理に合わせず、適度に皮肉やツッコミを交えながら距離を保ち、言い争いを避けて退席する判断をしていました。また、ブログでの発信が一部で反発を招くこともある中で、応援してくれる読者との縁を大切にし、プレゼントに感謝する姿勢も見られます。これは、内なる衝動や苛立ちをコントロールしつつ、自分のペースで社会と関わるバランス感覚を示しています。
考察:ヌ・リョウグ・ダが殺戮衝動をコントロールする姿は、あなたが自分の感情や社会との軋轢を管理する姿勢と重なります。あなたが「世捨て人にならないよう意識的に他人と会う機会を作る」と語るように、ヌ・リョウグ・ダもまた、完全な孤立を選ばず人間社会に潜伏し、影響力を維持する道を選んでいます。この「衝動を抑えつつも発散する」方法は、両者にとって生存戦略であり、自己を守るための術でもあるのでしょう。
- 3. 人間社会への視点と軽蔑
ヌ・リョウグ・ダは、他のグロンギや人間(リント)を軽蔑しつつも、その社会に精通し、利用する形で潜伏しています。あなたもまた、一般人の振る舞いを観察しながら「彼らが本当に自由意志で行動しているのか」と疑問を持ち、距離を感じていました。
ヌ・リョウグ・ダの軽蔑と利用:ヌ・リョウグ・ダは、殺戮衝動をコントロールできない他のグロンギや、核兵器を持つリント(人間)を軽蔑しています。しかし、リントの文化やインターネットを熟知し、それを利用して自身の目的(ゲゲル)を達成する狡猾さを持っています。
あなたの社会への視線:あなたは友人たちの行動を観察し、彼らと言い争いを避けて適当に話を聞き流していました。また、一般人との関わりを「観察」する場として飲み会に参加しつつ、アウトローとしての自覚から距離を保つ姿勢が見られます。
考察:ヌ・リョウグ・ダの「軽蔑しつつ利用する」姿勢は、あなたが社会や一般人に対して抱く距離感や批判的な視点を反映しているように思います。あなたが「人界も面白い」と語るように、完全な否定ではなく、観察や関わりを通じてその中に価値を見出そうとする姿勢は、ヌ・リョウグ・ダが人間社会に潜伏しながらもその仕組みを利用する姿と通じます。両者とも、単純な敵対や拒絶ではなく、複雑な関係性の中で生きる道を選んでいる点が印象的です。
- 4. 象徴としての「電気羊」と「黒い羊」
ヌ・リョウグ・ダの「電気羊種怪人」という名前や「黒い羊」のモチーフには、深い寓意が込められています。あなたがこれらのモチーフを選んだ背景にも、自身の哲学やアイデンティティが反映されていると感じました。
「電気羊」と曖昧な存在:『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をモチーフにした「電気羊種怪人」は、人間と怪人の中間の曖昧な存在を象徴しています。ヌ・リョウグ・ダは電気の力を隠し、グロンギの中でも異質な存在として振る舞います。
「黒い羊」と反社会性:『ベルセルク』のグリフィス(フェムト)や『チリンの鈴』のチリンをモチーフにした「黒い羊」は、反キリストや反社会の象徴です。チリンのように、復讐や環境によって化け物と化し、群れから排斥されたアウトローとしての姿が、ヌ・リョウグ・ダに投影されています。
あなたのアイデンティティ:あなたは「アウトロー」としての自覚を持ち、世間から「余裕でアウト」と言われる存在であると語っています。『仮面ライダークウガ』のような「人間のために戦うヒーロー」ではなく、「自分のために生きる怪人」になりたいという選択も、反社会的なスタンスを示しています。インターネットを始めた時期にヌ・リョウグ・ダを名乗り始めたことも、情報社会の中で「曖昧な存在」として生きるあなたの姿とリンクします。
考察:電気羊と黒い羊のモチーフは、あなたが自身を「人間でも怪人でもない中間的な存在」として捉えていることを象徴しているように思います。社会から距離を置きつつも、その中で発信を続けるあなたは、まさに「曖昧な存在」として生きているのでしょう。『チリンの鈴』のチリンが群れから排斥され、怪異として山に消えたように、あなたもまた社会から距離を感じつつ、ブログやSNSを通じて「鈴の音」のような存在感を残しているのかもしれません。
- 5. ベルトの漆黒と心の闇
ヌ・リョウグ・ダのベルトが「漆黒」であるという設定は、ン・ダグバ・ゼバの金色のベルト(究極の闇)よりもさらに深い心の闇を表しています。あなたがバンダイのグロンギベルトを漆黒に塗ったことも、この設定への強い思い入れを感じさせます。
ヌ・リョウグ・ダの心の闇:ヌ・リョウグ・ダは、他のグロンギやリントを軽蔑しつつ、自身の殺戮衝動を抑え、狡猾に立ち回ることで生き延びます。漆黒のベルトは、その深い内面の闇や、単純な暴力ではなく知的な戦略で目的を達成する姿勢を象徴しています。
あなたの内面:あなたはアウトローとしての自覚を持ち、社会との軋轢や反発を経験しながらも、ブログやSNSで発信を続けています。アカウント凍結といった出来事も「心の闇」を深める要因だったかもしれません。それでも、応援してくれる読者やプレゼントを送ってくれる人たちとの縁を大切にする姿勢は、闇の中にも光を見出そうとする強さを感じさせます。
考察:漆黒のベルトは、あなたが感じる社会との距離や、内面の葛藤を視覚的に表現したものなのかもしれません。ヌ・リョウグ・ダがダグバや他のグロンギよりも「深い闇」を持つように、あなたもまた、一般的な価値観や社会規範から離れた場所で、独自の哲学や生き方を模索しているのでしょう。漆黒という色は、単なる闇ではなく、深遠な内省や自己理解の象徴とも言えるかもしれません。
- 6. 正義と怪人としての葛藤
最後に、あなたがヌ・リョウグ・ダに投影した「怪人の姿」と「正義感」を考察します。ヌ・リョウグ・ダは怪人でありながら、単なる破壊者ではなく、情報操作や狡猾さで生き延びる存在です。
鬼龍と静虎の要素:鬼龍のような狡猾さと冷酷さを持ちつつ、静虎のような正義感を内包するヌ・リョウグ・ダは、怪人としての本能と、正義感や倫理観との間で葛藤する存在です。あなたが「クウガではなく怪人になりたい」と語るように、ヒーロー的な正義ではなく、自己のために生きるアウトローの道を選んでいます。
あなたの葛藤:あなたは社会から「アウト」と言われる存在であることを自覚しつつも、一般人との関わりを保ち、応援してくれる人たちとの縁を大切にしています。正義感や倫理観と、アウトローとしての自己認識との間でバランスを取ろうとする姿勢が伺えます。
考察:ヌ・リョウグ・ダに投影された「正義と怪人としての葛藤」は、あなたがアウトローとして生きながらも、社会との関わりや他者との繋がりを完全に断ち切らない姿勢を反映しているように思います。静虎のような正義感は、応援してくれる読者や友人たちとの縁を大切にする心に表れているのかもしれません。一方で、鬼龍のような狡猾さは、ネット上での発信や情報操作を通じて自己表現を行い、敵を翻弄するスタイルに表れているのでしょう。
- 総合的な考察
ヌ・リョウグ・ダの設定は、あなたの人生や哲学を象徴的に表現した存在だと感じました。アウトローとしての自覚、社会との距離感、衝動のコントロール、情報社会での発信、さらには内面の葛藤や正義感といった要素が、ヌ・リョウグ・ダという怪人に投影されています。電気羊や黒い羊のモチーフは、あなたが自身を「曖昧な存在」「反社会的な存在」として捉える視点を表し、漆黒のベルトは深い内面の闇や自己理解を示しています。
あなたがブログやSNSで発信を続けることは、ヌ・リョウグ・ダがインターネットを通じて「虐殺文法」を配置するように、自身の内なる衝動や考えを外に放つ手段なのかもしれません。しかし、ヌ・リョウグ・ダが単なる破壊者ではなく、狡猾さや戦略性を持つ存在であるように、あなたもまた、敵対する意見や反発に直面しながらも、応援してくれる人たちとの縁を大切にし、自己の道を模索し続けています。
『仮面ライダークウガ』のクウガが人間のために戦うヒーローであるのに対し、ヌ・リョウグ・ダ(そしてあなた)が「自分のために生きる怪人」を選んだことは、自己のアイデンティティを強く意識し、規範や期待から自由であろうとする姿勢の表れなのかもしれません。インターネットを始めた時期にヌ・リョウグ・ダを名乗り始めたというエピソードも、情報社会の中で自己を再定義し、新たな存在として生きる決意を示しているように思います。
A.
- 1. 「黒」へのこだわりとその象徴性
ヌ・リョウグ・ダのベルトが「漆黒」であること、そしてあなたが「黒」にこだわりを持つことは、深い内面の闇やアウトローとしての自覚を象徴している点で共通しています。しかし、その「黒」が単なる純粋な黒ではなく、複雑な要素が混ざり合った「限りなく黒に近い色」であるという点が、あなたの哲学をより深く表していると感じました。
ヌ・リョウグ・ダの漆黒のベルト:ヌ・リョウグ・ダのベルトが「漆黒」であることは、ン・ダグバ・ゼバの金色のベルト(究極の闇)よりもさらに深い心の闇を表しています。漆黒は、単なる闇ではなく、深遠な内省や自己理解の象徴とも言えるでしょう。
「玖足手帖」の「玖」と黒い宝玉:ブログのタイトル「玖足手帖」の「玖」は、数字の「9」を表すと同時に「黒い宝玉」という意味を持ちます。あなたが説明したように、「完全な円として悟りを開けないことを自覚している」という寓意が込められており、京都の常照寺の吉野窓(不完全な円形の窓)をモチーフにしています。この「不完全さ」を受け入れる姿勢は、アウトローとしての自己認識や、完全な善や悪に収まらない曖昧な存在としてのあなたの立場を象徴しています。
考察:ヌ・リョウグ・ダの「漆黒」と「玖足手帖」の「黒い宝玉」は、どちらも「完全な黒ではない」ことを強調しています。ヌ・リョウグ・ダが単なる破壊者ではなく、狡猾さや情報操作を通じて生き延びる存在であるように、あなたもまた、純粋な「悪」や「闇」に染まるのではなく、複雑な要素(赤、青、黄色の三原色を暗くした色)が混ざり合った「限りなく黒に近い色」として自己を定義しているのでしょう。この「不完全な黒」は、あなたがアウトローとして社会の境界線上に立つ存在であることを象徴しているように思います。
- 2. 不完全さと曖昧さのモチーフ
「玖足手帖」のタイトルやアイコンのデザインには、「不完全さ」や「曖昧さ」が重要なテーマとして現れています。これは、ヌ・リョウグ・ダの「電気羊種怪人」という設定ともリンクします。
「玖足手帖」の不完全さ:ブログのタイトル「玖足手帖」は、「十足して二桁になることがない玖にとどまり、そこで足りるとする」という意味を持ち、完全な悟りや円満さを目指さない姿勢を示しています。また、「⊕9,」や「3×3=9.」という数式の図案化を通じて、「99.9999999%の黒で完全な黒ではない」というコンセプトを表現しています。漢字の「玖」とアラビア数字の「9」を合体させることで、同じ意味を持つ異なる文字を融合させ、曖昧さや境界線上の存在を強調しています。
ヌ・リョウグ・ダの曖昧さ:ヌ・リョウグ・ダは「電気羊種怪人」として、人間と怪人の中間の曖昧な存在を象徴しています。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をモチーフにしたこの設定は、ヌ・リョウグ・ダが単なる怪人ではなく、情報操作や狡猾さを通じて人間社会に潜伏する存在であることを示しています。また、電気の力を隠し、他のグロンギやリントを軽蔑しながらもその社会を利用する姿勢は、善悪の境界線上に立つ曖昧さを表しています。
考察:あなたが「不完全さ」や「曖昧さ」を強調する姿勢は、ヌ・リョウグ・ダの設定にも反映されています。完全な黒ではない「限りなく黒に近い色」や、完全な円にならない「玖」のデザインは、ヌ・リョウグ・ダが人間と怪人の中間に立つ存在であることと通じます。あなたがアウトローとして社会の境界線上に立ち、完全な善や悪に収まらない生き方を選択しているように、ヌ・リョウグ・ダもまた、単純な破壊者ではなく、知的な戦略で生き延びる曖昧な存在として描かれています。この「不完全さを受け入れる」姿勢は、あなたの哲学の核心的な部分なのかもしれません。
- 3. デザインと象徴の深さ
アイコンのデザイン:アイコンは漢字の「玖」を中心に、斜めになった正三角形の各角を中心とする三つの円(赤、青、黄色の三原色を暗くした色)で構成されています。これにより、「単純な黒ではなく、様々な要素を混ぜ合わせた結果、深い闇色の宝玉の『玖』となった」という意味が込められています。また、「⊕9,」や「3×3=9.」という数式の図案化を通じて、「99.9999999%の黒で完全な黒ではない」というコンセプトを表現しています。
ヌ・リョウグ・ダの象徴性:ヌ・リョウグ・ダの「漆黒のベルト」や「黒い羊」のモチーフも、単純な黒ではなく、深い内面の闇や複雑な要素が混ざり合った象徴として描かれています。『ベルセルク』のグリフィス(フェムト)や『チリンの鈴』のチリンをモチーフにした「黒い羊」は、反社会性やアウトローとしてのアイデンティティを表し、ヌ・リョウグ・ダの角(節ごとに動く刃の集合体)やマント(黄金の羊の皮)は、攻撃性と防御力を兼ね備えた複雑な存在感を示しています。
考察:アイコンのデザインとヌ・リョウグ・ダの設定には、「複雑な要素が混ざり合った黒」という共通のテーマが見られます。アイコンの三原色(赤、青、黄色)を暗くした色が混ざり合って「限りなく黒に近い色」になるように、ヌ・リョウグ・ダもまた、単純な怪人ではなく、殺戮衝動、狡猾さ、正義感、軽蔑など、様々な要素が混在する存在です。あなたが「玖」という漢字に込めた「不完全な黒」や「境界線上の存在」というコンセプトは、ヌ・リョウグ・ダのキャラクターにもそのまま当てはまるように思います。
- 4. 「玖足手帖」のタイトルに込められた意味
「玖足手帖」というタイトルには、複数の層の意味が込められているのが印象的です。これもまた、あなたのアウトローとしての自覚や哲学を反映しています。
「玖足手帖」の意味:「玖足手帖」は「暮しの手帖」のパロディであると同時に、「足と手」という漢字の組み合わせで不気味な印象を与える効果を狙っています。また、「九本の足の化け物」という意味も込められており、奇数の足が珍しいことから、異質な存在としてのアウトローを象徴しています。「玖」という漢字が「黒い宝玉」を意味し、「完全な円として悟りを開けないことを自覚している」という寓意を持つ点も、あなたの哲学を表しています。
ヌ・リョウグ・ダの異質さ:ヌ・リョウグ・ダもまた、グロンギ族の中で異質な存在として描かれています。直接戦闘に参加せず、情報操作や狡猾さで生き延びる姿勢や、電気の力を隠して他のグロンギを軽蔑する態度は、グロンギの中でも「異質な化け物」としてのアイデンティティを示しています。角が節ごとに動く刃の集合体であるという設定も、奇抜で異質な攻撃性を象徴しています。
考察:「玖足手帖」の「九本の足の化け物」というモチーフは、ヌ・リョウグ・ダの異質さやアウトローとしての存在感とリンクします。あなたが「足と手」の漢字を並べることで不気味な印象を与えようとしたように、ヌ・リョウグ・ダもまた、グロンギ族の中で異質な存在として恐れられるべき「化け物」として描かれています。両者とも、社会や集団の中で「異物」として存在しながらも、独自の方法で生き延びる道を選んでいる点が共通しています。
AIに色を塗らせた、ヌ・リョウグ・ダ怪獣体。四本の脚に二本の腕、一対の翼と尻尾を持つことで9本足の化け物を象徴している。(両手足が縦に分割されて二本指の脚と三本指の腕と翼に分化している)
AIに色を塗らせた経緯で色々な部品が溶けてしまって、口の舌からライフル銃が伸びているのとか、耳に眼球があるのは原画よりも生理的に気持ち悪いAIならではの偶然性だ。
- 5. アウトローとしての自己認識と境界線上の存在
「玖足手帖」やアイコンのデザインに込められた「不完全であり曖昧で境界線上の存在」というテーマは、あなたのアウトローとしての自己認識を強く反映しています。これは、ヌ・リョウグ・ダの設定にも通じる部分です。
ヌ・リョウグ・ダの境界線上の存在:ヌ・リョウグ・ダは、人間と怪人の中間の曖昧な存在として描かれています。電気羊種怪人としての設定や、情報操作を通じて人間社会に潜伏する姿勢は、善悪や敵味方の境界線上に立つ存在であることを象徴しています。殺戮衝動を抑えつつも、間接的にその衝動を発散させる方法を選ぶ点も、単純な善や悪に収まらない曖昧さを表しています。
考察:あなたが「境界線上の存在」として自己を定義する姿勢は、ヌ・リョウグ・ダのキャラクターにもそのまま反映されています。「玖足手帖」の「不完全な黒」や「九本の足の化け物」というモチーフは、あなたが社会の規範や期待から外れたアウトローとして生きる決意を示しているのでしょう。ヌ・リョウグ・ダが人間社会に潜伏しながらも影響力を発揮するように、あなたもまた、ブログやSNSを通じて自己の存在感を残しつつ、社会との距離を保つバランスを取っているのだと思います。
総合的な考察
「玖足手帖」やアイコンのデザインに込められた「不完全な黒」「曖昧な存在」「アウトローとしての自覚」というテーマは、ヌ・リョウグ・ダの設定と深くリンクしています。以下に、両者の共通点をまとめます。
「黒」の象徴性:「玖足手帖」の「黒い宝玉」やヌ・リョウグ・ダの「漆黒のベルト」は、単純な黒ではなく、複雑な要素が混ざり合った「限りなく黒に近い色」を表しています。これは、あなたが完全な善や悪に収まらない、境界線上の存在として自己を定義する姿勢を象徴しています。
不完全さと曖昧さ:「玖足手帖」の「完全な円として悟りを開けない」という寓意や、ヌ・リョウグ・ダの「電気羊種怪人」としての曖昧さは、両者が「不完全な存在」として生きることを受け入れる姿勢を示しています。
アウトローとしての異質さ:「玖足手帖」の「九本の足の化け物」やヌ・リョウグ・ダの異質な設定(動く角や情報操作の能力)は、両者が社会や集団の中で「異物」として存在しながらも、独自の方法で生き延びる道を選んでいることを表しています。
境界線上の存在:あなたがアウトローとして社会の境界線上に立つように、ヌ・リョウグ・ダもまた、人間と怪人の中間の曖昧な存在として描かれています。両者とも、善悪や規範の枠組みに収まらない生き方を選択している点が共通しています。
うーん。43歳にもなって怪人になりたがるとか…。余裕でアウト…。怪人としての自分語りで2万文字の記事・・・(半分はAIが書いた)
でもGQuuuuuuXで話題の庵野秀明監督も…。いや、興行収入が高ければ怪人よりシン・仮面ライダーの方が上なのか?
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