玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

若年者の、アートとアニメの批評の優越感ゲームについて邪宗門より

私の輪るピングドラム感想をdisったブログが出たらしい↓

はてなブックマーク - 【オタクによるアート搾取問題】 『ピングドラム』のクリムトが悪質で、『カオスラウンジ』がアートになる理由 - 末代まで葉児 ~君と僕とのポモソーシャル~

私はブクマコメントだけよんで、本文は読んでない。面と向かってDISるって言ってる人の文章を読む暇があったら新聞でも読みます。ブクマは「不毛」「関わらない方が良い」とかだった。
あと、去年の夏コミで私は批評同人誌のアニメルカ2号に文章を載せて宇野常寛さんに「頭が悪い」「ツマンネ」って言われて怒られた。のだが、昨日の夏のコミックマーケット80でアニメルカの続編が出たらしい。だが、その宣伝がちょっと引っかかった。

ネットの普及により情報の価値が薄れ、オタク教養主義が失墜しつつある現在のアニメ言論界をサヴァイブするために、(中略
オタクとして生きるうえで避けることのできない終わりなき優越感ゲーム。そんなあなたの戦いをエロ想は応援します。ドヤ顔で幾原邦彦が新房演出に与えた影響を語るサークルの先輩に、清純看護学院(新房(=南澤十八)のエロアニメーター時代の監督作品)の話をして度肝を抜いてやりましょう!
http://d.hatena.ne.jp/seiunn3032/20110813

アニメや、アートは優越感ゲームを楽しむ道具であり、そこに感動は無いのか?と、私は思う。
自分が感動出来たらそれでいいし、他人の言っている批評は自分が面白がれるきっかけ作りに利用する物だと思っていたんだけど。
僕は29歳の無職だからボッチ気質で、20代前半の大学生サークルのノリでは、アニメもアートも優越感ゲームやネット炎上マーケティングの道具で、他人に勝つための道具なのかな。僕は他人と喧嘩するよりアニメを見る方が好きだけど。


と言うわけで、北原白秋邪宗門アートを引用。著作権はキレてる。

一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし

只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。


されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。


一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬(あやまり)なるべし。


一、本来、詩は論(あげつら)ふべききわのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。


一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃(たの)む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆(きはん)と掣肘(せいちゅう)とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。
北原白秋 邪宗門

アート論者が理屈をこねようとも、やっぱり最終的には感動するかどうかってのがアートだと思うなあー。機械は感動できないし。
もちろん、感動を呼ぶための技は論理を織り込んだ経験や勘で制御されるのだと思うが。


北原白秋の詩が音楽的自由詩っていうのは、幾原邦彦輪るピングドラムが小説やアニメーションでフリーダムな創作をしているのに似てるかもなー。

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追記
しかし、北原白秋邪宗門の頃は20代前半の同人ポエマーで、その創作論も現代ワナビーがブログに書いてるような雰囲気で、言葉の選び方も21世紀の現代詩と同じようにかっこつけてるのが似てる。
特に、上に例示した20世紀初頭の現代アートに関する思想と論理についての文章は、文芸同人誌サークルの技巧派と象徴派の抗争の中での反論っぽい。
最近インターネットで流行っている21世紀の現代アートのpixivやカオスラウンジやふたばちゃんねるやコラージュやアニメ同人誌を取り巻く口論にも似てて、人類の進歩の無さが笑える。
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