玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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メディアの違いを理解せよ?おにいさまへ…28話をヒントに

■メディアの違いを理解せよ

「メディアの違いを理解せよ」とは生徒会の一存1期1話の台詞でよくギャグのように使われるが、

この台詞はそんな軽いだけのものではない。


(中略


それがメディアの違いで「視点」の違いなのだ。

そのモノローグは存在しないわけではない。

ただ言葉に、台詞になっていないだけなのだ。

昼間に星が無いわけではなく見えなくなっているだけなように。
メディアの違いを理解せよ - まっつねのアニメとか作画とか

まっつねさんのこの論文がはてなブックマーク40越えのホットエントリーになって話題であるので、私もメディア論を書こうと思う。
見えない表情、語られない言葉について・・・。


結論から言うと、

メディアの違いを誰も理解できない

ということがおにいさまへ・・・の第28話「クリスマスキャンドル」で描かれている。ということです。
むしろ


誰も気持ちなんかわかってくれない!

っていうことです。


まあ、人と人は理解し合えないけど、それでもアニメを見ることはできるのでアニメを見ましょう。

http://gyao.yahoo.co.jp/p/00923/v00038/

見ましょう。


現在GyaO!で絶賛無料配信中のおにいさまへ・・・です。28〜30話は1月14日まで配信されています。31〜33話は1月21日まで配信中です。(有料ストアには後で追加されるのかなあ・・・。)
昨年はニコニコ動画スペースコブラも無料配信されたので、出崎統、没してもなおインターネットで大人気を博している。
私も感想を書いてます。
おにいさまへ… 感想集 - 玖足手帖-アニメブログ-


宣伝はこれくらいにして。
話を戻す。

  • 「おにいさまへ・・・」28話のあらすじ。

女子高生の主人公・御苑生奈々子の友人の信夫マリ子(しのぶまりこ)嬢の父親であり流行作家の檜川信夫(ペンネーム)の女優との浮気&離婚スキャンダルがお嬢様学校でうわさになった。
そのことでいじめられて、逆上したマリ子は27話でクラスメートをカッターナイフで切りつけた後、学校を飛び出し失踪。
マリ子を心配して、別居していた父親もマリ子の母の家に戻ってくる。マリ子を探していた主人公の奈々子と親友の有倉智子さん(すごくやさしくて元気でかわいい)も信夫宅に集まる。
失踪したマリ子は偶然、マリ子に惚れているイケメン大学院生、一の宮貴(声:堀内賢雄ブラッド・ピット)に出くわし、彼のスポーツカーでデートし、慰められる。



バブル全盛期の劇中最大級の資本力を誇る貴のエスコートで、なんとかマリ子は20時過ぎに自宅に帰ることができた。
出崎統作品で常に名バイプレイヤーを演じる堀内賢雄の声の貴はイケメンなので、マリ子が悩んでいる事を根掘り葉掘り聴いたりせず紳士として親に預けてクールに去るぜ。
(でも、自分のめんどくさい性格の妹たち<宮様とサン・ジュスト様>に対しては、貴は不器用ですけどね)


貴は原作と違ってマリ子に事情を詮索しないけど、原作と違ってご飯は食べさせる。言葉より具体的な食欲を重視するっていうのも、ひとつのメッセージ。
親友の菜々子と智子は女の子同士なので、マリ子を慰めつつ、お泊まり会。
だが、他の女と浮気してる父親と久しぶりに会ったことでマリ子は再度劇情し、自宅に放火する。

マリ子と父親との命をかけた家族会議が始まる・・・。

まあ、これだけだとよくある思春期のお悩みドラマっていうだけのストーリーだけど。
出崎統監督の絵コンテ、広嶋秀樹氏の演出によるアニメーションとしての組み立て方が、メディアとして心情をセリフよりも雄弁に語っている。


  • 物言わぬ顔は台詞より物を言う


マリ子の父親の顔の演出がすごい!
このオヤジの顔が前回までずっと見えなくて、オヤジが女優と密会デートしてるのをマリ子に目撃された時もオヤジの顔は隠れていた。オヤジの顔は隠れていることで、存在感(というか不在感の重要性)を演出していた。

今回も最初はオヤジの顔は隠れている。

演出意図的に隠されていた影が取れて

だんだん見えてきて、


(意外と言うべきか、すけこましならではというべきか、イケメン?)


顔が見えた後も電話越しだったり



(この距離をオズオズと近寄るところがオヤジの娘への距離感だよな)



タバコに逃げていたり、そのライターがうまく点かないから、ということで顔を隠す、顔を小さく描く演出が続く。


マリ子が家に帰って全員集合の場面でマリ子のおやじだけいなかったり、


マリ子が家に帰って3回上パンハーモニーでオヤジの顔を見上げた瞬間に、マリ子の顔がフェードアウト・フェードインでかぶさっていておやじの顔がちゃんと見えなかったり、



画面分割でひどく強引にマリ子と離れていたり


したけれども、マリ子と語り合うラストシーンでは、オヤジの顔が



はっきりと見える!

目を合わせた!


という所に演出的、画像的な感動があるわけです!




親父が画面左側の下から階段を上っていくというところに、絵コンテ理論について出崎統と意見が似ている富野由悠季が記した映像の原則に沿った、意志の力を感じさせる父親である。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)


今までお互いの顔をちゃんと見ていないダメな親子だったけど、マリ子が命をかけて放火未遂などをしてテンションが上がった結果、親父は娘の顔を見ることができた。みたいな。


ただ、これだけだと、単なる「家族の再生を描いた感動的ストーリー」なんだけど。
そうじゃなくて、ここまで感動的に盛り上げておいても、やっぱり家庭は崩壊するっていうところに、この「おにいさまへ・・・第28話」の真髄がある。それはメディアの違いを理解しなければわからないことだ。
なぜ、信夫家は崩壊せざるを得ないのか。



  • 顔を合わせて(画像)、言葉を交わしても(ダイアログ)、触れ合っても(身体性)分かり合えない!


まあ、演出技法的な伏線としてはマリ子の母親が父親のタバコに火を付けられなかったり、

一の宮貴にお辞儀をするところのタイミングが合ってなかったり

することで、この夫婦が全然あってなくてダメだな、ってことは匂わされている。
そういうわけで、この夫婦はダメなんだが、マリ子と父はなぜ分かり合えないのか?っていうのがこの二人のメディアの違いを理解するキー。




というか、この二人の感動的な会話は、演出というメディアでの記号こそ感動的だが、会話(ダイアログ)としては全く論理が噛み合ってないのである。



構わないよマリ子!燃やしたいんなら、燃やしてもいい!
お前がしたいならそうするがいい!
しかし、しかし、これだけはパパの言う事を聞いて欲しい。


何があっても、どんなことがあっても、自分を嫌いになってはいけない。決して自分をボロクズのように扱ってはいけない。

他人に誇る事は無いにせよ、自分の良い所を見つめ、愛し続けなくてはいけない。

父親の長い話をそれなりに聞いて理解した、という演技のメタファーとして、溶けるロウソク、その熱さに気づかないほど父の話を聞くマリ子、その手を包み込む父。

だが、マリ子拒絶!

いや、嫌い!
私は私が嫌い!

我ままで勝手で、他人を平気で傷つけて、

そのうえ私は誰にも愛されてない!



親父ビンタ!
あしたのジョーのように右手を握りしめて腰の入った、左フックの力強いビンタ!


私はね、マリ子。
お前の目から見れば、どうにも許せない人間だ。


私を知っている誰もが、私をくだらないやつだと言うだろう。

生き方だって、ただ流されているだけだ


でもねぇ、マリ子。

そんな私でも、ほんの少しだがいい所があると自分では思っている。

誰にも見えないが、私だけが知っているいい所が少しはあると思っている。

私はそれを大事にしているんだ。ひそやかだが、愛してさえいる。

どうしてかわかるか?


それが無いと生きられないからだよ。

いや、それさえあれば、どんな事があっても生きていけると思えるからだよ。


おやじ泣き出す。クズな自分が何で生きてるのか、実の娘に語る情けなさと、生きたいと願う本能が混じりあった男泣きである。たまらず、マリ子もまた泣く。

自分を愛さなくて、誰が君を愛すことがある。
自分を愛さなくて、君は誰かを愛することができるか?

できるわ・・・。
それでも私、パパを愛しているもの・・・!


マリ子!

泣く母

許してくれ!マリ子!
許してくれ!

感動的に見える!階段を登った上で最高潮に達する父と娘のドラマは感動的に見える!



だが、感動的に見えるだけで、この家族は壊れる。


マリ子と父のやりとりは感動的に見える。おそらく、マリ子と父もお互いに号泣して抱き合うほど、心が盛り上がっているんだろう。
父親が顔を明かして、マリ子と目と目を合わせて涙を流しあって、心が通じ合う、と、そういう流れのセリフと絵の繋ぎである。
この親子の心が通じ合ったように見える、感動させるパターンに沿った演出と台詞回しなのに、家庭は事実上崩壊するという所に、このシーンの凄さはある。



マリ子と父親が心を通わせて泣き崩れて、その場だけで心が盛り上がっても、壊れるものは壊れるんだ!
という、覚めた視点がある。


演出技法のヒントとして言うと、この家族は階段の上から奈々子と智子に見下ろされている。階段を上りきって愛が達するべき高みに達していない。
やっぱりこの家族はダメだな。
と、主人公の奈々子と智子さんのレベルからは見下ろされる。ということが非言語的に描かれている。奈々子と智子さんもそれは自覚していないだろう。セリフにもなってない。でも、映像の原則による演出技法、作画のレイアウトの暗示では信夫家は残念な家族なのだ。

↑この画面中央の階段中央で抱き合ってピンスポットライトを浴びているような父と娘を、後ろ(上手上側)から「なんだこりゃ」という感じで智子さんが見下ろしている。この、1秒にも満たないカットで、隅っこに小さく奈々子と智子さんが描かれているという、小さく描かれているだけの暗示で、この家族はダメだ。という暗示があるし、また、奈々子と智子さんはマリ子の家族の問題の盛り上がりに入り込めない、傍から見ているだけしかできないという疎外感みたいなのも感じさせている。




ということが、メディアの違いを理解している視聴者ならば、すんなりと理解できるのであり、この次のカットでいきなり主人公たちがマリ子たちを放ったらかしにして電車に乗って帰ってしまっても、流れとして理解できるのである。
っていうか、メディアの違いを理解しろ。自分と他人のどうにもならない違いを理解しろ。残酷なカット割りの行間に秘められた語るに語れない辛い感情を察してやれ。


(多分、そういう察しと思いやりが欧米人には伝わらなかったので、80年代後半の出崎統あんなぷるの海外合作は芳しくなかったんだと思う。文化的な意識共有がないと、ちょっと理解できないし、出崎統の心情は日本的な情感に頼ってる面もあると思う。いや、宝島はインターナショナルだったけど。あれは原作からして南国へのエキゾチズムがあったからなあ・・・)


壊れていく信夫家の人たちを置いて、主人公コンビは電車で自分の家に帰る。
ダメ押しに、電車の車内だというのに寒風が吹きすさび、なぜか紙くずが風に吹かれている。
(もちろん演出意図、落ちていく、流れに逆らえない、というメタファー)


(この踏切の流れていく象徴カットとか、素晴らしく「どうしようもなく流れに逆らえない」感)


あー、ダメだったんだー。
ということがメディアの違いを理解して、セリフの音や画像に描かれた表層部分だけでない裏メッセージを読み取っていたら、わかる。

だから、ここは最初っから原作と全然違う展開だろうが
(原作では簡単にマリ子は貴に「パパがママを捨てる」って打ち明ける)、
感動的なドラマチックな親子の号泣からいきなり主人公の電車帰宅にカットが飛ぼうが、関係ないのです!
なぜならば!

ワープです!
出崎統とおにいさまの絆に、もはや段取りなど関係ないのです!
フラグがあるとかないとか関係ないのです!
展開の説得力さえあればと思う者が、本当のトップ演出家になれるはずがありません!
なぜならば! 
自分の演出力を最後まで信じる者にこそ真の力が宿るからです!きっと本物のアニメーション監督は……本物の出崎統は!
心に海を持っているのだから!








海だよ!海!出崎統といえば海なんだよ!!!!
このでっかい海の波!大きさ!そして夕日!
「この前では人間の営みなんかちっぽけに見えるじゃねえか!なあ、ジム!
わかっていてもよ、それでも野郎は美しい。

だから負けねえようにさ、俺の勇気を試してるのさ」
おっと、途中から宝島のジョン・シルバーになってしまったw


まあ、人の心は海のように広く深く、色々な面が有り、その無意識はメディアの違いを超えて様々なイデアのエイドスとして表現されるんだよ。

プラトンは次のように説明する。


我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。
 だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。
 このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。

視聴者としては、小説や漫画とは違った

「モノローグへの変換」をスムーズに出来るようになると、

アニメが見やすくなる。

そういうところを一つ一つ、意識的にそして最終的には無意識に出来るようになれば、

アニメをより気軽により楽しく見れるようになるのではないか、と思うわけです。
メディアの違いを理解せよ - まっつねのアニメとか作画とか

アニメに表現されること、そして表現されていないことによって印象づけられる何か、その「無意識」の変換操作を「無意識」にできるアニメオタクはアニメを気軽に楽しく見れるのです。

ワープです!
オタクとおにいさまの絆に、もはやメディアの違いなど関係ないのです!
無意識があるとかないとか関係ないのです!
理解力さえあればと思う者が、本当のアニメオタクになれるはずがありません!
なぜならば! 自分の意思を最後まで信じる者にこそ真の意思が宿るからです!きっと本物のアニメーションオタクは……本物の、   、は!
心に海を持っているのだから!


(あー、トップをねらえ2!のこのセリフ、スッゲー便利だなー)


  • 裏メッセージ吹き替え版


……無意識がどうとか、深層心理がどうとか、ちょっと意味わからんことを書いてしまった。
ので、少し冷静に戻って、マリ子と父親の会話を演出面を含めて解析してみよう。



とりあえず、顔を見せないって演出が、おにいさまへ・・・っていう作品においてオープニングから重視されてるってことはわかるよな。

また、オープニングで人の顔は隠れているのに人形には顔が影から現れるっていうことに、


「アニメの表現の限界」とか「アニメという虚構性」とか「表現伝達は感情の氷山の一角に過ぎない」ってことを読み取れる。
これを推し進めると押井守イノセンスになっちゃうわけだが。




また、今回の冒頭でマリ子が三咲綾さんの腕にちょっとカッターナイフで傷をつけただけで、女子高の生徒たちが「血が天井まで飛び散っていたんですって!」「教室は血の海だったそうよ」と噂をすることで、「人の話は曖昧であてにならない」ってことが脚本の伏線としてわかりやすく配置されている。
というわけで、この冒頭の噂シーンから、ヒントを読み取って鑑賞者は「このアニメを見るときは、登場人物の言葉を額面通りに真実だと思わず、裏があると思ってみるべきだな」と自分の感性のアンテナをチューニングできる。チューニングしたら簡単だ。曲の流れに乗ればいい。


大事なのは視点のチューニング(調弦)だ。
「メディアの違いは視点の違い」とまっつねさんは述べたのだけど、信夫家の人達はそれぞれ違う視点で自分や相手を見て語っているということに着目したら内面がわかる。
では副音声で語られなかった内面を書いてみよう。


(再掲)

というか、この二人の感動的な会話は、演出というメディアでの記号こそ感動的だが、会話(ダイアログ)としては全く論理が噛み合ってないのである。



構わないよマリ子!燃やしたいんなら、燃やしてもいい!
お前がしたいならそうするがいい!

副:パパもしたいようにするから。

しかし、しかし、これだけはパパの言う事を聞いて欲しい。


何があっても、どんなことがあっても、自分を嫌いになってはいけない。決して自分をボロクズのように扱ってはいけない。

副:私は自分を大事にしているから、お前もそうしろ。

(ちなみにこの真横からのアングルというレイアウトは、正論を語っているオヤジはどうもちょっと嘘くさいぞ?ということも匂わせている。真横は嘘くさいのだ。芝居がかってる)





他人に誇る事は無いにせよ、自分の良い所を見つめ、愛し続けなくてはいけない。

パパを気にしないで、パパに面倒をかけないで、パパに愛情を要求しないで、自信や自己愛は自分で満たしてくれ。


だが、マリ子拒絶!

いや、嫌い!
私は私が嫌い!

パパに愛されない私は、自分で自分を愛せないから、私を愛して!

我ままで勝手で、他人を平気で傷つけて、

両親の都合で、私は傷つけられている


そのうえ私は誰にも愛されてない!

だからパパは私を愛して!家族をちゃんと戻して!



私はね、マリ子。
お前の目から見れば、どうにも許せない人間だ。

ということは分かっているから許してくれ


私を知っている誰もが、私をくだらないやつだと言うだろう。

俺はくだらなくない!下らなくないんだ!

生き方だって、ただ流されているだけだ

それでも生きてきたんだ!


でもねぇ、マリ子。

そんな私でも、ほんの少しだがいい所があると自分では思っている。

誰にも見えないが、私だけが知っているいい所が少しはあると思っている。

私はそれを大事にしているんだ。ひそやかだが、愛してさえいる。

どうしてかわかるか?

ここは本心っぽい。
参照↓
WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第57回 敗者の栄光
この負けて歪みながらも自分の誇りを後生大事に守るってのが、出崎統の作品によく出てくるし、出崎統っぽい。ここは切実っぽい

それが無いと生きられないからだよ。

いや、それさえあれば、どんな事があっても生きていけると思えるからだよ。

だから、お前も家族が壊れても、一人で生きてくれ!

自分を愛さなくて、誰が君を愛すことがある。
自分を愛さなくて、君は誰かを愛することができるか?

私は自分を愛して、自分勝手に生きてるけど、だからこそ女優とかを愛せるんだ。
お前は自分を愛してないから、お前は愛されないんだ!だから自分で何とかしろ!

できるわ・・・。
それでも私、パパを愛しているもの・・・!

自分で何とかできない!パパを愛しているって言うから、私を愛して!


マリ子!

ここで泣いて目を閉じてしまうというのが、拒絶のメタファーでもあるか?父は結局マリ子を見つめるより、自分の内面を見つめて自分の方を大事にする生き方しかできない男なのだ。

泣く母(泣くだけで何もしない母、火を消すけど、決して階段を上ってこない母、目を背ける母)

許してくれ!マリ子!

私はお前を捨てるけど、

許してくれ!

そして許された私はやっぱりこの家族を捨てていきます。これは絶縁状です。



結局、彼ら家族は自分が愛されたい、自分で自分を愛したい、愛という利益を得たい、そういう自己中心的なエゴを振りかざし合っているだけで、最後には目を背けてしまうんだ。結局は自分のことしか大事じゃないし、自分しか愛していないんだ。
そういうエゴイスティックな視点が彼らの心の中にあると思って、心の声を書いてみると、信夫家がバラバラだということがわかるだろう。
でも、そんな内面をモノローグで言わせたり、ましてやつまらない連続テレビ小説純と愛のような読心術で明文化すると、本当に身も蓋もない。どうしようもなく、見るに耐えない、不愉快な劇になるだけだ。だから、美意識のある出崎統はそんなことはしない。だが、セリフや芝居の流れでは感動的で美しいように描きながらも、その裏に汚いものがあるかもしれない
言葉の裏には、セリフとは裏表の、言葉に出すことで自己正当化して誤魔化している感情が隠されている。
こういう風に、セリフとは違う本心を匂わせる、ということをガンダム富野由悠季はよくやるんだけど、出崎統もやってる。また、演出の雰囲気とは違う本心という技法でもある。


というように、登場人物の気持ちをわかった風に偉そうに書いている僕であるが、これも僕の視点から感じ取られた僕のモノローグに過ぎない。
というか、僕自身がマリ子の父親のようなダメ人間だから、わかったような気がして、マリ子の父に自己投影してるだけだ。僕も自分の一流とは言えないweb小説やアニメ感想ブログを大事にして、愛してさえいて、家庭を顧みないで、先日母親を自殺させました。
そして、僕が母親が死んで泣いていたら父親に「自分を責めるな!」「もうお父さんを責めないでくれ」って言われた。
僕もマリ子の父が言ったみたいなことを言われたんです。葬式でもいろんな人に「強くなれ」って言われました。
「自分でしっかりしろ」っていう人は「私はには何も出来ません」って人です。言葉と行動の裏表って、そういうもんです。
寒い世の中です。
というか、そういうふうに自己中心的にしか物事を見られない僕も、自分しか愛していないダメな奴だし、そのせいで母親をリアルに死なせた。マリ子みたいに心をこじらせていた母親の支えになってやらなかった。アニメの母親は影が薄く、泣き崩れるだけだが、現実の母親は発狂して死ぬ。しかも現実には私の家庭は、アニメの家庭のように離婚しても大丈夫なお金持ちではなく、むしろお金がなくて母親が死んだわけで。つらい。
アニメのマリ子さんは、奈々子や智子さんや堀内賢雄がいて良いなあ・・・。現実の母親には誰もいなかったんだなあ・・・。そして、僕は誰かを支えたりしてないんで、誰かに支えられる資格もなく、この世の闇の中を漂っていくんだろうなあ。さびしいなあ。
でも、僕はマリ子のオヤジと同じくらいダメな奴なので、母親を自殺させたのに女優と浮気するような感じで女性と会ったりトラックバックしたりしています。困ったものです。



愚痴はさて置き。
おにいさまへ・・・を通じたメディアのモノローグ論に戻ろう。


  • ダイアログを超越するモノローグ


信夫家から帰宅する電車に乗りながら、奈々子は考える。彼女のモノローグは奈々子の文通相手のおにいさまへ向けたメッセージだ。

おにいさま・・・。
あんなに素敵なお父様。あんなに優しいお母様。
そして誰よりも素直なマリ子さん。
傍目には羨ましい程の一人、一人。それなのに崩れていこうとしていく家族。
なぜですか?
おにいさま?
どうしてですか?
奈々子にはわかりません。あまりにも、悲しすぎて。わかりません。

うわっ!主人公が強引にまとめた!
これは、信夫家の父娘の怒涛のダイアログ(会話)を総括するモノローグだ。
そこで、「わからないことがわかった」っていう、無知の知に至った!
しかもこのモノローグのすごいところは「奈々子は本心から、信夫家の人たちの心の中の汚らしい所や自己愛がわからないので、それゆえに奈々子は心に汚いものを持っていない純真無垢な主人公なのだ」というふうに主人公を浄化している機能すら持っているところだ!
まあ、「大人の愛憎がわからない子供」っていうことでもあるし、「傍目から見てるだけだった」ということでもある。
ノローグで主人公が語ってるんだけど、「このモノローグすら真実を見えていない」と語っている、ということが本当に彼らの心の中のわけのわからなさ、深淵を描いている。描けないということで、深みを表現している。
あまりにも、悲しい。


ノローグは単なる事実の説明ではなく、芸術表現です。


そして、物語は次の日に飛び、怒涛の展開に!
そして、奈々子も自分でもよくわかない理由で(原作通りに)ソロリティのリーダーの一の宮蕗子に反旗を翻した。
そして奈々子の心に呼応するかのように学園の空を舞う鳩は荒ぶり、ステンドグラスに衝突して割る。

鳩がガラスにぶつかって粉々に砕くなんて、そんなことは起こるわけがない。そのうえ、ステンドグラスが吹っ飛んだのに、室内にいる数十人の誰もそれを気にしない。わけがわからないよ!
でも、それくらいわけがわからない勢いで、奈々子は学園内の上流階級クラブのソロリティを辞める。それくらい、心のエネルギーが燃えているんだ!それが、魂の昂ぶりが大事なのです!それが心の中の海!
わけがわからないんだけど、主人公自身がモノローグで

おにいさま・・・
自分でも予期していませんでした。
何かにはじかれたように咄嗟に、私は立ち上がり、叫んでいたのです。

と、言っている。
主人公自身がモノローグで「わからん」と言ってるけどやった、「二度と覆らない行動をやった」「理由の如何は問いません」「これは私の決定です!」ってことが「重み」なのだ。
この「重み」が「おにいさまへ・・・」の重みであり、ソロリティの重みであり、奈々子の重みなのだ。


原作通りなのに、原作以上の説得力、それ以上に無意識的なわけのわからない衝動の力強さを感じさせる素晴らしい演出だ!


奈々子は傍目から、信夫家を見て、「わからない!」と思って、そして、奈々子自身もわけがわからないまま衝動的な行動を起こしてしまった!
このわけわからなさが感覚としてわかると、出崎統アニメはすごく面白い。


奈々子が目撃した、信夫家の家族に起きた事件は「ダイアログの裏にある言葉にならなかったモノローグ」のぶつけ合いであった。そして、他人である菜々子はその内面がわからず、ダイアログとしての表面、起こってしまった事実だけを受け入れるしかなかった。
だから、マリ子の家族の語らいがアニメの表現として、表面的には非常に感動的な構図の流れ、言葉の運び、芝居の熱の高まりであっても、どんなにマリ子や檜川のモノローグを想像させるダイアログ(会話)であっても、
「ダメなものはダメ」というストーリーは変えられないし、
「傍目には素敵なのに」「わからんことはわからん」というモノローグでまとめられてしまった。


この、演出を否定する言葉、言葉を否定する芝居、そしてそれを否定するストーリーとモノローグ。これらがない交ぜになって互いにぶつかり合いながらも高まっていく感覚。
「よくわからないけど、おもしろいです」


(もしかしたら、このように脚本と演出の葛藤を感じさせる部分は出崎統が作家ではなく演出家だから、という部分かもしれない。
「俺はこうしたいって思ってるけど、原作の事実はこうなんだ」「でも、俺はこうしたいんだよ!」っていうせめぎ合い。
劇場版AIR国崎往人神尾観鈴がどんなに本気を出しても、原作通りにゴールしちゃうあたり、すごく葛藤を感じた。
明らかに観鈴のゴールシーンだけは出崎統が納得せずに演出してる感じがあったからな。
でも、その納得がいかない感じも含めて「国崎の回想」という風に演出することで「死の納得いかない絶対性、触れられなさ」を演出したという風にも見えるんで、その手腕はすごいと思う。
絶対的に存在する原作と、その中で出崎統の美意識やイデア的ななにかの絶対性を描こうとした所に惹かれる)


  • 絶対モノローグ黙示録


おにいさまへ・・・は、そのタイトルが示すように、奈々子がお兄様、辺見武彦氏へ宛てた手紙を萬画やアニメにしたものである、ということだ。
だが、奈々子のモノローグは明らかにこのタイミングでこの内容は手紙に書いていないだろう、という部分にも及んでいる。だが、どこからが手紙の文字に書かれたのか、どこからが心で思っただけなのか、その線引きは曖昧。曖昧故に、絶対。


おにいさまへ・・・はどこまでいっても「御苑生奈々子の主観」であり、それを支配するのが「おにいさまへの手紙」=「奈々子のモノローグ」であり、そのモノローグの中で「よくわからないけど起きてしまった事実」と言われれば、もうそれは奈々子の真実であり、絶対なのです!絶対運命黙示録
それゆえにソロリティの掟よりも、奈々子のモノローグ主観の方が絶対であり、宮様を打倒してしまうほどのパワーを持っているのだ。それが「モノローグナレーション」を許された主人公の特権であり、作中のすべての価値観を規定する絶対のルールだ!
これが、これが物語だ!
日本よ、これがアニメだ!

((そういえば、時間を支配する語り手といえば、まどかマギカのほむらの「僕の名前はエンポリオです」エンドとかありましたよねー。出崎統以外のアニメ作品でもやるところではあったりする))


  • 時間への挑戦。

「長いモノローグがない分を1つ台詞でカバーする必要がある」のであり、

アニメーターは

「長いモノローグがない分を芝居でカバーする必要がある」のだ。

つまり、小説・漫画とは論理が逆になり、

芝居や音などの言葉以外の部分がモノローグを連想させる

のである。
メディアの違いを理解せよ - まっつねのアニメとか作画とか

という、出崎統ファンとしては私よりも数倍熱狂的な、まっつねさんのアニメーション論は確かにそうなのだが、おにいさまへ・・・はそれをもう一段踏み越えて、やたらと長く、たくさんのモノローグを散りばめている。

顕著に現れる部分、

それは「モノローグ」だ。

小説や漫画とアニメではこのモノローグの意味合いがまったく違う。

小説や漫画というのは時間を支配していない。

1行、1ページあるいは1コマが具体的に何秒なのかは

指定されていないし、その時間をある程度自由に定義することが出来る。


だから、仮にモノローグが1000文字くらいあろうが、

それを「一瞬」だと表現することが出来る。

青い花」と良く比較される「ささめきこと」のシリーズ構成倉田英之さんも

オーディオコメンタリーにおいて

倉田「原作はモノローグが、村雨さんのモノローグが多いんですけど、原作は。」

高垣「カットされてますよね!」

倉田「結構取りました。あのー、アニメーションでモノローグにするとですね、

   凄くキャラクターが考えている間というのもやっぱり作んなくちゃいけなくて、

   その間、他の人たちは何をしてるんだろう、みたいな」

高垣「ああ」

倉田「その人が考え終わるのを待っているという不思議な間が出来たりするんで。

   あとは、キャラクターの頭身が高くて表情がしっかりあるんで、

   芝居できるかな、ということは。演出方向もそっちで行こうと最初に監督と話したんで、

   なるたけ仕草とかで魅せられる方向にやってみました」

とほぼ同じ話をしている。

と、言うことをまっつねさんが述べているし、「青い花」「ささめきこと」の演出家、脚本家が語っていることもおそらく正しいと思う(だって、それでアニメ作品が僕がなんと言おうが事実上完成してるので、それは彼らの主観として「絶対」「事実」だと思う)。


だが、「おにいさまへ・・・」のモノローグは「思考」と「文字(手紙)」の境界線を敢えて曖昧にぼかしている。池田理代子の原作のモノローグはもっと少なかったし、モノローグ自体も「辺見武彦への手紙を書いている」という絵に沿って「手紙に書いたことです」と明示されていた。
だが、アニメの「おにいさまへ・・・」のモノローグはそこを逆手にとって曖昧にしている。強引とも反則とも言える手法で行間を作り出している。


アニメは時間芸術である。時間の流れに沿っているし、動画をタイムシート(あるいは脳内)で計算して動かさないと作画はできない。時間に縛られているし、載せられる情報量も限られている。
だが、「おにいさまへ・・・」を見てみると、その「時間」というある種我々にとって絶対的なものに対しても、出崎統は挑戦をしていたのではないか?と。思える。
きっちり詰まった時間の計画やアニメーションのタイムシートに納まらない「行間」。その存在するかしないかも曖昧な空白地帯をつくる事で、時間に支配された世界へ戦いを挑んでいたのではないか?
夕日に向かって自分の勇気を試していたジョン・シルバーのようにだ。また、いくつもの「死」に向かっていった彼らのようにだ。
あしたはどっちだ!

 しかし出崎統監督は、技術者的な発明や開発をしたかったのではないのです。あくまでもその胸の内にたぎる情熱が「観たいのはこれだ!」という映像を求めた。
第27回 『あしたのジョー』 テレビアニメを変えた出崎統監督のマイルストーン: バンダイチャンネルからのお知らせ

  • 自分との戦いだ。


時間芸術であるアニメというメディアの文法だけでなく、一枚絵のひとコマ一コマも映像の原則や演出技法がある程度、決まっている。(受け手が人間というある種の共通を持つ生物だから)
テクニカルな表現のパターンで「笑えるシーン」「シリアスなシーン」という「受け手の受け取り方のパターン」ってのもある程度コントロールされてる。そういうことを出崎統はわかってやってる。ギャグ作品も多く手がけてたし。
だが、上記に記した「おにいさまへ・・・28話」には、信夫家のダイアログの裏に示されたモノローグを感じ取らせるような高度な演出と、その演出自体を否定するような奈々子のモノローグがある。
自己挑戦的なのだ。
出崎統は、テクニックの人だ。繰り返しカット、ハーモニー止め絵、入射光、ピント、波ガラス、合成、撮影処理など、アニメーションの表現技法をいろいろと編み出した人だ。
と、同時に、自分が作り出した演出それ自体にも挑戦していく意気込みがあるように感じられる。
出崎統はテレビアニメ黎明期から様々な実験と試行錯誤を繰り返し、テレビアニメの文法を作った人でもある。同時に、だからこそ、技術の限界、技法の技法として評価する冷静さも持っていただろう。その冷静さを持ちながら、情熱を表現しようとした。それは大いなる矛盾であり挑戦だ。
主人公のモノローグは作品の価値観を決める絶対的なものだ。
だが、演出家はそれすらも操作できる、操作しなくてはならない存在だ。だから、常に自分と戦い続けなければいけないのだ。自分の演出は正しかったのか?言葉選びはこれでよかったのか?繰り返される自問自答と自己反省。それでも作品を完成させるには「こうなったんです」という何かを突破しなくてはならん。
その突破力を、おにいさまへ…の第28話から感じられる。


  • 手紙としてのモノローグ

そういえば、宝島も原作から一人称小説だったけど、アニメではジム・ホーキンズが故郷の母や女の子に宛てた手紙として描かれてたなあ。あしたのジョーでは寡黙なジョーよりも「あしたのために」の手紙を書いた丹下段平の手紙がモノローグだったかもしれん(予告もしたし)。
それはブラック・ジャックのカルテであったり、源氏物語千年紀 Genjiの紫の上のモノローグであったりする。

このアニメでもっとも出番が多いのは、間違いなく紫の上です。

毎回物凄い量の台詞がありますね。

GENJI一話の感想にも描きましたが、

「この話のナレーションは中立ではありません」

どの時点の紫の上かはわかりませんが、

この物語自体が、未来からの紫の上の「回想」である事を間違いないでしょう

劇場版クラナドでも取られた出崎お得意の手法です。
2009-03-14
2009-01-15

そして、その「手紙」や「回想」は過去に書かれたものでありながら、アニメ作品のドラマの現在に描かれた時点よりは未来に認められたであろうものである。
つまり、時を越えているのだ。
そして、出崎統は手紙や回想と同時に「夢」というモチーフも多用したことも、賢明な読者諸氏は既に連想しているかと思う。夢は非現実でありながらも、記憶と深い関わりがあるんで、記録である手紙や回想と近しいんだよね。
そう、夢も時を越える。


それだと松本零士先生になってしまうのだろうか。また訴えられてしまうのだろうか(笑)
でも、今回は行動とダイアログとモノローグと、その裏の演出意図というメディアの違いについての軽い考察だけでもこんなに長くなってしまったので、「夢」なんていう数秒で数時間分の体感をする現象についてまで語りだすと終わらなくなるので、ここで筆を置きます。


俺のブロガー精神論 - シロクマの屑籠
そして、このブログも、まっつねさんに宛てた手紙なんだよね。
まっつねさんへ・・・。


そして死んでしまった出崎統たちへ・・・。



しかし、アニメキャプチャブログを書くと、本当に10時間くらい、平日の余暇が吹き飛びますね。他のアニメブロガーさんは本当によくやるなあ。暇な大学生なんだろうけど。



とりあえず、明日は劇場版AIRを見て、連休にはAIRの聖地である和歌山県美浜町の太平洋に沈む夕日を眺めてこようと思います。