玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ベルサイユのばら第24話「アデュウ私の青春」死と退廃へ

出崎統編のベルサイユのばらには、アウトロー風味が強い。それは今回も引き継がれているが、ジャンヌ・首飾り事件編の最終回の今回はより一層、死と退廃と疲労が色濃いムード。不条理と嘘。やはり前回の感想と同じく、因果関係の破綻が見える。因果関係が破綻している人々の行動なのだが、支離滅裂な感じではなく、そういう噛み合わない人々の姿が物語を織り成すことで、逆に作品としてはまとまっていると見える。
そして、今回は嘘と退廃と疲労と死と不条理。

  • 嘘と退廃

脱獄したジャンヌが書いた自叙伝はマリー・アントワネットのスキャンダルを面白おかしく書いた嘘。
それは民衆に売れる。嘘を受け入れて娯楽として消費する民衆は真実などどうでもいいのだ。ただ、苦しい生活の不満をなんとなく晴らせればいいのだ。王妃がどうなろうがジャンヌがどうなろうが国家がどうなろうが、どうでもいいのだ。どうせ生活は苦しく、人生は辛いのだ。だから世の中が狂って王妃や国家が嘘で苦しめば面白いのだ。嘘と退廃が蔓延するフランス。


ポリニャック伯夫人がロザリーを引き取ろうとする。ポリニャック伯夫人はロザリーが自分を母と呼ばないとオスカルがジャンヌの一味であるという嘘を治安判事に進言すると言ってロザリーを脅迫した。しかし、おそらくそれも嘘であろう。娘に向かって嘘泣きをする母親。


退廃した大衆はなぜウソを楽しむのか、それは彼らが生活に疲れているからで、疲れているからいろんなことが深く考えられないし、どうでもよくなっている。
ジャンヌもアルコール依存症になってどうでも良くなっている。聖母マリア像の前で酒浸りになり「私はとってもいい気持ち!」と言った。それは嘘だ。そしてそれは死を目前に予感したジャンヌの言葉だ。救世主を生んだ聖母の前で自殺者が笑う。死と退廃の匂い。
自叙伝が大ヒットをしても原作とは違いアニメのジャンヌには何の達成感も喜びもない。なんだか疲れて飽きた。
嘘の自叙伝を書けと命令されて書くのは非常に骨が折れたことだろうが、その書いている途中の熱心な仕事ぶりは描写されず、書き上げた後のジャンヌの虚脱感だけ、虚しさが描写される。
長浜忠夫監督の後釜で監督を引き受けた出崎統にもこのような虚しさがあったのだろうか?事実、視聴率は振るわず、24話で打ち切られた地域もある。(カウボーイビバップの「よせあつめブルース」のような《幻の最終回》作品『燃えつきたバラの肖像』がある)
創作家の虚しさは、ある。自分が創ったものが価値があると思って書いても、人に褒められても、結局はそれが嘘っぱちだということは作者自身が一番痛感させられることなのだ。だから、虚しい。退廃的になる。


ジャンヌを逮捕する命令を受けたオスカルも、連日の遠征で疲れる。
疲れたオスカルはベッドでぐっすり寝ればいいのに、精神的にも疲れているようで、彼女もまたジャンヌと同じようにアルコール依存になり酒を飲みながら暖炉の炎を見ながらウトウトと眠る。この酒のムードも出崎統がよく使う演技だし、披露と退廃を感じさせるモチーフ。


行軍に疲れ、うなだれた馬など。
アンドレも退廃的だ。疲れたオスカル、苦しんでいるオスカル、ジャンヌの本で名誉を汚されたたオスカルの隣で、アンドレは曖昧な表情で存在している。出崎統編のアンドレは愛するオスカルの苦しみをどこか楽しんでいるふうにも見える。
オスカルの隣でオスカルのスキャンダル本を読むアンドレ。原作のようにそれに怒ることもせず佇むオスカル。この二人の言葉にならない静かな雰囲気は退廃的でもある。オスカルは民衆が王室を憎むことを心配するが……どこかそれを当然のように受け入れているようでもある。革命の息吹を感じているが、それは新世界への希望でもなく、民衆の自暴自棄、死の予感に向かっているような雰囲気で、事実死にゆくオスカルとアンドレ、後半ではますます退廃的なムードを醸し出す。
それはジャンヌが死を覚悟しながら何もせず、疲れて燃え尽きて酒浸りになっていく退廃的なムードにも重なる。
あしたのジョー2のラストシーンにもつながる死の美学がある。

  • 死と不条理

親は子の幸せを願うものが条理かもしれない。だが、ポリニャック伯夫人は娘のシャルロットを自殺させたのに、ロザリーを脅迫する。娘を苦しめる。不条理だ。


・死を目前にしたジャンヌ
最期のジャンヌは非常に不条理だ。何に対してかというと、生きていこうとする生物の本能に対して逆らっている。
自爆のための大量の火薬を事前に用意していた。これは何のためにあった火薬なのだろうか。原作では証拠隠滅と兵士への脅迫のために使われていたが。
アニメでは純粋に自爆。
アニメのジャンヌはいくら回想録が売れても全く喜ばず、死に向かってアルコール中毒に。
原作でもオルレアン公がジャンヌの脱獄を助けたことは匂わされている。アニメではオルレアン公が回想録を書かせ、王室の評判を落とそうと画策したこと、用が済んだらジャンヌを抹殺しようとしていたことが強調されている。
オルレアン公は「まさかジャンヌは我々に売られたとは思ってもいまい」と言っているが、ジャンヌはそれを予期していて自分が殺されることを予期していた様子で。
そのオルレアン公とジャンヌの認識のズレも不条理だ。それを承知した上で回想録全五巻を書いたジャンヌの熱意も不条理だ。
ジャンヌの居場所を知らせる手紙と情報の何度かの交錯も不条理に不条理、嘘に嘘を連続させたものだ。
ジャンヌはロザリーに自分の居場所を知らせる。それはジャンヌが自暴自棄になりロザリーに自分を殺させたかったからか。ロザリーの愛情を?憎しみを?ジャンヌは試した。あるいは自分がロザリーにとって価値があるか、自分に価値があるか、試した。その試しはどうなろうがジャンヌを不幸にするギャンブルであり、不条理。
また、ジャンヌはロザリーに手紙で「自分は十分幸せだから母の指輪は返す」と書いたことは嘘だし不条理。同時に「自分は幸せです」と言ったロザリーに対する姉の矜持でもある。それが嘘だとロザリーは見抜いていたし、そもそも子供の頃からジャンヌは一度もロザリーに楽しそうな顔を見せなかった。原作では子供時代は貧乏でも楽しかったと言われていたのに、また出崎統は逆にしている。幾重にも重なった逆転と不条理。倒錯。
そのジャンヌの試しを受けて、ロザリーは何回か悩むが最後にはオスカルにジャンヌの居場所を教えて、去る。
しかし、オスカルは原作とは全く違って、(本当に出崎統は原作の逆張りを何度も何度もしている)その情報を握りつぶす。それも不条理。
だが、ジャンヌのスポンサーだったがジャンヌを用済みとしたオルレアン公が、裏から治安大臣にジャンヌの情報を流し、オスカルは公式の命令を受けてジャンヌを捕らえに行く。
オスカルが情報を握りつぶそうという意図があっても、公の権力の意志、大きな力の流れの前では主人公の思いなどは無意味。これも不条理。


と、いうか、「池田理代子が考えたような、少女向けの、ロザリーの親や姉への悩みや、女子供の正義感や、そういう少女漫画的なドラマを楽しむ女子供レベルの感性などは、世の中の大きな力、国家や歴史の流れに対してはなんの意味もないんだ!」と出崎統が突きつけるような手ひどい原作改変である。
男の世界の力の残酷さを示し、それを以て世界の弱肉強食の真実を見せようとしている。だが、マッチョイズムだけではない。そういう世界では男も女もみんなよくわからない世界の力に流されて、結局はみんな無力だ、という無常観。
それでいて、そういう儚さも美しさを持っている、というふうに感じさせる芸術性。
いろいろと矛盾した要素が絡み合う。部分的には不条理の連続でありながら、全体的には、その不条理さを内包したことも含めての人間讃歌としての物語になっている。


そういうふうに現実は不条理な世界だということを見せることで、「アデュウ、私の青春」と言えるのではないだろうか。子供時代の秩序から大人の世界の混沌に投げ込まれることで大人になったと言う。
これも、デミアン的で、少女革命ウテナにも通じるよなあ。

デミアン (新潮文庫)

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オスカルがジャンヌの隠れ家に踏み込むと、ジャンヌはオスカルに甘んじて捕まる姿勢を見せるが、一言「この場所を教えたのはロザリーかい?」
オスカルは「ロザリーではない。断じて」と、嘘をつく。嘘なのだが、ロザリーが教えなくてもオルレアン公が情報提供したのだから嘘でもどうでもいい。不条理。
それを聞いて、ジャンヌは「こんな私にも、信じられる、私のことを大切に思ってくれる人がいるんだね」と言う。だが、それすらも嘘のようにも見える。死を目前にした者の嘘。オルレアン公かロザリーか、どちらにせよ誰かに裏切られたことはジャンヌが気づいていたのは確かなのだし。そして実際はどちらにも密告されている。
その上で、オスカルはジャンヌを気遣い、「ロザリーではない」と言う。
もしかすると、ジャンヌはロザリーではなく、オスカルがそういうふうに自分を気遣ってくれたことに対して「味方になってくれる人がひとりいたんだね」と言ったのかもしれない。だが、それはわからないのだ。
そして、ジャンヌはオスカルの気遣いの嘘だけで満足しちゃったのかもしれない。だから夫のニコラスがオスカルを人質にして逃げようとしても「なんか飽きちまった」と、言って逃げようとしなかった。
ニコラスがオスカルを殺してひとりで逃げようとしたら、逆にジャンヌはニコラスを殺し、道連れに死ぬ。
最後の数分でジャンヌはオスカルを愛し、オスカルを助けて死んだというふうにも見える。
だが、それもたくさんの嘘の上にあったものだし、死を目前にした不安定な女の心からの行動で、何がなんだかわからない。
そして「ごめんよ、一人で死ぬのは寂しくて」と言うジャンヌ。自分の胸を刺して殺したジャンヌに「お前は最高の女だったぜ」と言って事切れるニコラス。一人で逃げようとした男なのに、自分を刺殺した妻を褒める夫は不条理だ。ジャンヌも死ぬ前の数分間で何度も行動を変えていて不条理だ。(全体的に死に向かっている退廃はあるが)
この夫婦、どちらも最期に嘘を言っているかもしれない。いや、死を目前にした彼ら自身も自分の本当の心がわからず、嘘か本心かわからないところまで追い詰められてわけがわからなくなったのかもしれない。(私の母親も先日自殺したが、混乱していた様子だった。そして、私自身も重度のうつ病である)
嘘だろうと本当だろうと、どうでもいいのかもしれない。
いや、むしろ人間という不完全な生き物にはもともと真実に到達することなんかできないのだ!と、そういうひどいアニメなのかもしれない。


この世界には真実などは無いのだ。
そういう冷酷さがある。
だが、露悪的ではない。真実ではないことをあえてする、そういう人の嘘にも美しさがあるんじゃないか、と。創作家の美学がある。
それは、ジャンヌの最後の気持ちを思いやったオスカルの嘘の美点にも見出されるし、オスカルの危機を察知したアンドレの純情にも見出される希望だ。

  • 不条理の世界に残された希望

アンドレはオスカルがか細くアンドレを呼んだ声を聞いて駆けつけた。
原作ではもうちょっと大きな声で呼んだ。近衛兵の隊員には聞こえずアンドレだけに聞こえたというのは原作通りではある。
だが、アニメのオスカルの呼び声はほとんど声になってない声だ。
だから、アニメのアンドレは聞こえたから行ったというより、「オスカルがこれだけの時間、自分から離れているのは何かあったに違いない」という時間感覚や、二人の呼吸の合った感覚なんじゃないのか。だからアンドレはオスカルの声を聞いたんじゃなくて、彼自身の中にあるのオスカルを見てそれに従っていったのだ。
だから、アンドレはオスカルと呼吸が合っているのだが、それはテレパシーとかニュータイプのように情報が繋がってコミュニケーションできているということではない。
逆に、むしろアンドレはアンドレの中のオスカルを見ていたのだから、通じ合うことはできていなくて彼自身の中しか見ていないとも言える。
だが、人間は自分自身を見ることだけが精一杯で、自分自身の中に彼女自身を作り上げることができているのなら、通じ合えている、ということかもしれない。
これは物理的には矛盾していることだし、脳の中の幻影に過ぎないかもしれない。だが、そうやって自分の中のおスカルを守るために行動したアンドレは、結果として実際のオスカルも救う。
それは不条理な脳内の感覚に従ったものであるが、それゆえに不条理な世界に対する人間の希望かもしれないのだ。
そういう出崎統ニヒリズムと紙一重のギリギリのところで見せる人間の熱への讃歌はいいよね。
池田理代子出崎統貸本萬画家出身だが、池田氏は歴史作家、ミステリ作家としての叙事的な作風だが、出崎統はテクニカルな技法を駆使しながらも、やはり人間を描き続けた叙情的な作家だと言えて、対照的。
というか、出崎統は本当に出崎統としか言い様がないので、池田理代子であっても富野由悠季であっても手塚治虫であっても出崎統と隣合うと、誰でも対照的に見えてしまうんだよなあ。
ていうか実際に原作変えるし。