玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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#かぐや姫の物語 感想その一 (作画印象の面で)美術展

高畑勲監督の14年ぶりの最新作、かぐや姫の物語を見てきました。
公式ホームページの解説や原作にいない新キャラクターの紹介、試写会のネタバレ感想スレを全部読んで原作古典も読んだ上で、展開はだいたい分かっていたのに、137分の上映時間、退屈しなかったのがすごかった。
とりあえず、ネタバレの無い作画の見た目の印象を帰り道にウォーキングしながらメールで書く。パンフレットはまだ読んでない。アニメ雑誌は集めだしたら切りがないから読んでない。
話は知ってるし、すごくあっさりとスルリと見ることが出来た。劇場版アニメーションと言えばスペクタクルやアクションや気負いが作り手にもアニメファンにも出やすいものだが、今作は手間隙がかかっているのにそれを感じず、あっさり見れた。これが名作劇場を作ってきた高畑勲監督の醸し出すメジャー感、大衆らしさか、と拙者、老師の技に感服いたした。
ストーリーは若干のオリジナル要素はあるが、それも原作を具体化する際に演繹して必然的な要素を当て嵌め細部を作る高畑らしさの範疇で原作から大きく外れた構成にはならなかった。(後述)

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退屈せず、二時間、美術展を眺めるような清々しい気持ちで鑑賞できた。
やはり水彩画の日本画風のアニメーションが人物背景共に美しくかつ変化に富み面白かったからであろう。
そこですごいな、と思ったのは、いかにもCGで日本画を動かす技術力がすごく見えず、さりげなく、むしろアニメーションとしてはたいしたことないように見えたのが逆にすごい。
CGで着物の柄や背景の植物や気象を動かしているのは色々な工夫があるのだろうが、その工夫が鼻に点かず、見ていて引っ掛かりを感じないのがすごかった。「動かしたぞ!すごいだろう!」という自慢げな所がなく、また、それを見せ場にしようというサービス精神も意識できず、あくまで淡々としている印象を受けるのだが、細かい所で技術的にすごいことをずっとやってる。
たとえば淡い水彩画の背景の板張りの床に鉛筆描きのキャラクターの影が作画ともCGとも初見では判別しにくいような自然さで映り込んでいたり。漫画的なキャラクターなのに実写の陰影のように無作為な自然のように見えた。しかし、それは人の意図とコンピューターや器材の技術力で作られたアニメーションである、という所にうならされた。この本物よりも美しく自然志向に見えるというのは本作のテーマにも関係していて、細部から全体に通じるようなワビサビ素晴らしさを感じるのだが、それも全く物々しさがない。多少台詞の説明臭さはあった。(後述)
ホーホケキョとなりの山田くん(あとギブリーズ)の頃は実験アニメーションの「実験」が目立ったのだが、近年の技術革新は技術力を使っているのにそう感じさせないというレベルに達したようである。これは富野由悠季監督が二、三年前くらいに「やっとCGが技術者の物からアーティストの道具になったように思える」と言ったことに合致する。

かぐや姫の物語は、最新のCGを使っているにも関わらず、アナログの画用紙アニメのような質感で、新しさより、まんが日本昔ばなし東映動画の古典まんが映画作品のような暖かみがありユーモラスさがあった。今年は大友克洋監督のSHORT PEACEもデジタルCG技術を使った日本っぽさを目指していたのが似ている。しかし、高畑勲監督は大友克洋監督よりさらに技術を使っているそぶりが見えず、超大ベテランの風格を感じた。
むしろスタジオジブリっぽいというよりもっと以前のような臭いを感じた。最新のデジタル技術でアニメーション黎明期の雰囲気を再現したとも言える。
だがしかし、むしろこれこそがアニメーションのなのではないかと。
アニメーション、というか映画というもの自体が多かれ少なかれ特殊撮影で、いつも最新技術を使っているものなのだ。
そしてまた、動かない絵が動いて見える錯覚、または実物でない絵画が対象物に誤認されるという騙しのテクニックがアニメーションで、しかもその騙しや手品をそれとは判らぬように観客に意識させないようにして物語を見せるというのがストーリーアニメーションの本質の一つだ。
(手品自体の面白さを見世物とするアニメーション技術もある)
:ネタバレに近い追記 「姫の疾走や飛翔、という場面ではアニメーションの技巧を前面に打ち出す、コンテ撮りに近いアクションだったり、CGらしさを強調した飛行だったりもしてる。それはそれで、作品のストーリーの中でも”特殊な状況の場面だから特殊に見える”というシーンだったので、全体としてはしっくりきている。メリハリの効果を生んでいる」


そういう意味で、かぐや姫の物語は非常に技巧派なのだが作為を感じさせない作品で、だからこそ東映動画世界名作劇場やらで日本アニメーションの大きな潮流の一つを担ってきた高畑勲監督のまさに高畑勲らしい作品であり日本アニメーションらしい作品だ。


また、音響面でも凄まじい。亡くなった地井武男さんが竹取の翁サヌキノミヤツコを全編に渡って熱演していて、これが遺作である。亡くなる前に声を吹き込んでプレスコで絵を合わせて制作したとのこと。
具体的な構築の順番などは混然としてるだろうからわからないが、プレスコで声を先に入れて、しかも地井武男さんが亡くなっているのに、役者の声の息遣いとキャラクターの絵の動きと足音や効果音やBGMがテンポよくはまって、というかこちらも全く作為や引っ掛かりを感じさせず自然に聞こえて実体感があった。紙の漫画絵で声優が死んでいるにも関わらず!
スタジオジブリは話題作りのために有名俳優を声優に起用し、フィルムと声が乖離しているっていう批判も多いわけだが、今作は日本昔ばなしの市原悦子くらいの自然さに聞こえた。
まあ、橋爪功伊集院光が演じるキャラクターが似顔絵になってるのはジブリらしいご愛嬌である。
主演のかぐや姫も若い女優の朝倉あきさんだが、高畑勲監督の「無邪気にせよ」との演技指導と古典のかぐや姫の「理想の姫」というキャラクターイメージの間にかなり苦労した様子。
で、結果はよくわからない女になってるんだが、かぐや姫自体がよくわからない異星人だし高畑勲作品の主人公はアン・シャーリーとか清太さんとか、フィオリーナとか基本的に何を考えてるのかよくわからない人間なので、いつもの高畑らしいラインで聞こえました。(これは個人差があるかも)

個人的感想だが、宮崎駿監督の風立ちぬは全く逆で、「セルアニメーション」の作為が非常に鼻に点いた作品だった。
崖の上のポニョ手書きアニメーションにこだわったり、宮崎監督もジブリらしい自然志向である。風立ちぬでも効果音に人の声を使ったり。
だが、個人的にハウルの動く城以降の宮崎駿宮崎吾郎親子のラインのスタジオジブリ作品は動画は何を描いてもセル画にしか見えず、背景は厚塗りで脂っこく感じている。風立ちぬは飛行機造りがテーマなのに、金属も紙も布も人もセルロイドの風船に見えて質感が感じられず、平坦なのにわざとらしい印象を持っている。
逆にかぐや姫の物語は徹底的に紙に描いた日本画の質感を強調しながら、実はCGもかなり使ってるのにアナログの絵に見えて、その上で絵が描こうとしている対象の質感の印象、素材の感覚を表現していてわかりやすくあっさりとした印象でするっと納得して見れた。ディフォルメもかなり使ってるしキャラクターや場面に応じて漫画絵の絵柄を細かく使い分けている。だから作為はあるんだが、総体としては違和感が少ない。
まあ、場面による絵柄のメタモルフォーゼは平成狸合戦ぽんぽこでもかなりわかりやすい実験技法として用いた高畑勲監督だが。
今回はぽんぽこほどわかりやすく変えてはいないが、日本昔話のババアみたいなババアだったりパタリロみたいな餓鬼がいたり、かぐや姫もあっさりした美少女風の時もあれば諸星大二郎楳図かずおみたいな絵柄になってたりした。
また、全体的に鉛筆のタッチを強調してるんだが、鉛筆の濃さや太さの種類が違ったり場面では毛筆風の所もあり、緩急があった。

パンフレットを読んだうえで:書き忘れの追記
このように絵柄が一定していないのに、逆に映画総体としては質感に違和感を感じさせないあっさりした感触になっているのは、やはり高畑勲監督が自分で絵を描かない監督だからであろう。高畑勲監督のイメージで総指揮されているのだが、アニメーターは別の人であり、スタジオジブリの絵柄とはちょっと違う田辺修(THE八犬伝)さんがキャラデザで、絵コンテですら佐藤雅子さん、笹木信作さん(魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語絵コンテ、キングゲイナー)、橋本晋治(御先祖様万々歳!アニマトリックス)さんが補佐についている。脚本も実写畑の坂口理子さんとの共著。
田辺修さんの鉛筆画を生かした特徴的な人物絵と、男鹿和雄さんの水彩画風の背景絵が合わさって、日本画風アニメーションになっている。描いているのは複数の別の人だが、合わせているのは指揮者、というスタジオワークの強さを感じる。
80〜90年代に少年時代を過ごした私にとってジブリの背景のイメージは男鹿さんであり山本二三さんなので、むしろこっちの方がジブリらしく感じた面もある。
高畑勲監督は指揮者として、演者の個性を生かしつつ、全体イメージの共通化という仕事をしたと思われる。この人を道具として動かすコンダクターとしてのディレクションの態度は、挿入歌を高畑勲監督が初音ミクという楽器マシーンを使って作詞作曲したという逸話からも窺い知れる。だから、個々のシークエンスでは絵柄とかはバラバラだし、スタッフの個性を出しているし、描いているものの質感も多様なのだが、総監督で統一されて見える。
対して、宮崎駿監督はアニメーターなので、宮崎駿監督の絵描きとしての衰えがフィルムに直結してしまっているのではないか、という懸念を持つ。また、宮崎駿監督作品でなくても、21世紀のスタジオジブリ宮崎駿の絵柄の影響下に縛られていた印象もある。(近藤喜文氏の死去と猫の恩返しの路線変更の影響もあるか)だから、ハウル風立ちぬはどこかゴムっぽくてセル画くさい、と、僕は思う。
(ちなみに、富野由悠季監督もハウルの動く城について「何でも自分でやりたがるせいで、逆に失敗作に近くなっている」と評した)
そういうハウル以降の宮崎駿系監督作品のパワーダウンを感じているので、宮崎駿監督以外の田辺さんの絵柄のキャラクターデザインとジブリらしい背景の男鹿さんを融合させた高畑勲監督の「絵を描かない演出家」としてのディレクターとしての力の結集としてのかぐや姫の物語は、すごいぞ、と感じる。かぐや姫の物語日本画風アニメーションがすごいのにすごそうに見えず地味に見えるという所に膨大な手間=予算と時間をかけているという事が分かるし、ニュースでも製作費が8年間くらいで50億円と聞く。だから、売れてほしいですね。(この文章には宮崎駿独り勝ちのここ10年への反感も込められている)


質感の話に戻ると、紙に描いた絵という印象をが強いので、全体的に乾いた感じ。だから海や雲や雨のシーンはあるが水の要素は薄い。人間や食べ物の生々しさもジブリにしては抑え目だ。(まあ、高畑勲さんは冷徹なんだが)こってりした肉ではなく、あっさりした瓜なのだ。
だが、紙の乾いた感じは竹取物語らしい竹細工の質感を連想させるので題材にマッチしている。
また、雪や月の乾いた感じもかぐや姫の月人という雰囲気に繋がる。
基本的に乾いた秋から冬の雰囲気の映画で公開時期にも合ってる。また、そういう冬の雰囲気は月世界人が地球の春に憧れる、という今作の独自の高畑勲竹取物語解釈にも通じてる。
そして、感情や生き甲斐のない乾いた冬の月世界と、生命力の循環を抱く水の惑星地球、って対比は∀ガンダムのディアナ・ソレルにも共通したモチーフなので、富野ガンダムファンにも感じ入る所がある。ディアナ様も富野監督の没企画「DORORONかぐや」のかぐや姫から生まれてたキャラクターだし、実際ウィル・ゲイムにかぐや姫的難題を出したし。高畑勲監督は富野監督より6歳くらい年上で先輩だが、戦前生まれはかぐや姫というモチーフには似たような発想を抱くのかなあ。
ただ、かぐや姫の降りた時代はガンダムがいないしエンディングも原作で決まってる悲劇だが、∀ガンダムは循環する黒歴史を肯定しつつ未来への息吹を感じさせる人類の力パワーがあった。
やっぱり人類の宝物はガンダムだし、アムロの遺産だし、富野監督の次回作Gのレコンギスタにご期待下さい!
人は癒され、ガンダムを呼ぶ!


あれ?俺は何を言ってるんだ?ジブリ映画を見たのにガンダムだと?ま、いつものガノタだにゃー。

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来年はターンエックスのMGも発売だし!



というわけで、第一印象はこんな感じです。