玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

無敵超人ザンボット3最終回 最終感想後編 作品テーマ対話篇

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承前


17年前に「20年目のザンボット3」という本でアニメ評論家、氷川竜介先生はデビューした。私は氷川竜介先生を尊敬しており、関東に居た頃は氷川氏の同人誌をコミケで購入したりアニメ視聴講座を受講して教えを請うたりした。
なので、本稿も「20年目のザンボット3」を参考にしている。だが、やはり氷川竜介先生と私とは別の個体なので微妙に受け止め方が違う。なので、氷川先生の「20年目のザンボット3」に対して、私が反論する、と言うプラトンの対話篇のような体裁で書いていこうと思う。

20年目のザンボット3 (オタク学叢書)

20年目のザンボット3 (オタク学叢書)

必然、氷川先生に噛みつくような書き方になってしまうが、先生のことは本質的には尊敬している。プロフェッショナルで17年間もアニメライターとして活躍し、その前も真面目にサラリーマンをしていたというだけで私のようなアニメばかり見て無職に甘んじているクズよりはよっぽど上等な人間である。
売れっ子若手評論家の宇野常寛さんは私には及びもつかない知性を持つ人だが、宇野さんもAKB48論の傍ら「僕のバイブルは「20年目のザンボット3」と「それがVガンダムだ」です」とTwitterで仰っている。
そんなバイブルに反論するのは不敬である。
であるが、39歳で大手コンピューターエンジニアから脱サラした氷川竜介先生も「20年目のザンボット3」のあとがきで

要するに、「俺ザンボット」で一冊まとめてしまおうと思った、そういうことです。
著者の立っている「単行本」なわけだから、その著者にしか書けない切り口があるはずで、そこをうまく見せればよい(トミノ台詞)、見せるというのか?(トミノ台詞)、見せるしかない(トミノ台詞)と腹をくくりました。

と、お書きである。
32歳になっても無職の私と氷川先生には人間の価値として圧倒的に開きがある。いわんや、富野監督と僕とでは。が、「俺ザンボット」「私見」をブログに書く、と言うだけならば、辛うじて許されるのではないか。と、思うのである。
オタク第一世代で、エヴァブームで岡田斗司夫氏のプロデュースに乗った時期の1997年の39歳の氷川先生は「20年目のザンボット3」のおわりに・・・で、
ザンボット3は乳離れの物語だと富野監督から聞いた」「そして大人になったからこそザンボット3がより深く理解できた」と書いてらっしゃる。

自分の考えで「ものをつくる」ようになって、無から有を生み出すようになって、人の上に立つようになって、物事を取り仕切るようになって人を愛するようになって、家族を養うようになって、初めて「実感」としてわかるようになったこと。ああ、「ザンボット3」で描かれてたことばかりじゃないか。
(中略)
「実体験」こそが作品の「実感」を生むのだと。ということは、富野監督も同じ思いをしてきたわけだ。
20年間の私の経験は、特別なものではないのだ。
人生を歩んでいれば、誰でも体験するような普遍性を抽出して、作品を通じて必死に伝えようとしてただけなのだ。
基本となる人間関係の場……「家族」をベースとした物語。
まだ怖れを知らない、これから世に出ていく少年少女たちに。
遠からず「乳離れ」をして一人で生きていき、やがて異性とめぐりあう子供たちに。伝えたい。前向きに生きるための、自分を確かめるための、確かなメッセージ。そんな作品だからこそ、魂に響いたのである。
今になって・・・…気づく。
いや違う。
今だからこそ、語れるのである。
ならば、この機会にこそ世界中で自分にしかできないことをやりたい。
だから私はこの本を書くことにした。

これを読んで、私は圧倒的な劣等感に襲われた。
おたく第三世代の私は脳内恋愛主義を自称した萌えオタクであり、結局、誰も愛していない。脳内妹を愛しているが、脳内妹を描いた小説を完結させてもいない。その程度だ。
基底現実世界の母親は夫婦関係と介護と資金繰りに失敗して自殺した。父も私も親類縁者もそれを放置した。私は家族に失敗して人を死なせたクズだ。そういう腐った家系から生まれたのが僕ということだ。
しかも仕事も失い、何のキャリアもなく、守るべきものも何もない。
氷川先生のように、「社会に出て家族を養う普通の経験」ということすらやらなかった人間のクズである。
ちょっとKLab株式会社で働いただけで過労で半年以上高熱と下痢に苦しみ、氷川先生のアニメカルチャー講座に前払いで半年間の受講料の1万3千円を払ったのに、寝たきりになって2回しか出席できなかったほどひ弱な出来損ないだ。(さすがに受講料を返せとは言えなかった)
富野アニメブログを書いてキャラクターの気持ちの機微に詳しい気持ちになっていても、自分の精神病は悪化させ、職場では馴染めず、機能不全家族にも気づきながら放置して母親を自殺させたクズだ。ザンボット3の神ファミリーは母親の女性たちは守り切った。対して、私は母を見殺しにしたクズなんだよ!可哀想になぁ、生きてたって辛いだろ?
だが、「守るべきものがなくて富野アニメの評論を書いてはいけないのか?」「頼まれなくたってアニメを見てやる!」


と、これだけ前書きを書いたら、ネタバレを見る人も帰っただろう。
本論に入る。


前項では、バトル展開のあらすじの構成や演出の素晴らしさなど、具体的な内容について語った。今回はより抽象的な概念や、作中で勝平とコンピュータードールの間で交わされる思想対立について考えていきたい。

この考えは氷川先生先生の「20年目のザンボット3」にも書いていない、私独自の着眼点であり、論断の誰からも承認を受けていないために今のところは個人の妄想である。ここは私のチラシの裏のブログなので、妄想を書きなぐってもいいのである。
ガイゾックがアメリカ合衆国のメタファーであるという着想を得たのは、12話である。
無敵超人ザンボット3第12話 誕生日の死闘 に見るヴァルヴレイヴ的な日米代理戦争 - 玖足手帖-アニメブログ-
なぜ、そう思ったのかと言うと、悪の指揮官キラー・ザ・ブッチャーと味方の金髪美少女、神北恵子が同じ誕生日だからである。ブッチャーと恵子が同時に誕生日を祝うが、劇中で両者はそのことは一切知らない。視聴者だけに示される。これは、メタファーの表現として二人が同じものから派生しているというヒントとして読み取れるだろう。(そうでなければ、2000年生きたサイボーグのブッチャーの誕生日という一見無意味な情報の挿入は、単なるネタというだけの意味しかない。それでは僕が面白くない。深読みしたい)

神北恵子は親は日本人なのに、なぜか金髪美少女で、すごいアメリカンな感じがします。

神北家の実家は長野にある牧場で乗馬をたしなみ、恵子や神北家の人はアメリカン・ウェスタンルックの服装をしています。

そして、神北恵子の誕生日と、敵であるキラー・ザ・ブッチャーの誕生日は同じです。何千年も前に宇宙の果ての野蛮人として生まれてガイゾックに永遠の命を授かったブッチャーと、ビアル星人の子孫で日本人の恵子が同じ誕生日って言うのは何でなのかわからないのだが。

きっと意味があると思います。

この二人が相似形で描かれるという意味は何なのか?



キラー・ザ・ブッチャーはそもそものモデルがプロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーなので、アメリカのイメージがある。(実際のアブドーラ氏はカナダ出身でアメリカを経て来日)

神北恵子も金髪美少女でウェスタンルックなので、アメリカのイメージを持つ。良きアメリカの部分が恵子で、ブッチャーはアメリカの悪役レスラー的なイメージかと。

アブドーラ・ザ・ブッチャー氏はネイティブ・アメリカンの父親とアフリカ系アメリカ人の母親の間に生まれた黒人の血を引く人で、それをモデルにしたキラー・ザ・ブッチャーは宇宙の野蛮人がガイゾックに武器を与えられたサイボーグです。なので、キラーは白人の意志で戦争をやらされる黒人軍人、と言うイメージで見ることもできるけど、これはかなりデリケートな話題なので、あんまり深く言えないかもしれない。ただ、そういう実際の人種感覚や歴史感覚を持ち込むことで、ザンボット3には深みが与えられているのかな、と)
無敵超人ザンボット3第12話 誕生日の死闘 に見るヴァルヴレイヴ的な日米代理戦争 - 玖足手帖-アニメブログ-


そして、ブッチャーは最終決戦では必死に戦うがそれまでは毎週、贅沢品を使って遊んでいた。このブッチャーのお遊びは、空襲で破壊されつくした地球や日本の荒れ果てた光景との対比で、容易に太平洋戦争戦時中の日本とアメリカのイメージの対比として連想できる。



  • 日米代理戦争

キラー・ザ・ブッチャーはガイゾックと言う知識人に武器を与えられて、日本を侵略してレイプとかする悪い黒人軍人と言う風に見ることが出来る。あと、キラー・ザ・ブッチャーが毎回楽しんでいる贅沢は、戦後に日本を侵略したアメリカの家電製品や贅沢品の象徴である。

で、今回もメカブースト怪獣に蹂躙される長野の人々は「神ファミリーがガイゾックに立てついたから攻撃されるんだ」「戦わなければ殺されなかった」って言う。

これは戦後の日本人が「日本みたいな小国がアメリカ様に立てついたから戦争に負けて当然」「日本が悪かった」という自虐史観のメタファーとも取れる。


そして、ザンボット3は日本の戦国武将みたいな兜と武器を持つので、和風ヒーローロボットです。

なので、無敵超人ザンボット3という作品は、「日本が戦ったから悪い」っていう戦後の風潮に対して「ガイゾックみたいな宇宙人は弱い奴を問答無用に殺しに来るから、戦うんだ!」という意思を示す思想がある、と見える。


「戦った日本が悪い」という戦後の史観に対して「宇宙や戦前の情勢は戦わなければ殺される状況であり、戦うことが悪いという戦後の軟弱者は愚民だ!俺は戦うぞ!」という、かなりマッチョで大和魂の極右思想を持ってる作品なんですよ。このアニメは。

実際、主人公の神勝平は特に状況を飲み込んでなくてもとりあえず暴れて戦争をしたがる戦闘狂の少年って言う面もある。

血縁関係で結ばれた極右暴力団の一族が、アメリカのイメージを持った宇宙人と戦う事で、アニメの中で日米の代理戦争をする、っていう雰囲気がある。

もちろん、作中ではガイゾックがアメリカで、神ファミリーが日本だ、とか大東亜戦争は正しかった、ということは明言していない。だが、そう言う風にも見えるイメージの断片が散りばめられていることは事実。

(ただし、神ファミリーは生粋の日本人ではなく、江戸時代に地球に来たビアル星人と日本人との混血、と言う所で一捻りしてある)

無敵超人ザンボット3第12話 誕生日の死闘 に見るヴァルヴレイヴ的な日米代理戦争 - 玖足手帖-アニメブログ-

神ファミリーが終盤で特攻しまくるのも、第二次世界大戦の日本軍のメタファーでしょう。
ザンボット3の序盤でロボットが戦って、その下で民衆が死にまくるのがザンボット3の特徴だが、それについては富野監督がはっきり「僕は戦争体験があるので、ああいうのが当たり前だと思います」と明言している。なので、ザンボット3とガイゾックの戦争は第二次世界大戦のやり直しの仮想戦記を巨大ロボットに置き換えたと見ることが出来る。(ジークジオンの一年戦争も、もちろんそうです)


氷川先生はブッチャーのお遊びについては、「20年目のザンボット3」で安彦良和先生や金田伊功氏の作画の紹介もかねて

人間を殺戮しながら、文化や生活様式の本質をわきまえず、どこか誤解して楽しむその姿は、一億総オヤジ化しつつある97年現在、新たな警鐘として写るのではないだろうか。

と、書いてらっしゃる。オヤジ趣味の話はともかく、「人間を殺戮しながら、文化や生活様式の本質をわきまえず、どこか誤解して楽しむ」という宇宙人に対する考察は、フレッド・セイバーヘーゲンのSF小説シリーズ『バーサーカー』が自動殺戮兵器でありながら人間を中途半端に真似はじめる、というアイディアからの延長で考えられたものだろう。
氷川先生は特撮オタクで、SFオタクの第一世代おたくである。
だから、そういう考えになるのも当然なんですが。
ですが、僕はもう一段階考えを詰めて、ガイゾックやバンドックのコンピュータードール8号は単なるバーサーカーではない、という見識を思いついた。
なぜなら、コンピュータードール8号の最期のセリフは、「命のあるものをすべて殺戮する」というプログラムを古代宇宙文明に仕組まれて作られた自動破壊兵器のバーサーカーとは、少し趣が違うのだ。
バーサーカーは生命体や文明を自動的に破壊するが、ガイゾックはそうではなく、「悪い考えを持つ生き物を破壊する」と、善悪の判断を行う、という思想的な態度を持っているのだ。

「我は……ガイゾック星人によって造られた……コンピューター・ドール第8号に過ぎない……」
「そうだ……悪い考えを持った生き物に反応するように造られている……かつて我……お前たちの先祖の星……ビアル星を、悪い考えが満ち満ちていた故に滅ぼせり……しこうして我、二百年の平和な眠りに就けり……だが、再び悪い考えに満ち溢れた星が我の平和を目覚めさせたのだ……その星にお前たちがいた……」

「憎しみ合い、嘘をつき合い、我が儘な考え……まして、仲間同士が殺し合うような生き物が、良いとは言えぬ……宇宙の静かな平和を破壊する……我は、そのような生き物を掃除するために、ガイゾックによって造られた……」

コンピュータードール8号は最期に倫理を説くのだ。
「悪い考えを持つと、地球人を襲ってくるぞ」と子供向けアニメで倫理的に脅す悪役はハートキャッチプリキュア!とか聖闘士星矢Ωにもあるし、悪い子にはモクリコクリが来るぞ、という民話にも近い構造なので、それほど奇異なものではない。
これは、富野ファンの間で長らく「ザンボット3は善悪の逆転」「戦いの意味の喪失」「勧善懲悪の否定」として語られてきたことだ。しかし、私はそれだけでもないと思う。
「それまでのロボットものと違い、ガンダムザンボット3は主人公の正義が保証されていないのがリアルでエポックメイキングだ」と、オタク第一世代で本放送を見た人が長らく語ってきた。
だが、私は生まれた時からガンダムイデオンもあり、小学生でVガンダムを見た世代である。だから「ガンダムはそれまでのロボットアニメを変えた」と言う、おたく第一世代の人たちやガンダム芸人の言葉が体感として理解できない。むしろDVDや動画配信サイトや再放送で21世紀に入ってからブレンパワードリーンの翼もザンボットも長浜ロマンシリーズやゴッドマーズやマクロスシリーズをほぼ並行してみていると、ガンダムやザンボットが突出して変えた、と言うのも一面的には真実だと認めもするが、同時にそれまでのアニメの文脈から必然的に出てきて、その後のアニメの歴史でも1ピースとして当てはまる、と感じる。


話がオタク世代論の方に逸れたので、元に戻す。
正直に言って、私はフレッド・セイバーヘーゲンの『バーサーカー』は読んでないんですけど。富野監督がよく言及する禁断の惑星と2001年宇宙の旅は見て、読んだ。
で、「良い考え」を願うコンピュータードールは、バーサーカーのような絶対的な悪の殺戮マシーン軍団と言うよりは、むしろ「絶対正義の命令を順守して、プログラムエラーを起こしたHAL 9000」とか「禁断の惑星の深層意識で理性を暴走させた「創造力育成装置」や、イデオンのイデ」に近いものを感じる。ガイゾックの巨大な目玉は、有期的になったHAL9000のカメラアイに近いし。キャプテンアースにもそう言う感じの目玉の人工知能コンピューターが出ていますね。
もちろん、コンピュータードール8号はイデオンのイデとも微妙に違いはある。
同時に、逆襲のシャアなどにも通じるものがある。
それは何かというと、一言で言うと「融通の利かないイデオロギー」です。

  • アメリカ軍は世界の警察官、ガイゾックは宇宙の警察官

「ガイゾック星人によって悪い考えを持った生き物に反応するように造られている」と自称するコンピュータードール8号。
だが、ガイゾック星人本体や、他のコンピュータードールは登場しない。どうも、ガイゾック星人はイデを産んだ第六文明人のように、悪い心を許さないコンピュータードール8号に滅ぼされ、自滅したような気がするのだ。
宇宙の他の領域に居るのかもしれないが。
200年前にコンピュータードール8号とブッチャーが滅ぼしたのは太陽系から47光年離れた恒星系カペラの惑星ビアル星である。ブッチャーがガイゾックの傘下に加わったのは2000年前である。
バンドックの恒星間移動スピードやコンピュータードールの数は分からないが…。


コンピュータードールは平和維持装置です。なので、コンピュータードール8号に「悪い心を持っている」と言われた地球人は実際、神ファミリーに石を投げて迫害したので、悪い生き物かもしれない。
トップをねらえ!の宇宙怪獣に対する人類のように、シドニアの騎士の奇居子に対する地球人のように、W3(ワンダースリー)の地球人のように、宇宙に危険をまき散らす人類の方が宇宙全体から見ると、害虫だと見なされる作品の一つのように見える。
だが、コンピュータードール8号の言葉を注意して聞いてみると欺瞞が隠れている。
「我……お前たちの先祖の星……ビアル星を、悪い考えが満ち満ちていた故に滅ぼせり……」
「宇宙の静かな平和を破壊する……我は、そのような生き物を掃除するために、ガイゾックによって造られた……」
序盤の第4話の神江兵左ェ門の言葉を思い出してみよう。
「すみ江さん! 我らの先祖のビアル星人が滅びたのは戦おうとしなかった、いや、戦い方を知らなかったからですぞ!」
ビアル星人は科学技術は発展して、兵器を作る技術は持っていた。だが、戦い方は知らない戦わない民族だった。だが、滅ぼされた。
戦争で互いに殺し合う地球人より、ビアル星人は平和な民族だったが、滅ぼされた。これは明かな矛盾である。

ガイゾックの宇宙の静粛を守るとはどういう意味だったのでしょうか……第4話ではビアル星は争いのない惑星と説明されていたので、コンピュータードール第8号がバグを起こしていたのか、またはガイゾック星人が宇宙を司る存在でビアル星人を何らかの理由で都合が悪い存在と思ったのかもしれません。勿論地球人だって。ガイゾックのいう宇宙の静粛はただの独善なのかもしれません。
無敵超人ザンボット3全話解説

と、ロボットアニメ評論家の名無し・A・一郎氏も考察してらっしゃる。
ここに、トップをねらえ!の宇宙怪獣やバーサーカー軍団のような自動的攻撃装置との違いが見いだせる。恣意的な政治的意図を内包しているのだ。
だが、コンピュータードール8号は恣意的な政治的意図を持っている自分であるにもかかわらず、コンピューターであるがゆえに、「自分は公平であり、善悪を判断して宇宙の平和を守っている」と自称する。その上、ガイゾックがこれまでに用いた人間爆弾や戦闘兵器などの戦術は残酷極まりない。
コンピュータードール8号は「武器を持ち、仲間同士で争う悪い考えを持つ生物」を否定して絶滅させるが、コンピュータードール8号が使役するガイゾックは兵隊もいるし、機械兵器やミサイル、水爆も装備している。このことから、ガイゾック星人がイノセントな存在ではなく武器の知識を持っているものだと推察できる。バンドックの守護者、死の騎士デスカイン、ヘルダインも上半身は剣と盾を持った騎士で、下半身には戦車のキャタピラが付いていて、ガイゾック星人にも戦う文化があったと推察できる。
「他の星が武器を持ったり文明を発達させるのは悪い考えだが、自分は使っていい」という偏向政治がある。
これはアメリカ軍が世界の警察官として各地の紛争地帯に軍事介入したり、武器を民兵にばら撒いていくことに似ています。富野作品のアメリカ批評は、ブレンパワード∀ガンダムリーンの翼で行われています。


あるいは、ガイゾックが使った兵器はガイゾック星人が考案したものではなく、キラー・ザ・ブッチャーのような併合して傘下に加えた野蛮人の文明を取り入れたものかもしれない。実際、ブッチャー以下のガイゾックの配下が全滅した後、バンドックのコンピュータードール8号はビアル一世とザンボット3を洗脳して同士討ちをさせた。どちらかが生き残っていたら、神ファミリーもガイゾックの新しい部下として組み込まれたかもしれないのだ。
また、コンピュータードールの、自分では何もできず、ブッチャーやメカに戦わせて、自分では洗脳や情報操作やなりすましで攻撃をする、という戦術はガッチャマンクラウズのベルク・カッツェに似ている。
ベルク・カッツェの開き直った態度も「地球人は悪い心を持っているから、それを刺激して自滅させる。自滅するのは地球人が悪い心で互いに争い合うから当然の成り行きで、自分は悪くない」という思想から来ている。
高度な科学と平和な社会を持っていたビアル星が滅ぼされたのも、ガッチャマンクラウズのベルク・カッツェの攻撃のようなものを喰らって自滅したのかもしれない。と、すると、ビアル星のテクノロジーの一部をガイゾックが吸収したのかもしれないという可能性も生まれ、勝平たちが戦っていたコンピュータードールに洗脳されたガイゾック兵たちの中には、ビアル星の子孫が含まれていたのかもしれない、と言う恐ろしい考えも生まれる。これは怖い。
戦っていた相手が実は人間だった、と言うのは石ノ森章太郎作品や富野作品では多く見られるモチーフだし。
ブッチャー以外のガイゾック兵がどこから来たのか、劇中では全く説明はなかったのだが。


実際、最近もアメリカ軍は紛争地帯から自国の兵隊を撤退させるが、紛争地帯の平和維持民兵には銃器を渡す、ということをしている。
キラー・ザ・ブッチャーもコンピュータードール8号から見ると現地徴用兵である。
このように、要素をアメリカと日本に当てはめて考えると、やはりザンボット3は日米代理戦争の仮想戦記という面があるんじゃ?と思うのだ。
江戸時代の日本的な鎧武者のような形のザンボット3を日本の家族が操り、太平洋戦争中の空襲のような廃墟の日本を守るために、憲法9条主義者のような非戦主義者から石を投げられつつ、贅沢を楽しむアメリカ人のようなブッチャーと世界の警察官を自認するガイゾックに対抗して、特攻する。


無敵超人ザンボット3は前半で普通の戦後日本を描き、神ファミリーを弾圧して「お前たちが戦うから戦争が起こるのだ」と神ファミリーを批判する民衆を、戦後憲法の平和主義者で第二次世界大戦中の日本軍に対する自虐史観や穢れの切断処理を行う戦後日本人のメタファーとして批判している。
そして、物語の後半では徹底した空爆や人間爆弾の無差別テロにより日本人も(あまり描かれていない)国連軍も地球人の世論も力を持つ神ファミリーに傾いていくのだが、ガイゾックをアメリカのメタファーとして見ると、「世界民主主義理念の世界輸出」への批判とも取れる。
かと言って、ナショナリズム民族主義の単純な礼賛でもないのは、地付きの人々の神ファミリーへの都合よく批判したり頼ったりする態度で注意書きがされている。
前半では戦後平和主義の日本を、後半では民主主義理念のアメリカや西洋文明を批判している。では、どうすればいいのか?その答えは作品の中では示されず、この物語は問題提起をして一つの戦争が終わったところでぷつんと切れている。
「世界は日本もアメリカもひどいけど、どうしたらいいかは自分で考えろ!」「戦前の日本は勇敢に戦ったかもしれないけど、実際に死ぬのはこんなに怖いんだぞ!」「平和主義も戦争も、どっちも難しいけど、自分で考えろ!」と、テレビの前のお子様に突き付けたのだ。
う、うわぁ・・・。どうしたらいいんだ・・・。

  • 民主主義的なコンピュータードール8号

では、富野監督は「アメリカに対抗して戦うために、憲法改正をして戦争をするのが正しい」と主張しているのかと言うと、それも違う。
富野監督は「アニメで子供たちに向かって戦争の悲惨さ平和のありがたさを描いたのに、21世紀に改憲論者が出てきてしまったのが悔しい」とインタビューで語っている。

富野:つまり怪我をしない戦闘なんてないわけだし、アクションなんてないのに、怪我をしないで済むと思わせるほうがよほどひどいんじゃないですか。その部分に関しては嘘をつかない。それだけは伝えたかったといえば伝えたかったこと。そしてそれは大人に知らせるよりは子供に知らせたほうがおそらく記憶として残ると思う。もっと言っちゃうと、僕にいちばん力がないと自覚するのはどういうことかと言うと、現実的な世間に対して教訓とか打撃になるようなところまで評価されてないってのは無念だということ。これオフレコにしていいです。改憲論者が平気で出るっていうことに対して、阻止できなかった自分っていうのがやっぱりつらい。
http://www.geocities.jp/tominohoeru/tomino.htm


自民党安倍晋三総理大臣政権は、景気回復や支持率の上昇を利用して最近、憲法改正ではなく憲法の解釈変更によって集団的自衛権の発動によって、アメリカと連携した戦闘行為を行えるようにしたいとの方針を表明した。

政権は「必要最小限度」に集団的自衛権の一部が含まれるとみなして、日本が武力攻撃されなくても武力を使えると解釈し、結論をひっくり返そうとしている。 


 安倍晋三首相は十五日、自らの有識者懇談会から集団的自衛権の行使容認を提言する報告書を受け、容認を検討する考えを表明。報告書が七二年見解を引用し「『必要最小限度』の中に集団的自衛権も含まれる」と提言したことに「検討を進める」と解釈改憲への意欲を示した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014052302000113.html

僕はあまり現実の政治にはかかわりたくないのだが、ガイゾックがビアル星を滅ぼしたのが恣意的な政治的意図による先制攻撃だとすると、コンピュータードール8号の行ったことは、集団的自衛権の発動かもしれない。
「宇宙全体の平和を守るための武力行使」というのは、究極の集団的自衛権ですからね。


では、アメリカやガイゾックは何故、そのように平和を維持するために頑張っているのか?
それは、ガイゾック星人や民主主義の平和を願う理念を忠実に実行しているからです。
僕は社会学には詳しくないので、アメリカの政治についてはこれ以上踏み込まないようにしますが。ガイゾックと勝平の最後の会話、問答は自動殺戮マシーンにしては、非常に情緒的です。

ガイゾック「神勝平……我がシステムは破壊されすぎた……最後に聞きたい……なぜ、我に戦いを挑んだ……なぜ……?」
勝平「地球を守るためだぁ!」
ガイゾック「地球の生き物が……頼んだのか……?」
勝平「俺たちの地球だ! 守らなくっちゃ、いけないんだ!」
ガイゾック「自分たちだけのために……守ったのか……?」
勝平「違うっ!!」
ガイゾック「神勝平……本当に、家族や親しい友人を殺してまで……守る必要があったのか……? 悪意のある地球の生き物が、お前たちに感謝してくれるのか……? 地球という星が、そのような優しさを……?」
勝平「な、何をっ!」
ガイゾック「お前たちは勝利者となった……しかし……お前たちを優しく迎えてくれる地球の生き物が……いるはずがない……」
勝平「こいつぅ……」
ガイゾック「この悪意に満ちた地球に……お前たちの行動を……わかってくれる生き物が……1匹でも……いると……言うのか……?」

星の優しさとか悪意とか、およそコンピューターが言いそうにない言葉である。おそらく、ガイゾック星人がコンピュータードール8号を生み出した時の気持ちは、呪いじゃない、祈りだったんだ。優しい世界の宇宙を作ろうとしたのだ。
コンピュータードール8号は「地球の生き物が頼んだのか?」と聞く。これは裏返すと、コンピュータードール8号は「自分はガイゾック星人に頼まれたのだ」という自信、民主主義に支持された自負とも取れる。
コンピュータードール8号は「家族や親しい友人を殺してまで……守る必要があったのか……? 悪意のある地球の生き物が、お前たちに感謝してくれるのか……?」と聞く。裏返すと、コンピュータードール8号は家族や親しいものの守る価値を認め、それ以外の感謝してくれない他人には価値を認めないという民族主義血統主義に立脚しているとの姿勢の表明である。
また、感謝する民に価値を認め、それ以外の民を抹殺するのはユダヤ教ヤハウェの律法にもつながる。
「この悪意に満ちた地球に……お前たちの行動を……わかってくれる生き物が……1匹でも……いると……言うのか……?」これも多数決原理の主張の極論だ。少なくとも、ガイゾック星人の制作者の一人はコンピュータードール8号を承認しているのだから。


つまり、ガイゾック星人に作られたコンピュータードール8号は、アメリカ合衆国に例えると、民主主義と平和を愛する国民の支持や国際平和の理想というイデオロギーによって忠実に行動する「理念の器」そのものだと言えるのだ。
(そのアイディアを福井晴敏先生が借りて擬人化したものが、機動戦士ガンダムユニコーンフル・フロンタルです)
アメリカ合衆国を批判するようなことを書いたが、アメリカも悪意だけで行動しているのではない。紛争を解決したいとか、経済を安定させたいとか、国連やサミットで国際社会を牽引していくと、そう言う崇高な理念を持っている国だ。だが、その理念を振りかざし続けると、暴走する、と言うのを寓話的に描いたのがザンボット3であろう。


純粋な理念のために人間を粛清する!と言う態度は、機動戦士ガンダム逆襲のシャアシャア・アズナブル機動戦士ガンダムF91のコスモ貴族主義の鉄仮面にもつながる。
イズムの暴走は、富野作品でほとんど共通して描かれるモチーフだ。


そして、その理想を推し進めていった結果、おそらく、ガイゾック星人は手塚治虫火の鳥 未来編のようにコンピューターの指示によって自滅したと思われる。ブッチャーをもサイボーグで不老不死にできる技術があるので、ガイゾック星人も生き残っていたらバンドックに居るはずだが、居なかったので。そして、コンピュータードール8号は創造者を抹殺しても、それは良い心と宇宙の平和のために行ったことだと判断している様子。ガイゾックの兵士も、神ファミリーを殺せなかった罰を受けて抹殺された様子。
伝説巨神イデオンのイデも「良き心を持たないものは滅ぼす」って、全宇宙の知的生命体を同時に抹殺した)
NHKの「100分で名著」の旧約聖書を今月に見ているが、ユダヤ教の律法は膨大で、すべての戒律を守ることは不可能だと宗教学者も述べている。律法をコンピュータープログラムに置き換えて、守らなければ殺されると考えると、コンピュータードール8号は律法によって平和の理想や善意によって宇宙のいろんな民族を滅ぼして回っている神だと考えることもできる。ガイゾックにひれ伏すブッチャーの姿は、ヤハウェにひれ伏すモーセにも似ている。ガイゾックとブッチャーの間に「忠実な手足の契約」が交わされているのも、旧約聖書の契約に似ている。


バンドックが直接損傷を受けるまで、ガイゾックの守護神、赤騎士デスカイン青騎士ヘルダインを封印していたのもガイゾック星人が武力行使にリミッターを用いる平和主義の理念を持っていたと思わせられる。


コンピュータードール8号を筆頭に、ガイゾックの作戦は最初の偵察用メカブーストや宣戦布告用メカブーストから戦闘用を経て人間爆弾作戦に移行するなど、理念と理屈が通った作戦行動だ。例え、ブッチャーが個人的にふざけていても、人間を効率的に殺戮するという点ではスマートで機械的だ。


そして、その理念を語り、戦いの意味を問いただすコンピュータードール8号に対して、神勝平は論理的に反論できないまま、ただ暴力と破壊によって両者の対話は終わる。
神勝平はコンピュータードール8号の理念に反論できなかった。では、思想的に神勝平は負けて、善悪は逆転し、宇宙的に考えると、コンピュータードールが正しくて人類は間違った存在なのか?
いや、そんな虚無主義に耽溺した作品ではない、と言いたい。

神勝平は激怒した。必ず、かの邪智暴虐のガイゾックを除かなければならぬと決意した。神勝平には理念がわからぬ。勝平は、静岡市のマイルドヤンキーである。無免許運転でバイクに乗り、暴走族と遊んで暮して来た。けれども戦闘に対しては、人一倍に敏感な反射神経であった。
神勝平には理念は分からぬ。
最初から最後までヤンキー中学生として暴走して破壊の限りを尽くした。
ガイゾックが来る前から、ヤンキー同士で喧嘩して自転車のチェーンや船の碇を振り回す暴力少年だった。戦闘が始まってからも、多少は周りの被害を見て反省したこともあったが、基本的には「ちっくしょー!こうなったら何もかもぶち壊してやる!」というノリで戦ってきた。
(神源五郎が父親として理念や薫陶を息子に授けたり大滝社長や老将やアキの死を見て考えたこともあったが、むしろ源五郎の理念を受け継いで精神的に成長した、と言うか行動パターンを変えたのは勝平よりも香月の方のように見える)


だから、である。
私のような頭でっかちなオタクは、論破されたら負け、みたいに思いがちだが、そうではない。
ガイゾックのコンピュータードール8号は理念の塊である。
だとすると、対決する神勝平に理念も理屈も欠片もなく、ただ人情と個人的な感情で事態を突破するのは対称性を浮かび上がらせるために効果的に正しい作劇なのではないだろうか。
だから、勝平が理念の塊であるコンピュータードール8号と論戦で思想的に勝つことは必要ではないのである。勝平は論戦には参加しなかったので、理屈だけで考えると「勝平は論破されて、神ファミリーが戦った意味も最終回で逆転されてしまった」と、ザンボット3評論でよく見かける意見になる。
だが、そうではないのだ。
ガイゾック星人がコンピュータードール8号を暴走させ、バンドックを宇宙の文明を滅ぼすバーサーカーに変えたのは「理念主義一辺倒の理想主義」をコンピュータードール8号にインプットしたからだ、と言うのがここまで私が書いてきたことだ。
コンピュータードール8号に託された「平和のために武力を使って、永遠の抑止力になる」というソレスタルビーイング的な理念は、ガイゾック星人にとっては当初は崇高な理想であっただろう。共和制と国際連盟を産んだアメリカ合衆国自由主義は理念として理想的なものだ。だが、現実の人間はそんな崇高な理念だけで生きているわけではない。それで現実のアメリカも武器輸出国として紛争の火に油を注ぐ経験をいくつも行っている。
そう言うことに対する寓話的な風刺を、ザンボット3はしているわけですよ。
「固有名詞を出して政治論争をすると角が立つので、ファンタジーの作品の中で例え話にして子供たちに見せる」と言うのは富野監督がGのレコンギスタでも使用すると表明している作劇法だ。


勝平や神ファミリーが理屈抜きで命を投げ出して戦って見せたのは、まさに、理念に凝り固まったお化けのコンピュータードール8号を打倒するために、無理を通して道理をぶちのめす物語構成にするためだ。
神ファミリーはビアル星人だ。地球人ではない。地球人が滅びるのを無視して逃げてもいい。だが、地球人のために戦った。地球人に迫害されても地球人のために戦った。頼まれなくても戦った。決死の最終決戦には地球人の軍人を一人も同行させず、地球人の犠牲を出さないようにした。
全て、全く、道理が通らない。
追加エピソードの20話でわざわざ神北兵左ェ門が「我々は今、感情的になっている!」と野崎副総理や国連軍の軍人に言い放って、国連軍の量産型ザンボットの増援を待たずに決着を急ぐために発進したとの台詞を追加したのも、神ファミリーの行動が理屈を超越した物だと示すためだろう。そして、その個人的な感情の発露の熱血こそが自動的に理念を遂行するコンピュータードール8号に拮抗しうるものなのだ、と見せるのは一種のファンタジーなのだが。
うーん。どうなんでしょうね。
実際の政治は理念と正確な知性によって行われてほしい、と言うのが僕の気分なのだが。
物語芸術としては、秩序をつかさどるアポロン的なものと、混乱を象徴するディオニュソス的なもののぶつかり合いが面白いと思う。コンピュータードール8号はアポロン的で、勝平はディオニュソス的だ。
アムロとシャアもその要素を両者で分け合って戦った面がある。
だが、難しいのは、物語作品として無敵超人ザンボット3やガンダムが優れていても、それを現実の政治や処世術にコピーアンドペーストできるかと言うと、それは難しいんだよね。司馬遼太郎マニアの坂本龍馬理論が現実の政治で有効かと言うと、かなり怪しいわけで。
だから、「ガンダムに学ぶ生き方」とかは冗談ではないって思うんだけど。うーん。何が正しいかはわからないですね。まあ、人間は文明が発祥した2万年くらい前からずっと何が正しいかわからないままうろうろしていたので、また数万年くらいはうろうろするんじゃないでしょうか。核兵器が頑張ると数万年も待てないと思いますけどね。


話を慣れない政治の理屈からザンボット3に戻す。僕は正しい政策などは分からないクズだが、アニメの面白さは何となくわかる。(ていうかアニメは子供が見て分かるように作ってあるのだから当たり前である)

神ファミリーが神の名を冠しているのも象徴的ですよね!
ガイゾックのコンピュータードール8号が契約や掟をブッチャーに課して神として君臨したのは西洋の一神教的な文化を感じさせる。(ブッチャーはコンピュータードール8号の理念として考えると、争いを好むクズだから真っ先に粛清されそうだが、むしろ啓蒙する価値もない汚れ役の必要悪の兵器の一部として見られていたのかな)(あと、一神教がモチーフの割に、バンドックの顔は遮光器式土偶である。その事の必然性についての説明は一切ない)
対して、神ファミリーが日本各地の遺跡を発掘して戦うとか、昔に天から飛来した一族の末裔と言うのは、日本神話の多神教的な神々を容易に連想させますね!神が一人ではなくファミリーと言うのも、多神教的だ。(グレンダイザーの中の人は一人で地球に来たんでしたっけ。ゴッドマーズのマーズは一人で日本に来て明神タケルを名乗ったなー。神だなー日本武尊だなー)
あ、これ、「ささみさん@がんばらない」で見た奴だ!古事記だ!
ザンボット3の必殺技はザンボット・ムーン・アタックだ!月読神社だ!神ファミリーは天照大御神系列の天皇家ではなく月読命系列の神のメタファーなんですかね?(いや、神ファミリーがビアル星から飛来したのは江戸時代なので、日本神話とは関係ないけど)(あと、ザンボットが月を必殺技にしていたのも、劇中では特に何の説明もないので、単に伊達政宗がデザインモチーフだったから、って言うだけなんだろうけど)


ザンボット3は鎧武者をかたどって和風テイストを打ち出しているけど、それが「神」というキーワードを持つと、大陸からの夷狄を防ぐ防人のメタファーとも取れますね。
(まあ、その割にザンボエースは少年ガンマンなんだけどね)(最近ではシンフォギアのSAKIMORIとかヴァルヴレイヴの崎森学園などが和風メカでしたね)
また、大宰府の防人は大和朝廷よりも東側に住む関東人から集められたそうで、神ファミリーのメカが埋まっていた東京湾駿河湾、信州と言うのとも合致するけど多分それは考え過ぎ。


いろいろ考え過ぎてしまうが、大塚英志さんの民俗学まんが的に考えると、月読の暗示を受けた神ファミリーは戦争に対する人身御供のメタファーでもあるよなー。日本のために戦うのに迫害されるし。穢れの象徴のように扱われる稀人だし。


んで、「神」や「ゴッド」の名を関するロボットはキリスト教に対して不敬な文化の日本のアニメには結構多いんですど、五武冬史さんの脚本で考えると、やっぱり機動武闘伝Gガンダムゴッドガンダムが思い浮かびますね。Gガンダムには富野監督も企画立ち上げに立ち会ったし。ザンボットからの縁もあったと思う。
ゴッドガンダムとデビルガンダムアメリカに輸出される際に名前がバーニングガンダムとダークガンダムになっているんだけど。
デビルガンダムも元々はアルティメットガンダムとして作られたのに、堕天してデビルガンダムとして暴走を始めた、って言うのはコンピュータードール8号がガイゾックに変化したのを思わせますね。デビルガンダムの三大理論もバーサーカーシリーズみたいだし。
そして、一神教の悪魔として世界を破滅させようとしたデビルガンダムが、各国の守護天使である世界ガンダム連合や仏教護法拳法の流れを汲む流派東方不敗を会得した仏像的なゴッドガンダムシャッフル同盟(トランプは四大元素、陰陽五行説の要素もある)などの多神教的なガンダムと戦ったって言うのもあり。
五武冬史さんは一神教の悪魔と多神教の神の神話的な戦いを描くのが好きなのかもしれませんね。
五武冬史さんはいろいろ書いてるけど、ザブングルボトムズも秩序対混沌の戦いと言うモチーフがありましたね。
ちなみに、Gガンダムの最終決戦の世界ガンダム連合には、ザンボット3も交じっています。

  • 乳離れとは?

閑話休題
「20年目のザンボット3」で、氷川竜介先生は富野喜幸監督に放送当時に学生の身分で会いに行って「『ザンボット3』で一番、やりたかった狙いはね、乳離れの話ですよ」と教えられた事を中心に論を書いている。富野監督の言ったことは額面通りに受け取ってはいけないと本人が言っているし、前後の会話の文脈が不明なので、どういう意図で富野監督が乳離れと言ったのか、正直、私はよくわからない。
氷川竜介先生はザンボット3日本テレビアニメが生まれて14年目に放映され、1960年生まれのオタク第一世代が乳離れして青年として覚醒する年の作品だった、と書いているが、僕はオタク第一世代ではないので正直、実感できない。
氷川竜介先生は乳離れについて

親を離れるときが来る。大人になること。それには条件がある。
親に頼らず生活できるということは、とりもなおさず、自分で考え判断し、行動し、その結果に自分で責任を持つことである。そのためには、自分と他人の区別を認識し、相手の立場を、相手の感情を常に考えて生きていかねばならない。社会性を持つ人間は、そのための「通過儀礼」を文化として持っている。独り立ちした若者は、やがて異性とめぐり合い、子供を持ち、父となり母となる。
子が、同じように「乳離れ」をする日を楽しみに、子育てをする。
子供を愛して、初めて自分の父母が自信に注ぎ込んだ愛情の大きさに気が付くのだ。

と、述べてらっしゃる。僕は社会恐怖障害で無職で目の前で親が自殺した人間なので、素直には受け入れられなかった文章だが。よく考えてみた。
僕は働くのも社会も嫌いなんだけど。3代前から機能不全家族なので、親の愛情と言う物も分からないし結婚する予定も収入もない。腐りきった人間である。


そんな私が、前述までのガイゾックの理念と神ファミリーの熱血の対比で考えると、氷川竜介先生の「ザンボット3は家族論だ。命の円環だ」「オタク第一世代の少年期の終わりだ」という意見とは少し違う考えを持った。
いや、もちろん、世代論はある。Vガンダムとかブレンパワードとか、富野作品にはそう言うニュアンスはすごくある。
ただ、むしろ、僕は乳離れという言葉を、ガイゾックのコンピュータードール8号の暴走した理想主義との決別として考えてしまっているので、「勝平が大人になる」という事を、「幸せな家庭を作る大人の男になり、自分の仕事で責任と結果を持つ社会人になる」という高度経済成長時代の日本で育った60年代生まれの順当な成長譚のビルドゥングスロマンとは感じなかった。僕はもっとひねくれているのだ。キレる17歳世代なのだ。
「子供を作れたから、親が子の上なのか?子供は、ろくでもない団塊の世代の親の負債を抱えて、帳尻合わせに必死になっているんだ!」
(20年目のザンボット3ブレンパワードの前年の書籍です)


氷川竜介先生は書籍の中で、「地球に戻った勝平は、男になったのだ」「ミチは母性なのだ」と書いている。そんなに単純なものですかね?
僕の正直な印象では、家族の大半を失って地球に戻った勝平のラストカットは、「男になった」と言うより「生まれたばかりの赤ちゃん」に見えた。すごく、絵の線が柔らかいのだ。勝平の頬の肌がもちもちして見えるのだ。
その勝平を抱きかかえるミチは確かに、赤子を抱いた母親のように見える。だが、そんなに単純なものですかね?勝平とミチはそんなに簡単に夫婦になるんですかね?王子様は冒険の末にお姫様を見つけましたって、そんな話ですかね?
いや、富野教の中でアニメライターとして尊敬している氷川竜介先生に反論するのはおこがましいと思うのだが。違う感想を持ってしまったし、僕は氷川先生とは違うのだから仕方がない。氷川先生の本も「俺ザンボットだ」と銘打ってあるし、僕は僕の「俺ザンボット」を書くしかない。

  • 世代の断裂

むしろ、私は乳離れについて「世代の断裂」という、氷川先生のおっしゃる「世代の連環」とは逆方向の感想を抱いた。ぼ、僕がモテないし無職の独身男性だから既婚の氷川先生とは感覚が違うからかもしれないが…。
幼年期の終わり」という宇宙に進出した地球人の進化を描いたアーサー・C・クラークSF小説がある。1953年に発表され、クラークの代表作としてのみならず、SF史上の傑作として広く愛読されている。富野監督は同じクラーク氏の2001年宇宙の旅を意識している。

富野さん:作り手の僕は『2001年宇宙の旅』を観て、映画の中に足りないものがあると感じ、どう補完するかを考えて、『イデオン』を作ったわけです。
http://www.animate.tv/news/details.php?id=1394807331&p=1

言ってしまえば、ガンダムイデオンも2001年のスターチャイルドとか幼年期の終わりの進化した人類の翻案です。
ザンボット3も勝平の幼年期の終わりを意識した作品だというのは、僕も同意する。だが、「勝平は大人たちの善導により、大人の男になりました。めでたしめでたし」とは、思えない。
なぜなら、勝平は「全宇宙の平和の理想の理念を体現したガイゾック」をぶち壊している。その上、「守るべき人類が本当に守るに値すべきだったのか?」という精神攻撃も受けている。しかも、自分が助かるために兄と伯父が自殺した。ダメ押しに、睡眠学習で麻痺させられていたはずの恐怖の感情に支配されている。
砂浜に横たわる勝平は泣きながら、うわ言で「う……うぅっ……こ、怖いよぉ……と、父ちゃん……寒い……うぅ……さ、寒いよぉ、父ちゃん……うぅ……」と呻く。
島本和彦のマンガチックにいこう!のザンボット3特集で大山のぶ代さんがゲストに来た時、この「寒い」と言うのは大山のぶ代さんの自然なアドリブだと明かされた。台本では「怖い」だったらしいが、本能的にはもっと感覚的で「寒い」と口に出してしまったのがオーケーになったそうだ)
つまり何が言いたいのかと言うと、勝平はすべての価値観を見失ってしまっているのだ。睡眠学習は非人道的でもあるが、一応は親や祖父母が施した教育だ。それが戦いのショックで強制的にリセットされた。頼りにしていた父も死んだ。ガイゾックのコンピュータードール8号にも「この悪意に満ちた地球」という呪いの言葉を吐かれている。ザンボット3は神話なので、呪いの言葉は重要なのだ。
コンピュータードール8号に向かって、勝平は「みんないい人ばっかりだ!」「俺たちの地球だ! 守らなくっちゃ、いけないんだ!」と、全員が良い人だという極論と、義務論の言葉で反論する。だが、それを口にした瞬間、勝平自身がその意見を客観視して、その欺瞞性に気づいてしまうのだ。地球を守る。という拠り所を無くす。
「爺ちゃん……と、父ちゃん……婆ちゃん……お、俺たち……やったよね……ちゃ、ちゃんと戦ったんだよね……宇宙太……恵子……一兄ちゃん……お……俺たちは、つまらないことなんか……しなかったよな……な……なぁ……アキ……」
と、自分のやってきたことに対する圧倒的な疑問を無理やり肯定するために、死者にすがろうとする。だが、死者は答えない!
「怖いよぉ……と、父ちゃん……寒い」と泣いても、もう暖かい父は来ないのだ。(生きている母親を呼ばないところがポイント)
乳離れであり父離れなのだが、これはあまりにも強制的過ぎる。
しかも、死に別れであると同時に、神ファミリーの睡眠学習による洗脳からの解放でもあって、思想的にも勝平は拠り所を無くしている。
乳離れとは、物凄く、拠り所が無いのだ。
氷川先生のおっしゃる、命の円環のつながりは、私にはブツ切れにされたように見える。


もちろん、勝平を迎えるミチの母性的なふくよかな所、勝平の母の花江に似た体形は、結婚を連想させる。
だが、ここでワンクッション置いているのがザンボット3のすさまじい所。
勝平を抱くミチに対して、香月が「お前、勝平のこと、好きなんだろ?」と言う。そこで「うん」と答えるのではなく、
ミチは「わ、私……ブスだから……」と答えてしまう。ストレートな婚姻にはならない。富野作品はひねくれている。(それを照れずにやれるようになったのは新訳Zくらいか?)
だが、ブスだから結婚できないというのも、ミチが「理屈」に囚われているってことだ。
だから香月がミチに対して「いいじゃねぇか、俺だって好きなんだ。こいつに惚れてんだ!」とホモセクシャル的な告白を言うのは、ミチが抱く理屈を破壊する、重要な言葉なのだ。

香月真吾は本当に特異なキャラクターで、アニメの少年でここまで紆余曲折した精神の変化を見せたキャラクターはちょっと、今は思い浮かばない。だって、香月は勝平を殺そうとしたり、勝平に仲間を殺されたと思ったり、ザンボットの戦いのせいで死ぬ人を見たり、勝平の親父を殺そうとしたり、一時は完全に敵側だった。それが、そんなひねくれた奴が、「俺だって好きなんだ!」と朗らかに笑う、これは理屈を超越している!
むしろ、香月が外道に堕ちてから勝平と真の愛情を育めるように変転したというのは、香月が裏の主人公だったとのこと。
ていうか、香月は勝平の両親を殺そうとしたけど、両方から説教されて薫陶を受けた。なので、戦い続けて熱狂していた勝平よりも、勝平の両親に教育を受けて変化したとも思える。
勝平も父の教えを受けていたのだが。最終決戦のあと、「怖い、寒い、父ちゃん」と呻く勝平は睡眠学習による血族の教えから脱却すると同時に、反動で父や家と言った拠り所を無くしている。


だが、そんな風に家族との絆を断ち切られた勝平だが、同じように源五郎に説教された香月がそばに居てくれることで、香月を経由して、再度父の暖かさを得られるかもしれないのだ。
ミチとの母性や婚姻の予兆も物語的に重要なファクターだが、香月とのホモセクシャルに近いレベルでの熱い友情と言うのも重要だ。最近はほら、エルエルフとか枢木スザクとか、タイバニとかそう言う需要がサンライズロボットアニメでも自覚的に組み込まれているが。70年代に、一回は殺し合いになった相手とナイスカップリングするって、ものすごい物語構成のアイディアですよ!
70年代のアニメの最終回で「こいつに惚れてんだ!」と、堂々としたホモっぽい告白をするのは、すごくショッキングだったと思う。海のトリトン腐女子人気がすごくあったけど。香月って長浜ロマンロボットの指揮官たちのように美形じゃないし、そう言う担当じゃないと思っていた。
ミチもブスだ。
あと、地球人はクズだ。
「20年目のザンボット3」の富野監督インタビューでも強調されているが、海岸に勝平が落ちたと知って、1、2話に登場して神ファミリーを道路交通法違反で逮捕しようとしたクズの役人の代表である警察署長が神ファミリーの母親グループ三人をジープに乗せて運転してくる。すごく得意げ。富野監督は

「ザンボットでは、神ファミリーの家族や一般人がバタバタ死んでいくでしょう?
だけど僕はね、ああいう人物はなぜか絶対に死なないって思うの。
(中略)
生き延びちゃって、ああいった場所にはヌケヌケと祝いに出てくるんだ。そういうのって、とってもヤなんですけどね」

と署長に対して言う。地球連邦の腐ったモグラどもみたいなものだ。いや、個人的に僕はゴップ提督は地球人が半分まで死んでる一年戦争末期に軍隊を維持したのはえらいと思っている。
まあ、とにかく、地球人の大衆は手のひらをくるくる返すクズだし、家族や自分の命を捨ててまで守る価値が本当にあったのか、微妙です。
大衆は神ファミリーに石を投げたり罵声を浴びせたりしたくせに、それを忘れたかのように、いや、むしろなかったことにしようとするように、率先して勝平を取り囲んで口々に「勝平が生きててよかったなあ」「ありがとう」「いやーよかった」と述べる。
その群衆は、本来勝平に真っ先に駆け寄るべき母親の花江や勝平の二人の伯母を押しのける。滅茶苦茶失礼。テレビカメラとかレポーターとかも押し寄せる。
あー、本当にクズだなー。


と、理屈で考えると、もう、こういうクズの愚民は粛清するしかないと思うのだが。
ここで、どんでん返し。
ザンボット3は「理念の否定」を描いた作品だと、長々と前述した。
勝平は正義の理想を突き詰めたガイゾックの本質を目の前で実感させられ、睡眠学習で刷り込まれた家族の教えも吹き飛び、自分のために兄を死なせ、自分が信じてきたものをほとんどなくした。
何も信じられない。
だからこそ、もう、理屈じゃないのだ。地球人から受けた迫害や親族を死なせた怨念も、同時に吹き払うのだ。
だからこそ、香月真吾は殺そうとした相手の勝平に「いいじゃねぇか、俺だって好きなんだ。こいつに惚れてんだ!」言う。


地球人は宇宙の中では悪い考えのクズかもしれない。だが、いいじゃねえか!
地球人は勝平を迫害したり殺そうとした。だが、いいじゃねえか!
勝平はその後も半壊した地球でクズの人間と一緒に生きていかざるを得ない。だが、いいじゃねえか!


幼年期の終わりと言う作品では「オーバーロード」という宇宙の知的生物の全てを見守る宇宙人の保護から地球人が巣立つ話だった。
知的生物の全てを見守る「オーバーロード」と全てを殺す「バーサーカー」はSFの中で対になる存在とも言える。だから、バーサーカー的なガイゾックのコンピュータードール8号を粉砕した勝平は親の洗脳や家族の理念も破壊されたが、宇宙の秩序という大きな父なる律法からも解放されたと言える。
富野監督の言う「乳離れ」とは、「規範からの解放」なのだ。と、私は読み取った。

ニーチェは著書「ツァラトゥストラはこう言った」にて、人の道徳観が成長していく過程をロバ、ライオン、赤子の3つの状態に例えていた。すなわち、人は何ももたない赤子として生まれ、まず他者から与えられた規範に従う不自由なロバとなる。つづいて、他者から与えられた価値観のみならず自身の価値観をすら疑い、抵抗するライオンへと変化する。
そして、十分に自身の価値観を噛み砕き血肉としたならば、もはや「価値観」などという言葉にとらわれる必要はなくなる。なぜなら、もはや自身の内にある道徳観に従うだけで十分だからである。
この状態をツァラトゥストラは「赤子」と表現した。赤子の状態では心に従うことがそのまま正義の体現となるはずであるから、もはや与えられた規範など不要である。むしろ規範は積極的に打ち捨てられるものとなるのだ。そして、赤子の境地に到達した人は、どんなに好き勝手に行動したとしても全ての行いが正義であり肯定されるのだから、これこそが真の自由を獲得したということである。


 実際には、赤子の境地に到達するのは至難の業である。そこで、ツァラトゥストラは赤子の境地に到達するための方法論として、「超人」という偶像を思い浮かべよと説いた。超人とは、自分の価値観をもとに想像した最善の理想像であり、赤子の境地に到達した自分の姿である。


超人という偶像は、空間的にも時間的にも、けっして不変の存在ではないのである。この「超人」という個人的な偶像を想像することは、キリスト教が不変の真理の存在を前提としていることや、その教えを言葉で残そうとしていることと対照的で面白い。
ツァラトゥストラのライオン | HELLO,Today !

そして、生まれ直しの儀式を行い、赤子のような無垢な顔で目覚めた神勝平はニーチェのいう所の超人となったのだ。



無敵超人
の誕生である。


無敵超人と言う副題は、つまり、ニーチェ思想だったのだ!
宇宙の秩序をつかさどるバンドックの神は死んだ!


そして、勝平は神の無い世界で、クソのように荒れ果てた地上でクズのような人間の社会の中で生きていく。理念に沿って考えると、これは地獄で最悪のクソなんだが、超人はもはやそのような細かいことにはとらわれないのだ。
いいじゃねえか!


また、氷川竜介先生のいう所の「社会の中で生きていくために乳離れをして大人になる」ということとも、これは実は同義である。
世の中では自分の理念では度し難いクズや苦手な人とも袖をすり合わせて生きていかねばならん。と言うか、まあ、クズはどこにでもいますし、自分がクズになることもある。殺し合いや利害関係の因縁がもつれた人間や民族や国家も存在する。
だが、そこをぐっとこらえて飲み込んで「いいじゃねえか!」と言うのが、大人の態度です。

親に頼らず生活できるということは、とりもなおさず、自分で考え判断し、行動し、その結果に自分で責任を持つことである。

と、氷川先生は言っていて、その後に

そのためには、自分と他人の区別を認識し、相手の立場を、相手の感情を常に考えて生きていかねばならない。

これな。
自分と他人は違うのだ。違う考えを持っているのだ。だから、ガイゾックのコンピュータードール8号のように理念を押し付けて従わないものを殺したり、洗脳したり、道具のように利用するのは良くないのだ。あと、神ファミリーのように子供を睡眠学習でカスタマイズするのも良くない。
クズのような人間がいても、そいつはそいつなりに立場や感情があるので、ぶっ殺すのは社会性のある大人の態度ではない。


そういうわけで、世の中にはいろんな人がいますね。
って言うだけの話です。
氷川竜介先生の意見を触媒にして、対話篇のように反論するように書いたが、結局、「色んな感想や価値観があっていいよね」って話だったので、別に氷川竜介先生が何て書こうが、富野監督がどういう思想を持っていようが、そんなことはどうでもいいのです。正しい評論も、間違った評論もないのです。
だから、このブログの私の感想が独りよがりな雑文でも、一向に構わないのです。
37年前の滅茶苦茶古いアニメ作品である無敵超人ザンボット3の感想を書くにあたり、僕は魔法少女まどか☆マギカやマギや革命機ヴァルヴレイヴや、最近のアニメと比較参照して、炎上マーケティングのように対比するような文章を書きました。正直、わざとです。現代の読者にもインパクトを持って読ませるために、こういう手法を使いました。(現代っ子である僕自身が思考を整理するために現代アニメを物差しの代わりにしたというのもある)
好きなアニメを褒めるために、他のアニメをくさすというのは、あまり行儀の良い振る舞いではなかったと思います。でも、いいのです。色んな人やいろんなアニメや色んな感想があっていいということを、ザンボット3の最終回を考察し終わった私は悟ったのです。
ああ、一切が空となる・・・。
一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観
ゴッドガンダムの六枚の翼に名づけられた金剛般若経から)
明鏡止水の境地に達しました。


ありがとう、ありがとう。


いまなら、富野教の教義に囚われず、広い心でガンダムユニコーンガンダムジORIGINを見れる気がします。
ありがとうザンボット3。ありがとう富野監督。ありがとう鈴木良武さん。ありがとう金田伊功さん。ありがとうすべてのスタッフ。
感謝するぜ、ザンボット3を見れたこれまでのアニメの全てに!

HUNTER×HUNTERのネテロ会長役の永井一郎さんと銀河万丈さん、神江兵左ェ門とゲストの人間爆弾のおじさん役の永井一郎さんと銀河万丈さん、どうもありがとうございました。いいアニメでした。

  • だが救われない

ザンボット3の最終回で心が洗われるような境地になりましたが、人間の業をなめるんじゃないぞ!
次は、無敵の不老不死の力を得た人間がエゴをむき出しにする無敵鋼人ダイターン3を見ます。
人類の覚醒までの道は、遠い・・・。

超合金魂 GX-65 無敵鋼人ダイターン3 リニューアルカラー

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MG 1/100 Concept-X6-1-2 ターンエックス (ターンエーガンダム)

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