玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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無敵超人ザンボット3第22話「ブッチャー最後の日」、第23話「燃える宇宙」最終回感想前編

最終回三部作の後半二つである。連続した戦場である。ザンボット3も22話の冒頭に合体したまま最終回まで戦い続ける。なので、続けて視聴した。
名作である。色々と言いたいことはある。
前回は、全体として「美しいとしか言いようがない」との感想を書いた。
無敵超人ザンボット3を37年目に見終わった初見感想と氷川竜介先生 - 玖足手帖-アニメブログ-
連作映画作品として(途中作画がおかしかったり貧弱な部分もあったものの)美しいフィルムとしてまとまったラストだった。だが、蛇足ながら感想サイトとして感想を書く。
まず、形而下の具体的な所から感想を書いていこうと思う。概念的な考察的な部分は後編で書こうと思う。


↓こちらが後編
nuryouguda.hatenablog.com



第22話 ブッチャー最後の日
脚本:五武冬史 絵コンテ・演出;貞光紳也


最終回 燃える宇宙
脚本:五武冬史 絵コンテ:斧谷稔 演出;広川和之


お世話になっている名無しA一郎さんのあらすじ
https://higecom.web.fc2.com/kingbial/story/story22.html
https://higecom.web.fc2.com/kingbial/story/story23.html
https://higecom.web.fc2.com/kingbial/story/last.html


  • どんでん返しに次ぐどんでん返し

最後に大どんでん返しがあるのだが、そこに至るまでの過程もどんでん返しの連続だ。
この、次々と事件や敵が繰り出されていく感じが、最終回のテンションの高まりとして面白さを倍増させている。すごい。繰り出される事件の一つ一つはそれだけでも1エピソードになりそうなものだが、それを2話に凝縮している。この密度!富野アニメらしい圧縮の効いた迫力だ。
前回の感想でも書いたが、敵の中枢に侵攻するにつれて敵の反撃パターンが変わってきたり、味方の戦力が削がれていったり、と色んな変化や事件を畳みかけている。そのどんでん返しの連続が戦記もののような迫力を生み出し、ゲーム的なレベルアップ感覚と同時に戦争の戦術的なリアルさを増して表現している。
そして、その勢いのまま最後まで駆け抜けるのが素晴らしい。富野作品の終盤の「意味は分からないがすごい」という状況がインフレーションしていく感覚はたまらない。
ガンダムイデオンダンバインZガンダムVガンダムブレンパワード∀ガンダムキングゲイナー、いずれも終盤数話は同一の戦場の中で戦局が変化し高まっていってラストになだれ込んでいった。
ザンボット3は恥ずかしながらこの年齢になって初見であるが、やはり富野作品らしい終局への連続性と物語性の高まりがあると分かった。さすが名作!


以下ネタバレ
また、氷川竜介先生の「20年目のザンボット3」を非常に参考にしています。
氷川竜介先生の脱サラ後の初著書であり、名著である。1997年に出た本だが、その後17年間に氷川先生がマスプロダクツや書籍やウェブで活躍されているアニメライターとしての地位を確立するに至ったのも当然と思われる名著である。ゼロ年代角度でおなじみの宇野常寛さんのバイブルでもある。
私も関東に居住していたころに一時期氷川竜介先生のアニメ鑑賞塾で教えを乞うたことがあったので、尊敬している。また、今回初めて「20年目のザンボット3」で氷川竜介先生のデビューをプロデュースしたのが岡田斗司夫氏だと知り、僭越ながら岡田氏を17年ぶりに見直したのである。1997年のエヴァブームに乗っかった書籍ムーブメントの一冊でもあるが。

20年目のザンボット3 (オタク学叢書)

20年目のザンボット3 (オタク学叢書)

で、39歳の氷川竜介先生が氷川竜介先生が紙で出版する際に文字数の都合でカットした部分を、及ばずながら32歳無職の私が長文ブログの長ったらしさで追記させていただこう。
氷川竜介先生はアニメ視聴者としてはかなり上等な部類に入るプロフェッショナルで紳士な人物であるが、プロデビューの処女作であり、またエヴァンゲリオンによりアニメファンの地位が向上した1997年に出版された本ということもあり、オタク学の喧伝やオタク第一世代の身内自慢のようなはしゃいだ感覚もある。氷川竜介先生は非常にプロフェッショナルで紳士な人だし、冷静な語り口に定評があるが、やはり処女作は(当初、ザンボット3のLDボックスの解説ムック本として企画されたこともあり)不慣れな面も読み取れた。
うん。私がこんなことをいうのはおこがましいのであるが。まあ、個人ブログという事でご容赦いただきたい。
また、これは氷川竜介先生の問題ではなく1997年はブレンパワードの前年であり、白富野が爆誕する直前だということだ。2002年のキングゲイナー∀ガンダム劇場版で白富野論壇が確立する5年前なので、やはり「皆殺しの富野」「厳しい富野」のイメージが強い時期に出た本である。なので、白富野以降に成人としてアニメを見るようになった私の初見感想と言うのも、個人ブログで書く分には無意味ではないと思う。氷川先生の本とは重複する内容もあるが、名著を読んでほしいので省いた考えもある。


超合金魂 GX-23 ザンボット3

超合金魂 GX-23 ザンボット3

よし、これだけ前書きを書いたらネタバレを見る人もいないな。よーし。
以下ネタバレ



  • 第22話

冒頭、神ファミリーは薬で眠らせた非戦闘員を脱出カプセルに載せ、地球に向けて射出して帰らせる。
この脱出カプセルは新世紀エヴァンゲリオンセカンドインパクトの時に葛城ミサトが乗ったものに似ている。庵野秀明監督はトップをねらえ!5話でもザンボット3のオマージュセリフをノリコに言わせている。
最初っから女子供は乗せなければいいだろ、と思ったのだが20話でレーダーを巧みに操った花江は乗りたがったのかなあ。
また、前回のラストで長老、神江兵左ェ門と神梅江が宇宙戦艦ビアル2世を敵戦艦バンドック突撃させ特攻死したので、神ファミリーの男たちは改めて決死作戦であると思って女子供を帰したのか。前回ラストは全員に源五郎が修理作業を命じた所で終わったのだが、その修理作業が終わって人手が不要になり、最後の決戦でもはや次の修理も補給もないと予見できたので、戦艦内での生活業務や偵察を受け持っていたであろう女子供の役目はもう終わったということだろうか。
神ファミリーが一致団結して戦うというのが、このザンボット3という作品の特徴なのだが、その家族が解散する、と言うのも一つのどんでん返し。
神江兵左ェ門と神梅江の特攻死を目の当たりにして、神ファミリーの男たちはもはや帰れない戦いであると察し、背水の陣を敷いて気力を奮わせるために女子供を守るべき地球に送り返したのだろう。
愛犬の千代錦は不憫としか言いようがない。しかし、別れのあいさつのシーンを見るに、勝平だけは死ぬつもりが全くなかったようだ。なので、勝平は千代錦をいつものようにザンボエースに載せたのかと思われる。千代錦はとばっちりであるが、結果的に死ぬつもりが無かった勝平だけが生還した。「千代錦をなぜ殺したのか問題」はザンボット3ファンの間で長年議論されてきたことだが、私の考えでは、勝平にとって最終決戦であっても死ぬつもりは全くなく、いつもの通りに千代錦を乗せる癖だった、ということだと思う。それは最終決戦になっても勝平の幼さとか配慮の足りなさが残っている、って言うことなんだと思う。地元の暴走族中学生に過ぎなかった勝平は特攻する大人たちや人間爆弾作戦を見て、成長した部分もあるが、やはり子供っぽい部分がある。なので、「ザンボット3は勝平の成長物語」と言うのは一面では正しいのだが、それが完遂されたわけでもない、と言うあいまいな部分が残っている。なんだかんだ言っても中学二年生ですし。


対して、ガイゾックはメカブーストを超える守護神、赤騎士デスカイン、青騎士ヘルダインを復活させ、その強大な二体と、部下を失ったブッチャーが一人で操縦するバンドックの頭部が神ファミリーのビアル戦艦に突撃する。
デスカイン、ヘルダインはこれまでの怪獣的なデザインのメカブーストとは全くデザインのレベルが違い、圧倒的にかっこいい。カッコいいと同時に神話的。宇宙をさまよい、知的生命体を狩る機械の神のガイゾックの守護神らしく、西洋甲冑の騎士の上半身に、下半身は馬の頭部とキャタピラー(無限軌道)を持つ戦車と言う、恐竜戦車とモビルスーツのギャンとゲルググが融合したかのような機械的であると同時にオーディンのように神秘的、スマートであり恐竜的な迫力のあるデザインだ。
五月人形のような日本の甲冑姿をしたザンボット3に対する最後の敵ロボットとして非常にふさわしい。
この、怪獣性と機能性の融合も、ある意味どんでん返しとも言える。敵のロボットが主人公ロボットと同格のカッコよさや、対称性を持つ、と言うのは驚きの一種がある。(勇者ライディーンの巨大プリンス・シャーキンやコン・バトラーVのガルーダロボなど、かっこいいライバルロボットと言うのはその前にもあった。アトムにもプルートー鉄人28号にはブラックオックスがいた)
とにかく、今までのメカブーストが知能や自我を持たない機械怪獣だったのに、ガイゾックの守護神を名乗る騎士のカッコよさは終盤のインフレーションをビジュアルで感じさせる。


そして、非戦闘員を戦艦から脱出させる作業の最中に騎士とブッチャーが進行してくる。ピンチ!残っているカプセルは勝平の母、花江のものだった!母を守れ、勝平!妻を守れ、源五郎
母を守るエピソードはロボットアニメには結構多いモチーフであり、これだけでも1話作れるのに、最終決戦の1シークエンスだけに使ってしまうのがザンボット3のスピード感である。
花江のカプセルを発射するために、戦艦ビアルは1世と3世に分離する。1世は地球周回軌道へ、3世はその盾になるために加速し上昇。地球に向けて発射すればいいというのではなく、最適な角度のために周回軌道から投下しなければ燃え尽きる、という宇宙ロケットマニアの富野監督の作品らしい、リアルな描写がSF心をくすぐる。同時に、それは戦線の具体的なイメージとして視聴者に宇宙空間での立体的な戦場がどうなっているか感じさせる効果もある。
ザンボット3源五郎の操るビアル3世が前線に立ったおかげで、カプセルは射出された。源五郎は被弾して昏倒。だが、敵は戦艦とザンボットに背を向け、眠っている花江のカプセルを狙う!卑怯!
戦局は変転する。
そして、花江のカプセルを守るため、ザンボット3は奮闘する。だが、赤青の騎士は無敵。鉄壁のバリアーと無限の攻撃力を持つ。
なんとか花江は地上に降り立ち、先に目覚めた香月たちと合流する。
花江は自分の無事を知らせる通信を宇宙に送る。
それを聞き、後事を花江に託した源五郎は最後の会話に満足そうに、重傷の体を立ち上がらせ、青騎士に体当たり。ヘルダインを大質量で粉砕するも、ビアル3世も衝撃で装甲がぐちゃぐちゃになり、源五郎のいる操縦室からも空気が漏れる。
「まだまだぁ!!」
眼球が光るほどの金田伊功作画で気迫を見せる源五郎は瀕死の体と機体をデスカインにぶつけ、ともに爆発四散!


その爆発光は地上に降り立った神ファミリーの女子供と勝平の友人の香月、ミチからも見える。
地球と宇宙の戦場を繋ぐ家族の絆をビジュアルで示す。これは、後の逆襲のシャアでのハサウェイ・ノアのセリフにもつながりますね。
また、その前に香月のカプセルが流星となって大気圏に突入する時、なんと、5話で死んだと思われていた香月の妹のかおると両親がその摩擦光を流れ星として見て、かおるは「生き別れになったお兄ちゃんと会えますように」と祈った。香月は両親と妹は死んだと思っていて、妹代わりの女の子を世話していたこともあった。視聴者である私も完全に両親と妹は死んだと思っていた。5話はそんな演出だった。だが、かおるは生きていた。
多くの人が無残に死んでいったザンボット3の中で、死んだと思われていた少女が生きていた。もちろん、この少女が最終回の手前で再登場しても、戦争には何の影響も及ぼさない。香月との再会も予感させるだけで、劇中では描かれない。
だが、「香月の妹が生きていてくれてよかった」と、戦力とか損得とは関係なく視聴者の私は思った。この、「ただ生きてくれさえすればいい」という直接的な命の重みや生きていることの素晴らしさというテーマの根幹にかかわる部分を、声高に主張するのではなく、「あ、流れ星!」と言う少女の数秒のシーンだけで感じさせる。これが映画なんだ!
そして、その「ただ生きていてくれたらいい」と感じられるのはもちろん、それまでに生きるという事だけもできなかった哀れな戦争の犠牲者や人間爆弾にされた香月組のメンバーや、アキの無残な死の積み重ねがあって、引き立っているものであり、その残酷性とも裏表なのである。命の価値を感じるには、死の辛さを見なければわからない、と言う視聴者の我々の認識力も試されている演出だ。そして、それはガイゾックの正体にもテーマ的に連動している。一つ一つのシーンやシークエンスが組み合わさって大きなテーマやメッセージのシルエットを構築している。実に映画的だ。


そのように、命の重みをじっくりと感じさせられたのに、勝平には父親の死を嘆き、泣く暇も与えられない。コックピットのガラス面に手と顔を押し当て、父が消えていった爆炎を凝視して泣きじゃくる勝平に、従兄の宇宙太と従姉の恵子から叱咤の声が飛ぶ。
「勝平!悪いが泣いている暇はないぞ!バンドックが攻めてきた!」
「勝平!お願い!戦って!」
嗚咽を噛み殺し、勝平は鬼神のごとき形相となり、画面も演出的に白く発行する。勝平の気迫が光になったかのように、その光は必殺のビームの光となる!
「ザンボット・ムーン・アタック!!!」
が、バンドックには効かない!


どんでん返しだ。


父親の死を乗り越えた主人公が金田伊功作画で必殺技を放っても、敵に傷を負わせることはできない!この無情!戦場の非情!戦力のリアリズム。
そこで、勝平の兄一太郎は父の遺言に従って「ビアル1世のイオン砲をザンボット3イオンエンジンで点火させて撃て」と指示する。キング・ビアルは本来三隻の戦艦のエンジンが合体することで初めてイオンエンジンが稼働でき、イオン砲はそうでないと撃てない必殺の波動砲だ。
しかし、2隻が特攻して消滅し、残ったビアル一世ではイオン砲は撃てない。なので、無理やり戦艦からイオン砲を取り外し、ザンボット3のエンジン配線を組み替えて、エネルギーを充填する。
これもどんでん返しと言うか意外性。他の戦艦の武器をロボットが持ち替えて発射する。イデオン・ガンやエルガイムZガンダムのランチャーに通じる必殺大砲のカッコよさでもある。
このシーンを再現するために、キング・ビアルとザンボット3の玩具を買った子供もいたかもしれないので、おもちゃ宣伝アニメとしても一石二鳥である。


父が死に、敵の砲火が降り注ぐなか、神一太郎の指示に従って、淡々とエネルギー配線やプログラムを組み替えていく神勝平、神江宇宙太、神北恵子の集中力がすさまじい。これも睡眠学習で恐怖の感情を麻痺させられた戦士だからなのか。
最後の必殺の一撃を放つためには、父の死の悲しみも、自分が次の砲撃で死ぬかもしれないという恐怖も無視して集中。戦場で極限まで張りつめた神経のシビアさを感じさせる。(ここはバンクシーンも多用されているので、父親が死んで最後の一撃の割には、勝平の顔がちょっと余裕のある表情に見えるのが残念ではあるが、この時期のサンライズには金と作画リソースが少なかった。バンク作画を利用するのは富野の特技でもある)


そして、必殺のイオン砲を、敵の急所に見事命中させる!バンドックの頭部は爆発四散!
が、それでもなお、キラー・ザ・ブッチャーは宇宙空間で生きていた!ボロボロになった体はサイボーグだった。不老不死のブッチャーがサイボーグだということは、そんなに驚きでもないが、これもどんでん返しであろう。
今までさんざんふざけていたブッチャーだが、瀕死の体でザンボット3に問う「お前はなんのために戦ったのだ?誰が地球の平和を守る事を頼んだのか、家族が特攻して果てたことを誰が感謝してくれるのか?」
ブッチャーの問いに対し勝平は言った。「自分の生まれ故郷を誰にも荒させたくなかったからだ」と。地球はいずれか滅ぶ運命にあると言い残しブッチャーは果てた。


ブッチャーの今わの際の言葉は、次の話でガイゾック本体が語ることと同じだ。
ともかく、目に見える体を持った敵はすげて殺戮して勝利した神ファミリー。だが、首と足の数本を失ったバンドックの胴体が不気味に迫ってきた。


「ブッチャーの向こうにいるガイゾックが出てくるんだ…」
敵の指揮官を殺してもなお、本体が出てくる・・・。これもどんでん返しであるが、敵の指揮官の裏に巨大な精神的なボスがいるというのは、マジンガーZのアシュラ男爵からミケーネの神、勇者ライディーンのシャーキンとバラオ、コン・バトラーVのガルーダと母オレアナという関係で閃光の作品でも描かれていた。仮面ライダーでも指揮官とショッカー大首領などがあるし、これはスタンダードなどんでん返しですね。

  • ここで第22話終了。第23話最終回開始。

神ファミリーを仕留めそこなった無能な兵士をすべて処刑し、指揮官のブッチャーも守護騎士も失って万策尽きたかに見えたバンドックのガイゾック本体が登場。さて、どうなるか?と見せて、最終話は消化試合とエピローグになるかと思われたが、激闘が続く!
磁気爆発で電気系統を破壊する光を全身から放つバンドック。
「自爆するつもりか?」と勝平。「そんな甘い相手じゃないぜ!」と宇宙太。祖父母と勝平の父が特攻して自爆して死んだのに、それを踏まえて「敵は自爆するほど弱くない」と言う事で、敵の恐ろしさが引き立つ。


なんと、変形し、サイコフレームを解放したバンドックはエネルギーフィールドを解放し、ビアル一世の乗組員の神一太郎・神北久作(恵子の父)、神江大太(宇宙太の父)と、ザンボット3パイロット3人を洗脳し、お互いが怪獣に見えるように仕向け、攻撃させ合い、同士討ちを誘った。

お互いに知らずに潰し合うビアル一世とザンボット3。その途中で宇宙太は重傷を負って、洗脳が解け、怪獣に見えていたものがビアル一世だと判った。これは「20年目のザンボット3」で氷川竜介先生は「忍者もので自分で自分を小刀で切って、敵の幻術を見破るのに似ている」と解説していた。確かにそうだが、ここで無敵超人ザンボット3という作品が一ひねり効いているのは、傷を負って幻術から解放された宇宙太はザンボット3のメインパイロットではないということ。
だから、宇宙太が正気に戻っても、勝平と恵子は知らずにビアル一世に攻撃をし続けるし、バンドックの姿は見えない。ここで地味に勝平と宇宙太の間にコンフリクトを生じさせて、最終回でも最後の最後まで、いろんな種類の恐怖や危機感を畳みかけてくるピンチの演出技法が非常にうまい。複数パイロットの分業の持ち味はイデオンにも受け継がれている。
また、宇宙船や宇宙ロボットの戦闘だと直接目視ではなくレーダーやモニターで認識するので、情報系システムをジャックされると同士討ちの危険がある、という戦闘妖精雪風みたいなハードSFの風味がある。(ガンダムでもコックピットの映像はカメラが撮影したものをCG加工して表示している、って富野小説版ガンダムで設定が追記されているし)
1977年のアニメなのに、すでに先日アニメ最終話が完結した機動戦士ガンダムユニコーンサイコミュジャック・フィールドとか、ガッチャマンクラウズのベルク・カッツェのようななりすまし情報操作攻撃をするとは!
物凄く先見性がある。SFマインドにあふれている。やはり、ここでも二転三転するどんでん返しだ。
いや、ニセウルトラマンとか忍者の幻術のアイディアは70年代にもあったので、ザンボットだけが新しいわけでもないんだろうけど、それを最終回の前半でサラッと出すところがかっこいい。


そして、正気に戻った宇宙太はレーダーと肉眼でバンドックの位置を突き止めた。その地点に向けてミサイルを撃てと勝平に宇宙太は指示する。勝平は洗脳されているからその地点には何も見えない。
そこで、宇宙太役の森功至さんの絶叫がすさまじい。
「勝平!ここで撃たなかったら貴様を呪い殺してやる!」
ガッチャマンの大鷲のケンやガッチャマンクラウズのJ・J・ロビンソンやガルマ・ザビ役を演じた森氏による「貴様を呪い殺してやる!」という絶叫がすごい。
最終決戦であるので、分離して殴って説得とかなまぬるい段取りはしないのだ。最終回で最後の激闘のなかで、幻術に罹った主人公と言うのも恐ろしいが、それを圧倒するほどの宇宙太の「貴様を呪い殺してやる!」だ。
なかなか仲間同士や従兄弟同士で言えるセリフではない。また、「殴ってやる」とか「撃ってやる」ではなく「貴様を呪い殺してやる!」という事で、宇宙太がもはや殴ったり撃ったりすることもできないほどの重傷なのだ、お腹の内臓が滅茶苦茶になっているのだ、と、子供向けアニメでグロテスクな描写ができないし作画では描かないけど雰囲気と声の演技で直感させる、死の臭いを漂わせる。忍者ものやアストロ球団で言うと、影腹を切っているということ。
また、重傷を負って「呪い殺す」と言うのは、シェイクスピアロミオとジュリエットのマキューシオの呪いの断末魔にも似ていて、子供向けアニメとは思えない緊迫感と神話性を漂わせるセリフ回しにもなっている。素晴らしい。
神ファミリーと言う血族の破滅、と言う点で言えばザンボット3ロミオとジュリエットに通じるものがあるのかもしれない。ガイゾック本体もSF的でフレッド・セイバーヘーゲンのバーサーカーシリーズに通じるものがあるけれど、富野監督はむしろ映画・禁断の惑星のイドの怪物や2001年のHALにもヒントを受けたのかもしれない。禁断の惑星はイデオンのモデルの一つだけど、シェイクスピアテンペストの翻案でもある。
名作は深い所で共通して神話性を帯びるんですね。


そして、宇宙太の絶叫に従って、勝平が洗脳されているのにミサイルを指示通りに撃つのは、宇宙太の気迫と同時に、23話にわたって一緒に戦ってきた勝平と宇宙太の絆の高まりにも感じられて、最終回らしさがある。序盤の勝平と宇宙太は手柄を取り合ったり仲が悪かったけど、最終決戦での連携プレーはすさまじい。
その連係プレーで洗脳が解けて、バンドックの本当の位置が見えて、ザンボット3はザンボットカッターでバンドックを内部から何度も斬りつける!勝った!
と、思うじゃん?
そこでまたどんでん返し!バンドックは自分がいくら破壊されても戦局が決定しても、撤退したり痛がったりすることはなく、機械的にバンドック砲を撃ち続ける。(まだ機械だということは判明してないので、不気味)
そしてザンボット3の片足と両腕が消失!特に必然性やドラマ的な伏線があったわけではなく、ただ、敵が大量に撃っているビームが2発当たっただけでザンボット3は大破する。そのせいで宇宙太は自爆を決断する。


それから、ザンボエース部分だけ分離されて、勝平が置き去りにされて特攻。主役メカの胴体と残った脚が滅茶苦茶に破壊される、ぐちゃぐちゃに潰れる。しかも敵にやられるのではなく自爆、しかも主人公は無力に分離されて助けたいのに助けられない。その上、特攻しなければいけないほど重傷で内臓がボロボロになっている瀕死の重傷の宇宙太だけが自爆するのではなく、自爆する宇宙太のエンジンを敵の急所に誘導するために、残ったロケットエンジンを操って恵子は最後まで付き沿う。そのことを詫びる宇宙太。
睡眠学習で恐怖の感情を麻痺させられた子供が、こんなに冷静に最後の最後まで素面のままエンジンの臨界と敵との距離を見計らって自爆をする!ロケットエンジンの勢い任せに突撃特攻した親や祖父母よりも最後の瞬間まではっきりとした意識のまま自爆する!最期の瞬間まで宇宙太と恵子は宇宙船の隔壁越しに会話して(ザンブルとザンベースが合体した時、二人のコックピットはザンボット3の骨盤の内部の前後に並んで位置する)、恵子が両親と妹に別れを告げる小さなつぶやきを聞いた宇宙太は自爆のエンジン暴走スイッチを押す瞬間に神北恵子に詫びる。修羅の極み!二人乗りでテレパシーができるパシフィックリムのイェーガーよりも生々しく肉感的に互いの死を分かち合っている神江宇宙太と神北恵子。
いくつものレアケース、どんでん返しが合わさった、超人的な自爆である。戦慄である。人間爆弾編から、自爆攻撃が連続する狂気のアニメーション作品がザンボット3であるが、その最後の自爆を遂行する主人公ロボットのパイロットの神江宇宙太と神北恵子の二人は、それまでのどの自爆よりも鮮烈で残酷で非情で無情で圧倒的な自爆だ。まるでこれは自爆のコンテストだ!


バンドックの洗脳攻撃を打ち破る時に勝平と宇宙太の絆を描写して、その対称として恵子と宇宙太の絆も描写するのは当然の作劇だ。それを最期の瞬間の詫びに持ってくることで、絆の実感と同時に死による断裂が描かれ、視聴者の感情は揺さぶられる。どんでん返しの連続が最終回の持ち味なのだが、ここに来ると、もう同時に別方向に感情をひっくり返される。イベント密度が極限まで圧縮されているのだ。これこそ富野アニメの濃厚さである。
そして、密度が圧縮されているのは時間の速度だけでなく、キャラクターの幅の広さでもある。子供っぽい勝平、斜に構えた宇宙太、女戦士の恵子、おっとりしてるがしっかりした兄の一太郎、一度は敵側になった先輩ヤンキーの香月、中学の同級生のブスペア、親、祖父母世代、他人の避難民、軍人など、多くの人が出て年齢層も立場や考え方もいろいろである。なので、誰かがどれかのキャラクターに感情移入できるし、あるいは自分の経験に照らし合わせたり、知人を思い浮かべたりできるのだ。それが富野アニメの感情の動かし方だし、再見性の高さ、何度も見返すたびに新発見を感じられる引き出しの深さだ。

  • 終局

そして、最大のどんでん返し、ガイゾック本体だと思われていたバンドックの内部の巨大な脳みそは、数千年前にガイゾック星人に作られたコンピュータードール8号に過ぎなかった!との暴露。
コンピュータードールは自分を破壊し、バンドックの中枢に攻め込んだザンボ・エースの勝平に負けを認める。
負けを認めるのだが、機械なので最後まで自動的に抵抗し、バンドック内部でビームを撃ち、ザンボ・エースの右足の座席に乗っていた愛犬の千代錦は死ぬ。無意味に死ぬ。自動的に死ぬ。自動的に殺す。
千代錦をザンボ・エースに乗せっぱなしにして地球に返さなかったのは勝平の幼さや死ぬつもりの無さでもあるが、同時に、ここでコンピュータードールの自動的殺戮の本能をダメ押しで印象付けるためであろう。戦術的には無意味だが、演出的には重要。
勝平と問答するコンピュータードールの語る概念の意味については、また後編で書く。

  • 最後まで自爆

コンピュータードールが爆発四散し、バンドックは地球の重力に引かれて落ちる。摩擦熱で燃えるバンドックとザンボエース。だが、その中で勝平はまだ生きていた。

このまま大気圏に突入したら勝平は燃え尽きてしまう。大太はビアル1世を強制接触させてバンドックの勢いを止める作戦に出た。ビアル1世はバンドックを食い止めて共に爆発して果てた。炎の中に消える大太、久作。そして一太郎はお前だけでも生きて脱出しろと勝平に言い残して散った。
 地球へ突入して着水した際。勝平は今までともに戦い散って行った家族や仲間につぶやく。


「お、俺たちは……つまらないことなんか……しなかったよな、な、なぁ……アキ……」


https://higecom.web.fc2.com/kingbial/story/story23.html

一兄ちゃんまでが死ぬ!勝平と和幸以外の神ファミリーの男は全員死んでしまった!
皆殺しの富野!だが、露悪的に、人がバタバタ死ぬ残酷さをスプラッター映画のように見せるのではない。非常に倫理的なのだ。
ビアル一世に残った一太郎と大太、久作は傍観することもできたはずだ。サンデル教授のハーバード白熱教室の「これからの「正義」の話をしよう」の事故死する人を見る時の哲学を思い起こさせる。

これからの「正義」の話をしよう──いまを生き延びるための哲学 | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン
1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか? 
 前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか――。個人の自由と社会の利益はいかにして両立可能か?
つまるところこれらは、「正義」をめぐる哲学の問題なのだ。社会に生きるうえで私たちが直面する、正解のない、にもかかわらず決断をせまられる問題である。

大局的に戦局的に考えると、ザンボエースは破損した戦闘機に過ぎないし、すでに敵の城は攻め落として勝利した。ザンボット3の量産型の開発も進んでいる。これからの地球防衛を考えると、ほぼ無傷で残った宇宙戦艦ビアル一世を温存して、ビアル星の知識を持っている一太郎や大人の神北久作、神江大太は勝平を見殺しにして生き延びた方がいい、との考えもできる。
だが、迷わず彼らは燃えるバンドックを少しでも減速させて、戦士の中で一番年下の勝平が生き延びる可能性を少しだけ増やすために、灼熱のバンドック底面にビアル一世の戦体を突入させる。
宇宙太の父の大太は医師でインテリだが線が細い男性だった。教育ママの妻を持って、家庭内でも妻の尻に敷かれて振り回される展開があった。(8話)
その彼が、「私も男だ。やれるところまでやってみたい!」と言って自爆覚悟で加速レバーを力強く推す。
もちろん、確実に自爆して刺し違えようとしたこれまでの自爆と違い、突入角度や運が良ければビアル一世もザンボエースも助かったかもしれない。誰が助かるかどうか、わからないまま、それでなお久作、大太、一太郎は勝平のために特攻した。最後の最後まで、自爆にバリエーションを付けて演出する自爆が得意な富野監督。ここまで自爆が連続すると、食傷気味になって飽きるかもしれないが、どんでん返しで緩急が付いているし、一つ一つの自爆の状況や目的に変化をつけているので、退屈な気はしない。むしろ、最後まで一人残らず見せ場を作って高まっていく印象を受け取った。
この作劇法はすごい!


で、サンデル教授の正義の話だが、ザンボット3は主題歌で歌う通り正義と勇気のロボットアニメである。だから、ビアル一世の男たちは勝平を確実に見捨てて助かる選択ではなく、両方とも不確実に助けるために迷わず突撃した。
「私も男だ。やれるところまでやってみたい」「良いでしょう」「勝平、生きているならお前だけでも脱出しろ」
こう言う男たちの言葉には、自分の目の前で親、兄弟や息子、娘が自爆したのを目の当たりにした償いの意識があっただろう。
彼らの決断には確実に罪の意識がある。それは自爆させただけでなく子供を戦わせたり睡眠学習で洗脳したことの罪の意識でもある。
また、15話で海に消えた老将ジェイムス提督の自爆も、人間爆弾にされた名もなき男の自爆も、戦略的攻撃戦果だけでなく、ガイゾックの侵略を許した罪滅ぼし、神ファミリーを前半で弾圧した社会を作ってしまった罪滅ぼし、という要素もある。
作劇としても、必死に戦った少年の勝平を見殺しにして生き延びる大人たち、なんてものは見たくない。それでは不公平すぎる。(Vガンダムの真なるジン・ジャハナム木星共和国との決戦に旅立ったという説も小説版ではある)
この公平さと罪の意識は実は富野アニメに通底するものである。
機動戦士ガンダムF91でビルギット・ピリヨが端的に「昔さ、ニュータイプって、モビルスーツに関してはスペシャリストがいたよな。 そういうのって大概個人的には不幸だったんだよな?」とまとめて言っている。
これはメタなセリフである。
じゃあ、なんでニュータイプガンダムの主人公やソロシップに乗り合わせた人、聖戦士が不幸にならなければいけないのか?
それも罪滅ぼしである。かっこいいロボットに乗って毎週敵の兵士をぶち殺す主人公だけがのうのうと幸せになるのは、作劇としてバランスが取れないし、許せないのだ!クロスボーン・ガンダムでも主人公は手足を失う。
敵兵であろうと他人を踏みつけにして殺して、自分の栄達を全て自分の強さによる当然の権利として享受する英雄は英雄ではなく、運命の幸不幸の取引に対する盗人である。
殺される敵兵士も、主人公のために死んでいく仲間も、哀れな犠牲者も、主人公も命の重さが同じだとしたら、必然的にストーリー全部の業を背負う主人公は誰よりも大きな栄光と同時に、誰よりも大きな不幸を背負わなくてはいけないのである。
Zガンダムカミーユ・ビダンが自分で殺した兵士のために祈って発狂した事に端的に表れている。
富野監督は新劇場版を作る前、Zガンダムについて「巨大ロボットに乗って戦争をする主人公が狂わない方がおかしい!」と言っていた。
自分の命だけを重視する自己中心的なサイコパスにならないで、戦って敵や仲間の死を背負う主人公は、命の平等な尊さを訴える作品は、不幸の辛酸を舐めつくさなければいけないのだ!
(白富野三部作ではジョナサンやギンガナムが身代わりになったし、物語が始まる前にゲイナー君の両親や黒歴史戦争やオルファン現象の犠牲者が死んでいるというギミックを使っている。リーンの翼はすでに特攻死した男とのダブル主人公である。新劇場版のカミーユは多くの人の死を背負いながら、女の肉体の確かさに抱き留められた)


だから、宇宙の叡智の結晶であるコンピュータードールとの対話に失敗して破壊し、父も従兄姉も伯父も兄の命も犠牲にしてまで生き延びた神勝平は、生き延びても全然嬉しくない。
全然嬉しくない命でも、死ななければ生きなければ、生き続けてしまう…。
そんな自分の命、人生でも「つまらないことじゃあない」と自分に言い聞かせなければ破滅してしまう。だから、勝平は死んでいった肉親やアキに対して「俺たちはつまらないことはしなかった」と言うのだ。生死の境で死者に語りかけるのは自問自答でもある。
コンピュータードールの問いかけに対する反発であると同時に、「周りの人は死ぬのに、自分が死なない限り人の死を見続けながら生きる」という地獄に対する自己肯定でもある。
「なぜ生きる?」という自問自答の繰り返しこそ、人間の人生の、特に殺人者の人生の戦いのどんでん返しの連続に付いて回るものだ。
1クール目のラストでブッチャーに対して、兵左ェ門は「なぜ殺す?宇宙の中では塵にも等しい我々を」と問いかけたが、最終回ではそれに対応するように「なぜ生きる?塵にも等しい自分の命のくせに」「なぜ生かす?大事な肉親を死なせてまで」という問いかけに、勝平と視聴者は直面する。
そして、それは死ぬまで問われ続け、生きるという状態によって答え続ける普遍の問題である。


人が生きている限り、周りの人が次々と死んでいく中、生き延びるというのは当然のこと!
だから、ザンボット3はそれを作中2か月間の戦争に圧縮して描いただけで、決して絶望や人類に対する諦めだけのアニメではないのだ!これは強調しておきたい。人類に対する態度については、次項で詳しく述べたい。
いや、僕は12年来の鬱病回避性人格障害社会恐怖障害でパニック障害自死遺族で精神障碍者3級の国家認定だから、正常な判断はできていないのかもしれない。
だが、白富野が始まるブレンパワードの前年に出た「20年目のザンボット3」でも氷川竜介先生は「人間に対する深い絶望と諦念が描かれているが、それだけではなく、絶望と希望が常にせめぎ合っている」と但し書きをしている。
ブレンパワードの陰陽和合や∀ガンダムの全否定と同時の全肯定を見る前に、Vガンダムの後にテレビの富野アニメが無い時期に、絶望と希望の両面を著書ではっきりと書いた氷川竜介先生はやはり一級のアニメ視聴人間だ。
ただ、やっぱり親しい人との絆が高まり切ったところで、次々とぶっ殺して、色んな自殺のバリエーションを畳みかける作品なので、視聴に要するカロリーは高いでしょうね。(母親キャラは死ななかったけど)
でも、幸いなことに、ザンボット3は画面の中のフィクションで、毎日資本主義経済で損得を奪い合ったり、隣の民族と憎み合って殺し合う現実を見るよりはよっぽど楽だと思うよ。

嫌韓流2014 (晋遊舎ムック)

嫌韓流2014 (晋遊舎ムック)

  • ラストシーン

これについては、コンピュータードールのメタファーを考えながら、最後の感想は最後まで取っておきたい。つまらないネットゲームをしたりして、夜更かしをしてしまった。飲酒して寝る。

  • 唯一の完成形富野作品

しかし、処女作が全てと言う格言もあるが、原作付やシリーズものの縛り、打ち切り、企画変更や監督降板での路線変更を受けていないテレビアニメ富野作品は、もしかするとザンボット3だけかもしれない。
ダイターン3だけはまだ見てないが、小説でやり直しをしたという事を考えると…。
エルガイムは実質的にファイブスターに受け渡されたものだし。
しかも、ザンボット3は最終回を製作した後に総集編と同時に思想的補填を行う20話を追加で挿入しているという贅沢ぶり。
ブレンパワードキングゲイナーも良い作品だが、多少、リハビリだったり若手に任せる面もあったりして、富野監督作品としてストレートに完成したとは言い難い。富野監督は多作であり名匠ではあるが、同時に「普通に作って普通に完結させた作品」はザンボットかキングゲイナーくらいしかあるかないか?という不遇のチャンピオンと言う面もある。(千と千尋の神隠しまで、宮崎駿ブームはなかった、と言う説もあるが)
それをオリジナル小説で吐き出したり、次の作品への怨念エネルギーにした時もあるが。
ザンボット3も脚本の五武冬史さんの要素もあるし、五武冬史さんは富野監督に代わってGガンダムガンダムシリーズを引き継いだという実績もあるし、ザンボット3が富野監督だけの実績とは言い難いのだが。
金田伊功作画の作品と言う人もいるだろうし、大山のぶ代さんの作品と思う人もいるだろう。
「しゃべくり007」で天元突破グレンラガンのアンチスパイラル役の上川隆也さんが熱く語った作品と思っている人も最近は多いかもしれない。


うーん。
Gのレコンギスタは一応ガンダムシリーズですけど、視聴者の子供たちに向けてストレートにメッセージを伝えたいという監督の声明もある。
さて、どう戦ってくれるかな?
スキルの低い僕は逆襲のシャアの新サントラとターンエックスのプラモデルを買う程度の支援しかできない。

Gのレコンギスタ!面白くなってくれ、頼む!
https://www.g-reco.net/
あと、オオカゼノオコルサマとハリウッドで共同制作をするという噂の次回作もな!
富野由悠季監督、ハリウッド「Legacy Effects」提携会見 - 全文書き起こし (1) 「第一作目は、全くの新作でやるというリスクを侵すわけにはいかない」 | マイナビニュース


いや、まあ、僕は単なるアニメオタクなので面白いものを見聞きして死んで逝ければよいのだよ。
見るべき富野アニメをすべて見る!碇知盛!
富野監督、あなたはぼくの・・・。


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