玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ベルサイユのばら第30話「お前は光俺は影」5人の男とお蝶夫人

脚本:杉江慧子 絵コンテ;さきまくら 演出:竹内啓雄 西久保瑞穂 大賀俊二
俺は影!と言うのは原作通りに考えるとアンドレなのだが、むしろ今回はそれ以外にもさまざまな男たちが黒子に徹して行動する所に渋さを感じた。

  • アンドレ

オスカルの従僕として生きてきたが、衛兵隊に転属するオスカルに「伴はしなくてもいい」と原作とは逆に拒否されたのに、自分の独断で衛兵隊に入隊したアンドレ。
今回もオスカルはアンドレに「伴はしなくても良い」と言う。そうやってアンドレを遠ざけようとするオスカルだが、「アンドレを遠ざけて自立するのが男らしいこと」と思っているとしたら、つまり「アンドレが居たら自分は女になる」と直感的に分かっているのを避けようとしているわけで、やっぱりメインカップルって感じですね。
で、原作ではアンドレはオスカルの父ジャルジェ将軍の命令でオスカルを守るために衛兵隊にいるが、アニメでは自分の意志で入隊したのに「貴族のスパイだな」と同僚の兵士に思われてリンチを受ける。この、原作のニュアンスから着想を得ているのに展開や設定を百八十度変えていくのは出崎統アニメらしい。手塚治虫ブラック・ジャックやKEY劇場版AIRCLANNADもそういう部分があった。
で、アンドレはリンチを受けるが、アンドレ自身も三十路のオスカルに結婚話が来ているという事を聞いてイライラしていて喧嘩をする。で、クロスカウンターなどをして善戦するが相手が5人なので結局やられる。
アンドレが昏倒するとアランが現れアンドレをリンチした男たちに「こいつは俺の飲み友達だ」と言いながらナイフをちらつかせてけじめをつける。で、アンドレがうわ言でオスカルの名前を呼ぶので、アランはオスカルに「こいつの手当はあんたがしてやれ」と言う。
だが、オスカル、手当してやらない。放置して帰る。アンドレに近づいたら女になるって本能的に分かってるんですかね。そこはカット割りでごまかす。
で、オスカルはジェロ―デルに求婚されたり、お見合いパーティーの話などを親から聞いたりなどして、アンドレは放置される。なのだが、ジャルジェ将軍がテロリストのサン・ジュストに銃撃された時はアンドレはオスカルよりも先に将軍を助け、将軍の命に別条がないと聞いて安心して涙をするオスカルにアンドレはハンカチを手渡す。アンドレはオスカルに放置プレイされているのだが、とにかく放置されても助けていこうというスタンス。影としての自覚がすごくある。
だが、オスカルのお見合いパーティーではオスカルの護衛をしろと父の将軍に直々にアンドレは命令されたが、オスカルに「来なくていい」「私は簡単には嫁には行かん」と言われて、パーティーのシーンには登場しない。父の命令よりオスカルの言葉を信じて待つ、それも影としての男らしさなのだろうか。

  • アラン

アランはアランで前述のようにアンドレの喧嘩の始末をしたり、アンドレとオスカルの間の恋心を知った上でアンドレには黙ってオスカルに任せたり、アニメのアランはアンドレの影、黒子のように尻拭いをしてやっている。アンドレに忠告してやったり男同士の衛兵隊の中での人間関係を調節したり、気配り上手になっている。
アニメのアランは原作よりも年齢が上になり男らしさが増している。なのでパッと見は荒くれ者のように見えるんだが、地味にアシストをしてやっている。次回はアランとオスカルの対決があるようだが、原作の若いアランと違い、今回まではアランはオスカルとは直接対決していない。むしろ直接対決しないで間接的に動くのが逆に男らし差を感じる。アニメアランのこういう地味な気配り、相手には助けてやったと気付かせないでそれとなく助ける、友の弱みを助けるときは友のメンツやプライドを潰さないように顔を立てて人間関係を調節する、荒くれ者の中で喧嘩が起こった時はどちらの顔も潰さないように上手く言葉と暴力を使い分ける。分かりやすい喧嘩よりはこういう面子への配慮の方が男の論理が分かってるなあって思う。原作はフェミニズム作品と言う側面もあり女性の男性社会への進出というテーマも扱っているので、「男は分かってくれない」ということを男装の麗人を通して女性作家が描いているんだが、アニメではそれを女性脚本家や女性アニメーターを交えて、男性の長浜忠夫監督や出崎統監督が「女にはわかってない男の考え」ってのを入れて行っているのでまたひと手間おくゆかしさが増している。
で、つまりどういうことかというと、アランも影の黒子として行動することで男を見せている。なので、サブタイトルの「お前は光 俺は影」と言う男が誰なのか?という点で多重構造を作っていて、奥ゆかしい。
また、原作ではオスカルは武芸の達人のアランに対して「お前のような男に会いたかったから衛兵隊に来たのかもしれん」と言ったのだが、そのニュアンスはアニメではアランではなくオスカル自身に向けられていて「誰よりも男らしく激しく生きたい」と言うスタンスにスライドされている。原作のニュアンスやイベントを別の人物に置き換えて消化する、と言う手法も見どころ。

  • ジェロ―デル

おくゆかしさが増した人物。原作では眉目秀麗な貴族の貴公子で多少自信家でなるしスティックな所のある人物。これはこれで、誇りを重んじる貴族の生き方としてある意味格好良くて、特に革命が起きた時にジェロ―デルがオスカルと敵味方になる所はドラマチックで感動した。
彼が身を引くことでオスカルに対する愛情を示すのは原作でもあったし、宝塚歌劇団バージョンでも山場の一つだ。だが、原作のジェロ―デルはもっと甘いポエムのような口説き文句をすらすら言う色男だし、身を引く所でもオスカルを感心させるほどの格好の良いセリフを言って去る。
なのだが、アニメのジェロ―デルはオスカルに求婚して彼女に恋心や彼女の魅力を伝える時に「こんな月並みな言葉しか言えないなんて、自分がもどかしい」と嘆く。
原作ではいろいろと手馴れているし、恋のポエムもすらすら言えるのに、格段にアニメでは不器用になっている!
ジェロ―デルが求婚を思い立ったというのは、オスカルが近衛隊を去って初めて彼はいつも近衛隊の勤務の中でオスカルの声と姿を求めていたと気づいたからだ、と告白する。これもいい。原作では割とジャルジェ将軍が主導でオスカルに子供を産ませたがり、長男ではないジェロ―デルを婿候補として呼んだということになっているが、アニメではジェローデルも自分の心を持ってオスカルを愛し始めたというのが良い。
で、オスカルが近衛隊の基地から自宅まで帰る時、ジェロ―デルはオスカルを送りながら前述のようにどれだけ愛していたのか訥々と語る。語るのだが、その頃オスカルはリンチされたアンドレのことで胸がいっぱいなのでジェロ―デルの不器用ながら真摯な告白をガン無視する。ジェローデルは「どうか一言だけでも」とオスカルに乞うが、オスカルは無言。
ここで、ギシギシと鳴る風車が映って二人の噛み合わなさを暗示させる演出もいい。「ああ、胸を風が吹き抜けていく…」とジェローデルはポエムっぽいことを言うが原作に比べると格段に不器用。でも、これはこれで、男なんだよなあ…。と、男の目線では思う。
で、オスカルが(リンチされて昏倒している)アンドレと離れて一人で帰路についているのを察知したからか、ジェローデルは「私が貴族では無かったらあなたの従僕にも馬丁にもなるのに」(いつも彼のように一緒に居たい)と言ったら、それまで無言だったオスカルが「貴族である以上、従僕のことを言う権利はあなたにも私にもない!」と口を開いて「お見送りはここまでで結構!」と去っていく。明らかにアンドレのことを言われて頭に来たんだ。やっぱりオスカルはアンドレを好いている。好いているが、男らしくなろうとしているのでアンドレを遠ざけようとしている。オスカルは女なので男がどういう物か空想の中にしかない。なので、やり過ぎてしまう。ここら辺の「男とは何か?」というという問いかけがアニメでは色んなキャラクターの色んな出来事を通して描かれる。なので、少女漫画原作だけど男らしさを問いかけるアニメにもなっている。で、原作は「男社会に出ていく女性とは何か」という問いかけをやっているので、複合効果で「人間は何か?」という問いかけをする深い作品に成っている。
また、アニメのジェローデルが「(アンドレのような)従僕になりたい」と言うのは、原作のジェロ―デルがアンドレに「妻を愛する従僕を雇うくらいの度量は私にはある」と傲慢なことを言ったり、アンドレが「俺が貴族だったら結婚相手に立候補するのに!」と言ったことの裏返し。原作を正反対にすることで、逆に違う方向から光を当てて原作のテーマを批評的に浮き上がらせるって言うのは、本当に出崎統アニメでは多用される技法です。だから、出崎統監督のそういう性質を知らないと、一方的な原作改変と言われるのですが。でも、出崎統監督自身もたたき台になる原作があればこそアイディアが湧く、と証言しているので。


そして、オスカルのお見合いパーティーは、原作に比べて格段に地味。原作では見合いを押し付けられてイライラしたオスカルがあてつけで最高の食材と飾りと女性ファンを集めて女性たちと踊り明かす、と言うシーンもあり。また、そのオスカルの親衛隊の女性には原作ファンのファンクラブのメンバーのエミリさん(ペンネーム)が登場するなどのファンサービスもあった。雑誌連載時の盛り上がりが分かる所だが、アニメではそういう華々しさはバッサリカットしている。まあ、王室の贅沢を諌めるオスカルとしては質素に行う方がキャラの性格がブレてないと言えるかな。


で、オスカルは男しかいない舞踏会に軍服で、それも原作の豪華な礼服ではなく衛兵隊の制服で参上し「女性が誰もいない舞踏会とはおかしいですね。私はどうやら場違いなようだ」と言って早々に去り、周囲を唖然とさせる。だが、ジェローデルだけは「連隊長らしい」と心に留めて、結婚する意志がオスカルにないと悟り、原作よりかなり早く身を引くことを決心した様子。(残り10話しかないからかもしれない)そうやってオスカルを諦めることをオスカルに伝えないで遠くから乾杯して静かにワインを飲んで黙るのも、また、彼も彼で影に徹する男なのだ…。と言う感じ。振られた男の静かなプライド、とも取れて、これは男の目線で共感できるなあ。

出崎統監督の90年代初頭の名作で同じ池田理代子先生原作の「おにいさまへ…」にも彼のあだ名を付けられた女学生が登場するが。今回の実在したサン・ジュストは、るろうに剣心の瀬田宗次郎のように要人の馬車に徒歩で近寄って暗殺する(銃撃と刺殺の二回)とか、テロリストぶりに磨きがかかっている。しかも、ロベスピエール先生の懐刀としてロベスピエール先生が「交渉しろ」と命じた相手を「応じなかったのでやむなく殺しました」としれっと答えるところとか、幕末の人斬りか。彼も彼で、ロベスピエール先生を光として影の汚れ仕事を率先して暴走して引き受ける男なんだなあ。だが、サン・ジュストはブイエ将軍を暗殺しようとして間違えて同乗していたオスカルの父ジャルジェ将軍を銃撃してしまう。ジャルジェ将軍の命には別条がないが、彼が床に就いている間にオスカルがお見合いパーティーをぶち壊しにする、という舞台設定のために、サン・ジュストが利用されたという物語構成的な面もあるね。
この激しい暗殺シーンは原作にはないものだが、氷のサン・ジュストの暴走はアニメではどこまで描かれるのか。原作だとしれーっと国外逃亡してたけども。

  • ジャルジェ将軍

今回のラストカットはジャルジェ将軍が男泣きに泣くとこで終わる。
オスカルが軍服を着てお見合いパーティーをぶち壊しにしたから泣いたのではない。その件に関しては「戻ってきても何も言いますまい」と落ち着いて言う。原作ではオスカルが女性ファンと踊り明かすのを見て将軍はギャグ的に右往左往するのだが。むしろ舞踏会とか結婚が云々より、
「ただ私が望むのは、オスカル、私の娘が決して幸せを求める気持ちを失って生きてほしくないということです。あれは、小さいころから自分の気持ちを押さえてしまう、そんな子だからです」
と、泣く。将軍が敬語で話しているのでおそらく相手が見舞いと報告に来たブイエ将軍だからなのだろうが、誰に対しての言葉なのか、画面には映らない。このわざわざカメラ目線で述懐するのはドキュメンタリードラマっぽいんだが。多分、オスカルに隠れてブイエ将軍にだけ打ち明けた気持ち、ということなんだろう。そういう点で、ジャルジェ将軍もオスカルの影になろうというところが演出レベルで暗示されている。オスカルが危険な任務に就くことを心配して結婚しえ引退させようというのは原作通りなんだが。
また、ブイエ将軍は原作ではジャルジェ将軍とは仲が悪くてオスカルがいびられる、っていう女々しい人間関係だが、アニメでは衛兵隊のトップのブイエ将軍はジャルジェ将軍より格上だが二人の関係は良好でブイエ将軍の方が率先してオスカルの見合いパーティーを主催してくれていたりする。まあ、衛兵隊の兵士がオスカルに反発しているから、結婚でもして出ていってほしいという気持ちもあるかもしれないが、オスカルの実力を認めているという発言もあるし、アニメのブイエ将軍は好人物として描かれている。
ジャルジェ将軍がオスカルの行動に何も言わないでいてやろうというのは、将軍もやはり影ながらオスカルを見守るようにしようという考えかと。
また、「あれは、小さいころから自分の気持ちを押さえてしまう、そんな子だからです」と言うのは、ベルサイユのばらの前に出崎統が監督したエースをねらえ!お蝶夫人のようなところがある。出崎統監督はお蝶夫人には思い入れがあって、エースをねらえ!もテレビ版、劇場版、新、2などとシリーズを重ねる。また、お蝶夫人のような自分に厳しいお嬢様のキャラクターは華星夜曲やおにいさまへ…の一宮蕗子さま、あるいはGenjiの藤壺など出崎統監督のキャラクター作りの一つの類型として残っている。
自分の気持ちを押さえて強く生きようとするオスカルもまた、お蝶夫人系譜かもしれない。そして、アンドレの方が岡ひろみなのかもしれない…。いや、死ぬから宗像か?
また、「父を許してくれ…」と言うのも源氏物語千年紀Genjiの先帝のようでもある。これも出崎統監督の引き出しの一つかなあ。CLANNADとか。

  • オスカル

このように、色んな影になる男たちに支えられつつも衛兵隊に入って男道を進もうとするオスカルである。
オスカルがジャルジェ将軍に「男として育ててくださってありがとうございます」と感謝するシーンは原作でもある。だが、原作では「男として社会のいろんなものを見ることが出来ました」と、フェミニズム的な進歩思想で視野が広がったことを感謝しているのだが、アニメでは全く逆で「かつては女として燃える恋もしましたが、男として育てて下さったおかげで、何もかも忘れて、強く生きることが私にはできるからです」と、視野が狭まったことを感謝している。これも「男とは?」と言うテーマを生涯考えていた出崎統監督の男の美学だな。
女として生まれたオスカルが男ぶって行動しても、それは視野を狭めるだけだし、「女の考える男らしさ」と言うのは虚像なんだよ、と言うようなニュアンスを得た。原作のオスカルは男の立場で貴族社会の身分差別や女性差別を見て広い視野を得た、と言う進歩主義だが、アニメはそういう理屈っぽい所は割と描いていない。もっとエモーショナル。
そういうわけで、ジャルジェ将軍は「男だからこそ忘れられる」と言う娘に「哀しいことを言わんでくれ。女として傷ついたのならば、女として幸せになってほしい。逃げ出してはいかんよオスカル。男だと言って自分をごまかしてはいかん」と、オスカルが男らしく生きようとすることが誤魔化しだ、と指摘する。
だが、ここでまたもう一捻りしているのがあって、ジャルジェ将軍は「女として幸せになってほしい」と言うが、男のジャルジェ将軍は「オスカルが結婚したら幸せになれるだろう」と思ってジェローデルの求婚を受けたりお見合いパーティーをセッティングしたりするんだが、父の考える「結婚が女の幸せ」ってのも男から見た想像上の物で、オスカルの求めるものとはズレている。このディスコミュニケーションが男と女の間の溝の深さ、親と子の間の溝を感じさせて、悲しい。
オスカルが目指す男の生き様も想像上のものだが、父が思う娘の幸せも想像上のものだ。
また、女を捨てて男らしさを演じるというのは「おにいさまへ…」の乳癌患者の薫の君のような面もある。
そのように、自分を偽っていることも自覚せずに自分を虚像に同質化させようという点で、オスカルもまた影、少女革命ウテナの影絵少女のような人形なのかもしれないのだ。
だが、本当に正しく、自らの幸福を目指す生き方は難しいだろう。本当に自分が幸せになれる人生を見つけるのは難しいだろう。なら、誰もが誰かの影を追い続けて影絵人形芝居の登場人物に過ぎないのかもしれない・・・。


だが、父ジャルジェ将軍が射撃されたという報告を受けて大慌てで屋敷に戻って、父が無事だと知らされて腰を抜かして涙した時のオスカルは演技や張りつめた所をいったん忘れて素直な娘に戻ったようだ。そこでアンドレがハンカチを差し出し、オスカルも素直にそれを受ける。男らしくあるため、オスカルはアンドレから遠ざかろうとしている。だが、無意識的にはもうアンドレが寄り添うべき相手だと直感している様子。だからこそさらに避ける。
このもどかしさ。ドラマチック。
アンドレと言う幸せに通じる光を避けて男らしさと言う虚像の影に入ろうとするオスカルも影なのだ。


アニメは皆、影絵芝居なのだ。


光は、有るのか。