玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ウテナへの助走のための寺山修司の人力飛行機とキングゲイナーヴァルヴレイヴの私的雑記

私は月曜日からついに、17年前の15歳のころからずっと見たいと思っていたけど見ていなかった少女革命ウテナを見ることにした。
富野由悠季監督のガンダム Gのレコンギスタが来週始まるので、それまでの駆け込み需要なのである。
輪るピングドラムはオンエア当時に見た!ピングドラムはほとんどの登場人物が妹という妹アニメで、妹萌え脳内妹と永遠に終わらない脳内恋愛をしている私としては非常に面白く視聴できた。
しかし、当時は親交があった伊藤ベクと言うウテナの枝織信者の女に「グダさんは何故最高の妹アニメのウテナをまだ見てないのか」と言われて軽蔑され、今はTwitterでブロックされている。
アニメファンのまっつねさんにも「グダさんはウテナを見てないので、アニメファンではなく富野信者に過ぎない」と言われている。
昨年の徳島のマチアソビの幾原邦彦庵野秀明トークショーに言った時も、ひとりぼっちの地球侵略信者のさいむさんに「グダさんはウテナを見てないとか笑える」とか言われました。


私としては、百合アニメで妹アニメのウテナにハマることは17年前から分かっていたので、ウテナを見る前におにいさまへ・・・やベルサイユのばらなどを見てウテナと言う人力飛行機が飛翔するための儀式的助走をつけようと思っていたのだ。そう言うわけで、2年くらい前から幾原監督に影響を与えた哀しみのベラドンナなどを見て、この記事を書いたらベルサイユのばらの最終回を見るつもりだ。最近は寺山修司の著作を読み舞台の録画やルポ番組や映画を見た。

幸福論 (角川文庫)

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田園に死す 【低価格再発売】 [DVD]

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田園に死す (ハルキ文庫)

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で、思ったんだが、詩作の中で母親を殺そうとして自分が先に死んで母親に記念館を建ててもらった寺山修司と、母親から自立しようと思って京都大学で薄給で働きながら実家に送金していたのに母親が自殺した僕とは対照的だ。
で、映画の「田園に死す」を見た。「映画の中で母親を殺せない自分は何だろう」と寺山修司の分身のような主人公はつぶやく。で、予告編では「寺山修司の家出の思想から、母殺しの思想へ!」とアピールされている。
しかしねえ、母親が目の前で自殺しても僕は何の自由も何の解放感も得られず、ただただ不愉快なだけだったんだよ。京都大学も適当な理由を付けられて雇用契約が切れたってんで辞めさせられたし。何の意味もない・・・。
僕も母親が存命の時はこんな記事を書いた。
オーバーマン キングゲイナー 2526 父を越えるよりも、母を捨てる力を手に入れろ!そしてリア充へ - 玖足手帖-アニメ&創作-
あの世と通じてる子宮からこの世へオーバーヒート - 玖足手帖-アニメ&創作-
母離れ!乳離れ!ということは自立した男になる!ということで色んな男たちが取り組んできた課題である。

20年目のザンボット3 (オタク学叢書)

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だが、「母離れ」「母殺し」と言うのは甘ったれの言うことなんだと最近は思う。「母殺しをしてやる!」と気楽に芸術媒体で言ってしまえるのは決して母が死ぬ所を想定できない、つまり母が死なないという安心感に裏打ちされた甘えん坊の言うことだと思うのである。
私は目の前で母親が自殺しても普通に食欲がある動物として生きている。そして、自由と言うのは現代社会では母親の束縛がどうのこうのではなく単に金銭によって得られると実感している。
寺山修司の「トマトケチャップ皇帝」はオネショタや母子相姦の要素が濃い映像であったのだが。「強い母親の庇護と束縛の元で快楽と苦痛を与えられる僕」という意識があるように見える。
だが、母親や女なんてそんな上等なものではなく、金銭がなくなり、父親の退職金が数百万足りず、銀行屋と不動産屋の口車に乗った私の母親は私の部屋の隣の廊下で首を吊ってたった10秒で死んだ。命など数秒で亡くなるものである。
そして、私は精神障碍者として各種公共機関を無料で利用しているのだが、母親を自殺に追いやった金銭の価値なども税金や障碍者手帳や消費税増税などで右往左往する曖昧な幻想にすぎないのである。
だから、寺山修司は甘ったれだと思うんだ。
僕は富野由悠季監督のアニメが好きだが、同時に、オーバーマンキングゲイナーでのオーバーデビルとシンシアの祖母の呪いを殺すことによる仮想的な母殺しも、結局は実際に母を死なせることを想像していない甘ったれの理屈だと思うのだ。
ていうか、母だろうが誰だろうが、いつ何時死んでもいいのだ。
寺山修司やアニメ監督の押井守は「虚構と幻想」をテーマにした実験映像を多くとっている。だが、そんな甘いことを言えるのも反抗しても壊れない現実が強いとどこかで信じているからだ。押井守NHKの「ようこそ先輩 課外授業」で子供たちの想像力を育てると言って「校庭に戦車が現れたらどうかな」と、言っていたがそれは「現実に日本の学校に戦車が現れることはない」と無意識的に押井氏が信じ込んでいる甘えの思想であろう。小学校に砲弾が撃ち込まれる国などは今もどこにでもあるし、日本においては交通事故と自殺であっけなく人は死ぬのである。校庭に戦車が現れなくても通学路でクレーン車は横転するのである。
統計上の自殺者が年間3万人から減ったと喜んでいるこの国は見えない銃弾で殺し合っている内戦国家である。そして、われわれは荒野に見えない銃を持って佇んでいる一人一人の兵士なのである。
その戦場では母親だの家族のつながりなどは何の意味もなく、みんな死ぬのだ。
と、私が考えるのも私が境界例人格障害だからである。
母殺しであるが、私の母方の祖母が義理の祖父の死と義理の伯父の自殺をきっかけに福井の家を追い出されて私のうちに来てから、母親は「あの人が来てからいいことが一つもない」と言って自殺した。そして、祖母はボケた頭で養老院に入り、自分の娘が自殺したことも知らされず事故死と言われ「今が一番幸せじゃあ」と笑うのである。地獄である。しかしそれが動物としての人間である。私の母親は自殺することでしか母親の呪縛から逃げられなかったのである。そして、その祖母は妾腹で母親を産んだ娼婦である。曾祖母も娼婦であったらしい。そんな女たちは金のために残虐にサバイバルして自分の子供も自殺させる。
祖母が養老院に入れたのは血の繋がった母親が自殺したからと、私の義理の祖父が戦争に行った軍人恩給がもらえるからである。
なので、娼婦や援助交際自由主義だとか言う寺山修司や宮台某の言説は糞なのである。親子だろうが第二次世界大戦英霊であろうがみんな互いの死や不幸を望み自分が金銭を得ようとするダニに過ぎないのである。
父方の祖父も戦争犯罪人だったらしい。で、私の父親は母を養えず自殺させたにもかかわらずずーっとクロスワードパズルばかりしている定年後の老人であり、私は無職なのである。
そういう点で私の現状は寺山修司の映画版「書を捨てよ。町へ出よう」の家族構成に近い。
また、子殺しや娼婦の母方の家系でもあるので「田園に死す」にも似ていて、見ていて吐き気がした。
また、私の父親は母親を自殺させたという現実から目を背けて父親の威厳という虚構を作るために風呂に入る時間と夕飯を食べる時間には無意味にうるさい。その点では疑似家族を作ろうとした寺山修司天井桟敷での振る舞いにも似ている。



なので、少女革命ウテナの助走のための資料として寺山修司を見ると、自分の腐りきった家を見せられるようで非常に不愉快であった。実験映像と言っても40年前の稚拙な騙し絵で、表現としても面白くないし。
私は少女革命ウテナを楽しめるだろうか…。しかし、現実の親が腐りきっていても私は決して犯されず決して妊娠しない脳内妹を愛している変態なのである。ウテナは妹アニメらしいので、そういう方面から親近感を得られるかもしれないし、あるいは自分の汚い部分を見せられて不愉快かもしれない。


ちなみに、少女革命ウテナの小説版は当時若手だった大河内一楼氏がノベライズしている。

彼は前述のオーバーマンキングゲイナーのシリーズ構成でもあるので、寺山、ウテナキンゲのラインで「母殺し」のモチーフが連結している系譜かもしれない。
だが、大河内氏の母殺しが「殺そうとしても死なない母親の強さ」に寄り掛かった甘ったれの言葉でしかないことは革命機ヴァルヴレイヴのラストの教母さまとなった女性総理大臣を見てもわかるであろう。もちろん、ヴァルヴレイヴの女性観はローゼン松尾衡監督の意図もあるはずなので、一概に「脚本家が逃げたぞ!追え!」とは言えないのだが。

ただ、私の実体験として言えば、人は誰だろうと、どんな立場だろうと何才だろうと、虫けらのように死ぬのだ。われわれは実際には誰にも寄りかかることもできず、誰とも繋がれない、互いに猜疑心と殺意を隠し合っている孤独な兵士なのだ。

境界性人格障害(BPD)のすべて

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