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玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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Gのレコンギスタ最終回:第26話「大地に立つ」元気のGだ!

最終回である。半年間、1話につき1テーマのキーワードでブログ感想を書くという活動をしてきたが、それももう終わりである。

  • 最終回のテーマは「元気」。

作品の全体テーマの「元気」が最終回のテーマだと感じられる作りは本当に素晴らしい!

元気のGだ!!!元気のGははじまりのG!
「元気でいられるということは大事なことであるなあ」とお子たちにも実感させられるような良い最終回だったと思います!
もう、いろいろ解説とかあるけど、元気なんだよ!
もう最終回だし、半年間Gレコの解説ブログでアクセス数を稼がせてもらったけど、これでお終い!だから今回はあんまりまとめずに書く。
大事なのは物語や設定の解析ではなく、元気なんだよ!
本当に、こんなにすがすがしい視聴後感覚の富野アニメって初めてじゃないか?
海のトリトンよりも水平線の向こうが明るく、
無敵超人ザンボット3よりも帰ってきた大気が温かく、
無敵鋼人ダイターン3よりも別れが悲しくなく、
機動戦士ガンダムより豊かで、
伝説巨神イデオンよりも次世代に丸投げせず、
戦闘メカザブングルよりも平和的で、
聖戦士ダンバインよりも皆殺しではなく、
重戦機エルガイムよりも政治に前向きで、
機動戦士Zガンダムほど狂わず、
機動戦士ガンダムZZのように泣かず、
逆襲のシャアほど思弁的でなく、
F91よりもちゃんと終わっていて、
機動戦士Vガンダムほど悪意も無く、
機動戦士クロスボーン・ガンダムほど悪役に業を背負わせず、
ガーゼィの翼よりもライバルとの闘いが盛り上がり、
ブレンパワードほどエヴァっぽくなく、
∀ガンダムよりも若く、
キングゲイナーよりも旅が広く、
リーンの翼のように湿っぽくもなく、
リング・オブ・ガンダムに比べてちゃんと小清水亜美が生かされていた。
これを総じて元気のG!
ヤバいよ!富野監督のアニメーション業界人生50年において、新境地だよ!しかもちゃんとこれまで培った富野由悠季の演出技術や作品やガンダムブランドの上に立った、新しい頂上だよ!
しかも声優にも初挑戦だ!
ふはははは元気のGだろう!

Gの閃光(アニメ「ガンダムGのレコンギスタ」エンディグテーマ)

Gの閃光(アニメ「ガンダムGのレコンギスタ」エンディグテーマ)

以下ネタバレ

  • 元気すぎる戦い

後日談でベルリがあらゆるものから解放されて元気爆発させるのがこのアニメのラストであり冒険の素晴らしさでありテーマなのだが。あるいは後日談で「一時的でも平和がもたらされた」ということの尊さを実感させるために、最終回は後日談以外はず―――っと激しい戦闘と殺し合いです。酷い!
大気圏突入してきたメガファウナ組、アメリア軍のクリム・ニック(ダハック)とミック・ジャック(トリニティ)、キャピタル・アーミィの戦艦ガランデンのマスク部隊とジット団と戦艦ブルジンに乗っていたウーシァ編隊に対して、地上すれすれのギアナ高地をキャピタル・テリトリィまで進行してきていた大量のアメリア艦隊とモビルスーツ部隊が鉢合わせして、いきなり大混戦と大量虐殺が始まります。







殺されるためだけに出てきたようなウーシァとジャハナムとモンテーロたちだが、それぞれが必死に生きている人の殺し合いなので、非常に息が詰まる。
艦隊これくしょんのアニメでは駆逐艦の如月ちゃんが3話で轟沈した事を最終回まで引きずっていて結局その後の轟沈は無かったが、Gレコの最終回は轟沈のオンパレードです。うわーーー。
虐殺のレベルではファーストガンダムア・バオア・クー攻略戦や機動戦士ZガンダムVガンダムのラストの大艦隊戦に匹敵するレベル。
富野由悠季監督:「Gレコ」最終回上映会で毒舌連発 “皆殺しの富野”卒業宣言も? - MANTANWEB(まんたんウェブ)
皆殺しの富野ではないけど、モブには滅茶苦茶厳しい富野。戦艦一隻にも何人乗っていて爆殺されたんだ?


まあ、映画の基本は「緊張と緩和」なので。二代目桂枝雀も言ってた。
ベルリ・ゼナム君はアイーダ・レイハントンと出会ってから、カーヒル大尉とデレンセン・サマター大尉を殺してから、出生の秘密を知ってから、ずーーーっと張りつめていた。金星に行ってからは「僕は戦争の根っこに成るものを取り除きたい」「(自分が人を殺すことで)G-セルフの義務を果たす」と、ノブレス・オブリージュのような騎士道精神と妙な責任感と罪の意識が混在していた。
その上で、最終回では大量殺戮の戦場で親友だと思っていたルイン・リー先輩とその彼女のマニィ・アンバサダと殺し合いをする羽目になる。しかもG-セルフも半壊させられる。ここで緊張が最高潮に達する!
そりゃあ、出奔もするわな。



ベルリとマスクの対決は一回だけでなく、上空や地上や地下や水上で何度も繰り返し行われて、その間に他の人たちの戦いや生き死にも描かれ、最終回の大半が同じ戦場の戦闘シーンなのに漫然とした感じが無く、畳みかけるようなリズム感が構成の面でもアニメーションの動画の絵としての魅力という点でも炸裂していて、「戦場は地獄だ!」という緊迫感が胸に迫る。だからこそ、ラストの元気の解放感がすごく弾けるのだ。
ベルリとマスクの戦い、クリムとジット団の戦いは本当にアニメーションとして炸裂している。人型ロボットの徒手空拳とガン・カタとパーフェクトバックパックの機能などの未来超兵器を使った殺陣が滅茶苦茶恰好いいし、動画の一枚一枚やアニメーションのタイミングや音楽や効果音、とにかくすべてにガンダムの戦いの粋が凝らしてある。戦いは本当に辛いし人が死んでいる暴力なんだけど、アクション映画としてとても恰好いい。





G-セルフとカバカーリーがボコボコに壊れていく泥仕合も、めっちゃ殺したいマスクと殺したくないけど無敵のベルリが噛み合わないのに、アクションアニメーションとしては最高の仕上がり。


ここで富野ファンとして指摘したいことがある。映像の原則で言うと、ベルリのG-セルフががマスクのカバカーリーに対して下手(向かって画面左側)から攻撃している。
このG-セルフの暴力性については私は前期OPの発表時点で指摘していたのだが。
Gのレコンギスタの歌とPVに潜む暴力と狂気 - 玖足手帖-アニメ&創作-
カッコいい主人公の正義の攻撃ではなく、圧倒的な性能のパーフェクトパックを持つベルリの攻撃がともすれば「悪」と見なされがちな画面下手から行われることで、ベルリが暴力をマスクに振るって勝つけど、爽快感が無いように見える。だから、争いから解放されたラストの元気が弾ける。
マスクが上手に立っていることもあって、ジャブロー地下からの決着までの戦いはまるでマスクの方が主人公に見える。
マスクの「勝負、賭けた!」はまるで無敵鋼人ダイターン3破嵐万丈のような格好よさだ。

カバカーリーのライフルの持ち方も破嵐万丈っぽいし。

ダイターン・ウェッブのような手裏剣武器もカッコいい。
富野監督も「どうやったらG-セルフをやっつけられるか考えた!」と言っているし、マスクから見てG-セルフは悪魔なので、ベルリの方が凶悪に見えてしまうように演出されている。なので、マスクは単なるライバルや敵ではなく、彼もまた主人公になりうる素質を持った青年だったと思える。マスクは敵や悪ではないんだ!という思想が演出面でも描かれていて、この思考と手段の一致が発揮されている作品はとても美しいな!



トミノ流映像の原則で言えば、「下手の弱者の位置にいた主人公が上手に回って逆転勝利」というのが基本戦術なのだが。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-200.html
(落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』>)


戦いの前半では下手に居たのはマスクで、マスクは戦闘のクライマックスで上手に回ってベルリと戦い、負けた後も上手だ。



これは何を意味するのか?それはベルリがマスクにマシーン戦闘で勝つことが物語的に重視されるポイント「ではない」からだ。富野アニメも含め、ほとんどのアクションロボットアニメでは主人公が戦って敵に勝つということが重視される。思想的なアニメである逆襲のシャアでも、アムロはシャアの上手に回って勝つ。
違うのだ、Gレコで重視されるのは戦いに勝つことではなく戦いを収めることなので。

故に、上手大奥から登場したアイーダのG-アルケイン・フルドレスが戦闘終結を宣言するのである。一つ一つのマシン戦の勝利より、全体の収束を図る姫が女王にならんとする所が白眉なのである。
こうして、「戦闘から解放された」という安心感が大事なの。

「ラストシーンの意味」 原作・総監督 富野由悠季
激闘を演じながらも、ラストシーンでキャラクターたちが一挙に再登場するのはなぜなんだろう?そこに違和感を抱きながらも、納得もできるのはなぜなのでしょうか?
ここにこそ、皆様方のおかげで、長くガンダム作品を制作させていただいていたトミノが、次のステージを考えるヒントを盛り込んだのです。
ガンダムを使って脱ガンダムをするというテーマを自分の中に据え置きながらも、それができたのは“戦争の起源”を考えたからです。戦場で生き死にをしなければならなくなった兵士やパイロットたちは、お互いに憎悪はありません。戦争が起こり、そのような局面に直面せざるを得なかったから、戦ったにすぎないのです。

ですから、兵器という殺しの道具や戦場そのものがなくなってしまえば、一人のパイロットも普通の人になります。それは古今東西の戦場の真理です。

ですから、なぜ戦争が起こるのかといえば、その背景に政治や経済の問題があるからなのです。政治家たちの考え方次第ともいえるのです。そして今回の戦争は、大規模なテロであったのかも知れないのです。このような考え方を知って欲しい、と、次の世代の少年少女たちに申し伝えたいのです。

TVアニメ「ガンダム Gのレコンギスタ」、最終話に向けて総監督・富野由悠季がコメントを発表! 「ラストシーンの意味」 - アキバ総研

  • 戦闘の緊迫感、つらさ

長くなったのでキャプションを分ける。
そもそも、なんでアニメの戦闘シーンに緊迫感があるのか???アニメって虚構じゃん?別に何が描かれようと実生活には関係ないのに、なんで感情に訴えかけるものがあるのか???
グロテスクに人が死ねば感動できるのか?モブが大量に殺害されるとスリリングなのか?
そうではない。そもそも、僕自身、周りで多くの人が自殺したり死んだりしている。死の何が辛いのだろうか?そこまで考えたことはあるのか?と、君は!
死については、昔から多くの人が哲学的思索をしている。
なので、私ごときの考えは一つの仮説にすぎないのだが。
Gのレコンギスタ第25話「死線を越えて」ドラッカーのイノベーション、それは幻想 - 玖足手帖-アニメ&創作-
前回の感想で、私は「幻想による価値感」をGレコで見出した。
経済的イノベーションは価値観を生み出したという幻想によって成り立つものだが、死は現実的に生きている人の価値を喪失させることである。なので、死は辛いのである。辛いのだが、価値を奪い合いたいというのも人間の悲しいサガなので、戦いがあります。

富野:「G-レコ」では、科学技術の進歩を禁止しているのですが、それは夢やロマン、希望がないということなんです。そのとき人はどうするのかが物語の着地点のひとつ。

 例えば、現実社会はこの1000年で経済も科学も飛躍的に進歩して、それを幸せだと享受している。でもそれ以前の人類が不幸だったのか?というとそうではない。夢がなくても個々の幸せがあるはずで、その個々の幸せのために作中では戦いがあります。
シャア専用ニュース 【速報】「ガンダム Gのレコンギスタ」富野由悠季総監督スペシャルインタビュー!「シナリオを書く上でメカとドラマの二重構造は意識しました」「ドラマはドラマチックな展開が多い韓流を参考に、濃厚にしたつもりです」

個人的な価値、譲れないもの、奪いたいもの、個々の幸せのために戦いがあります。戦いは他者の幸せを奪うことなので、戦いには緊迫感があるのです。単に「人殺しは悪いことなので止めましょう」ではないのだ。
で、
「失いたくないもの」をそれぞれが背負っているので、ガンダム Gのレコンギスタの最終回は延々と戦闘が続いているのだが、漫然とした印象ではなく、「失われるのではないか?」という緊張と「大丈夫だった」という緩和の連続が巧妙に構成されているのできちんと物語映像作品としてまとまっている。


マスクにとってマニィは「失いたくない大切なもの」なので、マスクはマニィに何度も「ガランデンに戻れ」と言う。だが、マニィは「ルインの役に立ちたい!」という気持ちを失いたくないので、何度もベルリにジーラッハで襲い掛かるし、クリムとも交戦する。その度に、視聴者は「マニィが死んで価値が失われるのでは?」「ベルリが罪を背負ってしまうのでは?」とハラハラする。



ベルリの母、ウィルミット・ゼナム長官はベルリが死んで彼の価値が損なわれることを心配する。だが、戦場では丸腰でマシンに乗っていない生身のウィル長官がめっちゃ死にそうでハラハラした。心配する人が心配の対象である、と言うのがマニィとウィルなどで重層的に描かれていて戦場の厳しさを感じる。
実際大佐は死ぬ。



ブルジンの不時着や、ジュガン司令のリンゴによる殺害はサラッと描かれるのは、彼らが視聴者にとって「生きていてほしい」と価値を感じる人ではないから。価値の喪失というストレスと言うより、戦争を仕掛けた人の退場による戦線の縮小の段取り描写である。だから、あっさりと描写される。


クンパ・ルシータ大佐の死が非常にあっけないのは、「戦争を裏から引き起こした重罪人」をそのまま仰々しく裁くよりはあっさりと事故死させる方がインパクトと意外性があるからだろうか?また、悪を断罪することもこの作品のメインではないのだ、という意志表示か。また、死ぬ前のクンパ大佐がぼんやりとしたオジサンとしてギャグも交えて描かれているのは、ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマンに対して抱いた「悪の凡庸さ」を表現したものだろう。悪が凡庸であるので、彼によって死なせられた多くの人の命の価値がさらに貶められて喪失されるのだ。

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告



「他人の戦いで死ぬつもりはない!」と叫ぶゴンドワン人のガランデン艦長も「死」と「価値観」を繰り出している。


また、「死による価値の喪失」だけでなく、死んだ後の名誉の損失も描かれている。

キャピタル・テリトリィに侵攻してくるアメリア艦隊を見て、アイーダは「父がしかけた作戦は止めさせるんです!」とラライヤに叫んだ。父、グシオン・スルガン総監が死ぬ前に行った仕事がズッキーニ・ニッキーニ大統領によってキャピタル侵攻作戦として行われ、父の名誉が損なわれることをアイーダは嫌がったのだろう。
そして、ラライヤ・アクパールは美少女戦士だが、ラトルパイソンをG-ルシファーで轟沈させる。

なぜか。美少女が人殺しをするのはイメージダウンだが、「大きなおもちゃを貰った子供」のような軍人が人を殺しまくって命の価値を消していくことをやめさせるために、ラライヤ・アクパールは殺人の汚名を被った。そして、それを姫であるアイーダは承認した。
この戦場での大量殺戮を許さないという態度は、24話でのベルリの「艦隊を丸ごと破壊することがどういうことか分かれ!」というバララへのセリフを再度ラライヤ・アクパールに言わせることで、彼女もまた主人公の一人だったと思わせるバランス感覚なんだよなあ。
Gのレコンギスタ第24話「宇宙のカレイドスコープ」リアルの地獄で「許す」難しさ - 玖足手帖-アニメ&創作-



クリムの数え殺は「価値の喪失」ではなく「天才の戦果」として描かれる。しかし、そんな天才のクリム・ニックが初めて殺した名前の付いているパイロットは、ジャスティマに乗るチッカラ・デュアル。

前回、非常に人間臭い振る舞いを見せたチッカラには、視聴者も死んで欲しくないと思う。だが、殺す。だからこそ「戦闘は辛いよな」という緊迫感を植えつけられる。
ここで、クリム・ニックが戦っている相手二人が女性で、クリム・ニックがパートナーとして一緒に戦っているミック・ジャックも女性である。フェミニズム的に言うとひんしゅくを買うかもしれないが、やはりMSを騎乗する騎士としては、女性は守るべき価値を連想させるものである。だから、どの女性にも死んで欲しくないなーって思う。
そんな女性たちが互いに傷つけ合い、命のやり取りをする。非常に緊迫感がある。




誰が死んでもおかしくない戦闘で勝利をする天才は、やはり天才。天才クリム・ニックは美形でコメディー要素もあるが、基本的に大量殺人者です。そんな大量殺人者も「こいつはこいつである意味主人公だったのかも」と言うのがGレコだ。


で、同僚のチッカラ・デュアルを殺されたクン・スーンは傷つきながらも、G-セルフとも激闘を繰り広げる。



しかし、トラクタービームで「攻撃しません!」と(カバカーリーに殺されるリスクを負いながら)ベルリが決死の説得を試みたことで、クンは死なないで済む。ここも緊張と緩和だ。



そして、戦闘から解放されて緩和したクンが、和解して、そして新しい命を、殺し合ったミックに祝福されるなんて、なんて生命賛歌、元気のGの賛歌なんだ!感動できる。クン・スーン、そしてキア・ムベッキ隊長もまた、彼らの人生を生きた主人公で、みんなが主人公なんじゃないのか?みんな生きてるんだ!みんな元気を持ってるんだ!
機動戦士Zガンダムは宇宙を支える命が失われていくことでその大事さをアピールしたが、Gレコは失われた命が失われなかった命の尊さを彩ることで、さらに広がっていく暖かで元気な感じを描いている。これは鮮烈だ。


そして、ベルリにとって一番つらかったのは、あれだけ執拗に攻撃してきたカバカーリーのパイロットがルイン・リー先輩だったとおそらく戦後に分かったことだろう。(ベルリとルインが再会できたのかどうか、マスクの「ベルリィイ!」という絶叫をベルリには届いたのか、それはハッキリと描写されていないが。)
ベルリは「戦争の根っこを取り除く!」という無敵の装備を貰ったG-セルフの義務を果たそうとした。そして、「人を殺さないで戦争をやめさせるには、一番強いフォトンパワーを叩く!」とフォトンサーチャーを使った。しかし、それで見つけた一番の強敵もカバカーリーのルインで、クンパや軍部に利用されてマスクと言う役割を押し付けられた青年に過ぎなかった。そのカバカーリーを破壊しても、艦隊の潰し合いには影響がない2機のモビルスーツの格闘の破壊しあいに過ぎなかった。
ベルリは最終回の最後の戦いを経験して、やっと「戦争を招く悪の元凶はいないんだ」と、大人になるために一歩としての気づきを得たのではないだろうか。
戦争のむなしさを知り、ベルリ自身は自分が善だと思っていたのに親友に知らないうちに殺されるほど憎悪されていたことを知ったショックは大きかっただろう。デレンセン・サマター大尉を手にかけた事やアイーダが姉だったことなどのストレスと緊張が、戦後に一気に押し寄せ、そして解放を望んだことは非常に説得力がある。
※追記
そして、ベルリがこうやって人を手にかけるストレスを実感したからこそ、暗躍していたクンパ・ルシータ大佐やナチスユダヤ人の虐殺のための運行長官だったアドルフ・アイヒマンのような凡庸な悪の全体主義者の独裁者にならずに済んだのでは?とも見える。そう考えると、カーヒル・セイント大尉、デレンセン・サマター大尉、キア・ムベッキ隊長、ロックパイ・ゲティの死は無駄ではなかったのか?

昨日、ハンナ・アーレントの映画を見た。富野監督がアレントの思想を元に全体主義をGレコで描きたいと言ったからだ。著作を読んでいる時間はなかったのだ。

Gのレコンギスタ最終回の予習としてハンナ・アーレント映画 - 玖足手帖-アニメ&創作-

アーレントがなんであんなに批判されたのかと言うと、「役割を演じることを放棄して個人的に行動したから」なのでと思った。

つまり、哲学者として、全体主義の起源の著者として、ニューヨーカーの派遣員として、ユダヤ人の同朋として、戦後アメリカやイスラエルの政治的なスポークスマンとして、「あの人はこういう風にナチスを断罪してくれるだろう」という大衆や友人の役割への期待感をアーレントが裏切ったから嫌われたのだろう。

そして、その「役割を演じろ」という社会の感情を体現し、その通りに遂行したのが他ならぬアイヒマンなのだろう。
なので、アイヒマンにユダヤ人虐殺SS中佐としての役割を与えた全体主義と、それについて書いたアーレントを批判した人たちの「人に役割を押し付ける社会的願望」は同根なのではないか。


で、Gレコの話につなげますが。

キャピタル・ガードのタブーとか、マスクを被るマスクとか、列車の運行局とか、ムタチオンしながら千年も黙々とバッテリーを作る金星の人とか、姫であることを期待されるアイーダとか、「役割」への意識はGレコにもあるだろう。

そして、「恵まれた物への憎悪」もマスクとしてあるだろう。

と、「全体主義とは人を歯車として“役割”に押し込めるものだ」という視点をGレコ最終回前日に見ることができたのは僥倖だ。全体主義とは国家総動員体制の大日本帝国とか、ナチスとか、集権的な独裁者ではなく、もっと広い概念として、(今の日本の資本主義社会も含めて)「人を家畜にして役割だけを遂行させるシステムのためのロボットにさせること」なんじゃないのか?と思った。
そう考えると、Gのレコンギスタは分かりやすい悪い独裁者を描かないで(ズッキーニ・ニッキーニ大統領もほとんどが道化だ)、全体主義の空気を描き、それに対する叛逆をラストシーンに盛り込んだのではないかと思える。

全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義

全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義


つまり、作劇のレベルから「役割」や「期待」を裏切る「自由」即ち「元気」を持ったキャラクターたちの新しい旅立ちを描く。その事で、Gのレコンギスタのラストの元気さは弾ける。
リアルに考えて誰それを裁判にかけて断罪する、ということはしない。
クンパ・ルシータ大佐は戦乱を起こした極悪人としての役割を全うさせるように裁きにかけられることも無く事故死した。
また、クンパ・ルシータ大佐はマスクにマスクの役割を与えたり、キャピタル・アーミィをでっち上げて色んな人を役割に当てはめていった人物で全体主義の黒幕とも言える。そんな人間が何の意味も裁きも許しもなく死ぬ。非常に風刺的。



フラミニアはベルリに暴力を振るったが、クン・スーンと同じく許された。
「被害者」とか「加害者」という「役割」、「あいつは加害者だから断罪される役割だ」というアイヒマン裁判すら超越した、大らかで広い「自由」だ。ベルリはそれを見て「すごいなあ女の人って」と、富野監督が描きたかった「女性の復元力」を描いたのだが。
しかし、女性ってもっと恨みがましい生き物だと思うんだが。殺し殺された恨みを捨てた、と言うより、恨みに取り付かれるよりも大らかに地球や世界を楽しみたい、と言う平和な元気を優先させて、そのために憎しみは飲み込んだ、と見るべきだろうか。
また、僕も母親を銀行屋や不動産屋に自殺に追い込まれた。だから資本主義者や特定の会社や人に深い憎しみを抱いている。だから僕は復讐者としての役割を背負ってもいいのだ。
(それをやったのがファーストガンダムシャア・アズナブルだ。)
でも、僕はガンダムを見るのが楽しいので復讐もしていない。役割を果たさなくても、人ってなんとなく生きていけてしまうんですね。まあ、メンヘラなのでバイトも面接で合格できなくてそろそろ貯金が尽きてリアルに死ぬ必要性が出てきました。それもまた、年金を払う役割を果たせと押し付けてくる国の全体主義に殺されそうになっているということなんだ。
だが、Gレコはそんな社会に対してのカウンターを描いている。そして、役割に囚われていたキャラクターのドラマだった機動戦士ガンダムから、脱ガンダムした。


キャピタル・アーミィはある意味でベルリたちと対立していた。だが、そんなアーミィのカットシーがメガファウナを載せたクレッセントシップの世界巡行の船出をチアガールと共に祝う。アーミィの兵士もチアガールの後ろで一般市民と抱き合う。
この、コスモポリタンな許しと平和、そして元気!
アーミィだから、敵対していたから、軍事的衝突があったから、「憎まれる役を押し付けなければ」という全体主義的思考停止に対して、GレコはハッキリとNOと主張している。これはすごいことだ。



だから、ルイン・リーが旅に出たことも大きな意味がある。「クンタラの名誉回復のために英雄」という役割を自分に課して、またマスクとしての兵士の役割をアーミィに期待されたルインだが、クンタラの差別と言うのも社会システムの中での役割ごっこに過ぎないのではないか?ベルリが独裁者に成る血筋だと断じたのも役割の幻想をルインが妄想しただけだろう。だから、旅に出たルインとマニィはもう戦士とかクンタラの代表やベルリへの復讐を果たすと言う役割から解放され、ただのルインとマニィだ。この解放感!元気な旅、そして恋に結び付いてほしい。
※追記 殺すことよりも自分たちが幸せになる事の方が最高の復讐ということかも。





やり過ぎのギャグのような、クリムが父親のズッキーニ・ニッキーニ大統領を潰そうとしたことも、「役割からの解放」というキーワードで見ると、必要なシーンだったと思える。「私の息子も祖国のために命をささげ」というニッキーニ大統領の演説は、つまり「死者ですら政治の役割」に利用することだ。そんな役割を拒否するぞ!私は自由な海賊だ!という天才の熱い親への反抗がクレッセントシップでの演説会場破壊。
ちなみに、富野監督は「あんな大きなもので大統領一人を殺せるわけないじゃん」と言っていて、大統領は生きています。ステアさんが虐殺をするとも思えないので、他の市民も生きているでしょう。演説会場は滅茶苦茶にされたけど。
これはこれで、エネルギー配給をキャピタル・テリトリィとクレッセントシップとアイーダ派が掌握したので、それに対してアメリアが再度攻撃する意思を挫くために「トワサンガの人を怒らせたんだ!」と思い知らせてアメリア軍大統領派への政治的牽制でもあるだろう。なので、天才は親への反抗と同時にアイーダの統治のための助力もしたわけで、やはり天才か。
役割を押し付ける大人への反抗って、少女革命ウテナみたいでもある。
そして、クリムとミックのカップルはメガファウナのクルーとしての役割も拒否して、南の島(太平洋?)へ、二人だけで元気に飛んでいく。

モビルスーツの操縦の天才だったクリムだが、それもまた一つの役割に過ぎない。クリムもまた、ただのクリムに成ったのだ。



また、クレッセントシップが世界巡行の旅に出たのも全体主義への反抗だろう。全体主義は個人が全体に奉仕する思想だが、その中で個人は自分が行っている仕事が世界にどんな影響を与えるか、逆に全体を見ないで無関心な歯車に成る。ヘルメス財団のクレッセントシップのエル・カインド艦長もジット団のクン・スーンも自分たちの組織の主義で視野が狭まった人物だった。
ただ単にバッテリーを作って輸送するだけ、強力なMSで地球への信仰をたくらむだけ。
そんな人たちに、「地球ってこんな所なんですよ!」と見せることで組織の歯車に一人一人の人としての意識を復活させようとしているんだろう。
また、それまではキャピタル・タワーからのバッテリー配給で細々と生きていた地球人は、自分たちのエネルギーがどこから来たかには無関心だったのだろう。そんな人に対して「バッテリーはこの船で運んでいました!」と世界の人に訴えて、人と人を繋げるのは、アイーダ・レイハントン姫の非常に政治的な配慮だ。
そして、無関心だった人々に世界が繋がっていると見せることで、これはこれでゴンドワンとアメリアの戦争の抑止にもなるんじゃないか?人々が一人ではなく繋がっていて、でも自由意思も持っている存在だと示すのは、機動戦士ガンダム 逆襲のシャアのラストの心の光で成そうとしたことを超能力や奇跡ではなく、多様な人が集まった船で行うのは、とても温かみがある。クン・スーンとアメリア軍、キャピタルは互いに殺し合ったので「役割を果たす」という自動思考ではまた殺し合いに成る。だが、そうしないで寄り合い所帯を続ける「許し」がコスモポリタンな平和主義だし、全体主義ナショナリズム愛国心によるヘイトスピーチなどへの富野なりのアンサーになっている。



そして、アイーダはこんなに高い襟のコートで、おそらく日本で降りた時に平和演説をしたと思うのだが。アイーダ・レイハントン姫様は宇宙世紀からの技術を守ってきたレイハントン家の末裔としての役割に殉じる覚悟を持ったのだろうか?だが、役割だけでもないと思いたい。
アイーダ・レイハントン姫は「高貴な姫君」として独裁者に成る事も出来たはずだ。レイハントン家の技術を知るロルッカやジット団を利用する軍事的な強者に成る事も出来た。
だが、アイーダは第16話「ベルリの戦争」で「あなた方に、使命というもの…理想とする目的があるにしても、そのようなものは、わたしはわたし自身で見つけて、成し遂げます!時代は、年寄りがつくるものではないのです!」と、ロルッカとミラジに宣言した。そして、金星に行って世界のエネルギーが繋がっているという事を知った。
そこで、「世界の秘密を知っている人物」という役割を自分だけで独占しなかった。クレッセントシップのクルーやメガファウナの仲間や元ジット団のローゼンタール・コバシとクン・スーンとトワサンガのレジスタンスだったミラジ・バルバロスとフラミニア・カッレと一緒に世界を見て回る。
みんなに世界を見て判断する自由を持とうよ。と。全体主義的に個人は組織の歯車で自分は一部分だけしか見ないで思考停止していたスコード教の世界に対して、最終回で「みんなに知る権利がある」「一人一人は敵だったこともあるし、意見は違うかもしれない。でも世界は一つだから世界を見よう」と共に旅をする。なんて、本当の意味で高貴で広い姫になられたことか…。
カーヒル大尉一人を生き返らせてと泣き叫んだアイーダが、広い視野を手に入れた…。成長したなあ。

今回その事をG-レコでは25話26話で端的にやっています。便利すぎる道具が出来てしまったりしたら、人間っていうのは要らなくなるんですよ、という事をそろそろ思い出して下さい。
AnimeJpan2015 G-レコ関係メモ - シャア専用ブログ@アクシズ

人間が要らなくなるテクノロジー社会で人間が意味を持つのは、見て、判断する力があるからだろう。それをみんなに開放したアイーダは、最高のタブー破りで海賊だ!

  • ベルリの冒険は続く!


ノレド・ナグさんのどこが不満だったのかはわからない。でも、彼女の彼氏と言う役割からベルリは自由になった。チュチュミィの世話の役割を押し付けられたノレド・ナグさんはオツラァイ…。でも、ほら、富野アニメにおいて「幼馴染と言う役割で都合よくカップルにはなれねーよ!」だから。
また、姉としてもアイーダ姫を大好きだったことには変わらないだろうが、ベルリはアイーダ姫のこれからの世界を繋げる政治を補佐するナイトとしての役割からも自由になった。
無責任だろうか?
いや、違うんだ。これは「お前はこういう奴だからこれの役割をこなすべき」という全体主義的な思考停止にアーレント以上に行動的にぶつかり合った話だ。
ベルリは役割を放棄したんじゃない。役割を見つけに行ったんだ。
第1話の感想でも書いた。

Gのレコンギスタ第1話「謎のモビルスーツ」の絵コンテに見る黄金の長方形 - 玖足手帖-アニメ&創作-
アイーダ・スルガンがキャピタルガードに向かって「世界は四角くないんだから!」と叫ぶのは、彼女なりの世界観だろう。

そして宇宙エレベーターを中心としてコの字型の演出が繰り返された世界観の演出を見ると、スコード教は「四角教」と言える。
四角四面な、地球平面説的な上限関係がキャピタルタワーを運営するキャピタルテリトリーと、それを支えるスコード教が世界を支配して、フォトンバッテリーの配給によって独裁をしているので戦わなくてはいけない、と言うのがアイーダの世界観で主義主張

アイーダは最初から「世界は丸い!」と訴えていて、これはラストのクレッセントシップの世界、太陽系一周に通じる。
で、逆にベルリは最初は「親がキャピタル・タワーの運行局長だから、親を助けるキャピタル・ガードに成るべき」「自分には才能が有るのでそれを生かす仕事を目指すべき」という感覚で進路をキャピタル・タワーの直線の世界で決めきっていた。
物語が始まってもベルリは徹底的に受け身で「借りは返すべき」「キャピタル・ガード候補生としてアメリアの軍を探るべき」「アイーダさんと母を守るべき」「宇宙からの脅威に対抗すべき」「レイハントン家の義務を果たすべき」「姉の宇宙の海の夢を支えるべき」「戦争の根っこを取り除くべき」と、直線的思考と義務感で動いていた。そして、才能があるのでそうやって役割を演じることはできてしまっていた。
自動的に生きていたと言ってもいい。
その果てに、彼は争いの根っこだと思っていたカバカーリーが単に自分に嫉妬しているだけの先輩だと知った。
争いの根っこなんかなかったんだ。戦いはあるし、社会に矛盾はある。だが、世界の歪みや絶対悪という都合のいいものはない。じゃあ、どうしたらいいんだろう。
それだったら、自分で見てみよう、船からだけじゃなく、陸路で、その土地の人と触れ合いながら世界を知ろう。
「学校に行って公務員で決められた仕事をこなそう」と思っていたベルリが冒険を経て「なんのために働くのか、世界を見てみよう」と言う発想を得ただけ、大きな成長だったと思う。その程度の自分探しと言われるかもしれない。でも、ベルリは天才で今までなんでも出来て期待に応えて役割をこなすことは誰よりもうまかった。ある意味、ベルリが一番全体主義的で独裁者に成る資質があるというマスクの言葉は正しい。
そんなベルリが誰にも期待されないで誰も自分を知らない所で、自分に何ができるのか、世界を見て自分が何を感じるのか何をしたくなるのか、わからないことに挑戦するって言うのは、ものすごい冒険だと思う!


そして、きっとベルリは自分が本当になすべきことを見つけるだろう。姉が太陽系一周するんなら、ベルリは世界一周だ!
ノレドともアイーダとも離れるけど、離れていても世界を見たいという気持ちは同じだ。それって、「ふたりのまほう」ですね!

ReBirth [ガンダム Gのレコンギスタ Edition]

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ふたりが遠くなっても、あの日が遠くなっても、通じ合っている…。
だから孤独ではない。
そして、これまでの冒険で多くの仲間に出会ったベルリなら、シルクロードを日本からエイジア・ゴンドワン・そして再びアメリアに至るまで歩く中で、西遊記のように新しい仲間や土地の人との絆を作ることができるだろう。
だから水平線の向こうも明るい。
そして、ベルリは走る!元気に走る!
元気のGだ!


役割とか罪とかしがらみとかやらされることから解放された自由な元気!
ああ、なんてすがすがしいラストなんだ。


うん。三十路の僕はともかく、戦争したってベルリもルインも人生は17や18,19で決まらないよ!元気に色んなものを見て、そして生きてくれ!
そして、ベルリ以外の人も生きている。

富士山の形が変わっているように見えるし、三つ富士という言い方はちょっとよくわからないんだが。噴火したのかな?それくらい時代が経っても、日本人はしぶとく生きている!富野監督に似た声の井荻翼さんが声を当てた農家のお父さんも元気に生きてる!
(富士山の形が違って見えるのは、小田原から箱根を経由して見ているからかな?やっぱり、富野監督は小田原なのだなあ)


そして、作ってくれたスタッフのみんなに、感謝の心を!

  • スタッフ

脚本:富野由悠季
絵コンテ:森邦宏、宮地昌幸斧谷稔
演出:森邦宏、松尾衡
作画監督:[キャラ] 吉田健一 [メカ] 桑名郁朗 [戦艦] 仲盛文 
     中谷誠一 柴田淳 玉川真吾 田頭真理恵 黒崎知栄実 城前龍治

















※追記
ベルリがシャンクに乗っていて大地に立ってないって言う意見もあるけど、ベルリは騎乗スキルの人なのでこれで良いんだよ!徒歩でゆっくり下山するより、馬のような乗り物で砂走するのが疾走感があるし。現実的にも世界一周は乗物があった方がいいし。「大地に立つ」と同時に「翔べ!ベルリ」でもあるし。
また、シャンクはMSの基礎技術を応用したロボットなんだけど、それを「技術は戦争を招くからよくない!」って禁止するんじゃなくて、人の運動に寄り添ったロボットは良いものとして描くことで、人と道具の道徳的な使い方と言うテーマも表している。だからベルリがシャンクに乗っていていいんだ!
っていうか、シャンクに乗っているシーンが映っているだけでベルリが一度も大地に立ってないと思う視聴者って視野が狭いだろ。降りて整備したりキャンプすることはあるだろ。ルインみたいに。想像しなさい!

  • まだまだ続くぞ!

3月29日の0時くらいからファンラジオ・Gのレコンラジオの最終回があって、石井マークさんと富野監督のサシのラジオが行われます!
https://radio.bandainamcoid.com/title.php?rid=g-reco

まだまだ第1回から全部アーカイブで聞きたくなくても聞く!


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