玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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うみものがたり〜あなたがいてくれたコト〜最終回12島の心 人の心

亀の言動などをみると、これはもう、海のトリトン展開になるに違いないと、それは思っていた。
つまり、カメがトリトンのルカーのような、「掟や伝承を理由に、若者に戦いを強要する海の年老いた生き物」だったしねー。
だから、セドナの正体をどのようなものにするか、それは興味があった。
トリトンでは、トリトン族の方がひどいことをポセイドン族にしたから、ポセイドン族に逆襲されている、という話だった。だから、うみものがたりも多分、人間の罪が関係しているのだろうとは思っていたのだが。
トリトンよりは、精神的で、やわらかで、さわやかなラストになったのは、富野由悠季ではなく佐藤順一だからか、女の子が主人公だからか?
トリトンは日常をなくし、すべての事情を秘めて、青年が旅立っていくという出崎アニメのようなハード・ボイルドだったが。
うみものがたりはさわやかだったなあ。
37年前のトリトンは、ベトナム戦争や公害などの影響も受けてたけど、うみものがたりは、海の自然の話なんだが、そういう自然対人というモチーフはない。
代わりに、田舎、というより地方都市に住んでいる少年少女の、心の悩みがテーマになってたのかなー。
それが途中から昇華されて、心の悩みを持った普通の人間の女の子が、光と闇という物語の中の極端な心の持主のバランスを取る、というようなものか。
ウリンの
「お姉ちゃんがわたしを嫌いになったら闇の心がうんぬん」「私の光の心がセドナを封印するうんぬん」
とか
亀の松本の
セドナの闇が云々」
とか
マリンの
「みんなあいしてる!」
って、まー、記号的というか、作中の設定だなー。説明セリフっぽいなー。と、思った。
海びととセドナはなんか、おとぎ話っぽいな。プリンセスチュチュの世界の人みたいだな。
プリンセスチュチュも極端なおとぎ話の世界だった。
で、大ガラスと王子の極端な戦い自体は、プリンセスチュチュでは少し消化不良だった。
今回のうみものがたりでは、人間の夏音(プリチュだったら”ふぁきあ”と”あひる”の位置だ)が、極端な光と闇の心の戦いも「普通の心だよ」
って。
そんで、めでたしめでたしと。
同時に、人間の女の子も自分の感受性の振れ幅を受け入れてよかったよかった。と。
よかったねえ。
うん。
さわやかな佳作で良い。


サトジュンはカレイドスターでもちょっと説明しすぎだなーって言う部分があったんだけど。
今回も設定云々は細かく説明してたけど、ウリンが消えようとしてマリンも夏音も泣いてるところとか、夏音がマリンと小島に好きって言うところとかは、説明関係なく良かった。うん。


宮原永海はあれでいいんじゃないでしょうか。