玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

二千年代の創造神富野 IV章 解釈できない富野由悠季

これはアニメ批評同人誌アニメルカvol.2に載せたものの字数制限を解除し、加筆修正した物。
おそらくこの章で宇野常寛さんの怒りを買ったと言うか、買わせた。というか、読んでくれたと言う事が驚きだよ。
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http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20101230/1293720279
俺ならツイッターで俺の悪口を言う人は無視する。
↓3章まで
二〇〇〇年代の創造神、富野由悠季のアニメる力・目次 - 玖足手帖-アニメ&創作-


 富野は宗教的エネルギーを持ちながら、教祖として祀り上げられることを拒否し、教義を固定もしない。つまり、論理的に正しい批評が不可能と言う事である。なぜ批評が不可能かと言うと、富野作品に対してある判断を下すと、その瞬間に反証が浮き出るという矛盾と迷いを抱えた作家だからである。
 例えば、宇野常寛氏が『ゼロ年代の想像力』で富野作品の「母性の暴力」について書いた批評への反証を加えよう。

逆襲のシャア』はララァという「母親」の胎内から脱出できずに死んでいくシャアとアムロの物語。
(宇野常寛ゼロ年代の想像力』、二一一頁、早川書房、二〇〇八年)


と、言われても。シャアが「ララァは私の母になってくれたかもしれない」と言ったのは、シャアの本心か? シャアはその直後の「そのララァを殺した貴様に言えたことか!」との言葉で、戦闘で完敗したアムロの心だけでも最期に傷つけたかっただけかもしれん。あるいは王子のシャアが奴隷のようなララァの犠牲でガンダムから命を救われた事を第二の誕生=「母」と表現したのかも知れず、その概念が一般的な母の概念かどうかも怪しい。
 アムロの側にしても浮気をする母を、母と言うよりメスとして見ていたかも知れず、娼婦ララァアムロに対して理想の母を演じて気持ちに付け込んだのかも知れず、それが母と呼べるのか怪しい。

『Vガンダム』は、主人公の少年・ウッソの社会的自己実現(として周囲の大人達が期待すること)=モビルスーツに乗って戦う事を嫌悪して「自分のテリトリーから外に出ないで」と彼を取り込もうとする幼馴染の少女・シャクティ
(宇野常寛ゼロ年代の想像力』、二一一頁)


と、言われても。MSに乗って戦う前からウッソは農耕牧畜で既に自己実現をしていたのかも知れず、シャクティは母と言うよりウッソに養われていた妹かもしれない。なら、母とは逆なのではないか。悪女として宇野氏に言われるように「カテジナは母性を持たない『究極の他者』」なのか? カテジナこそが理想の父親を求めていたただの少女だったのではないか?それに「究極の他者の女」を獲得することが男の成熟か?
などなど、数え上げればきりがないくらい、富野作品には相反する人間的要素が圧縮されて詰め込まれている。だからこそ、長い期間に渡って鑑賞に堪える。自分が加齢して初めて分かる感情もある。そんな楽しみが在るから、僕のような人間は歳を取るのが多少は怖くなくなった。
僕は宇野氏のように「自分の主張を補強するためにガンダムの知名度と一場面を借りる」というスタンスはあまり好きではない。富野は宇野氏がツイッターで僕に言ったように多面的な人物を描いているのだ。だから、その一面を取り上げて自分の著作に利用するのは、なんというか、すばらしい登場人物達に対して不誠実なんじゃないかなって思います。現実の人間ごときが。


宇野氏は富野作品の母性的な面について以上のように批評したが、富野は『ブレンパワード』のとてもかわいくて自然体でやさしい宇都宮比瑪について、こう述べた。

「あのようにあって欲しいという願望表現だと思っているんです。だから僕が今とても気になっているのは女性側から『え、こういうことを要求しているの、あんたは?』もしくは『こんなもんよね』と言われること。非難がましく言われると、ひどく困っちゃうというのはあります」
(中略)
「母性というのは本来そうであるべきだという理念があるのと、コギャルレベルの感性での『そんなの迷惑よね。私はたかがひとりの女でしかないのに』というルックス感やプレッシャーという風に、子供たちを思わせてしまっている不幸な環境を男たちが作ってきました。だから比瑪みたいな女性たちを手に入れるためには、実は男社会が遺産を作ってあげなければいけないのではないか」
(『富野由悠季全仕事』二八八頁)

また、富野由悠季の思想が時代によって変わるのと同時に、同じ作品の中でも主張が食い違っている場合もある。
イデオン発動篇』で「なぜ、私たちは生きてきたの!」と絶望したイムホフ・カーシャは、生き切った後に同様に問うユウキ・コスモに「そんなことない。飛んでごらんよ!」と笑いもする。
作品の制作事情にも一長一短が混ざっている事例が在る。『ダンバイン』において終盤で異世界からロボットたちが現実世界に出たことに対して「スポンサーの都合でファンタジー世界を捨てた」と言われる面と「逆に物語が具体的に広がった」という面もある。
 作者が意図的に物事を多面的に描いたのかもしれず、偶然多面的になったのかもしれず、偶然歪んだものを意図的に利用したのかもしれない。精巧のようにも見えるし、だからこそ欠けやすく歪なのかもしれない。富野自身が固定化を拒む人間だからだろうか。また、受け手も固定化せず成長もすれば老化もし、思い出にしがみついたり忘れたり、現実も虚構も自分に都合よく解釈するオーガニック的な存在なのだ。男性視聴者と女性視聴者でも、悪女やイケメンへの感性は違う。ならば当然解釈の正当性は無効である。残念ながら、アニメ作品は数学のように解析できないのだ。というか、この世で解析できるのは数学だけだ。
∀ガンダム』においてはコレン・ナンダーやグエン・サード・ラインフォード、レット隊など一人の登場人物の中で善人と悪役が混濁し、解釈どころかキャラクターに対する視聴者の観賞場所、(倫理的・感情的)立ち位置も定まらなくなっている。
オーバーマン キングゲイナー』は一見すると超能力を持ったロボットが暴れまわり、最後は取ってつけたようなラスボスのオーバーデビルと戦うバカアニメである。が、『キングゲイナー』同時に『戦闘メカ ザブングル』の後半で目立ちすぎた「デザインされた歴史のレールをなぞる未来地球での宗教戦争」や『ブレンパワード』で描かれた「女三代恨み節」(シンシア・レーンの血脈)、等という重たく暗い裏テーマを巧妙に隠し、娯楽作品の仮面をかぶっているようでもある。


 では、私が今、反証した事が正しく、他の人が言っていることが間違いかと言うと、そんなわけでもない。
 ただ、私が確信する事は、「二行で説明できる程度のテーマの作品なら、それはつまらないだろう。富野作品は矛盾を孕むから三十年も語り続けられるのだろう」と言う事だけだ。
 「僕が感動した富野作品はこうじゃないはず」「富野作品はこうだ」と決めた瞬間に、新作富野作品を見る目が曇る。
「こんなはずじゃない!」そして、富野作品の魅力は去る。故に私は富野作品への評価は常に流動化させ、その瞬間瞬間に目の前の作品と正対して楽しみたい。
アニメを見る時ぐらい、楽しんだ者勝ちでいきたいじゃないの。

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