玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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無敵鋼人ダイターン3第40話最終回 万丈、暁に消ゆ そして日輪の神は

脚本:荒木芳久 絵コンテ:斧谷稔 演出:小鹿英吉 作画監督:塩山紀生
最終決戦である。メガノイドの巨大惑星移動ブースターにより、唐突に火星が地球にぶつかる軌道になるという荒唐無稽な事態となる。それと言うのも、破嵐万丈ダイターン3の活躍によって人類総メガノイド計画が遅れ、コロスが焦ったからである。

戦いの中でダイターン3を万丈に奪われた事がこれほど人類メガノイド化計画を遅らせるとは思わなかったコロス。彼女はドン・ザウサーの理想を信じていた。人類がメガノイド化して宇宙へ飛びだせば、地球において人類同士が争う事はない。永遠の平和を達成する事が出来ると。メガノイドを生んだ破嵐創造の息子・万丈が何故メガノイドと戦うのか。そして自分にメガノイド化計画を託してドン・ザウサーは何故意識を失ってしまったのか。コロスは初めてドン・ザウサーへ弱みを明かして泣きすがる。コロスは火星を地球へぶつけてダイターン3を葬り去る最後の作戦を遂行する。その勢いに乗じて一気にドン・ザウサーに人類を従えようと。コロスはコマンダー、ソルジャーの大軍団の指揮を執り地球へ進撃する。
http://higecom.web.fc2.com/nichirin/story/story40.html

対して、破嵐万丈たちの一人一人、万丈、ギャリソン時田、ビューティフル・タチバナ、三条レイカ、トッポの5人はそれぞれマサアロケットに乗り込み、火星まで突撃する。
マサアロケットのデザインはヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qの2号機のブースターのようだ。また、ロケットらしく戦いの前にブースターを分離させ、レーザーで戦い、被弾するとコックピットブロックだけさらに分離させて地球に戻るなど、ロケットマニアの富野監督らしい、宇宙ロケットの分離する性能を生かした戦い方で面白い。もちろん宇宙船の色は白だ。
主人公側が量産型兵器を持ちだすというのはガンダムに通じるシリアスさ。また、対する敵も今回はメガボーグが出てこないで宇宙戦艦タイプのデスバトルと、ガンダムジオン軍の小型宇宙戦闘機ガトルのような小型メカのアイ・アイ編隊だけで、ダイターン3が火星に出現するまで、ロボットバトルは無い。万丈たちの5機のロケットがメガノイドの宇宙戦闘機艦隊の陣地を切り崩すという地味でハードな宇宙空間戦闘が行われる。ギャリソンが指揮をする4機のロケットは菱形の陣形を取り、バラバラになると袋叩きになると注意しつつメガノイドの艦艇を削る。メガノイドの指揮官は最初に突撃してきた1機を斥候と誤認し、4機の中に破嵐万丈がいると思い込んで戦力の2/3を後発の4機に向ける。しかし、破嵐万丈が乗っていたマサアロケットは最初に突撃した1機目であり、万丈は手薄になった所からメガノイドの本拠地の火星に侵攻する。
司馬遼太郎の艦隊戦小説や三国志演義のような軍記物のような戦法である。富野たちの世代の趣味性がうかがえる。ダイターン3の試作量産型は前回34話で破壊されたようで、今回は出てきていない。それで、万丈のロケットだけダイターン3を搭載している分だけ動きが遅い、と言うのも地味にリアル志向。そして、敵は動きの速い後発部隊の方が性能が高い本命だと誤認するのも戦記ものっぽい。


さて、各論の考察に入ろう。

  • 平和を愛するメガノイドの未来への希望

今回、初めてコロスは泣く。意外だった。割と序盤から、私はドン・ザウサーは寝たきりで昏睡状態の脳だけのロボットで、生かさず殺さず留め置かれたその立場だけをナンバーツーのコロスが利用して、彼の言葉として自分の命令を部下に押し付けていたと思っていた。コロスはドンの立場だけを利用して自分が影の支配者になろうとしていたのだと思っていたが、意外に純情だった。
コロスには個人的な野望は無かった。
「人類がメガノイド化して宇宙へ飛びだせば、地球において人類同士が争う事はない。永遠の平和を達成する事が出来る」というドン・ザウサーの理想を純粋に信じ、それに囚われた女性だった。

「おっしゃってましたね、あなた。メガノイドの力があれば、人類は地球以外の星に進出していけると。そうなれば、地球上で人間が殺し合ったり、戦いを起こしたりすることが無くなり、人類は永遠に平和になる。それなのに、あの破嵐万丈。なぜ、メガノイドの原型サイボーグを開発した、あの破嵐創造の子供が、あなたの夢を壊そうとするの」
「あなたは、御自分の夢を私にお話になったまま、意識を無くされた。お恨みもうします。私にだけやれとおっしゃったあなた」
「女の浅知恵とお笑いください。火星を発進させ、ダイターンもろとも、万丈を倒します」

そして、ドン・ザウサーを深く愛し、自分に理想を託したまま意識不明になってしまったドン・ザウサーのことを真剣に悲しんでいた。これまでのメガノイドのコマンダーたちはスーパー人間という超人的な力を機械仕掛けのメガノイドになることで、エゴを強化されて自分のやりたい放題の趣味を炸裂させるというクズばかりだった。なので、その大元のボスであるコロスは、どんな「エゴ」を持っているのか?
と期待していた。
そして見てみると、コロスは「自分がエゴを持っていると気付いていない究極のエゴイスト」だった。「地球の平和のため」「人類が機械の体を手に入れて永遠に存続するため」という、究極の公に尽くす人だった。
「ドン・ザウサーの銀河帝国」と言うのも、ロボットアニメやスター・ウォーズによくある悪の「銀河征服」とか権勢欲ではなく「人類の文化を銀河に広げて永遠に存続させる」という理想だったのだ。
まあ、そのために人間をソルジャーに改造して奴隷にする、と言うやり方は間違っているというか急進的で暴力的であったので、万丈はそれに反発したのだろうが。
この、「自分たちの体を改造して銀河に羽ばたく勢力」と「人間の体や心を保ちながら、ロボットを使って戦う主人公」という図式は翠星のガルガンティアのイボルバーと人類銀河同盟の関係にも似ている。ダイターン3のモチーフは21世紀に入って13年もたった後のロボットアニメにも通じるエッセンスを持っていたのか。
もちろん、銀河に飛び立つ人類の進化、と言うのは機動戦士ガンダムシリーズ(外宇宙に飛び出すのはVガンダム∀ガンダムの時代だが)やブレンパワードのオルファンの飛翔に通じるSF的アイディア。
しかし、70年代のスペースオペラ的なSFだと、例えばジェイムス・ティプトリー・ジュニアの「たったひとつの冴えたやり方」シリーズやスター・トレックシリーズなど「人類が銀河に広がることは良いことだ。人類はたくさん繁殖すべきだ」という旧約聖書的な思想を「善」としているが、ダイターン3は主人公がそれを否定している、と言うのが面白い所。
ガンダムでもNTは宇宙に飛び出すが、宇宙に飛び出した新人類の新しい活躍よりも∀ガンダムでは「地球に取り残された人々」を描いている。また伝説巨神イデオンでも、2種類の人類がアンドロメダ銀河を挟んで宇宙の広大な領域に進出したが小さな人としての業を乗り越えられない、と言う風に描いている。ポジティブに技術を礼賛する明るい銀河進出については、割と富野監督は否定的なのかもしれない。(まあ、ティプトリーは自殺したのだが)
しかし、否定的でありながらも富野監督は銀河旅行と言うモチーフを何度も描いているし、そこは少年時代からのロケットマニアとして愛憎相半ばするところなのかもしれない。最新作のGのレコンギスタも最終的な目標を銀河旅行とする団体が登場するらしい。


そして、コロスやドン・ザウサー、あるいは破嵐創造は人類の銀河での恒久平和と言う理想を掲げてメガノイド化計画を発案したのだが、その高貴な理想も手下のコマンダーやソルジャーには伝わらず、一つにまとまった団体になることはなかった。あるいは、コロスとドンの理想すらも他のコマンダーと同じく「エゴ」の一種類に過ぎなかったのかもしれない。
そう考えると、非常に恐ろしい底知れないテーマ性を帯びているのが無敵鋼人ダイターン3だと思える。(中だるみもひどかったけど)

  • コロスは代弁者 ドン・ザウサーと万丈の間のエコー

あんまりちゃんと調べてないけど、wikiによれば

コロス(古代ギリシャ語: χορός, koros、 英: chorus)は、古代ギリシア劇の合唱隊のこと。ギリシア悲劇の中のディテュランボスおよびtragikon dramaから発生したと信じられている。コロスは観客に対して、観賞の助けとなる劇の背景や要約を伝え、劇のテーマについて注釈し、観客がどう劇に反応するのが理想的かを教える。
コロスは主要登場人物が劇中語れなかったこと(たとえば恐怖、秘密とか)を登場人物に代わって代弁する。
ソポクレスのテーバイ三部作の中で、コロスは全知の解説者の役割を果たし、しばしば物語の教訓性を補強した。コロスは「解説者」と「登場人物」の中間に位置するようになり、登場人物である時は、他の登場人物たちに彼らが必要とする洞察を与えた。


コロスには、1〜3人の俳優で演じられる劇を説明して助ける役割があった。古代ギリシアの円形劇場はとても大きかったので、遠くの観客にもわかるよう動きは誇張され、また発声もはっきり聞き取れるようにした。技術的には、シンクロニゼーション(同期性)、エコー、波紋、身体表現を駆使し、仮面をつけていた。

とのこと。


脳だけが昏睡状態にあって語れないドン・ザウサーを代弁していたコロスは、まさに代弁者だった。
最終回まではコロスが影の支配者を狙う女かと思っていたが、そうではなく、本当に代弁者に徹していたのが恐ろしい。
何故かと言うと、「自分のやっていることは愛する人の意志の代弁で、自分のエゴではない」と自分のエゴイズムに気づかないのが究極のエゴイストであるからだ。だから他人の痛みなどに頓着せず冷酷にこれまで作戦を展開してこれたのだろう。
そんなコロスはドン・ザウサーへの愛情が肥大化してそれ以外の事は考えられないようになっていた。

コロス「ば、万丈…… なぜドンの心をわかってくれないのですか!」
万丈「僕は憎む! サイボーグを作った父を…… まして僕の母も、兄も、サイボーグの実験に使って殺してしまったことは許せない! ドンもあなたもメガノイドを名乗ってスーパー人間と自惚れる! それを憎む!!」
コロス「人類が宇宙に飛び立つ時代には、ドンのお考えは正しいのです!」


万丈の銃が火を吹き、コロスがハチの巣となって倒れる。


コロス「ば、万丈…… あ、あなたって人は……」
万丈「あなたがいい例なのだ、コロス…… ドン・ザウサーへの想いが、愛情だけが心の中ですべてを占めて、ほかのことを何一つ考えられないメガノイドになっている!」
コロス「あの人を愛することは、私の命なのですから……」
万丈「みんな父の亡霊を背負って僕の前に現れるに過ぎない……」
http://neoending.web.fc2.com/anime/magyou/daitarn3-ed.htm

ギリシア演劇のコロスはエコーや仮面の技法を使っていたと言うが、ダイターン3のコロスも「ドン・ザウサーの理想を実現する愛」を自分の中で永遠に反響させていたエコー(これもギリシア神話の妖精の名だ)によって一念を増幅していった女性だと言える。そして、その反響を万丈は「父の亡霊」と言う。


そして、さらにすごいことに万丈にコロスが殺されそうになった時、彼女の脳波は昏睡状態にあったドン・ザウサーを目覚めさせたのだ!
つまり、コロスは少人数で演じられるギリシア演劇における演劇の補助役のナレーターみたいなものなんだが、そのコロスが殺されそうになるとラスボスがよみがえるという構図は、つまるところこの無敵鋼人ダイターン3と言う物語は破嵐万丈と父破嵐創造(ドン・ザウサー)の二人芝居に過ぎなかった、ということも暗示させているのだ。あんだけロボットや美女がたくさん出ても、それは本筋ではなく、「父と息子の確執」が劇のテーマだと言っているのだ。

  • 破嵐夫妻はドンとコロスなのか?

基地の奥から亡霊のごとく現れ出でたドン・ザウサーは万丈の首を締め上げながら「コロス  お前を傷つけるのは── だ── 誰だ──」
と、コロスの事を愛しながら、万丈を殺そうとする。抵抗する万丈。

ドン「この力── お前はメガノイド── なのか──」
万丈「ぼ、僕を忘れたのか……? 破嵐万丈を!」
ドン「万丈──? あの破嵐創造の息子──?」


万丈「そうだ!」
ドン「万丈は子供だった── 私は── 今まで何をしていたのだ? ──万丈?」
万丈「コロスに利用されていたんだよ。人形のようにな!」


ドン「わかったぞ万丈── お前だな? ──コロスをいつも悲しませていたのは!」

ドン・ザウサーが破嵐創造の成れの果てか、36話で声が同じ信沢三恵子さんの万丈の母がコロスなのかはハッキリと明記されていないため、ファンの中でも意見が割れていて推測の域を出ない。その事がまた神話性を高めている。
ちなみに、マサアロケットのコンピューターの声は間嶋里美さんで、12話で万丈を脱出に導く母の声は沢田敏子さん。


コロスとドンが「“あの”破嵐創造」と言っているので、自分と破嵐夫妻が別個体だと自己認識しているっぽい言葉づかいだが。しかし、万丈の父への憎しみはドン・ザウサーへの憎しみと同じくらいなので、万丈はドン=創造だと思っていた、と、私は解釈する
他の富野ファンの意見も拝聴すべきだが…。富野ファンの間でも21世紀に入っても解釈はバラバラのようね。

「ドン・ザウサーとコロスは万丈の両親なのか?」説についてちょっと考えつつ色々。
『ダイターン3』落ち穂拾い3:ドンとコロスに関する一考察 - ものかきの倉庫
幼年時代の万丈は、手品師エドウィンと会っている(地球?)」
「旧式のメガノイド・ウェナーに対し、機能停止前のメガノイドがそうやっているのを火星でよく見た、という万丈の台詞」
「火星脱出時の万丈は、少年期と青年期の中間ぐらいの顔立ち(これは主観的類推)」
「火星脱出に、万丈の母は存命。ただし、姿は明確にされていない」
「ダイターン3はメガボーグのプロトタイプ」「つまり、万丈の火星脱出時点では、メガノイド→メガボーグの技術は未完成」
「ただし、最終話のドン・ザウサーのように、外部システムを使えば巨大化可能?」
「破嵐創造の助手であったミナモトは、万丈を逃がした後も、メガノイドのもと火星で人間のままサイボーグの研究を続けていた」
「万丈の母と兄は破嵐創造によって初期型メガノイドの実験に使われて死亡している」
「ただし万丈にとって、メガノイドになる=人間としての死、であり、必ずしも厳密な死亡と同一ではない」

破嵐創造→ドン・ザウサー
万丈の母→ コロス
万丈の兄破嵐大胆→試作型メガノイド→ダイターン3
破嵐万丈→???


いつぞやのネタですが、こう考えると燃えるよな。
最後の二項はさすがに妄想ですが、前の二項は確信犯だと思ってます。
TOMINOSUKI / 富野愛好病 破嵐万丈に関するメモ(随時更新)

しかし万丈の父への憎しみっていうのは尋常ではないですね。「僕の、僕自身の力だ!僕自身の力なんだ!父さんの力など借りはしない!」って、コンプレックスですよねぇ。
 それから、コロスの最期を見届けて、「僕は・・・嫌だ!」って言うのも解釈に悩まされるセリフで。
 もちろんこの最終回、絵コンテは斧谷稔ですが、どう見直しても、何度見ても、すっきりとはしないところが逆に深く印象付けられるラストなんでしょうね。ドン・サウザーの正体は破嵐創造その人だったのか、コロスは万丈の母と無関係だったのか、万丈は本当に純粋な人間だったのか、そして最後にどうなってしまったのか・・・。いろんな重要なポイントが説明されずに残されたままで。ドラマの作り方として、謎を残して終わるやり方というのはもちろんありだと思うし、そういうもののけっこう先駆的な例になるのかな、と思うところもあるんですが、ここまで確信犯的にやられると、少ししんどくも思われます。
無敵鋼人ダイターン3 第36話~最終話 囚人022の避難所


などと、色んな富野ブロガーさんが意見を残しています。

  • 単純に考えると万丈はエディプスコンプレックス

何故かと言うと、今作のコロスの元ネタのギリシャ演劇のコロスが登場するテーバイ三部作がまさに「オイディプス王」の話なので、そのまんま「これは父殺しの話ですよ」ってメタ的にネタばらしをしていると考えていいと思います。そういうパロディネタを挟むことで劇中の説明を省いてテンポをアップさせているのだと思う。元々、映画やロボットアニメのパロディが多いダイターン3ですので、最終回にギリシア神話をパロディの元ネタにするのはあり得ると思います。


そう考えると、オイディプス王になぞらえると万丈はドン・ザウサーを父・破嵐創造の成れの果ての父の亡霊と知っていたが、コロスが自分の母親だとは思っておらず、殺してしまった後に(オイディプスだと交わってしまった後に)母だと気付いて「僕は…嫌だ…」となったと考えると悲劇性が増す。
オイディプス王の演劇は野村萬斎バージョンの録画しか見ていない不勉強ものなので、コロスの演出についてはあまり偉そうなことは言えないのだが。ほとんどwiki情報ですよ!


また、火星を逃げ出した破嵐万丈が両親の末路についてどういう認識を持っていたのか、と言うのも曖昧です。36話にコマンダー・プロイトの幻術によって万丈は両親と兄の幻影、父によってメガノイドに改造される母と兄を見るのだが、それは「もっとも幸せでもっとも辛い夢」なので、事実かどうかは曖昧なのである。
それ以上に興味深いのはドン・ザウサーが「万丈は子供だった── 私は── 今まで何をしていたのだ? ──万丈?」と問いかける事です。つまり、ドン・ザウサーは万丈が子供のころにすでに昏睡状態になったということです。そして、最終回のコロスの証言によれば脳だけが生き残っているのです。そして、それを知っているのはコロスだけなのです。
脳だけが生き残っていると言えば、第25話「提督の生と死と」(富野絵コンテ回)で、脳だけが戦艦に移植されたマゼラン提督についてコロスが「メガノイドの究極の姿」と言った事も思い出されます。と、すると逆にコロスが究極的に仕えるドン・ザウサーもマゼラン提督と同じ「メガノイドの究極の姿」で、機械に移植された脳(物理的に生体のままの脳が移植されたのではなく、バイオコンピューターへの脳のデータコピーかもしれない)のことを指しているのではないかと言う推理が成り立つ。そして、その秘密は一般のコマンダーは知らない。なぜなら、脳移植された機械仕掛けのマゼラン提督に対して、コマンダー・カタロフは「私はあんなものにはなりたくない!」と言って自殺したからだ。
バイオコンピューターに人格がコピーされたラスボス(そして父親)と言うと、ガンダムF91の鉄仮面(原案)やクロスボーン・ガンダムのドゥガチなど他の富野作品に登場する。


そして、もし仮にコロスがメガノイドにされた万丈の母だとすると、彼女は万丈とダイターンを地球に逃した後、火星で人間の状態で病に倒れた破嵐創造(メガノイドが病気になることは考えにくい)を、彼女(とミナモト)がドン・ザウサーのボディに移し替えたのではないか?という邪推もできる。だが、本人である創造の技術が無かったために完全な移植には失敗し、ミナモトは発狂しドン・ザウサーは昏睡状態になったと思える。
そんな風に指導者である破嵐創造を失ってもメガノイドたちは(コマンダーの趣味的な逸脱はあっても)ドンを筆頭にした独裁統制を執っていた。破嵐創造は名前の通り創造主のような存在であったと思える。メガノイドのリアクションでも創造とドン・ザウサーの区別は曖昧であるし、技術的な指導者の創造と政治的な指導者のドンが別人という描写もなかった。なので、創造がザウサーを自称し始めたと言えよう。ドン・ザウサーと同じように時計で変身するコマンダー・キドガーも万丈の幼馴染の木戸川だったので、自分の名前をカタカナにもじる文化はメガノイドにはあったと思える
(また、万丈は破嵐創造と同じくらい強くドン・ザウサーを憎んでいるので憎しみの筆頭が二人もいるとは考えにくい。)


では、どうやってドン・ザウサーが昏睡状態にあってもコロスは秩序を維持できたのか?
(側近に対して「ドンと私の関係を知っていたのかもしれない……ドナウン。これで良いのかもしれない」というコロスの発言もあるので、コロスはドンと自分のあいだの秘密に自覚的だ)
コロスはドン・ザウサーの発光や吐息に応じて、さもドン・ザウサーが言っているかのように代弁してコマンダーたちに命令を下していた。なぜそれができたのか?
それは、こうは考えられないだろうか?男が理想のガイノイド(女性型アンドロイド)を作る時の考えである。
つまり、コロスは完璧に愛するドン・ザウサーの思考をトレースして「わかってくれる」理想の思考パターンを持ったメガノイドというプログラムを植え付けられていて、それ故に「わかってほしい」本人の意識がなくなった後も完璧に本人であるドンの思考に沿った行動をして、彼と同じような政治が行えるようになった、と言う。
また、コロスが代弁者と言うのも、元ネタのギリシャ演劇の手法です。
主人公の万丈もコロスに対して「ドン・ザウサーへの想いが、愛情だけが心の中ですべてを占めて、ほかのことを何一つ考えられないメガノイド」と言っている。なので、その愛の力によってメガノイドは統治されていたのだろう。


そして、この私の推論によれば、ドン・ザウサーのボディに破嵐創造の脳かその思考のコピーを移植しているので、「“あの”破嵐創造」とコロスとドン・ザウサーが別の個体として認識することも可能になる。メガノイドになった時点で、有機体だったころの名前は別の個体として考えられるほど機械的に発狂しているのかもしれない。メガノイドの究極を目指したドンとコロスは愛の力によって過去の自分が分からないくらい発狂しているのであろう。


私の推論解釈の時間列を整理すると、
1、破嵐創造、ドン・ザウサーを自称し火星にメガノイド組織を立ち上げる。
2、万丈の兄、メガノイドの実験で死亡→ダイターン3の原型になったか?
3、万丈の母とミナモト、創造に反乱、ダイターン3とマサアと共に地球に逃がす。(マサアのコンピューターには万丈の母に似た母性的な人工知能が組み込まれていた?)
4、万丈の母、夫であるドン・ザウサーに息子の記憶を消去された上で(そうしなければふたたび反乱する)、処女の肉体とドン・ザウサーを愛するだけの思考を持ったメガノイド・コロスに改造される。
5、ドン・ザウサー、病魔に犯され、コロスの手によってスペアのボディに再インストールされる(その際に自分が破嵐創造であったという記憶をなくす。ただし、破嵐創造がメガノイドの開発者で万丈の父との事実の記録は残っていたかもしれない)
6、本編開始


  • 男女の愛と親子の愛の相克

ここで、非常に悲劇的なのはコロスとドン・ザウサーは互いに愛し合っているのに対して、万丈と彼らの間には深い憎しみしかないということだ。
コロスは破嵐万丈を「人間にしては強い」優秀なソルジャーの素体として見ていて息子と言う記憶はない。
また、最終回でコロスの必死の脳波で再起動したドン・ザウサーは錯乱していたようで「破嵐万丈は子どものはずだ!」と、十数年の記憶が飛んでいる。万丈がドンに「ぼ、僕を忘れたのか……? 破嵐万丈を!」というと、
ドンは「万丈──? あの破嵐創造の息子──?」「わかったぞ万丈── お前だな? ──コロスをいつも悲しませていたのは!」と、殺害しにかかる。
コロスはドンを「あなた」と夫のように呼び一身に愛し、ドンはコロス(母)を悲しませる悪い息子の万丈を憎み、殺そうとする。
サイバネティクスによって、コロスとドン・ザウサーも両方とも記憶が飛んでプログラムに支配されて発狂している所がある。また、メガノイドの特性として自分の一番好きなエゴを優先してほかのことを何一つ考えられない行動パターンを取る。
そして、そうやって破嵐夫妻が息子たちの記憶を吹っ飛ばしてお互いへの愛に夢中になると、子どもの万丈は無視される上に両親の愛を邪魔するとして親に殺される。
まさに、ギリシャ演劇のコロスが歌い上げたオイディプス王のようだ。また、最終回の2個前の「幸福を呼ぶ青い鳥」の話でコロスは「万丈、やはり頼りになる男」と敵とは思えない賞賛を贈っている。ある意味これはオイディプス王が母親と交わったことを意識しているのかもしれない。
そして、子供のころに万丈を捨てた父王は「お前は子供だったはずだ!」と呪詛の言葉を吐きながら万丈に殺される。
万丈はドン・ザウサーが父親だということは知っていただろう。「僕を忘れたのか?」とドンに対面した時に言ったのだから。そして、ドンを殺害した後に万丈はドン・ザウサーを深く愛していたコロスの亡骸に父を愛していたころの母親の面影を思い出す。
「僕は…嫌だ…」


ドン・ザウサーとコロスのあいだには真実の愛があった。
万丈は今まで人の心を無くしたメガノイドを問答無用で何百何千と殺害してきた。だが、万丈はこれまで互いに愛し合う心、人を愛する心を残しているメガノイドにはとどめを刺さないで見逃していたケースがあった。
その、復讐の鬼の万丈の心の中に残った「人を愛する者は許す」という甘さ、善行が最後に来て「一番深く愛し合っていた自分の両親の愛を見せつけられた上に、自分でぶっ殺す」という最悪の形で跳ね返ってくるという。
どんでん返しのトミノとかよく言われるのだが、これまでのコメディータッチや映画パロディのアクション活劇の39話で万丈はほとんどまったく成長していなかった。最初から無敵。それに各話完結で雑な話も多く連続テレビアニメとしてもあまり質は良くなかった。積み重ねたものは無かった。その中で唯一、「万丈は良い奴だよね」っていう印象は、割となんとなく主人公の振る舞いとして善行として見せられていたので積み重なっていた。
でも、その「万丈の優しくて良い所」が最悪の形で万丈に最後に突き付けられる。

これまで例えメガノイドに堕ちた者でも、他者に対する情愛、思いやりの心があれば、人間としてやり直せるとしてきた万丈ですが、それがまた、他者を虐げる理由になるのならば、それは許せないエゴとなる。

こういった一つのテーゼの多面性に同一作品の中で触れるのは富野監督の十八番ですが、ここで更に、一つの相対化が浮上する。

かつてメガノイドとの戦いの中で

「僕はあらゆる悲しみも恐れも、メガノイドと戦う為の怒りに変えた男だ」

と言った万丈。

しかしそれは、彼自身が断罪する、「愛情だけが心の中で全てを締め、他の事を何一つ考えられないメガノイド」と同じでは無いのか。一つの想いに囚われているのは、破嵐万丈その人ではないのか。

本当に「父の亡霊を背負って」いるのは、いったい誰なのか。

故に彼は、シニカルでコミカルで格好良くある事で自分を武装し、「世のため人のため」と名乗りをあげ「日輪の力を借りて」戦い続けてきた。

しかし全てに決着を付けた時、万丈は自分の中にあるメガノイド的なる部分(それは人が誰しも抱えるものである)に気付く、或いは、認める。

倒れ伏すコロスの亡骸を見ながら、万丈は呻くように呟く。

「僕は……嫌だっ……」
http://d.hatena.ne.jp/gms/20120520/p1

万丈もメガノイドだったとは言わない。だが、万丈の「絶対にメガノイドをぶち殺す」という頑固さはメガノイドに近い自動思考の表れだったのではないかと見える。
そして、そんなもっとも嫌悪するものと自分が同一だと気付いたとき、そしてもっとも大事にしていた人の愛を自分が踏みにじったと気付いたとき、
「僕は……嫌だっ……」


そして、万丈はオイディプス王と同じく、世捨て人となった。

  • 愛情への憎悪

宇宙戦艦ヤマト古代進が1974年に「我々は戦うよりも愛し合うべきだったんだ!」と叫んでアニメブームを引き起こした。ダイターン3などの富野作品もそれに乗っかったものであり、特に機動戦士ガンダムII哀・戦士編では「愛」を否定して「哀」を強調するという「対ヤマトマーケティング戦略」を行った。なので、富野監督の仲にはヤマトブームの「愛」、特に森雪と古代の男女の愛に対する敵愾心、ライバル意識があったことは容易に推察できる。
また、当時は松本零士ブームの銀河鉄道999など、メーテルなどマザーコンプレックスを美化する風潮もあった。(ちなみに、ガンダム Gのレコンギスタ日経エンタテインメントのインタビューで富野監督は今でも「僕はメーテルさんみたいな女性は好きじゃないんですね。アイーダみたいに泣くしわめく女の方が好き。でもそういう子はそばには置きたくない」とか供述している)
で、富野監督の作劇として、ブームになっているもの、正しいとされているものに対して「それを本気で描くとこうだぞ!」とリアルを突き付けて修羅の連続を見せる、時事批評的な手法がよく用いられる。Gのレコンギスタでは「宇宙エレベーター」だし、ダイターン3ガンダムではNASAの宇宙進出計画を脚色したし、Vガンダムではコンピューターゲームでトレーニングをした東欧内戦の子ども兵士や当時ブームだったカルト宗教を本気で描いた。そして地獄に落とした。ブレンパワードは逆に病気のエヴァンゲリオンを批評するために健やかになった。
で、コロスとドン・ザウサーにはどうも宇宙戦艦ヤマトの謳う「究極の愛」があったように思える。
だが、続編で1978年夏公開の「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」では、割と雑に感動させるために死んだり生き返ったりした。1980年公開の「ヤマトよ永遠に」でスターシアと古代守の娘のサーシャは雑に成長して雑に特攻して死んだ。
どうも、富野監督には西崎義展プロデューサーの泣かせの興行や松本零士先生の女性を美化した感じに懐疑的で、そのような「男女の愛」は「世代を超える親子の愛」とは「相いれないものなんじゃないか」という、批評的な視点を持っていたように見える。
それは富野監督個人の親子仲の難しさから来る経験則的な発想だったかもしれない。だが、それは単品でヤマト批判として出すのではなく、ギリシア神話の要素を取り入れたりすることでダイターン3は今もラストシーンについて語られる名作となった。
また、前作の無敵超人ザンボット3で神ファミリーの一族が団結して戦う家族愛を描いた後なので、それに対して「いや、家族愛でも夫婦愛と親子愛は違うんじゃないのか?」という自己批評的な面としての無敵鋼人ダイターン3ともいえる。
また、ダイターン3は1話から、万丈は美女に好かれるし表面的には優しくするけど、本質的には誰も愛していないし美女に囲まれても全然嬉しくないっていう描写がある。万丈は親子関係のトラウマから、親子を産む男女の愛の避けるようになったのかもしれない。だから、ラストでアシスタントの二人の美女が去っていくのも、湿っぽさはない。そして、万丈の女性に対する酷薄さ(ガルマの恋愛を徹底的に潰すスタンス)はシャア・アズナブルに受け継がれたのだろうか。だが、シャアはその後やけをおこしてララァを拾うが…。13年も悪夢を見る酷い目にやられる。


で、自作の機動戦士ガンダムでは「愛するものも守るべきものもないのに戦う主人公」というニヒリズムの自己批評を設定して、どんどん自分にダメ出ししていく。アムロ・レイは「帰る場所がある」というラストを取ってつけたけど、Zガンダムでは「そんなところはないよ!アムロは戦後の人間関係に失敗して引きこもるよ!」とさらに自己批評を繰り出して、ロダンの伝奇を取り入れてカミーユが狂って、逆襲のシャアではアムロとシャアは互いに批評バトルを繰り出していった結果特異点に到達して隕石ごと太陽に落下して太陽神になった。
富野は割と、社会に対しても自分に対してもカウンターを打ち出してダメ出しをしまくる所がある。そのせいで、登場人物は割と社会のダメな理不尽から目を背けられなくなって発狂したりひどい目に遭う。

  • 愛と超人の相克

私はニーチェの著作はサラッと1冊くらい流し読んだ程度で、いまさら聖書を読み直しているという西洋思想の素人丸出しなのだが。
無敵超人ザンボット3第22話「ブッチャー最後の日」、第23話「燃える宇宙」最終回感想前編 - 玖足手帖-アニメブログ-
無敵超人ザンボット3最終回 最終感想後編 作品テーマ対話篇 - 玖足手帖-アニメブログ-
無敵超人ザンボット3の感想で「理性の神であるコンピュータードールを破壊し、赤子として再誕生した神勝平は、神を殺したニーチェの超人である」という自論を展開した。
それを無敵鋼人ダイターン3に延長させると、「訓練や覚悟もなく機械仕掛けで超人に仕立て上げられる未来世界はどうだ?」という自己批評、自分の作品を見て思いついた問題提起だと思える。
そして、ダイターン3は超人、すなわちスーパー人間になったメガノイドを敵として殺害しまくる。(ここら辺は怪獣より強い超獣より強い怪獣って言う帰マン、ウルトラマンエースウルトラマンタロウの流れもあるかも)
そして、ダイターン3を操っていた破嵐万丈自身も「メガノイドを殺す」という自動思考に囚われた機械仕掛けの超人に過ぎなかったのでは?という残虐なラストになる。
また、コロスとドン・ザウサーの「子どもが生まれる前の男女の愛の絶頂を永遠に繰り返す機械人形」にはニーチェ永劫回帰の思想も連想される。(あ、僕は哲学は大学で一般教養でしかとってないし後は独学の青空文庫wikiなので、正当性は無いです)

ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。
「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。
永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。
故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。

ニーチェは結局発狂したのでこういう生き方が正しいかどうかはよくわからん。あと、哲学科は無職への超特急だし。
そして、その永劫回帰で永遠の恋愛を繰り返すドン・ザウサーとコロスのカップルは世代を重ねる子供を成すことはない。
「メガノイドは子供を作ることが出来ない」という要素はダイターン3の序盤から示唆されていたんだが、ここにきてニーチェ思想を未来世界のサイバネ技術に応用した世界という志向実験からエンターテインメントに消化している。その際にオイディプス王など古典的な要素を取り入れて思想を補強している。
しかもすごいことに、前作の無敵超人ザンボット3で「神々の黄昏に現れた超人」を描いた後、その「然り」と言ったラストと対になるように、「僕は…嫌だ!」と言わせたことでバランスを取っている。
そして、それが親の犠牲で乳離れをしたあと何も語らなかった勝平と、親に捨て親を殺した万丈の対比にもなっている。美しい・・・。それが、ガンダムでは「親が死のうと誰も愛してなくても現実はがむしゃらに修羅の連続だし!」というのとニュータイプという超人の目覚めを同時に描く構図に発展して、イデオンではもっとメシアが発動した。


しかし、コロスとドン・ザウサーは男女の愛だけの存在ではない、と言うのがダイターン3を複雑化させている。
というか男女の愛と親子の愛が分裂しているのだ。
万丈の母はマサアロケットのマザーコンピューターの母性本能にコピーされたし、ドン・ザウサーと破嵐万丈が決戦をしている時、

「我が子よ……勝てる……。コロスの必死の脳波が、ドンを一時的に目覚めさせただけだ。

人間の精神がそんな……そんな……そんな……」

と、語りかけた父の声は、男としてコロスを愛するドンから分離された父性の亡霊であろう。このように万丈の親は機械によって分裂しているのだ。
このように分裂した親の精神と機械の関係をはっきりと描き直したのが、富野作品から多大な影響を受けた新世紀エヴァンゲリオンである。エヴァも神話からの引用や衒学的なパロディが多い作品だったので、ザンボット3ダイターン3イデオンあたりを95年代に焼き直したものと言えるのかもしれない。イデオンはともかく、ダイターン3はメルヘンエピソードは分かりやすいけど、エディプス王のモチーフはコロスっていうネーミングだけで匂わすにとどめている。対して、エヴァンゲリオンは滅茶苦茶ヒントをちりばめてるから衒学。


ちなみに、富野監督の中で「男女の愛」と「世代を重ねる意味」は実にダイターン3から20年後にエヴァを批評した「ブレンパワード」においてやっと一定の決着を見た。富野監督は「過去の作品の事は覚えていませんね!」ってよく言うんだが、むしろ忘れる努力をしないと潰れちゃうくらい自分の過去や作品に批評しまくって色んな事を考え込んじゃう所があるんだと思う。
よく72歳まで生存できたな…。
ブレンパワードから16年後、あのころ生まれた子が1話の伊佐未勇と同じ年齢に成ってしまった現代に富野監督がはなつGレコとは何か?23日劇場先行公開。君の目で確かめろ!

  • 日輪の輝きとは

ちなみに、父殺し母殺しはギリシャ神話では珍しくない。
オイディプース - Wikipedia
オイディプス王は系譜をたどれば、ゼウスの孫でアフリカの象徴である女性リビュエーを先祖に持つ。
リビュエー - Wikipedia
そして、リビュエーの5代前は古代神ウラノスとガイアである。
なので、まあ、日本の天皇とかと同じくオイディプス王も概念神の血を引くとされた偉人である(神武天皇くらいの実在感)。
そういう意味において、破嵐万丈がメガノイドなのかと言うと、ヘラクレスペルセウスのような半神と言えるのだろう。劇中でも人間とメガノイドのどっちとも取れるように描かれている。
そして、注目すべきはやはり「破嵐創造」という父の名である。
嵐を破る創造神といえば、宇宙を最初に総べた神々の王「ウラノス」を連想させる。しかし、ギリシャ神話ではウラノスは天空神の概念ではあるが創造神ではない。日本神道のように、カオスから生まれたガイアがウラノスを産んだという、自然発生的な感じだ。
そのような古代思想に対するカウンターとして文明化された紀元1世紀に起こったキリスト教の国外宣教のための新約聖書では創造主を想定している。キリスト教イスラエル国外への布教はローマ・ギリシャ神話への批判として起こったように思っている。

ローマ人への手紙1章22〜25節

1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

(ちゃんと調べてないけど旧約聖書における創世記は紀元前6〜4世紀のペルシャ帝国〜マケドニア帝国時代に成立したらしい)
で、破嵐創造は機械の力で創造主となろうとした男だと言える。
また、25話で「提督の生と死と」機械に脳を組み込まれたマゼラン提督は「私は神である!」と自称した。
そしてまた、人間を超えたスーパー人間を自称するメガノイドたちは「神々の黄昏に現れる超人」を自称する。
つまり、機械仕掛けの自称神が乱立する末法の世とも言えるのだ。そう言うわけで、メガノイドの基地が火星に会ったことの象徴的な意味もここで立証される。
オリンポス山」である。
神々が乱立する戦場で神に対して、その血を引く半神の英雄が挑むという構図はホメーロスイーリアスに似ている。(ちなみに、富野作品で他にイーリアスから引用されているのは、機動戦士Vガンダムの小型高速宇宙艇のアイネイアースなどが有名)


そして、自分を激励する父の霊に対して、破嵐万丈は言い放つ。


「僕への謝罪のつもりかっ、と、父さん……今のは僕の、僕自身の力だ!僕自身の力なんだ!!父さんの力など、借りはしない!」


と、言った後に

「日輪の力を借りて、今必殺の、サン・アタック!」


父の力は借りないけど、日輪の力は借りるとか、イーリアスアポロンの矢みたいですね!


また、万丈に似ているオイディプス王に予言を与え、運命を翻弄したデルポイの神託を与えたのも太陽神アポロンである。
また、オイディプス王の父のラーイオスのウィキペディアによると

イギリスの詩人ロバート・グレーヴスは、ラーイオスの死は、太陽王が世継ぎの手によって戦車から投げ飛ばされ、馬で引きずられて殺される祭式を記したものであるとする。

太陽王の殺害とか、∀ガンダムのマニューピチ編でも描かれましたね。富野監督が好きなモチーフかもしれない。


そして、万丈は日輪の力を借りたサンアタックを2回、ドン・ザウサーの額の同じ場所に当てて殺害した。
2回の神託!まあ、ラスボスは一発では倒せないというだけかもしれないが、ラーイオスは自ら受けた「やがて生れる子がそなたを殺すであろう」と、オイディプスが受けた「故郷に帰るなかれ、帰らば父を殺し母を娶ることになるであろう」の二つの神託によって死んだ。


ダイターン3は未来世界で、特にスタンリーキューブリック作品やスター・ウォーズなど、多くの映画のパロディが多かったが、最後の最後に「神話」で締めた。そして、前作の無敵超人ザンボット3では多分単に「伊達政宗っぽくてかっこいいよね」程度の意味しかなかったムーン・アタックに対するサン・アタックにはアポロン神話も盛り込んでいる。
渋い。深い。趣がある。


そして、アポロンの導きによって力を得て、多くの機械仕掛けの神を葬ってきた万丈は最後に、無残なぼろきれのように機関銃で引き裂いたコロスが愛に殉じて死んだ姿に死んだはずの母の姿を思い出す。


僕は…嫌だ…。



だが、破嵐万丈ダイターン3はちゃんとドン・ザウサーの基地を爆破して、その爆発力で火星を元の地球外軌道に戻すという仕事は無言で行った。富野アニメに置いて、最終回にロボットが破壊されないのは珍しい。
だが、万丈は壊れたかもしれない。

  • 曙光

何故か万丈邸を引き払って別れ別れになるが、どこかさばさばしている印象のレイカ、ビューティー、トッポ。
次々と屋敷から明かりが消えていく。
女たち、そして万丈の弟子を自認していたトッポも去る。
万丈の屋敷の家具にほこりよけをかけ、邸宅の門に南京錠を下したギャリソン時田。
彼がバス停で車を待ちながら雨に歌えば、「1,2,3」
ダイターン3
「涙は無い 涙は無い」
の 「カムヒア! ダイターン3」が流れる。
前作の無敵超人ザンボット3のラストで「もう戦いは無い」とエンディングテーマの2番が流れて、エンディングで「もう帰ることない、宇宙の星よ」がビアル星から、戦いで散った家族たちと言う二重の意味になった演出に勝るとも劣らない格好よさだ。
泣けた。
「涙は無い 涙は無い」と言っている歌詞が、その淋しさに、泣けた。
そして、万丈邸の窓が一つだけ光る。そこは、ビューティーたちが去って灯りが落ちる前から暗闇だった1階の角の部屋。それは、万丈が屋敷に残っているのか。それとも、たまたまカーテンを閉め忘れた部屋に暁の光が差し込んでいるだけなのか。雨が止んで水平線の向こうから登って来る朝日と万丈邸の1つだけの窓の色は同じだ。区別できない。
万丈がどこに行ったのか、いるのかいないのか、それは語る方が無粋なのだろう。(さっきまで僕はギリシャ神話まで引用して万丈の親子関係をほじくり返していたのにな。)
そして、ギャリソン時田もバスに乗って去る。
映画だ。
徹底的に映画や神話のパロディを繰り返してドタバタしたり激情の奔流を描いたが、最後に静寂と雨上がりと曙光と遠景の淋しさと、色んな解釈の意味が込められる余白の広さの情感でしっとりと終る。
映画だ。
映画のパロディをやりまくったダイターン3は神話を経て、映画になることが出来たのだろうか…。


ニーチェ思想的にもギリシャ悲劇を論じた大学教授時代の「悲劇の誕生」を地で行くような万丈の親殺しの後の、静かな「曙光」に接続されるのは美しいです。
日輪の力を借りて親殺しを果たした万丈に対する朝日は、救いになるのか、それとも毎日日が昇るたびに背負い続ける業なのか…。「オイディプス王」の後日談「コロノスのオイディプス」のように、万丈の手を引く娘は、いない。新たな神託もない。
そういう神話の意味性の曖昧さやもの悲しさも包括して、説明をせずに雰囲気で見せるのが実に映画的だ。

また、富野作品において主題歌を歌って終わるのはキングゲイナーだけかと思っていたらダイターン3が元ネタだったのか。主題歌をキャラクターが暇つぶしで歌うのは割とアニメではあるけど、キングゲイナーダイターン3の歌はラストでもあるし意味性が強い。

  • ギャリソン時田

そして、最後まで謎めいたギャリソン時田だった。破嵐万丈との出会いがビューティーですら最終回の前に明かされたのに、結局ギャリソン時田とは何だったのか。
火星から金塊とロケットとロボットを持ってきた万丈に戦い方を教えたのは同じライフルを使ったギャリソン時田のようにも思える。
だが、この二人の関係はやはり、語らない方が粋なのだろう。
というか、この物語自体が、ギャリソン時田という老人がバスを待っている間に思い付いた「信頼できない語り部によるファンタジー」とも見えるのだ。
そういう点では、ミ・フェラリオの語るバイストン・ウェルの物語にも連結している。
ギャリソン時田は妖精なのかもしれない。

  • 間に合った!

よし、Gのレコンギスタの初回上映まであと9時間!
区切りの良い所でダイターン3を見終わったじゃないか!
朝に見に行った後、10月の本放送までに重戦機エルガイムを見る!エルガイムはつまらないって評判だから一日3,4話のペースでサクサク見たら間に合うっしょ!
そして俺は富野アニメコンプリートマンになる!


小説破嵐万丈シリーズはどうするか…(全部持っては居る)。オーラバトラー戦記は去年のダンバイン30周年に読んでおくタイミングを完璧に逃しましたね!
そして働きたくないけどGレコを支援するATMになるためにはバイトでもするか。
富野が長生きするなら、俺も仕方なく自殺を延期せざるを得ない。困ったじいさんだ。

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