玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト第9巻 命を重ねる意味 人を育てるということ

個人的に富野由悠季監督のストーリーテラーとしての一番弟子と言うか、富野監督の思想を分かった上で発展させられるのが長谷川裕一先生だと思っている。最初の機動戦士クロスボーン・ガンダムで富野監督と二人三脚で連載漫画を描いた人だし。
それで、クロスボーン・ガンダムゴーストの何がすごいかというと、富野監督が出来なかった事をやっているということだ。それは何か?それは「世代交代」と「人を育てる」ということだ。
富野監督が逆襲のシャア ベルトーチカチルドレンで映画のプロデューサーに「主人公に子供がいるなんてのは見たくない」と言われてアムロの子供を出さなくなったというのは有名な話だ。
つづく機動戦士ガンダムF91もロナ家とアノー家の親子のドラマで、Vガンダムもウッソとシャクティが親を求める話だった。なので、世代交代とか親子関係は富野作品では描かれている。
が、どれも主人公の子供からの目線というのが富野作品だ。
対して、クロスボーン・ガンダムゴーストの凄い所は、かつて主人公だった男たちが「父親」になって、新しい世代の若い主人公たちと関わるという所で。主人公は若者だけど、かつて主人公だった大人にも感情移入の余地と言うか、彼ら大人の男たちの心情も描かれている。この、世代が広く、「大人になっても人間は人間」という大らかさ、人生観がクロスボーン・ガンダムゴーストを画期的な作品にしている。これは富野ガンダムではできていなかったことだ。閃光のハサウェイでもブライトの出番は少なかったし。

トビア・アロナクスが主人公だったころのクロスボーン・ガンダムは少年が兄貴分に導かれて成長するという少年のためのビルドゥングスロマンで、ボーイミーツガールだった。
しかし、ゴーストではその少年が大人になる。ゴーストで新しい世代の主人公のフォント・ボーを導くカーティス・ロスコは非常にいい男だし、強いし、決断力もあるリーダーとして描かれている。
だが、この9巻ではそのカーティスの過去を知る男、そしてF91の主人公だった男、シーブック・アノーが登場する。
彼はトビア・アロナクスについて言う。

自分で“一番大切”だと思うものを見つけたら“他”の“全て”を“犠牲”にすることも
まったく躊躇しないだろう
そんな危なさも感じていたよ

初代クロスボーン・ガンダムでトビアは最高レベルのニュータイプに成り、ニュータイプであることを自ら制御できるほどのニュータイプに成った。これはかなり人格的に完成されたものなんじゃないかな?と思っていた。
だが、シーブック・アノー(キンケドゥ・ナウ)はそんな風にトビアの欠陥を感じていたと、20年ぶりに明かされた。うーん。上手い。
人間の精神の成長はニュータイプに成ったからと言って完全にできるものではない、ということ。
これは、機動戦士ガンダムユニコーンでかなり派手な超能力描写でやったことを、ゴーストではさりげない人間描写で描いているわけで、演出手腕が上手い。
機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト (9) (カドカワコミックス・エース)

原作者の福井は、物語のラストの《ユニコーンガンダム》ならば、地球上からすべての軍隊をなくすことすら可能であったと述べており、恒久的平和すら実現可能なほどの人を遥か超越した存在にまで到達できたにもかかわらず、バナージは万能の存在になることよりも“人間”としてオードリーの下へ帰ることを選んだ事について、
「これまでの(宇宙世紀の)ガンダムは、いつか辿り着く完成されたニュータイプの地平を目指して諦めず生き続けよう、という話で、バナージは遂に完成されたニュータイプになれたのかも知れない。なのに「よかったね、おめでとう」という気分にはならない。それはなぜかを皆さんに考えてもらいたいんです。「なんで行っちゃうんだよ!」って誰もが思う。すごい矛盾しているんです。でも、その矛盾こそが人間の人間たる所、愛すべき所だと思うんです」と語っている。

福井晴敏先生はバナージとユニコーンガンダムが完成されたニュータイプに成ったことについて「人を越えた万能の力」って表現して「人を越えていかないでほしいと思う」と言っている。
対して、ゴーストではそこまで派手な超能力を描写せずとも「完成されたニュータイプだと思われたトビアにも、それなりの欠点がある」と彼の先輩のシーブックの口からさりげなく言わせている。ここら辺の抑制のきいた人間ドラマ、実に良い。
で、ゴーストはその「完成された人格(ニュータイプ)」を「親」とか「大人」として描いているのが新しい。他のガンダムでは、ニュータイプは大人未満の子供の可能性だったが、クロスボーン・ガンダムゴーストではニュータイプのまま大人になった人が自分の子供と向き合うというとても新しいことをやっている。
で、6巻ではこんなセリフがゴーストの少女ヒロインであるベルにかけられている。

大人って奴も あんたらが想像するより未完成で いつも迷っている!
そんな中で――
それでもその時々で子供ために一番いいと思う方法を選ぼうとしているんだ。
そこんところだけは 信じてやってほしいもんだよ。

ニュータイプであることを乗りこなしながら大人になったかつての主人公も完成されたニュータイプにはならずに、未完成のまま子供を育てている。これは機動戦士クロスボーン・ガンダムが21年前から連載開始されていて、当時の少年エースの読者が子持ちの30代になったことを考えるとさらに味わいが増す。かつて少年だったガンダムファンも大人になって子供を育てる立場になるんだ、という事を富野ガンダム以上に直接的に描いている。大人向けガンダムとして政治劇やミリタリーや大河ドラマっぽさやオトナ帝国的なノスタルジーをやるガンダムは多いが、もっと地に足を付けて「子どもを育てる」「命を繋ぐ」ということに向き合っているガンダムはかなり希少なんじゃないかな。
そう考えると、3世代をやろうとしたガンダムAGEは割と頑張ってたかもしれないけど、狂人のフリット爺ちゃんが銅像になるのはちょっとどうかと思うんだよな。ラストも子供のキオと子供時代の亡霊にフリットが説教される話で、そんなに育児要素はなかった気が。いや、小説版なら違うのかもしれないけど。アセムも育児放棄して海賊になっちゃうしなー。


で、ゴーストは「子育てをする自分も未完成だし迷いながら子供と共に成長する」という大人のためのビルドゥングスロマンガンダムらしいニュータイプ論と絡めてやっているのがとても良い。
また、トビア・アロナクスの危うさや過去についてフォント・ボーに語るシーブック・アノーも決して完成された大人になっているんじゃないというのが、またいい。完成された大人がフォントに説教するという形ではない。シーブックはパン屋として戦争難民に食料を届けるという立派な仕事をしているが、彼の息子たちは「パン屋よりもリガ・ミリティアに入って戦うんだ!」と言って出奔して居なくなっている。
機動戦士クロスボーン・ガンダム鋼鉄の7人で、トビアは地球を救う作戦と同じくらいシーブックのパン屋としての普通の生活が大事だ、って思っていたのだが、シーブックの息子にはその気持ちは伝わらず、息子たちは戦いに出る。同時に、シーブックの息子なら戦いに行くだろうな、というのも分かる。ここら辺の切なさもドラマとしてグッとくる。シーブックの人生も決して百点満点ではないし、戦乱に左右されるものだ。だけど、その時々で出来ることを精いっぱいやる。パン屋として町の人を飢えさせないように頑張るし、フォントがピンチの時は代わりにクロスボーンガンダムにも乗って久しぶりに戦う。47歳になったシーブックの生き方。


こんなふうに不完全な大人が迷いながらでも世代を繋ぐというのは、長谷川裕一先生が54歳になったことの実感かもしれない。初代機動戦士クロスボーン・ガンダムはキンケドゥ・ナウとトビア・アロナクスのダブル主人公が、富野由悠季監督と長谷川裕一先生のダブル著者の引き写しだったのだが。Vガンダム当時の富野監督の年齢に追いついた長谷川裕一先生が人生を振り返って、新世代に思いを届けようとしている感じもある。そういうわけで、新世代主人公の少年漫画でもありつつ、大人の味わいもある作品だ。

  • 命を繋ぐ重さ

前巻で、フォント・ボーは核ミサイルの爆発を阻止する作戦を単独で決行して、あまりにも多くの命を救い、その重さを背負うことに脳を使いすぎて反動で「命が入ってこない」状態になった。生きていることの実感とか、戦って人を殺したり、その代わりに誰かを救うことがわからなくなって、一種の燃え尽き症候群になってしまった。
それで、点滴で栄養補給できるが物が食べられなくなり、頭もボーっとしてベルと一緒にクロスボーンガンダムX0で出奔してしまった。そこで、シーブックと出会うのだが。
フォントはシーブックに対して「俺は人の命の重さを背負うのが怖いんです!」「どうしたらいいんでしょう?!」と大人の男に悩みをぶちまける。だが、シーブックは「知らねえよ!人の生き方なんか参考になんねえよ!」という、だがベルの作った「パンは食べてやんな」と言った。
ベルは命が実感できない、実感することが怖くなったフォントのために「命の入ったパン」を焼くために、シーブックの指導の下、頑張ってパンを作った。そのパンも喉を通らないフォントだったが。しかし、ザンスカール帝国の兵士が野盗になって難民キャンプを襲った時、フォントは必死にパンを食べて気力を奮い立たせて戦った。
フォントは核ミサイルを超精密な高速機動で撃墜した時、理性を暴走させてしまった。そして、戦いの中で今度は暴走する理性を感情、というより“こころ”や“いのち”で乗りこなす覚悟を決めた。
この、パン屋の命の食べ物が人の心を癒すとか、人の命を大事にしない人と戦うためにパン屋を守るとか、F91Vガンダムのスピンオフ萬画であるクロスボーン・ガンダムゴーストだが、∀ガンダムの要素も入っていて、本当に長谷川裕一先生は富野監督の思想を噛み砕いてアレンジするのが上手い!


そして、出奔から母艦に戻ったフォントはお詫びとしてカーティスにキンケドゥから託されたパンを渡す。そして、カーティスは最後の決戦に向かう時にそのパンを食べて、彼も命を貰い直す。
また、カーティスにとって、ベルナデット・ドゥガチ姫も命だ。親として彼女を育てることが彼の一番の目標だ。ベルナデット・ドゥガチ姫の出生も、木星共和国という小さな国の王族としてとても難しいものだ。それを必死に隠して十数年間 育ててきたカーティスの覚悟も重い。そのカーティスが食べるパンは必死に産み育てたベルが成長して焼いたものだ。泣ける…。

フォントはベルの出生の秘密をシーブックから聞かされるが。生まれてきたことがそのまま困難になるであろう王族の娘のベルが生まれることを必死に願ったカーティスの心を伝えることができるのは、親だけだってフォントは思う。そのことで、フォントも自分の両親からの手紙を放っておいたけど、それと向き合う気持ちになる。他の親子を見ることで、自分の親と向き合う気持ちになる。この関係性や人のつながりは健やかなものだ。割とガンダムって親との関係がうまくいかなかったり、希薄だったりする。トビア・アロナクスも両親を亡くしていたし。しかし、クロスボーン・ガンダムゴーストは親と子が互いに向き合って気持ちを伝えることがテーマなので、それに向き合おうとしている。命を繋げ、世代を重ねる意味のようなブレンパワードにも通じることを感じる。

  • 命を奪う戦いの重さ

ここで、問題になるのは「では、親に愛されなかった子供は誰にも大事にしてもらえないのか?」ということ。
親が子を思って幸せになりました、というだけの単純な話ではないのが面白い。
フォント・ボーが雇った傭兵のジャックは木星共和国の貧民で、一時はカーティスたち蛇の足と敵対する木星共和国過激派サーカスの一員としてフォントたちをも殺そうとしたライバルだった。それが、改心して味方になったのだが…。味方になった後も恋人を殺しかけたり、同僚を殺したりして、いろいろと考えた。
そして、最後の決戦の前にフォントに「傭兵稼業から足を洗おうかと思う」と語った。
ジャックは人殺しの傭兵で「死んでく相手をいい気味だと笑っていた。殺すのを楽しんでいました。そういう風にならねえとね こっちが狂っっちまうんでね。仕方ねえんですよ」とフォントに告白した。
フォントは命が入ってこない状態になって、守るべき人たちや敵の命の重さを感じないようになる症状になった。ジャックはフォントほど繊細ではなかったが、同じように人の命を無視して自分を守るために相手を殺して生きてきたのだ。それくらい、人を救うことと同じくらい人の命を奪うことも思いのだ。
親や社会に愛されていないで底辺の傭兵として生きてきて親と向き合う機会もなかったジャックの存在が、フォント・ボーやベルナデットの親と向き合うドラマを引き立たせている。
それで、ジャックは傭兵稼業から足を洗ったら学校に入り直して牧師になりたい、とフォントに告白した。
ここら辺、教養小説だなーって感じる。底辺の傭兵が戦いが終わったら牧師になりたいと言う。
それで、ジャックと会話させるために、カーティスはフォントにジャックと一緒に芋の皮むきをしろってキッチンに送る。フォントはそのカーティスの行動を「俺にジャックを理解させようとしているんだ」と感じる。
つまり、カーティスはベルを育てる親でもあるけど、先輩としてフォントを導き、親に愛されなかったジャックにも仲間と交流させる機会を設けようとしている。親に愛されなくても、仲間の絆で命の大事さとか温かみを取り戻せるんだっていう大らかさね。そう考えると、人殺しのジャックが牧師になりたいと言ったのは重みがある。マリア主義とギロチンが蔓延するVガンダムの時代で牧師になりたいと言うのも、独特の宗教的な意味も感じる。
また、悪い傭兵集団の兵士だったジャックだが、シングルマザーをしている妹に仕送りをするために戦う、という一面も描かれた。そんな一面があったから、単なる殺人鬼にならずに人間らしさを残せたんだろう。
「人を育てる」ということがクロスボーン・ガンダムゴーストでは大きなテーマとして設定されているように思う。だから教養小説な感じもある。
そんな風に人は人の中で育てられ、互いに影響し合うからこそ、命には重みがあるんだって感じさせられるなあ。


僕も周りで人が死ぬので命の大事さが分からなかったり、ガンダムオタクで理性が暴走する所があるので、フォントにはかなり感情移入できる。同時に、トビアとも連載当時は同年代だったので、カーティスの気持ちもちょっとわかるわけで、複雑だ。

  • 命をドブに捨てる敵

そして、人の命の大切さをアピールした所で、それを奪いつくす敵が出てきて、非常に分かりやすい。
なんと、人を即死させる宇宙細菌をMSのパイロットに感染させて、死体を載せたMSのコントロールをサイコミュで遠隔操作して人形にするモビルアーマーに超能力者のマルア・エル・トモエが乗り込み、キゾ中将が乗る黄金色の王者のMS・ミダスは視線が合ったMSの動作を止める能力を持つ。
ユニコーンガンダムサイコミュジャックをさらに汎用化させた宇宙世紀153年の未来の機体だ。
人の命を完全にゴミクズ扱いして利用するという悪魔の兵器だ。
それを操るキゾ中将は、実は30年以上前にザンスカールのフォンセ・カガチに下された木星帝国の先代の皇帝、クラックス・ドゥガチの息子で木星共和国を自分が支配できないことに腹を立て「自分が王になれない世界など滅んでしまえ」と、地球のみならずスペースコロニーにもバイオハザードを起こして人類を抹殺する細菌を利用する。宇宙細菌のカプセルを自分の刀で割ったり、自分が死ぬことも恐れていない行動が多い。
キゾは親に愛されない上に仲間との絆もなく、自分の命も他人の命も、世界の存在にも価値を持っていない人間だ。
その妻のトモエもマリア・ピァ・アーモニアにザンスカール帝国の女王の座を奪われたので、自分が女王になれない帝国を滅ぼそうとしている。
自分を大事にされなかった人間が自分も他人もゴミクズのように扱う。
僕も割と周りに大事にされた経験に乏しい人間だし、無駄にプライドが高いしキゾ中将にも感情移入できる。自分を受け入れない世界を全て焼き尽くしたいというドゥガチの家系の気持ちはわかる。輪るピングドラムの渡瀬眞悧とか、好きだし。
でも、命の大事さを訴える白富野や長谷川裕一先生のメッセージ性にも感動する。


さて、最終決戦ではキゾ中将派とゴーストガンダムクロスボーンガンダムを擁する宇宙海賊の決戦に、傭兵集団のサーカスも乱入するのだが…。どんな決着がつくのか。
そして、命の大事さや世代を繋ぎ、人を育てるというテーマはどう描かれるのか。
フォント・ボーは生き延びて両親からの手紙を開封できるのか。カーティスは生き延びてベルナデットに真実を告げることができるのか。ジャックやリア・シュラク隊は生き延びることができるのか?
いよいよ佳境となった物語の結末が気になる。


そして、宇宙世紀ガンダムの再後期のVガンダムの宇宙戦国時代のネクストは描かれるのだろうか?