玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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怪人による #仮面ライダークウガ 第47,48話 感想 人と空我と無

 約半年に渡ってYou Tubeの配信で20年ぶりに見た仮面ライダークウガだったが。終わってみればあっという間だった。ラストバトルは流石に、はぐれグロンギ怪人の僕でも貰い泣きで泣いちゃったね。


Episode47”決意”、48”空我”
S.H.Figuarts(真骨彫製法) 仮面ライダークウガ アルティメットフォーム

  • 敗北するクウガ

 第47話冒頭、究極の闇を開始した未確認生命体第0号ン・ダグバ・ゼバと交戦し敗退する仮面ライダークウガアメイジングマイティフォームの主観映像から始まる。
 激しく揺れる画面。五代雄介の苦悶の息遣い。あざ笑うダグバ。次々と焼き殺される人々を見るクウガ。
 仮面ライダークウガは2話完結の形が多く、前半で割と負けているのだが、最終盤になって「怪人にボコボコにされる主役仮面ライダーの主観」を視聴者が特に説明もなくいきなり味あわされる。
 ひでえ。

S.H.Figuarts(真骨彫製法) 仮面ライダークウガ アメイジングマイティ



 今までもクウガは戦いのたびに苦しんできたが、ヒーローだし五代雄介は自分の辛さを見せないでみんなを笑顔にしようと振る舞ってきた。なので、割とクウガの苦しみは他人事というか、ヒーローだし、「一般人の視聴者の代わりに戦ってくれている」という感じなのだが。
 悪く言うとヒーローの五代雄介に視聴者は甘えていたわけだが。最終盤で視聴者のクレームに左右されないということもあるし、ダグバの圧倒的なパワーを見せて印象づけるために、「負けて苦しむクウガの主観映像」です。しかも自分が負けたせいで人がガンガン死ぬのを見るクウガの気持ちも視聴者も共有して嫌な気持ちになる。


 五代雄介はラストバトルで涙するけど、オダギリジョーさんは超全集のインタビューで「毎回泣いていたんだろう」と言っているわけだが。それと同時に、毎回すごく痛い目にあっていたし、自分が負けたせいで人がガンガン死ぬストレスを感じていたのだろうということを第47話冒頭で突っ込んできている。シビアだ。


  • 生前葬をする五代雄介

 五代雄介は最終決戦を前にして、栃木の恩師の神崎先生、千賀の科警研の榎田ひかり、関東医大病院の椿秀一に会いに行く。最終決戦の前だが、非常に静かな雰囲気で、和やかな会話がかわされる。
 その途中で各地で第0号に殺された人への献花を見て弔う。
 五代雄介はポレポレに入る前に少し躊躇するが、自分がクウガであり、今度こそ第0号を倒すと明言して去る。最後の最後でおやっさんが五代雄介は第4号のクウガだと、ようやっと気づくのが「バイクのエンジン音」というのが「仮面ライダー」らしい。
 保育園で妹の五代みのりと園児たち(疎開しているのか数が減っている)と別れる。
 降りしきる雨もいつか止むし、第0号もいなくなると子どもたちに希望を語る。
 そして夜の豪雨の中、城南大学の沢渡桜子に対しても別れを告げに行く。五代雄介は凄まじき戦士になる決意を伝え、桜子さんは碑文を引用して聖なる泉を枯れさせないようにと不器用に言う。ジャンは空気を読んで、二人の邪魔にならないように先に帰宅していたのかな。
 そこにビートチェイサーの無線の着信音がなり、第0号出現を一条が伝える。
 もっと桜子さんはちゃんと話したかったのかもしれないが、五代雄介はバイクで急いで去る。結局最後はバタバタと「頑張ってね!」「頑張る!」と言いあって別れるしかない。
 

 しかし、結局五代雄介はなんでこう決戦の前にみんなに挨拶しに行ったのかと言うと、「自分はこれから海外に冒険に行くから」と言う体裁で自分が死亡したとしても行方不明というか「海外で頑張っている」と思わせる嘘を言いに行ったんだろう。
 それくらい、自分が死ぬことより、自分が死んで人が悲しんで笑顔になれなくなることを恐れている五代雄介なのだ。
 割とこういう嘘は早くに親が死んだ子供に言う嘘として定番。
 五代雄介はそれくらい、自分の周りの人を家族のように思いやっている。五代雄介自身も小学六年の時に戦場カメラマンだった父親をアフガニスタンで亡くしている。


 まあ、みんな薄々、五代雄介が命を捨てる覚悟だということは気づいているけど、それぞれの形で別れる。
 神崎先生はサムズアップを教えた先生として、しっかりやれと送り出す。
 榎田ひかりは逆に「もう未確認生命体は現れない」と雄介に励まされる。
 五代みのりもヒーローの妹として、同僚だった元城先生の出産を励まし、園児たちを勇気づける。(ていうか、あの保育園、元城先生が出産で退職してから他の保育士が見えないんだけど、みのり一人で大丈夫なのか。まあ、変にサブキャラを増やしても予算とかかかる割に画面の邪魔ではある)
 椿秀一はアークルが弱点になっていることを五代雄介に知らせてしまい、五代雄介はそれで、もしもの時はそこを一条に撃たせて死のうと思う。同時に椿秀一は五代雄介がいなくなったら一条薫がどれだけ悲しむかと匂わせる。それでも五代雄介は笑顔。
 沢渡桜子は五代雄介がアルティメットフォームになることを予感していたくらいなので、五代雄介の気持ちがわかる。
 だから生前葬をされても「研究室の窓の鍵を開けておくから(生きて帰ってきて)」と背中に言うのが精一杯。生きて帰って欲しい。しかし、そんなことを本人に言えるほど甘い戦いではないということもみんなわかっている。大人だ。


  • 空っぽの我と滅私奉公

 そもそも、仮面ライダークウガは最初の変身から「心の清きものしか変身できない」という変身ベルト・アークルの安全装置が働いている。(霊石アマダムを動力にするアークルは、グロンギのゲドルードという魔石ゲブロンを宿したベルトをリント用に改造した、ザクとガンダムのような関係だ。その際にグロンギのような殺戮衝動を持つ者が力を手に入れないように、装着者の人格を判別する機能がついている)
 で、このブログで書いたように第1話では五代雄介は「このままではやられる!」という自分の生命の危機のために変身したが、アークルは厳しいので、そういう気持ちでは白のグロウイングフォームにしか変身させてくれない。
 それで、五代雄介が九郎ヶ岳発掘隊の夏目教授の遺族の夏目実加の通夜での涙を見て、「こんな奴らのために、これ以上、誰かの涙は見たくない!みんなに笑顔でいてほしいんです!」という「自分の命をなげうって他人のために戦う覚悟」を決めた時に赤い仮面ライダークウガマイティフォームに変身できた。
 クウガが空我だというのは割と最初の頃から設定されていたテーマのようだ。自分のためではなく他人のためにどこまで身を捨てられるか。仏教のようでもある。
 しかし、最終決戦で第2話と同じく「見ててください、俺の変身」って五代雄介は一条薫に言うけど、1年で演技がめちゃくちゃ上達していると言うか、正直第2話の変身シーンの滑舌はめちゃくちゃひどいな。仮面ライダー剣を馬鹿にできないと思う。


 それで、ダグバの待つ、グロンギの封印と復活の地(ダグバにとっては思い出の場所)である長野県九郎ヶ岳に五代雄介と一条薫はビートチェイサー2000とトライチェイサー2000で並走して向かう。五代雄介は他の人には「自分は(死ぬのではなく)海外に冒険に行くから」と嘘の生前葬のようなことをしていたが、決戦の直前、一条薫には「万が一、自分が究極の闇をもたらすものになった時は自分の傷ついた変身ベルトが弱点なので、そこを撃って俺を殺してください」というようなことを言う。一条さんにだけは嘘は言わないし、最悪の場合は自分を殺してください、という他の人には言えない本音を言える。
「自分が負けたら、神経断裂弾でダグバを倒してください」という後ろ向きな気持ちじゃなくて、「あくまで自分は絶対勝つつもりだけど、自分が買った後に暴走したら殺してください」なのだ。


 五代雄介が生前葬をしたり各地の犠牲者を悼んだりしたのも、自分の死後を整理するためと同時に、やっぱり最終決戦で絶対に負けない!という気持ちを作るために守るべき人たちを目に焼き付けたかったんだろう。クウガはどこまでも「人のために戦うヒーロー」なのだ。



 しかし、一条薫にとっては違う。
「こんな寄り道はさせたくなかった……。君には冒険だけしていてほしかった……。ここまで君を付き合わせてしまって……」と五代雄介に一条薫は謝罪する。
 一条薫にとって、この期に及んでも未確認生命体との戦いは公務員の警察官がやるべき任務で、ヒーローがやるべきではないと考えている。(バットマンの警官はどうだったっけ?)
 というか、職業として割り切っている警察官と違って、やっぱり一条薫は異常な警察官だ。(タフネスも含めて)
 一条薫の父親も警察官で、五代雄介の父親と同じく少年だった一条薫の誕生日に殉職している。それ以降、一条は自分の誕生日を祝わないで公共の奉仕者としての警察官として生きている人物だ。
 五代雄介はみんなを笑顔にしようとして、いろんな芸を身に着けて披露して楽しそうに振る舞うし、クウガのマークを刺繍したり、割と楽しんでた面もあるのだが。一条薫は職務一徹。
 なので一条薫こそ、実は本当に自我が空っぽな人物でクウガに等しい人物と言えるのだろう。自分の誕生日を祝わないで、人からのプレゼントを拒否するという自分に厳しい人物だ。というか、自分が生まれた日を自分のお祝いではなく、死んだ父親を尊敬して、育ててくれた母親に感謝、というふうにしている。(五代雄介も自分の誕生日を意識しないで戦っていた。でも一条さんは五代雄介の誕生日をトライチェイサーの起動パスワードにする。オカンか)
 一条さんは自分も殉職した父親のように命を投げうってもいいと思って警察官をやっている。一条薫はイケメンだし有能だしモテるけど、先輩に女性関係のことで冷やかされても、自分が彼女や恋人を持つということをほとんど想像もしていない感じだった。自分の幸せを考えない。(せいぜいまんじゅうが好き、っていうくらい)
 五代雄介はみんなを笑顔にしようとして笑うけど、対象的に一条薫はみんなを守るために強くあろうとしてめったに笑わない。だが、この二人は同質なのだ。


 なので、やっぱり本来は一条薫が仮面ライダークウガになるべき人だったのかもしれない。一条薫は五代雄介が仮面ライダークウガになってしまったことにずっと罪悪感を持っていたようだ。


 早朝の雪山で、二人の空っぽな男が究極の闇との決戦に臨む。
(2台のライダーバイクが並ぶのもいいけど、ヒーローカラーじゃないっていうのもまた渋いよな。終盤のビルバイン迷彩色みたいな)


  • 無垢なダグバ

 超全集を読むと、ダグバを演じた浦井健治さんはダグバのキャラクター性を「無邪気」と解釈し、演じる際は何も考えず、最後には自身がダグバに乗っ取られたような感覚であったという。
 また、浦井さんや石田秀範監督によると、ダグバは白というよりむしろ「無」だそうだ。ダグバはただ、古代のリントとグロンギの戦いが中途半端な封印に終わったことが不満でクウガ(古代戦士と五代雄介の区別もあんまりつけてない)と因縁の地で、同じ完全究極体で決着をつけたい、という純粋なバトル脳。
 (小説『S.I.C. HERO SAGA』「MASKED RIDER KUUGA EDITION -オデッセイ-」「MASKED RIDER KUUGA EDITION -DARK SIDE-」によると、クウガもアルティメットフォームにならなかったけど、ダグバも究極体になれなかったらしい)
 ダグバにとってリントを殺すのは楽しいけど、強いから弱いものを殺すのは当然だと思っていて、特に殺すことで利益を得ようとか考えてない。虚無。
 五代雄介はみんなのことを考えて考えて、みんなの笑顔を守ろうとして、笑顔の仮面をつけるようになったし、色んな色や思いを混ぜ合わせた真っ黒いアルティメットフォームにパワーアップした。


 ン・ダグバ・ゼバは白いと言うか無垢というか虚無。自分がなんでこういうパワーを持っているのかとか、深く考えない。自分は強いからやりたいようにやっていいと思っているだけっぽい。自分のベルトを修復したヌ・ザジオ・レに感謝もなく用済みとして殺す。弱いベ集団やズ集団のグロンギの仲間も特に考えずに殺す。(そのせいで怪人の遺体のサンプルを人間に大量に提供したとか、全然考えてない。しょせん古代人)
 鬼滅の刃のボスの鬼舞辻無残は生き残りたかったけど、ダグバは自分の生き死により「戦う楽しさ」に取り憑かれている。
SO-DO CHRONICLE 仮面ライダークウガ ン・ダグバ・ゼバ


 で、浦井健治さんが僕とほぼ同年代ということもあり、キレる17歳世代の僕としては2000年の世紀末当時は、少年犯罪とかで大人や親や社会やマスコミに異常者のレッテルを貼られることが多くて、ダグバが少年というラストに納得がいっていなかった。実は。
 仮面ライダークウガという作品は大好きだし、暴力でしか解決できないヒーローの苦悩というテーマも素晴らしいと思うのだが、「異常な少年や蝶野さんみたいな中二病の厭世家が悪い」みたいな当時の風潮が当事者として嫌だった。
 グロンギ怪人の劇場型殺人っていうのも「沙粧妙子最後の事件」とか「ケイゾク」とか「多重人格探偵サイコ」とかのあの頃に流行った精神異常犯罪者ドラマの系譜だろうし。
 なので、キレる17歳世代の僕としては「少年が邪悪」というラストは番組に自分が否定されたような感じがして嫌だった。


 僕は∀ガンダム以降(正確にはキングゲイナー以降)、富野由悠季監督のオタクだが、その前は新世紀エヴァンゲリオンのオタクだった。新世紀エヴァンゲリオンは当時ブームだったけど、富野監督からは病人のカルテと言われ、庵野監督も「スキゾ/パラノ エヴァンゲリオン」とかの本を出して精神疾患的な風潮を出していた。で、僕がエヴァンゲリオンのプラモデルをフル塗装していたら母親に「息子が宮崎勤みたいなオタクになってエヴァに取られてしまう!」とエヴァンゲリオンの登場人物のようなことを言って僕のプラモデルを壊されたりした。
 そして、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qの公開の一週間後に母親は縊死したので、エヴァオタクだったのに僕はそれ以降エヴァが苦手になってしまった。首切りとか、そういうモチーフがトラウマに。
 で、デミウルゴスの被造物である基底現実の戸籍上の人間としての自分と、はぐれグロンギ電気羊種怪人ヌ・リョウグ・ダとしての自分と、脳内妹のお兄ちゃんとしての自分と自我が分割されている。電気羊種怪人なので境界線上の曖昧な存在なのだ。(一応、うつ病だけど統合失調症ではないらしい)




 そういうわけで、僕ははぐれグロンギ怪人なのだが。



 ベルトも新調したし。


 怪人なんだけど、あまりにも無軌道なダグバや殺人しか娯楽にしないグロンギの同輩に愛想を尽かして、リントは殺さずにリントが作るアニメやゲームを楽しむほうが楽しいし、そのためにリントを利用するっていうオタクになった。(という設定)(どちらかといえば超光戦士シャンゼリオンのオタクダークザイドに近い)
Fate/Grand Order キャスター/マーリン 1/8 完成品フィギュア


 そんな風に人間としてもグロンギ怪人としてもだらしないオタクとしてダラダラ生きていて、20年ぶりに見た仮面ライダークウガのン・ダグバ・ゼバだが。
 おっさんになってみると、「殺人が楽しい!戦いが楽しい!」ということだけで他は「無」のダグバが逆に哀れに見えた。そりゃ、超能力は強いんだろうけど、ダグバは戦いの他に生きがいを見いだせない人という感じに見えた。


 まさに仮面ライダークウガアルティメットフォームの裏表というか、戦うためだけの生物兵器というか。
 自分が無なので、殺意を増幅する魔石ゲブロンに誰よりも適合してパワーを得ただけの虚無、ゲブロンの破壊衝動に取り込まれた哀れな古代人、という風に見えた。オタクとしてリントの文化を楽しんでいると、「弱肉強食の理論だけでなく、世の中にはもっと色々楽しいことがあるのにねえ」とアップルシードのヒトミちゃんみたいなことを考えるようになった。僕も老獪化したんだろうなあ。
 少年時代にダグバを通じて自分が番組に否定されたような気がしていたけど、ダグバのことを改めておじさんになった目で見ると、ダグバはあの頃の僕たちキレる17歳世代とは違って見えた。あの頃の僕たちのような親のしつけや社会規範の押し付けと汚い現実とオタク心の間で、もがきながらキレたり中二病になっていった感じの少年というより、ダグバは「戦うだけの無」という風に、客観的に見えた。
 まあ、ダグバは「無」なので、視聴者にとって鏡のように見えて、放送当時の僕には自分のように見えたのかもしれない。


  • 赤いクウガの瞳

 クウガの黒いアルティメットフォームの瞳はマイティフォームと同じ赤なので、優しい心を失わなかった証拠だと言われる。(まあ、実際は目が黒いバージョンのアルティメットフォームの着ぐるみは作られてないっぽいし、五代雄介が見たイメージやオープニング映像でも目は赤なんだが)(モノクロ処理でごまかそうとした場面もあったけど、やっぱり赤に見えた)
 なんで赤なのか?やっぱり血の赤だろうね。
RAH リアルアクションヒーローズ RAH DX 仮面ライダークウガ アルティメットフォーム 1/6スケール ABS&ATBC-PVC製 塗装済み 可動フィギュア


 ダグバやその他の怪人との殴り合いで盛大に流血する、っていうだけでなく、血の通った人間という意味での血だろうと思う。


 その血はなんなのかっていうと、体温とかぬくもりとか、人同士の繋がり、ということだと思う。


 ダグバはジョジョの奇妙な冒険第2部のカーズと同じく単体で究極の生物で、その実態は虚無。
 しかし、仮面ライダー空我の五代雄介も公僕の一条薫もその内面は自分を大事にしない虚無だったのかもしれない。


 だから、五代雄介は言うのだ。
「ありがとうございました。俺、良かったと思ってます……。だって一条さんと会えたから」
 これは決してBL文脈って言うだけではなくてね。まあ、「地球へ…」とか「少女革命ウテナ」の昔から白い悪魔と黒い騎士のBLとかはモチーフとして強いんですが。「プリンセス・チュチュ」や「オーバーマンキングゲイナー」や「コードギアス」もそんな感じ。
 本質的にはダグバと同じく空虚かもしれない五代雄介と一条薫が出会って、「空っぽな自分に似たようなやつが居る」と認識して、その二人が助け合っていくことで、逆に自分が空虚ではない「つながり」、人間関係を構築して、その重みを自分の重みだと思えるようになったっつーか。五代雄介も一条薫も、自分の命を投げ出せる人物だが。その二人は互いに相手が傷ついてほしくないと思う。そうすると、自分が傷つくことが怖くない五代雄介も自分を大事にできるようになったのかもしれない。いや、本心はわからんけど。
 とりあえず、五代雄介は1年にわたって殺し合いをして辛かったけど、一条さんとの出会いはその辛さを上回って、これまで世界中を冒険しても満たされなかった何かを五代雄介にもたらしたようだ。彼は多くを語らないが。
 五代雄介は生前葬をして、自分が死んだとしても海外に冒険しているとおもってほしかったようだが、自分と同じ空虚な魂の一条薫には全部を見ていてほしいと思う。


 もちろん一条薫だけでなく、五代雄介が決戦の前に会いに行った人やこれまで関わった人たち、他の人とのつながりとかも五代雄介の戦う支えになっていたのは確かだし、それも心を枯れさせない力で、ダグバにはないものだったのだろう。(チェンソーマンと同じでダグバは古代のクウガとの決着のことで頭がいっぱいだったけど、五代雄介はダグバよりも一条さんや人間社会のことを考えていたので。いや、デンジは五代雄介とちょっと違うけど)
 そう考えると、社会性を啓蒙する番組なのかなあって気もするけど。まあ、子供向けヒーロー番組の道徳としても「隣の人を大事にしよう」という基本的なメッセージは大事なことだとは思う。
 単純にコミュニケーション能力が大事!って言うだけでなく、蝶野さんや霧島拓くんなど中二病や厭世家の人もほっておかないほうがいいとか、幼稚園で喧嘩してるジャイアンみたいな子も言葉が足りないだけで実は のび太みたいな子より傷ついていたのかも、みたいなエピソードはある。

 
 僕も怪人だし本質的には分身の脳内妹以外の人間は違う種類の生き物だと思ってるけど、ブログのアマゾン欲しい物リストから物をもらったり、ブログに感銘を受けたと言ってもらえたり、同人誌に寄稿を依頼されたりすると、多少は嬉しい。
 ダグバは強すぎて、そういう対等な関係が作れなかったのかなあ、と思うと逆に哀れだ。(チェンソーマン…)

チェンソーマン 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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  • ラ・バルバ・デ

 バラのタトゥの女は他のグロンギが全滅し、ダグバが究極の闇と称する殺戮に没頭している間、廃墟に古書を集めて何かしら研究していた。「古代史」とか「満蒙史」とか「古代美術」とかの文化的な本を読んで、グロンギの出自や、自分たちが封印されていたあいだの人類史を研究していたようだ。(小説『S.I.C. HERO SAGA』「MASKED RIDER KUUGA EDITION -オデッセイ-」「MASKED RIDER KUUGA EDITION -DARK SIDE-」によると、グロンギたちはもともとは中国大陸にいた狩猟騎馬民族だったらしい)





 惜しくも企画が頓挫してしまった劇場版への伏線として、アラスカに渡ったオオカミ種怪人(仮面ライダーディケイドにおけるン・ガミオ・ゼダ)のことを探そうとしていたのだろうか。


 っていうか、リントを殺すためにアメリカ大陸まで行く(そして氷漬けになる)とかグロンギの殺人衝動、ハチャメチャすぎる。(アラスカオオカミの本能かなあ)


 ただ、バラのタトゥの女は美術史なども調べていて、米国に渡ったグロンギの部族を探すだけでなく、文化人類学的な意味でのグロンギの手がかり(序盤にズ・ゴオマ・グに語ったこと)を調べようとしていたのかもしれない。ラ・バルバ・デにとって、ゲゲルに熱中する他の戦士のグロンギは研究の邪魔で、全滅してくれたから一人で研究に没頭できると思ったのかな?
 やはり、寄生獣の田村玲子と同じく、宇宙隕石からもたらされたらしい魔石ゲブロンに振り回されて殺人を繰り返すグロンギの、種としての行き詰まりを問題視していたような気もする。(小説仮面ライダークウガでは僕のようにリント社会に潜伏しつつ殺人衝動を小出しにする怪人が描かれたが)
 まあ、小説版は数年前に読んで、ちょっと記憶が曖昧…。(萬画はなんかアギトとくっつけるのはちょっと違う気がして触ってない)
小説 仮面ライダークウガ (講談社キャラクター文庫)


 ところで、高寺プロデューサーと僕は20歳違うのだが、高寺プロデューサーは今の僕と同じ40手前でクウガをプロデュースしたのか。僕の職歴のゴミぶりが際立ちますね。


  • 五代雄介の涙

 怪人なのに、不覚にも、もらい泣きしてしまった。


実写―オダギリジョー写真集



 このブログでは再三書いてきたことだが、五代雄介の父は戦場カメラマンでアフガニスタンにおいて客死している。しかし、五代雄介は外国人の兵士を憎まず、大学で歴史や文化人類学を学んで海外にも頻繁に冒険旅行に行っていろんな土地の文化を見ている。
 なので、グロンギの文化を否定して怪人を殺すっていうことは、父の死を乗り越えて「戦いも歴史の一部として持っている人間や違う文化の外国人を否定しない」という生き方を選んだ五代雄介にとっては自己否定でもあるんですね。ダグバが無であり、クウガの鏡のような存在だからこそ、五代雄介にとっては自分を殺すような気持ちでダグバを殺したんだろう。
 それはそれで空我だなあ。


 能力的には互角の勝負だけど、五代雄介は人々のために泣くほど自分を殺す覚悟が決まっていて、ダグバは単に笑いながら自分の力を誇示したかっただけっていう、戦いに対する重みが違っていたのが、勝敗を分けたのかと。あと、ダグバというかグロンギは基本的に舐めプだし、魔石によってもたらされた能力に頼ってるけど、五代雄介はクウガになる前から1999の技を会得していてクウガになるのは単に2000目の技というだけで、本編が始まる前からめっちゃ修行していたので。また、ダグバは格下の相手への雑な殺人しかやってなかったけど、クウガは一年かけて怪人とほぼ互角の殺し合いをしてきて、技をさらに研ぎ澄ましていたっていう感じはする。
 


 でも、殺人っていうのはそれくらいの自分の命も捨てる一人一殺の覚悟をしてやらないと駄目だと思う。


 しかしながら、仮面ライダークウガの放送から一年も立たない間にアルカイダによるとされるアメリカ同時多発テロ事件が起きて、アフガニスタンはまたしても戦争になってしまった。アメリカ軍もテロリスト集団も一人一殺の覚悟はなく雑な殺しを繰り返している。今も空爆するとか核兵器を作るとか、そういう争いを。
 ますます、五代雄介とその父が望んだ、みんなが笑顔になれる日は遠ざかった感じだし、僕も人間を軽蔑して虐殺文法をインターネットに少しずつ刻んでゲゲルを続けたりしている。はー、改造人間や怪人だろうと一般人だろうと、人間そのものに悪性があるんだよなあ。
虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)



 ちょっと寝て、買い物をしてから最終回を見て感想をあげます。



 それからシン・エヴァンゲリオンにも決着をつけなければ。読者から「シン・エヴァンゲリオンに望むのはグダちんさんの感想だけ」って言われているので。
 怪人だけど期待には応えたいじゃない。


 プラモデルは……。新劇場版の2号機のハチャメチャな改変を見ると、「別にTV版の通りの色にしなくてもいいかな」って思ってるけど、それでも90年代のプラモデルの色分けのマスキングは面倒なんじゃ…。(Gレコのプラモデルはかなり作りやすかったけど、それでもマックナイフで力尽きて以降は積んでいる)

  • ほしい物リスト。

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だって、俺、電気羊種怪人のヌ・リョウグ・ダだから!



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