玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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怪人の #仮面ライダークウガ 第40、41話 感想(想像力の話)

Episode40”衝動”41”抑制”


 グロンギのゴ集団三強怪人の一人目サメ種怪人、ゴ・ジャーザ・ギのゲゲルの回。同時に、五代雄介を慕う女優志望の朝比奈奈々がオーディションでひどい言葉を投げかけられて悩み、雄介がそれに助言する話。


 助言の「だからこそ現実にしたいじゃない。ホントはきれいごとがいいんだもん」「これ(暴力)でしかやり取りできないなんて悲しすぎるから!」 というのはクウガの名言の一つ。


 その前に五代雄介が「おれはこれ(暴力)を使って、とても嫌な思いをしたよ」と言うのも、最終第4クールに入った仮面ライダークウガの総括の一つである。


 暴力に支配されると究極の闇をもたらす凄まじき戦士になる、という警告もあるという。


 五代雄介が本当はきれいごとがいいんだもん、という台詞が心を打つのは、単に言葉としてそれが正論だと言うだけでない。怪人を8ヶ月も40体くらい殺してきて殺されかけてもいる五代雄介が、自分の辛さを実感しつつ、奈々が自分のような暴力にまみれた辛い生き方にならないようにと願っている優しさがあるから。オダギリジョーさんの演技としても苦しげに絞り出すように声をかけているからだと思う。
 そのクウガとしての苦しみを言われた奈々は知らなくて、視聴者は41週間も見てきている、というのも感動ポイント。


  • 想像力の話

 しかし、なぜ、五代雄介は怪人を暴力で殺していて嫌な気持ちになるのだろうか?それは彼も怪人であっても人間だと直感的にわかっているからで。同じ人間だけど、文化が違いすぎるせいで殺すしかないということを悲しんでいるからだと思われる。

EPISODE 41 抑制

EPISODE 41 抑制

  • 発売日: 2015/08/27
  • メディア: Prime Video

 アメリカの同時多発テロ事件が起こる8ヶ月前に最終回を終えた仮面ライダークウガだが、五代雄介の父親は戦場カメラマンとして、雄介が小学6年生の頃にアフガニスタンで客死している。しかし、五代雄介は文化の違う外国人を憎むことなく、2000の技を習得する自己鍛錬をしたり、城南大学で文化人類学を学んだり、父親の冒険仲間だったおやっさんの薫陶をうけ、積極的に海外旅行の冒険にでかけて異文化を勉強している。
 五代雄介は単に優しいと言うだけでなく、「文化が違う人間も理解したい」とか「自分とは考えが違う人間も一人ひとりを尊重したい」という彼なりの哲学がある。海外で冒険している中で、やっぱり事件に巻き込まれたりきれいごとで片付かない国を見たりしてきたと思う。五代雄介は複数の武術の達人でもあるし。海外で暴力を振るわざるを得ない場面もあったかもしれない。それでも彼は親が殺されていても、価値観の違う人間に対して切断操作ができず、話し合いで解決したいと思っている。だからこそグロンギを殺して嫌悪感を感じて悲しくなる。殴るたびに、拳を通じて相手の生命を感じてしまっている。
 ある意味、同時多発テロ事件とイラク戦争以前の番組だからできた考え方かもしれないのだが、戦後日本のトキワ荘漫画家の一人である石ノ森章太郎原作の仮面ライダーとして、そういうコスモポリタニズムをクウガは継承している。サイボーグ009は各国の代表と日本人と在日アメリカ軍兵士のハーフが世界の平和のために戦う話だったし。(敵のスケールが途中から軍需産業から神とかにシフトしてしまったが)


 自分に暴言を吐いた相手を殺したい、殺すまでは行かなくても殴りたいと言う朝比奈奈々に対して、五代雄介は「殴ったら、殴り返されて、そしたら、また殴り合いになるかもしれないじゃない」と、「嫌いな相手であっても、暴力の結果、その先に反撃されるかもしれない」と「想像力」を以て朝比奈奈々を説得しようとしていた。もちろん五代雄介はグロンギを殺して来た結果、グロンギに反撃された経験もあるので、想像だけでなく、実体験でもある。
(グロンギが五代雄介がクウガに変身していない日常の時に襲撃をしないのは、当初はグロンギがクウガをあまり危険視していなかったこと、ゲームの難易度が高まってからはゲームの対象ではない殺人を避ける傾向が理由のようだ。ゴ・バダー・バは人間態で五代雄介をバイクで挑発したりしたが、グロンギは個人主義で互いにライバル視しており、警察と五代雄介の連携とは対象的に、情報共有をしない。もちろん、日常パートが襲撃されるのはドラマとして嘘くさくなるとか、番組の雰囲気に反するから、みたいなスタッフ判断があったのだろうけど)
 五代雄介は朝比奈奈々の話を聞いて暴言を吐いた相手を「許せないね」と第一声で評したけど、許せないからと言って殺せばいいとは思わず、そういう言葉を吐いてしまう人にも自我と主体性を認めて、「話し合おう」と言う。自分とは違う人もいることがわかる想像力なのだろう。


 同時に、未確認生命体に殺された朝比奈奈々の演技の先生と五代雄介は面識はないが、その人が殺されて仲のいい女の子が苦しんでいる、と言う想像力も五代雄介はある。だから朝比奈奈々の先生との思い出も真面目に聞く。その先生が殺されたことがオーディションの課題に役立ちそうだね、って暴言を吐いた事が本当に許せないと五代雄介も想像力を働かせる。
 単に殺された人や加害者がいるだけでなく、それぞれの人の人生にはそれぞれ関わっている人が大勢いて、それを踏みにじるのは良くない、と見てない人のことも思いやる想像力。



 今回の敵怪人であるゴ・ジャーザ・ギのゲゲルとは対照的だ。彼女はン・ダグバ・ゼバとグロンギ最強の座を争って戦うザギバスゲゲル(ファイナルゲーム)に備えて、ゲリザギバスゲゲル(セミファイナルゲーム)では余計な力を使いたくないと言い放って、航空機での243人を殺害したときは老人を、旅客船さんふらわぁを狙ったときでは子供など、弱いものを密室空間で効率的に殺す作戦をした。さらに無駄な殺しはさっさと終わらせたいと、犠牲者のことをステップアップにしか考えていない。
 グロンギは人間のことをスコアとしか思っていない。



 未確認生命体第0号ン・ダグバ・ゼバは自分で蘇らせたのに、ゲームの権利をなくして、茨木や福島や新潟などの田舎に潜伏していた弱いズ集団やべ集団の怪人を3週間で162体殺害し、処分した。
 その上、ダグバは自分のベルトを直してくれたサンショウウオ種怪人ヌ・ザジオ・レに感謝することもなく、用済みとして殺害した。



 彼らは自分が勝利して成功することしか頭にない。


  • 自己中心的な勝利の帝王学はグロンギに通じる

 昨日頃から話題のGACKTさんのインタビューがなんかグロンギっぽい。

r25.jp


「勝つまで折れない思考法」…GACKTさんは、具体的に何をして手に入れたんですか?


GACKTさん「ナンパ」


「1日50人に声をかける」と決めて、とにかく実行していったんだよ。

でもさ、どれだけ断られようが関係ない。目標はあくまでも「時間内に50人に声をかけること」だから。

時間内にクリアしようと思ったら、傷ついてる時間なんかない。すぐ次に行かなきゃいけない。


そうしてるうちに、「断られる」という行為がなんともなくなってくる。失敗が、ミッションをクリアするうえで「当たり前に起こること」でしかなくなるわけさ。



「打たれ強くなる、ならない」って話じゃないんだよ、これ。

失敗とは、「結果」ではなく「結果を出すまでのプロセスのこと」である。だから、そもそも傷つく必要がない。


この事実を理解させることが、このトレーニングの目的なんだ。



ただ、「失敗=結果を出すまでのプロセス」という真実に気づけばいい。

そしてこの真実にいちはやく気づきたいなら、ある程度「失敗の数」が必要だぜって話さ。

Journey through the Decade

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  • アーティスト:Gackt
  • 発売日: 2009/03/25
  • メディア: CD



ゲームって本当によくできてて、必ず最初のステージに“誰でも乗り越えられる簡単なハードル”を設定して、「クリアする達成感」を教えてくれるんだよ。

その後少しずつハードルが上がっていくわけだけど…「ハードルを突破してゴールに到達する」というある種の“Mの快感”を刻み込まれたプレイヤーは、もうゴールしか見ていない。

だから何度失敗しようが、クリアできるまで挑戦しつづけられる。



一方、ハードルの先に快楽が待ってることを知らない人は、目の前の「苦しい」「辛い」という気持ちばかりに目線がいってしまう。だからくじけてしまう。

つまり、「結果が出るまで折れない人」になるためには、「ハードルを突破してゴールする快感」を知ることが必要なんだ。

 GACKTさんは新訳Zガンダムの時に、まあ、そこそこいい新曲を書いてくれたので、ガンダムのオタクとしてはあまり悪く言えないのだが。
 (なんで第一部だけだったのかというのは色々と契約関係とかが難しい闇を感じるが。カントクが第二部以降の新曲を断ったという説もあるし)


 GACKTさんのこの「ナンパというゲーム理論」は「自分のナンパを断る人の人格」を全く想像していない。単に数をこなす貧しい愛、いや、愛ですらない愛のふりをした、イケメン特有の女性を自分のスコアとしてしか見ていない態度だ。
 「女性が自分のナンパを断る」ことを「失敗」とも思わない。つまり「女性が自分のナンパを断るという選択肢を選んだ際の、女性の自意識、自我、自由」を全く想像していない。
 単にズやメのグロンギの怪人が雑に暴れて、相手が死んだかどうかや、自分が殺す相手がどんな事情を持っているかも想像しないというゲームに似ているな。GACKTのナンパ。


 富野由悠季監督も古い人だし「アニメより現実の女性と関わりなさい」みたいな、北方謙三先生みたいな事を言うのだが。僕はねー。女性に好意を向けられると「自分のことで精一杯な俺の人生に他の家の娘さんを巻き込んだらもっと面倒になる!」って考えて逃げたりしている。女性の自意識が怖いということは自殺した母親との関係で染み付いているので。(自殺は究極の否定である)


「ゲームって本当によくできてて、必ず最初のステージに“誰でも乗り越えられる簡単なハードル”を設定して、「クリアする達成感」を教えてくれるんだよ。」
 って言うことをナンパに適応するGACKTさんは、まあ、セックスのことを「ゲームを盛り上げる快感」だと思ってる。多分、顔がいいGACKTさんは割と簡単に童貞を捨てて、初体験を「誰でも乗り越えられる簡単なハードル」だと言っているようだ。初恋のみっともないロマンチシズムとか、そういうこじれた童貞っぽさは彼にはない。
 ナンパの報酬で得られるセックスで相手の気持より、自己実現を盛り上げるスパイスとしか思ってない。まあ、GACKTさんはペニスが大きいことで有名だし顔もいいので、相手も満足していると思っているのだろう。F91小説版のザビーネ・シャルみたいな。女性に対して感情を処理しない人間はゴミだと認識している。


 僕は相手の感情のことを考えて怖くなってしまうので、なかなかそういうモテムーブができないんですが。いや、僕も回避性人格障害なので、僕の生き方も病的だし極端だとは思うが。(逆に女性に対する想像力がありすぎて脳内妹を量子レベルで演算できるようになったが)
(ちなみに僕のペニスも絶好調のときは1/100ターンエーガンダムのプラモデルくらいの大きさになる。(聞いてない))

MG 1/100 WD-M01 ターンエーガンダム (∀ガンダム)

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  • 発売日: 2007/08/10
  • メディア: おもちゃ&ホビー



 僕の場合はナンパではなくブログの記事がどれだけアクセスを集めるかっていうのがゲームになってるかな。最初は3ブクマとか5ブクマでよかったのだが、スマートニュースやGIGAGINEに載るかどうかとかになってる。(前述のGACKTさんの話もそのゲームの一環である)
 まー、僕はアニメについてのブログを書いていて、あんまり人を利用するゲームはしてない気がするが。(でもブクマが多い記事は親の自殺とか会社の過労の恨みとかなので、社会は芸術よりも憎しみなんですよね)



 で、対人関係をゲームとして考えていて、その難易度が上がっていくのも自己実現だと思っているGACKTさんは、多分あんまり仮面ライダークウガについては思い出してないと思うけど、グロンギのランクアップシステムと同じ。ナンパで雑なセックスをして快感や達成感を感じるのも、怪人の殺人と同じでは?
 ていうか、GACKTさんはクウガっていうより、むしろディケイドの人なので、割と対人関係はドライなタイプ。

Journey through the Decade

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  • アーティスト:Gackt
  • 発売日: 2009/03/25
  • メディア: CD


 まあ、富野由悠季監督のリーンの翼でも「セックスは戦争」という既婚者の台詞もあるので、ある程度女性のことを敵視しないとできないのかもしれない。うーん。そういう人間関係から逃げ続けたオタクの僕にはわからん世界ですね。


  • 個人で勝つことしか頭にない怪人と、周りの人を守るクウガ

 まあ、仮面ライダーにも色んなタイプがいて、個人的な自己実現を重視しているタイプとか、孤高な人とかいますけど。とりあえず、クウガは周りの人を守るというのが原動力であり、アルティメットフォームになっても温かい心を忘れない理由だった。


 ていうか、今回3度目になる「ペガサスフォームでエネルギーが切れて2時間変身できないので、その間に悩んでいる年下のケアをする五代雄介」である。ペガサスフォームの変身制限、割とドラマを進ませるために使われがち?


 よく考えたら、普通の人なら左肩を怪人の銛で貫かれて磔にされて、自分で銛を引き抜いてなんとか怪人の攻撃を逃れてエネルギー切れ、という状態、痛くてたまらないと思うし、自分の回復で精一杯になりそうなものだが。
 (まあ、クウガの後半の回復力はエグいし、初期でも銃弾で撃たれた程度では痛くもなくて痒い程度なのだが)
 五代雄介は変身できるときは全力で怪人と戦うけど、変身できないってなったら「周りの人の人間関係を守る」ことに全力になる。常に全力!すげー疲れる生き方だと思うけど、五代雄介はクウガだからヒーローなんじゃなくて、ヒーローだからベルトに選ばれてクウガになれた青年なので。五代雄介にとってクウガは2000目の技に過ぎず、グロンギとの戦いも冒険の一つにすぎないので。器でかい!
(フクロウ種怪人ゴ・ブウロ・グはペガサスフォームの射撃によって片翼を失ったあとは安全圏で読書をしながら回復に努めていたし、勝利を目的にするならそれが正解だが、五代雄介はその間に家出少年の面倒を見てたし。男としての器がでかすぎる)
 というか、五代雄介みたいな正義漢は極論すれば「勝つことが目的ではない」。自分が戦闘で勝つかどうかよりより高い視点で「みんなの笑顔を守りたい」ということが目標。なので、自分が戦闘でボコボコにされた直後でも、笑顔じゃない女の子を見捨てる方が嫌なので。
 五代雄介は、そういうふうに周りをいつも気遣う、鬼滅の刃の竈門炭治郎のような妹のいる長男みたいなメンタリティなので。20年前の作品だけど、鬼滅の刃がヒットするということはクウガは今の人にも見れると思う。(しんどい生き方だと思うし、実際五代雄介はリハビリの旅を必要とした)


 力を追い求めて勝つことだけが目的な身勝手な動機だと、黒い目のアルティメットフォームになってしまったかもしれないが、「みんなの笑顔を守りたい」という、本郷猛のような「人類の自由のために及ばずながら戦います」という仮面ライダーイズムが五代雄介の基本性格なので、心の泉が枯れることはなかった。(グロンギが戦闘民族という言い方もあるし、ドラゴンボールのスーパーサイヤ人への批判意識もあったと思う。まあ、悟空は優しさを失わないスーパーサイヤ人だったけど、最近は身勝手になったらしいな)
 他人を気にしすぎだし、五代雄介は自分の辛いのを隠して笑顔を作るようなところもあるけど。
(城南大学で五代雄介たちは本郷猛のような教授の講義を受けたらしい)

  • 演技から見える想像力

 第41話の3分目くらいの杉田刑事の演技だが。旅客機の中で第44号がパニック状態になった乗客を殺害した模様を杉田刑事が一条薫警部補と五代雄介に報告するが、「銛のようなもので貫いて殺したらしい」と言う前に、言いにくそうに一度深呼吸してから報告した。
 警察官だからと言って人の死に慣れるわけではなく、被害者たちの辛さを想像している。(それが杉田刑事の警察官としての強さの証明でもあるのだが)


 同様に第40話の13分目の城南大学での会議シーンで五代雄介が第42号に脅された死の恐怖に怯えた高校生のことを語る時に、「自殺、した、子までいましたよね」と、「自殺」と言う前に一拍おいて、42号が憎かった気持ちをつっかえつっかえ話している。
 杉田も五代も、「殺害」とか「自殺」という話をする時、声を出す前に犠牲者の苦しみを悼む気持ちを抱いて、それを我慢して話をしている。
 

 グロンギは殺す相手の気持ちを全く考えないし、考えたとしても苦しむ姿や挑発がゲームを面白くする、という程度だ。


 現代人はリントから進化して武器を使うようになったし、今回も海上保安庁の巡視艇が出動して機関銃が積んであるけど。でも人間には死んだ人や傷つけられた人のことを思いやる「想像力」がある。それが人間と怪人の大きな違いだなあ、ということがセリフの口調の僅かなニュアンスで伝わってくる。
(他にも合同捜査本部で重苦しい空気のところに五代雄介が無線をかけてきて場を和ましたり、グロンギとクウガが似ているという研究結果を持ってきた榎田ひかりに対して、城南大学OBOGとして学生時代の教授のモノマネで場を和ましたり)


 戦って勝ち抜くことだけが価値観じゃないよ、みんなもっと仲良く笑顔でいよう。自分以外の人にも自我があって、それを想像して思いやろう。というのが仮面ライダークウガのテーマの一つとしてあると思う。(まあ、仮面ライダー龍騎のテレビスペシャルみたいな視聴者を共犯にする番組もある意味では必要だったりするんだが)


 そういう思いやりの精神をヒーローも容赦なく流血する残虐殺人ファイトバトル特撮ヒーロー番組でやるっていうのが、まあ、クウガ独特のしんどさでもあるのだが。


 しかし、そういう風に「殺された脇役の人にもそれぞれの生活や、断末魔の苦しみがある」と想像して、「自分の知り合いに悪口を言う人も排除せず話し合う余地がある」と想像するのが仮面ライダークウガの「社会性」なんだろうなあ。
 警察とも少しずつ歩み寄って協力するようになるし。一度敵対したり、考え方が違う人達も含めて、社会は成り立ってるんだなあ、ということを感じる心っていうか。


 一人で戦っているのではない、っていうのが、やっぱりクウガとダグバとの決定的な違いなのだろうなあ。
 こういうのはちょっとヒーロー番組としては説教臭すぎるのかもしれないけど、五代雄介も孤独に戦ってるのではなくて、守る人たちの笑顔に支えられている部分もあると思うので、戦い抜けた面もあるんだろうね。もう終盤かーーー。


  • ほしい物リスト。

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