サブタイトルに主人公の名前が来るのって21世紀ガンダムみたいですね。
っていうかさあ…。
最終回は五代雄介のシャドウで、本当は仮面ライダークウガとして戦うべきだったかもしれない、あるいは2号ライダーになっていたかもしれない一条薫が第47話の雄介のように長野に戻る別れの挨拶をして、それぞれの人々の後日談を見せる話。(一条薫はポレポレには寄らなかったが、ジャンが榎田ひかりといっしょにディズニーランドに行くというところで演出的にブリッジがかかっている)
未確認生命体関連事件合同捜査本部が解体され、皆が資料を整理しながら思い出を振り返っている時、ふと、婦警の笹山望見が「五代さんじゃない人が4号だったら、戦い抜けなかったかもしれません」と言う。
五代雄介にクウガになってほしくなかった一条薫は、寂しそうでもあり、同時に友を思って誇らしそうにも見える微妙な表情を浮かべる。
科警研の榎田ひかりも息子の面倒を見る時間が取れるようになった。息子の冴くんも五代雄介のことを伝え聞いたのか、サムズ・アップする。五代雄介の前向きさが子どもたちに伝わっている。
ポレポレではおやっさんが五代雄介についてジャンや神崎先生や奈々と語り合いながら、雄介の父親の平和を望む心が雄介に受け継がれていたと語る。(あとコーヒーのブレンド)
ここでもサムズアップと笑顔が伝播される。
一条は関東医大病院の椿秀一のもとを尋ねる。どうやら、五代雄介はダグバと戦った後、関東医大病院で治療や検査を受けることもなく海外に旅立ったようだ。そんな五代の苦労を思いやる椿と一条。(でもあんな死闘をした後、ビートチェイサーのシートの下にでも入れていたであろうパスポートと財布を回収して、五代雄介は海外に行ったんだよな…)
蝶野さんは少し前向きになったらしい。ナイフを椿に送りつけたのはちょっと郵便物としてはどうかと思うが。それにイラストを描く鉛筆を削るのにナイフを使ってたのに…。いや、まあ、諸刃の折りたたみナイフよりちゃんとした肥後守の方が使いやすいんだろうけど。
(蝶野潤一さんを演じた内田大介さんのスケジュールの都合で手紙のみの出演となったのは残念ではあるが、映ったとしてもバイトをしている顔がワンカット映るくらいだろう)(ダメ人間として怪人に憧れている点で僕は親近感がある)
一条薫は改めて五代雄介の妹の五代みのりに、五代雄介を戦わせてしまったことについて詫びる。しかし五代みのりは兄が決めたことだから大丈夫だと言いつつ、本当は仮面ライダーなんかいないで済む世の中のほうがいいと子どもたちに語る。そこに出産した赤ちゃんを連れた元城先生がきて、園児たちに赤ん坊を見せる。グロンギのような個人として殺戮をしていく生き方ではなく、世代を紡いでいく人間の営みが描かれる。
(しかし、まあ、20年経って見ると婦警が自然にお茶を刑事たちに入れたり、20代前半の保母さんが結婚して退職しているのを見ると、まだ20世紀の作品だったんだなあという感じはする。ジェンダーのことはともかく。今は保育所も無認可保育とか保育士不足だし、結婚も晩婚化しているし、子どもを生んでも女性も働かなくてはいけないという厳しい経済状況になってしまって少子化が進んでいる。榎田ひかりは未確認生命体と戦う使命感よりも経済状況のために科警研で働くと言っていたので、そういう現実の一端は描かれているが。)
(あんまり本筋には関係ないけど、画面に写っていないところでみのり以外の保育士の誰かがオルガンを演奏しているようだったので、ワンオペ保育ではないようで、少し安心)
最後に一条は沢渡桜子の元を訪れる。桜子さんは戦士クウガの心が闇に染まった時に戦士のしもべのゴウラムは自己崩壊するメカニズムがあったけど、ゴウラムは今も科警研にあるので、五代雄介の心は大丈夫だ、と論理的に一条に解読結果を伝える。
それで、一条は「五代は信じていますからね、世界中のみんなの笑顔を」と言う。
その頃遠く離れたキューバでは、五代雄介は喧嘩をしていた子どもたちに向けて、説教をするのでもなく、ジャグリングの芸を見せて場を和ませて、笑顔にする。本当の五代雄介は暴力ではなく楽しい笑顔でみんなを平和にしたいと思って、旅を続けているのだ。
- 社会性とか規範とかについて
そのようにして仮面ライダークウガの物語は終わった。
その後、高寺プロデューサーから平成仮面ライダーを引き継いだ白倉プロデューサーは一転して人間同士の抗争としての仮面ライダーを描くようになる。
白倉プロデューサーとしては高寺プロデューサーの路線は勧善懲悪な社会規範の押し付けだとする。
しかし、僕はそう単純な話でもないだろうと思う。まあ、のび太みたいな広之くんがジャイアンみたいな周斗くんに保育園児にしては不自然なくらいの長いセリフで和解を持ちかけたのはちょっと無理矢理感があった気もするが。しかし、同時に周斗くんは言葉で伝えるのが下手な子だということも描かれていたのでバランス感覚はぎりぎりあったと思う。
それに、グロンギもクウガも警察官も犯罪者も暴力を行使するという点では等しいというバラのタトゥの女の視点もあった。
また、仮面ライダークウガに変身するための変身ベルト・アークルにも「自分のためではなく他人のために命を投げ出せる心を持ったものしか変身させない」というプロテクトがあったし、ゴウラムにも「戦士クウガが心を枯れさせてしまったら、悪用されないように自壊する」という機能があった。リントは純粋で正しい人間ではなく、一歩間違えればグロンギと同じになるという恐怖と自己認識があったので、そのような倫理規定プロテクトが仮面ライダークウガに対して設けられていたのだろう。
なので、怪人が悪で人間社会は善だ、という単純な話ではない。五代雄介も自分の中の殺意を自覚していたし、自分が暴走した時は殺してくれと一条さんに言っている。
高寺プロデューサーの路線は社会のルールの押しつけだというゼロ年代の評論家による批判もあるのだが。そうだろうか?
僕にとってはグロンギも魔石ゲブロンによって暴力性を増幅されて暴走した被害者というふうにも見えた。
もう一つの高寺プロデューサーの仮面ライダー響鬼の童子と姫も猛士という妖怪退治組織から脱落して悪になって人工的に自然の妖怪を強化する人間に見えた。ていうか威吹鬼さんの兄だと思ってる。
だから、響鬼はよく言われるような「おじさんがアウトドア趣味感覚で妖怪退治して子どもに慕われて自己陶酔する」みたいなのとは僕の中では違って、組織内の粛清という緊張感というか、邪悪に落ちた同胞を殺す責任感みたいなのがあったと思うのだが。まあ、悪堕ちは難しい題材だし、スター・ウォーズもうまく畳み切れなかった感はあるが。(とかいいつつ、僕はクズなのでSTAR WARS Episode8,9は見てないんだな、これが)
そこをぼかした響鬼後半はちょっと好きじゃない。(裏切り者の朱鬼さんのエピソードはその名残だと思うけど、変身忍者嵐そのままを出すのはちょっとギャグっぽく見えてうーん)
なので、高寺プロデューサーは一つの社会規範の押しつけだっていう白倉プロデューサーのご意見も決めつけだと思う。
むしろ、社会規範や思いやりや倫理を常に意識していなければ、リントも猛士も、主役仮面ライダーであっても簡単に邪悪に落ちる可能性があるので、だからこそ倫理観を持って自分を制御して行くことが重要なのだ、という感じだと思う。異なる正義をぶつけ合って自己主張して戦うのもいいけど、やっぱり最低限の礼儀とか相手への思いやりは持っておきたい。
僕も怪人なのだけど小学生の居るところでは狭い道でも赤信号で止まるようにはしている。(めちゃくちゃハードルの低い倫理)
- 情けない人間たち
というか、僕は仮面ライダークウガの最終回を見て、申し訳なくなったと言うか悲しくなっちゃったね。
五代雄介がキューバに行って(海岸しか出ないので、よく考えたら別にそこまで金をかけてスタッフとオダギリジョーさんがキューバに行く必要はなかったのでは?九十九里浜あたりでお茶を濁しても良かったのでは?とは思うが)思想や人種が違う国でも子どもたちの笑顔を守ろうとしたし、ダメ押しで最後に「みんなの笑顔に!」と文字が出るのに。
その数カ月後には人間たちはアメリカ同時多発テロ事件を皮切りに対テロ戦争だのイラク戦争だのやって、大量破壊兵器があるとかないとか民主主義とか民族独立主義とか今もゴタゴタ揉めている。
大量破壊兵器がある国はだめだー!っていうアメリカやイスラエルはクラスター爆弾とかを使ってるし、ロシアも中国も使っている。
ジョージアとロシアの戦争や最近のアルメニアとアゼルバイジャンの戦争でもお互いに戦争相手国の方が残虐な兵器を使っていると言い合っている。
そういう人間同士の大量な殺し合いを見ていると、怪人で社会が嫌いな僕としては「わざわざ自分がやらなくても人間は勝手に同士討ちする」と学習して、戦闘意欲をなくした。
そういうわけで、やっぱり僕も虚無の怪人なのだけど。
「憎しみ合うのが人間の本当の姿だ!」みたいに開き直ったり、「戦わなければ殺されてしまうから軍備を増強する」と言ったり、「他国が軍備を増強するからこちらも防衛しなくてはいけない」とかいう人間は、まあ、なんというか、香ばしい餌という感じだなあ。
そして、五代雄介は一人一殺の覚悟を持って戦ってきたけど、やっぱりアメリカやロシアなどの大国はWWIIの成功体験に基づいて無抵抗な相手に空襲を仕掛ける殺しを繰り返していて、ますます(戦場では)怪人の出る幕ではないなって気がする。
ドローンとかで無抵抗な相手に空襲することが自分の国の兵士を守る人道だとか言う。
五代雄介が夢見た笑顔のある世界はなくなりました。非常に情けない人類だと思う。
今もコロナウィルスが流行しているが、ウィルス対策の政策の国ごとの違いや、ワクチン接種の是非など、ちょっとした意見の相違を増幅して人間同士が争っている。ウィルスみたいな目に見えないものを憎むより、意見の違う同族を憎むほうが人間の脳にとっては簡単らしい。所詮は猿だからな。
現実には物理反応しか存在しないのだが、人間はイデオロギーやら思想という架空のものをビーコンにして憎み合う。憎み合っているという自覚もなく、自分が正義だという陶酔を求めているだけのようにも見える。
バカバカしい。正しくものを見れる人間なんてブッダ(もちろんこれも架空の概念)くらいのものだ。ある程度の不合理さや不完全さや観測能力の欠陥を抱えているのが人間だと思うが、人間はそれに耐えられず、自分が正義で他人は間違っているとひたすら主張する。
本当に情けない。
ヒーローの夢見た理想やフィクションの倫理観は、オーバーマンキングゲイナーやSSSSグリッドマンのように現実に立ち向かう力になる、という作品も多い。
ニチアサキッズタイムの番組もそうだろう。
しかし、仮面ライダーやプリキュアとかも視聴者が大人になるにつれて、たんなるエンパワーメントではなく、「作品をこき下ろして正しくないとあげつらって楽しむ」という人間らしさに押しつぶされて駄目になっていくんだろう。
そうして、崇高な理想を掲げたヒーロー番組も商業主義に飲み込まれて世捨て人になる。
(いや、まあ、アイマスとかが忙しくてキラメイジャーと仮面ライダーセイバーを序盤しか見てないのは申し訳ないのだが)(でも、正義と悪の戦いとかより、可愛い(存在しない二次元の)アイドルを見てるほうが心が穏やかになる)
というわけで、ダメダメな21世紀を20年も経過した視点から、前世紀末に希望を望んだ仮面ライダークウガを見ると、映画にならなかったとか高寺プロデューサーが東映を退職したとか、そういう細かいこと以上に、人間はダメで、五代雄介には申し訳ないことだと思いました。
フィクションのヒーローが美しければ美しいほど、基底現実の汚さが際立つ。いや、逆か?
僕みたいに現実から軸足を離しているクズニート怪人からすると、現実が汚ければ汚いほど、スイカにかける塩のようにフィクションの美しさを強調してくれる。
現実はもう僕にとってはフィクションの味を引き立たせる香辛料、参考資料に過ぎない。
そういう芸術しか、人間は残す価値のあるものを生み出せなかったんだ。
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— ヌ・リョウグ・ダちん (@nuryouguda) 2021年2月28日
理論上、半年はカレーに不自由しませんね!うれしい!
だが一つ言わせてもらうと、僕は電気羊種怪人であってキレンジャーではないので、飽きるよ! pic.twitter.com/MIe7UXy4mV
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