玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

えらぶる

近代人の目標として一人でも生きていけるようなまったき超人を目指す事が美徳であるという建前があるんですけど。
実際は本能的になあなあで済ませているんじゃないですかねえ。ただ、世間が消滅したから組織的に支えあおうとしたら自助努力、自己責任が強調される。
大多数の人は「しょーがねーじゃん」と本能的(主に性欲)に他人と絡み合って世間を構築するんだろうが、自分に誠実に生きようとすると引きこもるんじゃないかなあ。
そう言う俺も世間というものを見たことは無いし、歴史的に世間がうっとおしい物だということも知識としては知っている。村八分とかな。
ただ、村八分と言っても八分なので葬式と火事のときは助けてやるらしい。
一人では生きていけなくても二人なら生きていけるんじゃないの、それでいいじゃないの。
と、最近思うんですね。僕も自立しないといけないと思い、絶対に結婚はしないでおこうと思うってはいるけど、大多数の人はローンがないと家も建てられないような世の中で漠然とした不安の中でもそれなりに生きてるんで。
そう言う愚民は凄いんじゃないかと。
マッチ棒が1本だけでは立てませんけどね、2,3本合ったら支えあえるじゃないですか。
ただ、社会全体と成ると長さも種類も違うマッチ棒が数万本もピラミッドをなしているようなもので結果的に1本くらい脱落してもどうでもよく見え、結果的に100本くらい脱落するんだけど、どうでもええわなあ。
ただ、脱落する方から見るとかけがえの無い自分自身が消えるわけで、それは辛いが、客観的に見ると数万本の棒のうちの1本な訳でどうでもいいと言う事実も受け止めねばならんのではと死にながら思いもする。
そういうとき、隣のマッチ棒が消えていく時にどういう反応をするかということが大問題なんじゃないかなあ。


そーいうわけで、二人称の視点が重要になるわけですが、その特効薬としては脳内恋人しかないんじゃないかなあと思います。だって、実際の人間をそう言う風に扱ったら気の毒じゃないですか。
妹は僕が困ってたら、ともに困り、恋人は僕が笑うとともに笑ってくれる。何も正しい事はしなくてもいっしょにいようとしてくれるわけです。
そう言うことは物理身体を持った人間にはできない事だ。というか、ちゃんとした人にはちゃんとした相手がちゃんといますから、皆で幸せになってね。
僕は、僕だけでは生きていけないけど、脳内彼女がいたら生きていけるかもしれない。
脳内彼女だけではさびしいけど、僕がいたら笑ってくれるかもしれない。
「彼はこう書いて来て元気にはなったが涙ぐんだ。彼にはこう云う妹も恋人もないのである」by、武者小路実篤