玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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こんなにガンダムの事になると熱意がわいてきてブログも書きまくりで

富野に質問までして、日常生活はからっきしダメダメダメで自分で自分の首を締めているのに、ガンダムの事になると異常に運がいいのは、やはり、僕が境界例人格障害だからだろうと思う。


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・ 自分の生き方がわからない。
・ 現実を理解する能力が貧弱。
・ いつも場違いな所にいるように感ずる。
・ 自分のすべてを受け入れてもらいたいと望んでいる。
・ 感情の移り変わりが早く人間関係が不安定。
・ 愛し方が不十分であるという理由で相手を責めたてる。
・ 仕事に不満を持ちやすく転職を繰り返す。
・ 一見、周囲にうまく適応して見えることもある。
・ 自分と他人との境界があいまい。
・ 他人への評価が極端から極端へと揺れ動く。
・ 人生の価値観や目標が突然変わったりする。
・ キレやすい。
・ 二者関係にしがみつく。
・ 自殺未遂を繰り返す。
・ アル中、浪費癖、過食、淫乱、ギャンブル狂、暴走行為、薬物中毒
・ などなど
依存強化型
 これはいわゆる「いい子」です。分離不安を回避するために、無差別に相手にしがみついたり、依存したりします。医学的に言えば「依存性人格障害」ということになります。また、アダルト・チルドレンの世界で言われている「共依存」というのがこれです。このタイプには完全に他人の言いなりになる「お人形」タイプと、逆に他人の世話をするという形で他人にしがみついてゆく「世話焼き女房」タイプのの二つがあります。

「お人形タイプ」
 一般にはマザコンと呼ばれています。相手の言いなりになっていれば見捨てられる心配がないのですが、社会に出るとそうはいきません。相手の言うことをそのまま真に受けていると、ときにはひどい目に遭うことがあります。このタイプは、自分で自分を見捨てて相手の言いなりになることで見捨てられる不安を回避しようとします。

 このタイプの人でも、一見自分の主義主張を持っているように見える人もいますが、それはすべて他人からの借り物で、自分の本当の考えというものを持っていません。たとえば、学者でこんな論文を書く人がいます。あの人はこう言っている、この人はこう言っていると言う風に、やたらと他人の論文の解説をくどくどと繰り返すばかりで、自分自身の主張というものがまったく見えてきません。「だから、お前自身は何を言いたいんだー!」と叫びたくなるような人です。

 親の人生観や価値観をそのまま受け入れて生きているため、たとえば親の虚栄心に盲従して、一流大学を出て一流企業に入ったものの、社会に出てから妙な息苦しさを覚えたりすることがあります。他人からみれば表面的にはまったく問題がないように見えますが、本人は乳幼児期から刷り込まれ続けてきた問題に、やっと気付き始めているのです。

自己愛型
 見捨てられる惨めさを回避するために、惨めな自分とは正反対の自分を空想してみるのも悪くはありません。みんなから愛され、みんなの注目を集め、たくさんの人から惜しみない賞賛を浴びるという、そんな白昼夢に耽ることは見捨てられた惨めさを解消してくれるだけではなく、栄光に満ちた輝かしい自分という空想に浸る快感を与えてくれます。しかし、この空想が現実との区別がつかなくなっていったとき、さまざまな問題を引き起こします。これが自己愛人格障害です。
引きこもり型
 もし、一人きりになったとしたら、もうそれ以上誰からも見捨てられることはありません。人間関係の中にいて見捨てられたり、裏切られたりする苦痛を味わうよりは、いっそのこと孤独でいたほうがいいと考えるタイプです。孤独を恐れないので一見自我がしっかりしているように見えることもありますが、実際は見捨てられる不安と恐怖で脆い構造になっています。人間関係のトラブルに巻き込まれると、孤高だった彼らの人間的な未熟さが露呈してしまいます。

 子供の場合も部屋に閉じこもったきり外に出なければ、親と顔を合わせなくてすみますし、見捨てられる不安や親が自分に依存させようとするコントロールから逃れることができます。部屋に閉じこもっていると不便ではありますが、それよりも苦痛から逃れる方を優先してしまうのです。それだけ苦痛が大きいのです。

 あるいはこれほど極端でなくても、人間関係の中で、見捨てられたり裏切られたりする場面に直面しそうになると、そうなる前に自ら身を引いてしまうケースがあります。そうすれば相手から見捨てられるという苦痛に直面せずにすみますが、人間関係を次々に失っていったり、転職を繰り返したりといった不利益が発生します。しかし、そんな不利益よりも、見捨てられるような状況に我慢ができないのです。そして、すべての関係から身を引いて、再び新しい理想的な関係を求めます。自分にとって都合の悪いことがあると、そのたびに人生のリセットボタンを押すのですが、年齢を重ねるにつれてやり直しのきかないことが多くなってゆきます。
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理想化型から分裂型
 自分の過去が見捨てられる不安に彩られていたために、見捨てられる不安のない世界、とことん甘えることのできる世界、自分のすべてをありのままに受け入れてくれる世界を夢見ています。しかし、この世にそんな世界はないのですが、現実を正しく認識できないので、肥大した「一体感への夢」を追い続けることになります。

 だれからも愛される人という、ありもしない架空の人物像に憧れたり、理想的な恋人との巡り合わせを願ったりします。現実をありのままに見ることができないため、たとえば、たちの悪いヒモに貢ぐ女のように、相手の男を理想的な男に仕立ててしまいます。周囲の人が「利用されて捨てられるだけだよ」と注意しても耳を貸しません。

 見捨てられる不安の反動として、理想的な関係を求めても、それが現実とずれたものであれば、非常に不安定で崩れやすいものとなります。たとえば、理想の恋人だったはずの人が、ある日突然大嫌いな人に変わったりします。無限に自分を受け入れてくれる人か、あるいは自分を見捨てようとする邪悪な人か、どちらかしかなくなります。中間がありません。愛し合っていたのに、突然恋人を罵ったり罵倒したりします。かと思えば、急に自分の非を詫びて甘い関係を取り戻そうとしたりします。まるでジェットコースターに乗っているように感情が激しく変動するので、恋人は散々振り回されることになります。こうなると、恋愛は波乱万丈のドラマになってきます。このドラマのエネルギー源は、見捨てる親と、受け入れてくれる親の、その両極端がダイナミックに分裂したままで統合されていない点にあります。

 理想と、苦痛に満ちた現実との分離が極端にひどくなりますと、一時的に精神が分裂したようになります。堪え難い苦痛に満ちた自分を否定し、これは私ではないと自分自身から切り離してしまうのですが、いろいろと無理があるために、心の中で神と悪魔の妄想が飛び交いはじめます。誰もいないはずの隣りの部屋から、自分を馬鹿にする声が聞こえてきたりします。
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■見捨てられ感の誘発
 境界例の人は、見捨てられていないのに見捨てられたと感じてしまうことがよくあります。

 たとえば幸せそうな他人を見たときに、ついつい自分と比較してしまい、自分は不幸な見捨てられた人間なんだと思ってしまいます。他人は他人、自分は自分、人生は人それぞれなのですが、そのような考え方ができません。ときには羨ましさから、幸せな人の足を引っ張ったりします。

 また、なにかの選考に自分が漏れたような場合にも、まるで自分の存在そのものが見捨てられたように感じることもあります。まだ他にチャンスがある時でも、見捨てられたんだという絶望感が支配してしまい、希望を持とうとしなくなってしまいます。

 他人からちょっと批判されたりすると、すぐに見捨てられること結びついて絶望したり、あるいは逆に怒り出したり、復讐行動に出たりします。別に人格を否定されたわけでもないのですが、状況を冷静に判断できずに、過剰な反応をしてしまいます。

 現実への対処能力が低いために、いろいろと失敗をしやすいのですが、その失敗がさらに見捨てられ感を強化します。まだ希望が残っているのに、どうせダメなんだと思い込んで人生のチャンスを自らつぶしてしまいます。

 見捨てられる恐怖によって、親からの精神的な分離独立が阻害されたままですので、自分が何者なのかわかりません。また、何者かになることもできません。私は誰なのか、どうしてここにいるのか、と問い続けますが、答えが出ません。

 境界例からの回復のためには、まず最初にこう言った日常生活の中に潜んでいる過剰な見捨てられ感をチェックすることが必要になります。

 親に見捨てられたからと言っても、なにも自分で自分を見捨てることはないのです。そんな馬鹿げたことをやる必要はないのです。親から言われたからと言って、なにもわざわざ自分の不利になるようなことをする必要はまったくないのです。とは言っても、長年にわたって刷り込まれてきた間違った考え方を修正することは容易ではありません。

まあ、そんなに重症ではないと思うんだけど、そういう傾向はあると思う。
で、トミーノだけは僕を裏切らないと思うんだ。
だって、トミーノの作品はどれも面白い!ガーゼィの翼でさえ、打ち切りじゃなかったら面白かったかも試練。小説は案外面白いし。
それに、富野自身が何度も何度も視聴者や自分を裏切って作品を潰そうとしてきたのに、最後にはターンエーガンダムや新訳Zガンダムで全肯定してしまえる富野。
そんな富野だから、裏切られても、それすらも肯定だと思える。
だから、富野に拘りつづけるんだろうなあ。

そう考えると、白トミノになるまでの富野に対してはそれほどファンでなかったのもわかるなあ。
ソーカントク時代の虚勢を張ったカッコつけの富野の写真は嫌いですから。
でも、今になって見ると、それも現在の全肯定富野に繋がる富野だし、昔の作品がグダグダでもディアナ様に繋がっていると思ったら、グダグダやアニメを潰す!という所に囚われないで作品自体の面白さを安心して面白がれる。
だから黒トミノも嫌いなようで、好き。

それで、僕自身も境界例かもしれない困った人格に育ってきてしまったのだが、その自分の履歴も、せめて他人が否定しようが自分自身は、肯定できるようになれればよいと思う。


でも、脳内妹は愛してるから、脳内恋愛は止めない!
これも僕だ!認めなくちゃいけない!