玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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追記の追記・ブレンと正体を見る

昨日から仕事をしていたわけですが、おとといのブレンパワード感想について、思うところがあって、仕事の合間に思いついた事をメモしたりしていたので、おととい以前に日記に、以下の文面を付け足しました。
うーん。どうも、富野の事に成ると、考えた事は皆ブログに書きたい病。

これは、全くオペラやバレエやミュージカルやシェイクスピア演劇と同質の物です。
こういう舞台芸術でも戦闘シーンや剣劇は見せ場として行なわれるが、決して剣の技が優れている方や、肉体的に優位にあるほうが勝つというものではなく、精神的に優位にあるほう、または勝ったほうがお話を盛り上げる方が勝つというものです。感情的な要素の方が重要なのです。
私も、京都に住んでいるので南座で歌舞伎を見ることもあるわけですが、あれのちゃんばらは本当に型そのものですからね。
で、テレビの時代劇は映画からの積み重ねで、そこら辺はもう一寸リアリティが在ります。底からアクション映画などが派生するわけですが。
そのあとのアニメと言うのは自由度が高く動かせますので、ロボットや超能力などの特撮系演出が得意なわけです。
で、富野は、アニメの自由度と強さの順列についての緻密な計算を生かして嘘八百の映画を作ってきたわけですが。
ブレンパワードにおいて、強さの順列の計算を「気のせめぎあい」と言う路線に変更しすることで、今までの映像や舞台芸術の歴史を取り込んだ、新しい芸術を創造したわけです。
そのために、過剰な音楽、過剰な演出、過剰な芝居、過剰なタッチの絵、過剰な物語が響きあうわけです。
ブレンパワードは総合芸術過ぎる。
っていうか、総合芸術であるので、ギリシア演劇の神話にも匹敵する神話なのであるブレンパワードは!っていうか富野は!

つまり他人である家族という小さな集団が安定するためだけに男が自分を曲げて夫の役割をやりたくない。そんなに妻の機嫌や子供の心の育成が偉いのかよ?という気分も分かる。
子供を作ってしまったから子供中心に親をやって、自分がやりたいことや雌になりたいのを曲げたくないという気分も分かる。

富野の世界観が、短編なのに、にじみ出ている。というのは、
闇夜の時代劇は階級に置ける文化程度の差が、器量の大きさや状況を見渡す力の差として描かれている。
それでいて絶対的な人間の価値でなく適材適所というか人の個体差という風に書いてある。
富野的にはあなどれない資料だ。
ここら辺の階級と能力と行動思考の関係は、ガンダム他の富野作品でも見受けられるが、この作品は短編である分、よりはっきりとした構図にまとまっていて分かりやすい。

勇が直子にも恨みを向けるのはそういう祖母の代からの因縁を恨んでいるから、と言う気分は僕の中にもある。わかる。
祖母に、母や自分を産んで欲しくなかったと言うのは、自分の人生も否定する気分なのだが、それくらい自分を肯定できなくなるほど、親や祖父母の因縁が子に与える影響と言うのはうっとうしい。
もちろん、自分の人生が先祖などどうでもいいくらいにうまくいっていればいいのですが、そうではない少年の場合は、自分の人生が先祖の帳尻合わせだと感じてイライラする事もあります。
宗教にはまらないようにしないと。
と、すると勇がブレンに乗って戦うのも、ある意味宗教にはまるような代価行為なのかもしれないが。
勇は頑張ってる。
自分のやる事の何が正しいかと言って何もしないよりは、主人公らしい。
それに、何をやるにしても逃げるにしても結局は自分の信じる事をやるしかないことなのだ。

ああ、時間がないのに、富野のこととなると。恋か。