今日、氷川竜介先生の講義でガンダムSF論争の話が出て、その人とマイミクになった。
その人のところに書いたコメントが、僕の悪い癖で長文になったので、ブログにプールします。
(初出:アニメック21号 1981年12月1日発行 宮武一貴)
の話です。
あきまんさんもおっしゃってましたが、ガンダムはガンダムというジャンルだから、別にSFじゃなくてもいいと思います。
あと、ニュータイプやイデも絶対的なものではないということは、よく見れば分かります。が、それは80年代では分かりづらい視点だとも思います。
ニュータイプは、「ダイクンの思想(ギレンの政治の道具)」「超能力者」「人類の希望」という異なる意味を
富野らしい「ウソをつくキャラクター」(というか、そもそもキャラクター本人も事態を正確に述べない人間)たちが、
混同して使用している用語です。
ですから、絶対的ではありません。
追記(絶対的な希望というか、絶対的な希望を夢見てしまう人間の話でしょう。)
イデも力こそすごいですが、イデ自身は力こそあれ、知的生物がいなければ存在を保てない、滅んだ文明人の幽霊にすぎません。
イデとは関係なく生きているドウモウという非知的宇宙生物もいましたし。
追記(絶対的な神になろうとして、滅んだ第六文明人がいた。そして、そのネクストとして生まれた地球人とバッフ・クラン、それも業を乗り越えられず滅んだ。そのネクストのメシアの子供たちは私たちアニメファンかもしれない…。
そのような輪廻と繰り返しの話でしょう。)
僕がこのように思うのは、Vガンダムやクロスボーンガンダムやブレンパワードなどの後年の作品を見たからでしょう。
「アベニールをさがして」の宇宙の菩薩であるアベニールは宗教的存在ですが、それも、肉の体を持つ人間と対になる存在なわけで…。
大富野教の教義は一筋縄ではいかない気がします。
富野が宗教的だとすると、陰陽、表裏一体、世界と個人、と言うものの関係性のやり取りの中で、それでも一個の命たちが生きていく、命。
世界観に対しては、絶対的に見える存在に対しても短所を設定するような冷めた視点を持ちつつ、でも、世界で生きていかざるを得ない自分たち人間に対しての視点は、愛憎が入り混じった熱いもの。
絶望的な世界の中で、なぜか希望と言う曖昧なものを持つ性質をもった人間と言う変な生き物。希望を形にしようとして、隕石落としやエンジェル・ハイロゥをやってしまう困った人たち。絶望の中でも、日々の暮らしを立てていく人々。
そこに対する興味と、情熱なのかなー。
だから、僕は大富野教信者として、アニメを見ただけで元気になってしまうのかなあ。
でも、ダンバインのデザインはいいよなー。
黒線の入れ方が良い。
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(初出:アニメック21号 1981年12月1日発行 宮武一貴)
▼ タイトル
何かが違うSFとSFアニメ
- センス・オブ・ワンダーについて-
(前略)
そうです。
「SF」と「SF的アニメ」の違いは、「心」……マインドの違いということです。
心、マインド、精神、感覚、意識、思考、思想……どの言葉も(意味合いはそれぞれ異なりますが)、上に「SF」の二文字を載せれば、それが捜していた問題点となるのです。
皆さんは、「センス・オブ・ワンダー」なるSF黒魔術の呪文をご存知でしょう。適切な訳語が無いのですが、しいて訳せば「驚異の感覚」とでもなりますか。
この言葉に含まれた、SF的意識が分かったなら、あなたは立派なSFファンだと言って良いでしょう。
それはショックの感覚…自分の中の日常的常識が受け取る心の中のショックです。自らの精神的立脚点(アイデンティティーなる言葉を知っていますね)を、まるで違った思考法なり思想なりで突き崩されたときに感じる、あの驚きです。
世間にはカルチャー・ショックという言葉もありますが、多少近い意味合いを含んでいます。
この「センス・オブ・ワンダー」なる言葉は、SFをすべて語り尽くしているわけでもありませんが、SFの精神の、最も大切な物の一つを代表しているのも事実です。
自分の立っている土台をケッとばされる感覚。
身体でやられれば尻餅をついて痛いだけですが、頭の中でやられると、最初は驚き、次にあっけにとられ、ハッと気付くと自分の中に新しい眼が出来ていて、今まで見えなかった物が見え始める。
物事を今までとは別の方向から見られているわけで、大変な事です。
物の見方を自由に切り替えられる精神。これを「視点の流動化」や「価値の相対化」と言いまして、SFの主力兵器でもあります。
物の見方が自由になると、もはや、絶対的な物など、宇宙には無くなってしまいます(労働力を絶対価値と考えたマルクスさん、怒ってるだろうナァ。アインシュタインさんは相対性理論で絶対的観測系を否定し、相対的観測系の等価原理を持ち出したけれど、コレ、なんともSF的だナァ)。
価値基準が流動的になると、絶対的な正義なんて、どこにも無くなりまして、「悪い宇宙人」とか「悪い敵方」なんてのが、まず否定されます。
ここで多くの「SF的アニメ」はオシャカとなります。
互いのさまざまな正当な理由から戦いは始まるのであり、地球人にもバッフ・クランにも、彼らにとっての正義があります。
「SF作家」の眼は、このどちらも悪とは決めつけません。
「SF」とは、そこから始まるものです。
では、富野喜幸氏が、どうして「SF人間」でないのかについて語りましょう(富野さんカワイソ。ゴメンナサイネ……)。
富野氏は、たしかにこのSF的手法を主力兵器として、作品の組み立てに使われます。
「トリトン」の最終回で衝撃を受けた人も多いでしょう。
ジオンは敵だけれど、少なくとも悪とは呼べず、バッフ・クランは宇宙人だけれど、地球人もやっぱり「宇宙人」だし……と、ちゃんと押さえているわけですが……結局、一番大事なところで、SFから離れてゆくのです。……彼はドラマの頂点で夢を語る。
それは富野氏が最も語りたかった部分であり、その一点において、彼は相対化の作業を放棄する。
彼がニュータイプについて何を語ったか。
シャアのわずかばかりの疑問符
「ニュータイプとは、闘いが生んだ人類の悲しい変種かもしれんのだ」
すらも、シャア自らがニュータイプの明日のために行動を起こすことで、ララァの子宮のめくるめく光の渦に飲み込まれ、再び登場することは無い。
「ニュータイプ」とは、富野喜幸氏にとって、相対化することの出来ない、絶対的な夢だったようだ。
同じことはイデについても起こる。
ストーリーの中で、彼は二つの種族にイデを探求させ、追わせることによって、山のような疑問符をイデに貼り付けはする。
しかしながら、その疑問符はイデの前には何の力も持たず、圧倒的な力の前にひれ伏すのみ。
絶対的なイデは、さらに超絶的なビッグ・バンと化し、大いなる誕生の夢を語り始める……。
創作の中に、相対化することの出来ない貴重な物の存在を、クライマックスで描写しようとする富野氏の思考は、「SF人間」の思考とは根本的に異なります。
高千穂遥がかつて「ザンボット」の最終回について
「ラストでSFになりそこねた」
と、言ったのも分かります。
SFとは本来、自らの中に、神を求めぬものなのかもしれません。
富野氏は、結局、絶対的な夢を、神に求めているのでしょう。
そうした作業を何と呼ぶか、ご存知ですか。
それは「宗教」というのです。
- この項終わり-
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