玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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かいじゅうたちのいるところ劇場版

私も親にたくさん絵本を買ってもらった。センダックも。 好きだった。無駄に感受性豊かになって社会性がこまった。幼稚園の頃はいい子だったとよく言われる。
だから両親と映画を見た。家族の交流だ。



しかし、映画はアダルトチルドレンから生まれたアダルトチルドレンの苦労だった。


父親と離婚した母が恋人を作り、姉も恋人を作る、少年は孤独というか生存の危機感。女たちのように男に不安を依託できない男の子の孤独。
かいじゅうたちのいるところについたら、かいじゅうたちも恋愛や孤独に悩んで子供が気を使わないと殺される。


無力な子供が、未熟でエゴイストで淋しがり屋だが力を持て余す、大人に成り切れないかいじゅうたち(母など人間も含めて)の顔色をうかがいながら、成長するでもなくサバイバルする。
かいじゅうたちがかいじゅうらしく遊ぶシーンは子供らしく楽しい。しかし、遊びながらも子供はかいじゅうに怪我をさせられたり殺されるんじゃないかという恐怖感を感じさせる演出が付きまとう。
また、楽しく遊んだあとは余計悲しくなるという、子供と言うよりはアルコール中毒アダルトチルドレンの感性によるイベントの繰り返し。
親とも、社会とも傷つけ合うなら、別れるしかないが、子供にはそれほど行き場所の選択肢はない悲しみ。
センダックの絵本では母親は顔を出さないが、かいじゅうたちのいるところから戻った後のラストの食事は暖かい。子供がいくら暴れてもご飯はくれるという信頼。
映画もラストの飯は嬉しいが、子供が帰ってきて号泣する母親の心配や不安を子供が直視し反省しながら飯を食うってのがアダルトチルドレン的。
うーん。
富野アニメも子供に「大人は敵だ」というアニメだ。しかし、オーリーハールーコーーン!のような超能力力が子供に大人との対等さを与える夢がある。が、無力さを実感させられる実際の子供は顔色をうかがうしかないのか。


着ぐるみと表情CGによるかいじゅうたちの自然な存在感はよかった。
となりのトトロは頭が悪い妖怪と脳天気な子供でよかったなあ。
まあトトロも妹の失踪や母の病や不安はあるがトトロや糸井重里の包容力が良かったのかしら。父性ねえ。
モーリス・センダックの絵本は「家族や社会がのんびりとしっかりあるから、子供は暴れても平気だし楽しい」というものだが、
映画には家族の復縁というアメリカハリウッド映画的命題を入れたが、スパイク・ジョーンズの真面目さからか、復縁する方法は簡単には入れられず、大人もかいじゅうも感情と力を持て余し、子供の前で泣く。
子供はそんな風な、自分ではどうにもならないし関係ないが影響は受ける人間関係に放り込まれ、とりあえず生存するしかない。



芸術より、もっとわかりやすい映画でよかった。
そりゃ、絵本には闇や行間はあるし、それは芸術的だがね。
ハッキリと闇を現実的に描写されると、普通に憂鬱だ。
あ、崖の上のポニョもかなり暗黒童話だが、宮崎駿監督はアレだから、アニメーション的勢いで現実的な暗黒要素を潰して疾走した感じは上手いのかもね。
(でもやっぱり考えたら暗黒ですが)



あと、今回の映画版かいじゅうたちのいるところもラストのスタッフロール歌で子供に「愛が全て」とか歌わせるのがポニョ的な「ガキの歌で逃げ切り」と思った。が、次に成人女性のカレン・オーが「きみは唯一の存在だった。でもどこかへ行ってしまった」とか歌ったので、アチャー(ノ><)ノ
劇中歌を歌ったカレン・オーは映画の完成直前にスパイク・ジョーンズ監督との恋愛が破局したらしい。
そんな楽屋の事情は知りたくない!
何で、芸術となると作者の「私の辛さをわかって」的なサイコ的なものになるのだ。
まあ、僕も富野監督に僕の小説について同じダメ出しを喰らったから、やっぱり美少女とかアクションをいれてエンターテイメントしなきゃなーって思っています。
なのは!


Dr.パルナサスの鏡を見るか?ザブングルは健全だが、アニメーションを自宅で見たら家族が哀しむ。