玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

『まどか☆マギカ』10話を『イデオン』第23〜25話と比較してみる

魔法少女まどか☆マギカの9話でさやかと杏子のアホが死んでくれて、やっとうっとうしいガキどものグダグダした悩みや長ったらしい段取りや設定推理謎ゲームではなく、見せたいエキサイティングアクションドラマを見せてくれるようになりました。
それに続く10話も、時をかけて最低4回歴史をやり直すほむらの変貌をスピーディーに見せてくれて面白かった。
まどかの4連続死亡(最後は魔女だけど)とか、色んなパターンでマミられるマミさんや、結局メガ幸子になってしまう美樹さやかとか、やっとOPに五人そろった魔法少女ゴレンジャイとか、いつの間にか敵だったり味方になってたりする杏子とか、これまでの9話の蓄積を方便として総集編的に編集しつつ新しいドラマ性を付加する手腕が見事。新房昭之監督の大胆なカッティングセンスがやっと発揮された。やっぱり映画は編集が一番面白いよなー。行間!中割の空白がアニメ!
アクションもほむらのレベルアップや状況に合わせて、いろんなパターンの戦いを見せてくれて面白かった。特にマミさんの便利リボンや発狂マミさんとかバリエーションがあって面白かった。(しかし、死んでニコニココメントで「頭があるだけ今回のマミさんはマシ」とか言われるって・・・)
作画も面白かったし、セーラー服魔女も従来の貼り絵みたいなイヌカレー時空ではなく蒼穹の洗濯物って新しい立体的戦場を作るというアイディアが面白かった。
死に際のまどかの、奥歯や顔の皺まで描かれる濃い作画(3話でマミられる時のまどかも濃かったけど)や、時系列によって演技を変えてくるまどかの声の悠木碧の演技付けも面白かった。
色々要素を詰め込んできて、いつもより考えられてるのが分かって良かった。うん。やっぱりシャーマニック・プリンセスみたいに6話くらいのOVAだった方が良い濃度だったのでは・・・ゲフンゲフン。

と、まどマギ10話のアニメーションとしての感想はこんな感じ。
でも、やっぱり富野信者としては物足りないのよねー。www
以下、文句

  • 弱すぎる魔女

だって、ワルプルギスの夜東日本大震災より弱いし。死体が少ない。(まー、イヌカレー時空に食われたのかもしれんが)群馬を壊滅させるくらいなのかよー。現実でああいう津波を見ちゃうとねー。4回も倒されてしまうとか、ラスボスとしてどうよ。まあ、真の最終回では違うボスが出る可能性もあるんですが。
ビルを投げる程度の事はライディーンの化石獣でもするし。
ていうか、∀ガンダムイデオンに比べて弱いのでがっかりしました。宇宙人の力を使ってエントロピーを捻じ曲げるとか、そこまで大風呂敷を広げるんなら、せめて地殻津波くらいは起こして欲しかった所。
あと、オープニングでゴレンジャイがそろったという事は、群馬以外に世界の魔法少女が居ないという事だし、地球防衛軍が魔女まどかに戦いを挑んでないのも、セカイ系で有名な最終兵器彼女に比べても世界が狭いなあ。
というかですね。
ほむらちゃんの爆弾や米軍からぱくってきた現用兵器で魔女を倒せるんなら、魔法少女が魔女と戦う理由がメリメリと減る・・・。新世紀エヴァンゲリオンだと、ATフィールドや日本中の電力がなくても使徒を倒せるんじゃねーか。エヴァンゲリオンいらねーじゃん!
主人公しか敵を倒せないというのが魔法とかスーパーヒーローじゃないですか!
リアルロボットの場合は、敵の個体は一般人でも倒せるけど、敵の体制が大きいという話になるわけだが、まどかマギカワルプルギスの夜ですら単体展開だったしなー。核ミサイルで勝てるじゃん。
だめだよー。それ、魔女と戦う使命を持つのは魔法少女だけって戦闘バランスが根底から崩れるよー。中学生でも気付くよー。

セカイ系キャラクターとしての、暁美ほむらと岡部倫太郎 - シロクマの屑籠
私がシロクマ先生ばかり参照するのは、特にシロクマヨイショではなく、単に他のブログを読むのが面倒くさいだけです。

彼女は、根本的に誰も信頼していない。たった一人の友達だと言うまどかを守りたい(そしてセカイの命運を守りたい)と言う決意は立派だが、その友達であるところのまどかの力・まどかの判断力を信頼することがない(もちろん他の面々に対しても同様である)。まどかに「愚かな私が魔法少女になるのを防いで」と遺言は貰ったことがあるとしても、「つくづくあなたは愚かね」と斬って捨て、すべての判断は自分独りでやるから言うとおりにしろ、というのはあんまりではないか。とても、対等な友達同士の発想とは思えない。まるで、ご主人様と愚かなペットを連想させる言い草だ。

たぶん、10話ラストでQBを拾ったまどかは9話までのまどかとは違う気がする。なんとなく。
11話で9話までの世界線に復帰するなら、「まどかはつくづく愚かで私の話を聞かないボケが!」って思うくらいの出来事がまどかとの間にあるんじゃないかなーと思う。10話でほむらが繰り返したのも4回とは限らんし。
むしろ、まどかにこだわりすぎるぞ!ほむら!って富野信者としては思う。

まどか☆マギカ10話のほむらは、タイムループするたびに仲間に対する信頼を失って、一人で戦う傾向を強めている。はじめは一緒に戦っていたまどかも、「まどかが魔女になってしまったらセカイは終わりだからNG」。だから「もう全ての魔女は私が倒すしかない」というわけだ。
対照的に、シュタインズゲートのオカリンは、数々の難局を仲間の力を借りて切り抜けていった。もちろん彼も、自分独りだけで抱え込もうとする場面がしばしばみられたものの、そのような独りよがりは決まって失敗し、仲間達の力を借りてはじめて難局を乗り越えることができる傾向が顕著だった。オカリン自身が一人で出来ることが少なかったから、という部分が逆に幸いしていたのかもしれない
(逆にほむらの場合、単独行動の能力に恵まれすぎていた点が仇となった可能性は、あるかもしれない)。

でも、ほむらの戦闘能力はやくざや米軍に依存しているわけじゃないですか。単独行動能力に恵まれてるとほむらは思ってるかもしれないけど、視聴者から見たらそれほどじゃないんだよな。
だから、魔女災害に対抗するという意味ではほむらと一般地球人は共闘関係にあると言える。地球人にその自覚はないにしろ。しかも、魔女は地球人の武器でも破壊可能。
そういう風に社会との接点をほむらは持っているにもかかわらず、「まどかを助けたい」という事にずっとこだわるというのが分からん。最初の願いは「まどかとの出会いをやり直したい」だったとしても、それはまどか以外の人間の力を利用する事とは相反しないよね。実際に軍隊の力を盗んでるわけだし。
で、魔女は一般地球人にも被害を及ぼしているので、ほむらがまどかたち魔法少女への説得に失敗した後で、地球の軍隊に自分を売り込まないというのが、富野信者としては謎なんだよな。
聖戦士ダンバインの地上編ならやるよね。
暁美ほむらジョジョの奇妙な冒険DIOと同じ「不老不死!時間停止!超能力!」を持ち、しかも昼も活動できるんだし、SPECの一十一よりも身体能力と戦闘能力が高い(実際ビーム出せるし)んだから地球人を騙したり脅迫したりしてディオみたいに各国の金持ちや科学者や軍人を自分の軍団に組織するとか出来るんじゃないっすかねー。ほむらは最初は引っ込み思案だったけど、ループするごとに人生経験を高めて性格変わってきてるし。あと百回もループしたら賢者に成れるんじゃないですかね。
そうすると、まあ、必然的に「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメではなくなってしまい、ビッグ・ほむら団十傑集の方が目立つという、美少女アニメとしては致命的な路線変更になるだけどねwww


というわけで、何が言いたいかというと、まどマギは「脇役は背景や無力な被害者や、せいぜいフラグの小道具や武器庫扱いであり、ストーリーを進めるのはメインキャラクターである」っていうギャルゲー的なキャラクターの限定性がボトルネックになってるなーって思う。
まー、1クールしかないんだけど・・・。
でも、ダイ・ハードとかの方が短いけどキャラクターは多いよね。

と、言う訳でいきなり伝説巨神イデオン23話です。発動篇の冒頭といってもいい。
イデオン23話「戦慄・囮の星」はまさに、イデオンが地球人を武器庫として扱う話です。
イデオンは自分たちを精神エネルギーに変換しようとして失敗して滅亡した第六文明人(宮部みゆきドリームバスターのアレとか、禁断の惑星のアレとか古めのSFの集合意識のソレみたいなもの)という異星の古代文明の遺跡で、その精神エネルギーを使って動くロボットです。感情でエントロピーを超越する魔法少女と同じですね。
でも、イデオンの固定武装はブラックホール発生装置、ブラックホールを利用して数天文単位以内の物を全て破壊するイデオンガン、惑星すら真っ二つにするイデオンソードと無限力のバリアを発生させた体による殴打しかなく、しかも動力が死人の魂とパイロットの精神の共鳴なので不安定で、それは使いにくいです。だから、普通の戦闘では暁美ほむらのように地球人がイデオンの体にとりつけたミサイルや機関銃を使います。
で、イデオン一行は23話や、それ以外でも色んな地球人の植民惑星をワープで旅をしながら武器の補給を要求します。イデオンはバッフ・クランというもう一つの人類に狙われて交戦状態にあるので、イデオンが来た星は戦争に巻き込まれてしまい、現地民は仕方なくイデオンに武器を供出します。
文章にするとイデオンひでえな。
まあ、ほむほむとイデオンにはそういう共通点があるわけだ。
ただ、ほむほむは武器を盗む地球人とは関わろうとしない。そこが違う。まどかマギカの地球人も魔女やキュゥべえ星人の餌にされるという点では当事者なのだが、なんでそこでほむらが地球人と関わらないんだろう?ってのが不思議。
「もう誰にも頼らない」というのは立派だけど、利用はしてもいいんじゃないだろうか。
いや、楽屋事情を考えたらメインキャラクターだけで話を進めて1クールに納めないといけない美少女アニメまどかマギカと、3クール(打ち切りで後半グダグダだけど)もあって、群像劇で全宇宙の人類をテーマにしたイデオンとは土俵が違うってのはわかるんだが。
でもねー。実際、人間としてほむらが魔法少女以外の他の人間を無視してるのは、何でそういう選択をしたのかが分からんと思う。だって、まどか以外にも人間は数十億人いるんですよ?他にも手駒はあるだろうに。

しかも、視聴者の地球より劇中の地球は科学が発展してるっぽいし、魔女にも物理火器が通用する。この、物理火器が通用するっていう描写を入れたことで、かなり不安定な作品になってしまって危険だな、というのがまどマギ10話なんだよな。
まあ、それまでも借金にあえぐ工場主が魔女のせいで自殺しそうになる、とか社会派な描写を入れておいて、「魔女をやっつけたからやっぱり自殺やめる」とか、一般人脇役の描写がすごい酷い作品だが。あの工場主は多分魔女がいなくても自殺するよ。
一般人を最初から無視した作劇や子供向けの体裁を徹底させてるなら「ああ、こう言う世界観なのね」で済むんだけど、中途半端に社会に関わるから困惑する。
なんでそこに確かにある社会を無視して魔法少女グループだけで完結させようとするのか?中学生の女って、入院生活から初めてできた友達だけをそこまで特別扱いしますかねえ?まー、執着はするだろうけど。なんか、ドラマの構造として小さいキャラクターグループだけで完結しちゃうのが作為的だなあ。だって、入院してて退院までリハビリしてたんなら、看護婦とか入院費を払う人との関係性はあった訳でしょ。なんか「友達想いの女の子のほむらちゃん」っていうだけで納得する視聴者じゃないのよね。僕って。
余談だが、DTBにはQBみたいな契約対象は出ないけど、魔法能力を研究しようとする社会の人間グループが複数出ていましたね。
ブログ界隈でも、「どうしたらほむらはまどかを救えるのか?」っていうキャラクター論が多い。僕としてはぶっちゃけ、ほむらやまどかなんていうガキ数人の命や行く末なんかどうでも良いんですよ。痴情小説や探偵小説ならともかく、怪獣アニメでは数人のメインキャラクターが死んだくらいではバッドエンドとは思わないなあ。メインキャラクターの命も、魔女に喰われる脇役の命もたいして変わらないんじゃないっすかねえ。これは別に東北関東大震災で最近一万人以上死んだのを見て、今もこのアパートが揺れてるという事態になる前から、人類ってそういうものだと僕は思う。
むしろ、魔女という異常事態が社会的に死亡者を出しているのに社会を描かないというのはどうもなーって思う。
いや、新造人間キャシャーンみたいに「博士が魔女をやっつける新兵器を作りました!」っていう投げっぱなしオチの可能性もあるけど・・・。


まあ、そういう能力論もあるし、作劇論としてもまどマギはもったいないんだよなー。
だって、イデオンは23〜25話や発動篇の冒頭数分にしか登場しないキッチ・キッチンというゲストの少女が主人公ユウキ・コスモの心に深い印象を残して、ラストシーンでは再登場してメインヒロイン面をしますからね!
キッチンはイデオンが武器庫にしたキャラル星の軍事補給基地の軍人の娘で、コスモとはすれ違いの心の交流だけをした少女なんですが。
映画って、そういう偶然の短い出来事でも強烈な魅力を発揮させる事が出来るのね。
キッチン以外にも、イデオンが補給の都合で仕方なく関わる社会の中のゲストキャラクターとのドラマが感情を揺さぶるし、単なる繋ぎだけではなく、そういう一回きりの他人との関係からテーマが浮き彫りになる展開もあるし、他人によって構築される社会がメインキャラクターの行動を制約するというゲーム性の面白さにもなる。たとえば、同じ地球人に補給を断られて事件が起きたり、地球人とバッフ・クランが連合してイデオンに攻撃してくるとか。引き出しは色々あるって事ね。
だから、社会で偶然関わる人を無視して、ギャルゲーみたいにメインキャラクターのルートだけで物事を回すのは、映画としてはもったいないなあって思う。
せっかく、宇宙とか魔法とかエントロピーとか、そこまで風呂敷を広げたんだし。ただ、そういう人類全体や宇宙全体の総論を物語る能力はナマジでは無理なんだろうなあ。
余談だが、STAR DRIVER 輝きのタクトはそこら辺を自覚的にして「学園の外に戦争を拡大させないのが目的」って最初から明記してるね。

  • 『まどか』に総論はあるか?

ガンダムでは<宇宙>が希望とか可能性といったメシア的なものの到来を表象してるんだな。ガンダム00もそうだし。『2001年宇宙の旅』『スタートレック』といった六十〜七十年代のニューエイジ・オカルト文化はまだ古びていないよという。

それに比べた『まどかマギカ』の<宇宙>は、リトルグレイ的なものが浸食する悪い場所。きゅうべえという宇宙人は宇宙の寿命を伸ばすために魔法少女を殺す。動物農場ならぬ人間農場か。


要するにガンダムにはそれぞれのキャラクターの行為(=各論)を超えた総論として<宇宙>という救済装置があったわけだが、まどかには無い。この詰み一歩前からどういう<総論>をつくって抜け出せるのか分からない。
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20110309/1299676743

まあ、伝説巨神イデオンのイデも自分が生き延びるために、自分でまいた知的生命体の精神や生死を喰う悪い宇宙人の成れの果てと言えなくもないので、ガンダムの続編のイデオンってそんなに救済じゃないんだよね。
宇宙世紀の果ての機動戦士Vガンダムでも、エンジェル・ハイロゥシステムに取り込まれたニュータイプ達はイデのような集合魂になって宇宙に飛散して地球を見捨てたので。
∀ガンダムでは、そういう外宇宙人類におびえて地球に引きこもった人たちが戦争をしながらも「まあ、ここで暮らして、自分の一生分の命を全うするのが人間だよな」っていう命がけで腹を括って地に足をつけてノホホンとした話しになってるんだが。だから、救いがあるとかないとか、ガンダムは簡単には言えない。
富野以外のガンダムは知らん。テキトーで良いよ。
しかし実際、富野由悠季の総論志向は異常。
機動戦士ガンダムUC福井晴敏さんに「富野監督の作品は他の作品と違って、各論じゃなくて総論に行っちゃいますよね」って言われてトミノは「だから僕はヒット作が作れないのよ」って愚痴ってるし。そういう習性なんだ。富野は・・・。
でも、ニュータイプという人類の総論に至るために、ランバ・ラル等というオールドタイプの代表のような人類の各論をアムロが観察することで、ニュータイプへ少しずつ登っていくんだ、って言う気をつけ方を富野はしているって発言してた。

  • まあ、まどかに総論なんかなくてもいいよ

どうせアニメだし。
論文じゃないし。


と、ここで議論を放棄してやるwww
面白いアニメとして完結させてくれたらいい。10話はカッティングセンスが面白かったし、映画としての伸びしろが見えたので、ちょっとイデオンという巨頭と比較しちゃいましたけど、まどかマギカは、まどかマギカなりの着地点に綺麗にまとめた1クールの佳作に成ればいいんじゃないでしょうか。
人類や宇宙の行く末という総論はそういうのが大好きな病気にかかっている富野由悠季おじいちゃん(最近の夢は「人類を十万年持続させるアニメを作る事」)に任せて、まどかマギカは怪獣に関わった女子中学生の思春期の一ページって言う各論で納めちゃっていいんじゃないでしょうか。



現用兵器と魔女の関係について色々妄想するのも遊びとしては楽しかったしねー。
と、言うのが現時点でも私の「総論」ですね。
アニメは面白ければそれでいいのさー。
でも、キャラクターの行動に説得力がないと面白さが減じる事もあるから、描写の尺が足りないなら上手く編集でごまかして欲しいのさー。
ガンダムイデオンも後から考えたらツッコミどころが満載なんだが、映画を見ている間だけは楽しくだましてくれたらそれで良いんだよ。



しかし、俺は本当に何を見ても富野基準だよね。フヒヒサーセンwww

http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-1192.html
テレビ、劇場版の接触編&発動篇、小説版と人類の滅亡を繰り返して、ある意味ループしていると言えなくもないイデオンですが、

オトナファミによると
富野「具体的に『イデオン』新作の演出プランを考えているって事です。もしやるとしたら、全体を再構成して2時間くらいの尺、つまり1回の上映で『イデオン』のお話をポンとわかるように作りたいんです」

お前もまた新訳とか新劇場版なのか!
教えてくれゴヒ、俺はあと何回キッチンとベントの隣の人の死を見なくちゃいけないんだ・・・。