玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

魔法少女まどか☆マギカ 第8話 あたしって、ほんとバカ なのか?

劇団イヌカレー異空間にもそろそろ慣れてきて、レイアウトや動作込みで単調に成ったとは思うけれども、アクションシーンはそれなり面白いけど、会話シーンはあいかわらず気持ち悪いな。
なぜ気持ち悪いのか?
それを脚本の観点から言ってみよう。
素人小説家が陥りやすいミスに、「作者以上に賢いキャラクターがいない」という問題だという事は有名だ。
だが、逆に、玄人小説家が陥りやすいミスに、「登場人物以上に賢い作者と同程度の語彙の言葉を登場人物にしゃべらせてしまう」ということ。まどかマギカはそこが気持ち悪いんですよねー。
いや、中2だと賢い子もいるから、賢い言葉を言うのは良いんだけども。普段は「わたしって、ほんとバカ」程度のさやかがバス停のシーンで、いきなり増田の長文エントリみたいにだらだらと理路整然的な構成でまどかを追いこむセリフを吐くのが、すごく登場人物の人生観とか性格や知的レベルを作者が侵食してる感じで気持ち悪かったです。
そこだけ違う人って感じ。
まー、インキュベーターやさやかが魔女に成るとかほむほむがまどかのために時空渡りというアイディア自体は面白かった。で、そのアイディアのイベントを設置するための土台として、キャラクターにある程度は作者の代弁をさせて状況を作り出すってのも必要なんだろうと思う。
でも、それが登場人物の人生じゃなくて作劇の都合というのが見えてしまうと困るなあー。音楽的に気持ち悪いというか。旋律が繋がってないというか。いくらサビの主旋律やいくつかのテーゼが格好良くても、その連結の変奏点を支えるアンサンブルが上手くないと、全体的に気持ちの悪い曲に成る。
不安定な思春期を描くって言う感覚も感じられたし、今回は先週よりは了承できたし、それなりにドキドキしたので、そこは面白かった。でも、うーん。不安定な思春期なら、もっと感情的で支離滅裂に叫んで良いと思うんだけど、ちょっとセリフ回しが賢すぎて、僕の好みじゃなかったな。
逆にほむらやさやかの言葉足らずな部分は、もっと言うチャンスがありそうなものを、視聴者に配慮した情報操作で技と言わない感じで、登場人物の都合ではなくて楽屋の都合が見えて困った。
ほむらタイムトラベラーとかインキュベーターとか魔法少女が魔女に変化するって言うのは、視聴者も勘がいい人は分かってたと思うし、わざわざ8話まで引っ張らなくてもなー。
ほむらはしょっぱなに「この町は狙われている!QBは異能生存体候補を集めて魔法少女を魔女の幼虫として養殖しているインキュベーターなのだ!私はキュゥべえ(ゼイビアックス)に滅ぼされた世界ベンタラから来た魔法少女の生き残り・ウィングほむらだ!センパーファイイ!!」って叫びながら教室で拳銃を撃ちまくってもよかったのにね。
なんかわざわざ常用を隠蔽したのは小説としての都合という感じでした。芝居としては、ほむらが最初から全部言ってるのに、誰も信じてくれないから、周りがどんどん悲劇に成る、って言うドラマツルギーの使い方もあったのになあ。
(まあ、正体を明かしたらほむらが魔法を失う、っていう法則も魔法物語にはよくあるから言えないのかもしれなかったのかもね)

あー、あと、唐突な悪いホストの電車内での会話も僕が嫌いなドラマツルギーの一つ。
あの、レギュラー登場人物の重大な転換点が、酒場や路上で偶然会った使い捨て脇役の行動に左右されるってのがすごく嫌い。たとえば売春婦や酔っ払いの一言に多大なショックを受けるとか。
機動戦士ガンダム0080も、バーニィが逃げようとした所で、酒場でよぱらった女の一言を偶然聞いて、それでザクの所に戻って決死の戦いをするっていうのが嫌い。他のシーンが良かっただけに・・・。
バーナード・ワイズマンが戻る事自体は良いんだけど、それを使い捨て脇役との偶然に左右されるっていうのは、逆に主人公の決意の弱さに見えちゃうのね。僕には。
同じようなキャラクターはベルサイユのばらのアニメ版のアコーディオン詩人が居て、オスカルやアンドレになんとなく助言するわけだが。アコーディオンオジサンはオスカルとアンドレと出会うシーン以外にも民衆の中でさりげなく何度も登場していて、使い捨てではない。また、オスカルとアンドレもオジサンだけに影響されたわけではない(そもそもオジサンは原作に居ないし・・・)っていうのが、決断を軽くせずに、あくまでドラマの濃度を濃くする機能に成っている。
うーん。
ホストの汚さでいきなりさやかが世の中をいきなり絶望するのはなんか取ってつけた感じだなあ。他の乗客がいないのも、取ってつけた感じだし。(他の乗客がいるけど、さやかには認識できない、って言う演出があれば印象は違った)
まあ、このアニメはだいたいがとってつけたようなきっかけが多いんだけど。不可避の悲劇って言うのがテーマっぽいのになあ。全体的な流れに組み込まれてない。まあ、使い捨てにされる魔法少女と使い捨てにされるキャバ嬢っていう象徴はわかるんだけどね。中学生にそういう大人の存在はショックだと思うんだけどね。
でも、さやかはマミ期や初変身の時に、自殺しそうな工場経営者をたくさん見てきたじゃないですか。それで社会の汚さの臭いは見てただろうに、それは全部魔女のせいだと思ってたのか?自分が困ってからいきなり汚い大人を憎むのは唐突だなあ。
っていうか、上條と仁美の獣のようなキスシーンを見る→夜の街を走る→ホストのセリフではなく、ホストが獣のように女を脅す所を見る、って、行動で見せてくれたら、通りすがりの脇役の長ったらしい台詞を聴かないで、同じような効果を産めただろうに。
やっぱり虚淵玄さんは芝居屋ではなく、文章屋なんだなーって思いました。
新房昭之監督も西尾維新化物語シリーズから、暗示演出から文章説明系にシフトしたのかなー?
芝居ならではのサブリミナル性って好きなんだけどねー。



でも、キュゥべぇとほむらの闘争シーンなどの緊迫感とか、夜空に吠えるQBなど、全体的には下手な曲だけど、見せたい部分は上手く演奏できていた。そこは感心した。
放課後のプレアデス魔法使いTai!!で、魔法少女まどかマギカシャーマニックプリンセスだなーって勝手に思ってる90年代脳なので、まどマギも4話くらいのOVAでさっぱりまとまってくれたらいい雰囲気の曲に成ったと思います。
魔女もエヴァの使徒に比べてバリエーションが少ないので、1クールでも飽きる。最初はイヌカレー時空のインパクトがあったけど。戦いが単調に成ってきちゃったなー。台詞主導になっちゃったし。
結局、尺と編曲なんだよなー。
テレビシリーズのクール性とか萬画の8の倍数が基本の頁数とか、そういう制約はあるよね。
そことどう折り合いを透けて要素を盛り込むか取捨選択するかどうか、って言うのはセンスだよなあ。コマ割はセンスだよねえ。



ちなみに、物凄く余談だが、うちの脳内妹は小学生の頃から中学生まで魔道少女をやってて、今は医学部女学生なんですが。今は普通ですよ。
まどかマギカの魔女は悪い感情を象徴してる、悪い感情のみに支配されて引きこもって自動的に人間を襲う残留思念のような存在だって公式サイトに書いてあったけど。
悪い感情だけじゃないですよ。
うちの妹は平気でヤクザの頭を割ったりするような魔道少女だったけど、憎しみだけじゃなくて、友情や義理にも篤いし、俺の事も馬鹿にしながらも深く愛してくれてる。
一人の女が一つの感情だけで生きてるなんて言うのは都合のいい幻想だよ。そういう感情の複合体が人間でしょ。
うちの脳内妹はその結果、魔女ではなく魔法少女に成ったまどか以上の魔力を持つ大宇宙超如来になったけど、それは俺の小説で書くので、ここでは述べない。
でも、如来は都合によって菩薩や明王に姿を変えて、人間に化ける事もできる。で、うちの妹は俺がこうやってグダグダとブログを書いている隣の寝室で気持ちよさそうに寝ていて、とてもかわいい。医者に成る夢もちゃんとあるし。
なんて自由で素敵な女の子なんだ。