玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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#翠星のガルガンティア 第10話なぜ少尉は殺人を厭うようになったのか

第10話「野望の島」

第二話の時点でレド少尉は海賊を殲滅したが今回は人間を殺害したことに悩み、嘔吐などの生理的拒否反応を見せた。
なぜか?


それは二点で、少尉の変化と、殺害対象の違いである。

  • 少尉の変化

少尉は第二話では人類銀河同盟の兵士として冷徹に敵を排除するスタンスだった。敵が敵であるという時点で、敵に生存権を認めない態度。
が、ガルガンティアでの生活で敵の海賊とも交渉可能、コミュニケーション可能、と学び取った。
それで、「立場上、敵に見えた相手も交渉次第で敵でなくなる」→「人間には生存権の余地がある」と言うふうに気分が変わった。
また、レド少尉は宇宙時代にはマシンキャリバーに箱詰めされ、睡眠も行動も制限され、感情も抑圧されていた。だが、ガルガンティア船団で感情や欲望を使う自由を得て、気分が変わった。
そういう風にキャラクターの気分、行動原理が何となく変わった、揺れるという有機的な脚本は私の好きなブレンパワードに雰囲気が似ててよい。


また、レド少尉が幼少期に弟を社会に抹殺された記憶を取り戻した、というのもわかりやすい変化だ。命が失われる時の悲しみの実感を再生させたから、殺人に生理的嫌悪を抱いたのであろう。

  • 敵の違い

また、レド少尉が殺害を嫌がり始めたのはヒディアーズの幼生を殺傷した時である。
レド少尉は罪もない弟を小さな時に目の前で抹殺されたので、「自分では何の罪もない子供を殺害する」という事に対してのトラウマ反応が高い性質を持つ。
戦闘中のヒディアーズや交戦中の海賊は戦う意思を持ち、自分の責任で戦っているから殺してもいい、と思える。殺したり反撃しないとこちらもやられるかもしれんし。
だが、自分では何の行動も示さない子供、つまり、それがその人種に生まれた、というだけで殺害する事は相手の意思を完全に無視して無限に殲滅しなくてはならん事だ。そして、相手が何の脅威でもないのに、相手がそういう風に生まれたというだけの理由でヒディアーズを抹殺するのは、レドの弟が弱く生まれただけで抹殺されたのと同じである。
一話以前のレドであれば、弱く生まれた者や社会に不利益な種族は抹殺淘汰されても構わないと考えたであろうが、弱くても何とか支え合ってエイミーと生きているベベルと仲良くなり、弱者抹殺以外の可能性があることや、その暖かさを知った。だからヒディアーズがヒディアーズという人類の一部族だというだけで殺害するのは可能性を狭めることだし、暖かいものではないと感じて怖く、不快に思い、吐く。

  • しかし、大事なのは自分だけ

レド少尉が殺害を嫌悪するのは、相手への人権意識の芽生えもあるだろうが、根本的には「自分が死にたくない」「自分を否定したくない」という幼稚で本能的で利己的な感覚だろう。
相手を殺して罪を背負いたくないという優しさや倫理ではなく、自分が殺されたくないという本能だ。
クローンに近いレド少尉の弟が病弱だからと社会に抹殺されたから、レド少尉は社会に抹殺されないように自分は人類銀河同盟に迎合しようとして生きてきた。自分に似た弟が殺されたから、自分が死ぬ恐怖を常にトラウマとして持っている。
私の母親も社会から借金や競争原理やリストラなどで追い詰められて自殺したので、そういう慢性恐怖はわかる。
また、レド少尉はたまたま人類銀河同盟に生まれたから戦争させられている。だから、たまたまヒディアーズに生まれた子供を殺す事はレド少尉にとって自分で自分と同じような立場のものを殺害して否定する連想になるのだ。


だからレド少尉が「人間同士が殺し合う戦争だ!」と叫ぶ事は倫理意識や人類平等人権よりもさらに個人的な切実さを持つ。
結局、みんな我が身しかかわいくないし自分の、自分に似た痛みしか感じられないのだ。

で、その利己主義はレド少尉だけではない。
機械のチェインバーが「私、マシンキャリバーこそが人類の象徴であり、マシンキャリバーを否定するヒディアーズは人類が人類であることを否定する危険な存在だ」と言うのは、結局「自分を否定するものは許さない」という単純なものだ。
その境地にチェインバーは独力で、人類銀河同盟と通信が遮断された状態での自己分析で至った。
SFとして、自己の存在を優先する人口知能はよくあるネタではある。
しかし、チェインバー自身はそれで人類に反逆する、というわけではなく、むしろ人類のピニオンなどに協力して何らかの成果を上げて生き甲斐を感じたがっているところもある。
これは攻殻機動隊タチコマみたいでもある。顔付きはブレンパワードだが。ブレンパワードもエゴを持ったアンチボディだった。
(ブレンパワードも自らと似て非なるグランチャーと本能的に憎みあっていた)

  • 新ネタを繰り出す

で、そこまでだったらわりとこれまでの延長線上での話だが。
なんと、予想外に一話で消えたと思われたクーゲル中佐のストライカーが信者を連れて再登場。彼女は彼女で地球人に宗教的に崇められるという生存戦略を行っている。
そして、上位機種のストライカーと来週以降敵対するなら、チェインバーが言った「起源を同じくするものの闘争では負けた者は淘汰される」という言葉はチェインバー自身に跳ね返って来る。
起源を同じくするもの、すなわち自分自身と自分に似た者との戦いがこのアニメのテーマかもしれない。


自分に似た者を殺すと自分で自分を否定したように感じ、辛い。
だが自分に似て生存領域が干渉しあう相手とは闘争しなければやられる。
この二律背反がドラマチックであり、人の悩みである。
生存戦略をテーマにした幾原邦彦輪るピングドラムやシェルブリットも、自己否定の恐怖や、人は自分しか愛してないという世界観や淘汰が描かれていたな。人はやはり、魂としては孤独な箱の中の個人でしかないのか?


そんな風にテーマを掘り下げつつ、予想外の新ネタを毎週入れてくるガルガンティアは面白い。楽しみだ。

  • 他に見所

ピニオンのころころ変わる態度がオーガニック的で人間臭い。
「アニキのお宝だ…」→「お宝は独占だ!」→「俺が豊かになる!」→「海賊も仲間にしよう!」→「宴会だ!」ってワンピースの人数が多い版みたいだな。
考えがころころ変わるが、何となく状況に思考を制限されて流されてしまう人間の浅はかさとしては有り得る。
だが、過去の遺産をちゃんと運用出来るかには不安要素が多く、サスペンスフルだ。


また、角笛だが、ヒディアーズの牙だったし、それは人骨だった。
レドの角笛は彼のよりどころであり、弟との、そしてエイミーやベベルとの温かな思い出の象徴。
それが一気に「人間楽器」というFate/Zeroのような変態趣味に!生理的嫌悪と同時に自分の生き甲斐が全否定された感じで、やはり自分で自分を傷つけてきたと認識してしまい、辛く、人生が無価値に見える。
私も母親を自殺させて京都大学も解雇され精神障害になって障害者支援施設に行ったりしたが公共機関の支援はやはり、弱者支援より公共機関の組織維持を目的にしてるから、辛い。
私もレド少尉みたいに人生に目的が見えない。だから親近感が沸く。でも俺は運転できないし快楽天ちゃんは周りにいない…。


だが!レド少尉と違って本屋さんで快楽天は売ってる!
ガルガンティア船団にはオカマはいるけどエロ漫画はあるかな?オルダム先生は持ってるかな?
ベベルはいつか立派なオネショタエロ漫画家になれたらいいな。