玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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#風立ちぬ は実在の人物を被った宮崎駿の自伝的理想との感想その1

本日公開のスタジオジブリ最新作「風立ちぬ」を見てきた。

  • いささか肩透かしを食らったような作品だった。

空中アニメーションを描く天才としての宮崎駿の空間アニメーター技術、自分で原画を描かないとしても絵コンテワークの浮遊感は日本で卓越した才能だと思う。なので、そのようなアニメーションサーカスショーを期待していった。そもそも飛行機がテーマの作品なので、たくさん飛行機が飛んでるところが見れると思った。
でも、あんまり飛行機が飛んでなくて残念だった。いや、飛んでるシーンも所々ではあるんだが、飛翔感の気持ちよさを感じ始めるかな?と思ったら飛行シーンが終わってしまい、不完全燃焼な感覚を感じた。主人公がパイロットではなく設計技師で飛行シーンより飛行を見上げてるシーンばかりなので宮崎アニメって感じがしなかった。
ナウシカ紅の豚をリバイバル上映した方がまだエンターテインメントとして楽しめたと思う!

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なぜ、そういう不完全燃焼を生じたかと言うと、宮崎駿監督はなんだかんだ言って、主演の庵野秀明監督が昔から逆襲のシャア友の会で言ったように「宮さんはパンツを脱がない」からだ。本作「風立ちぬ」は実在の人物、零式艦上戦闘機の設計者、三菱の技術者、堀越二郎氏の半生を描く、という構成であるが、実際に表現されているのは技術者バカ、メカオタクとして仕事に熱中する人のエゴイスティックな半生である。
それは宮崎駿監督のアニメーション監督として仕事に没頭し続けてろくに家にも帰らなかった(風呂にも入らないで作画してた)人生の自己表現でもあろう。そもそも原作が2009年からモデルグラフィックスに連載された宮崎駿監督の趣味性が炸裂した雑想ノートの続編のような「風立ちぬ」であるし、宮崎駿のオタク的部分がかなり投影されている。
しかし、そのような自伝的作品なのに、宮崎駿監督は「実在の堀越二郎の半生」とか「堀辰雄に敬意を表して」とか「堀辰雄の小説『風立ちぬ』や『菜穂子』の場面の引用」とか「夢の世界からの誘惑」など、幾重にもオブラートに包んで自分の欲望をパンツで隠している。
庵野秀明監督自身もアニメーション制作に没頭するエゴイスティックで、それを自覚しているクリエイターで、オタクで専門バカなのだが、そんな人が主演をしているというのは非常に的確な配役だとは思った。しかし、それはそれで「庵野みたいなエゴイストだって売れているしジブリ作品に協力してくれているから俺は正しいのだ!」という言い訳がましさ、つまりパンツやオブラートに包んでいるような主張に聞こえた。


ガンダム富野由悠季監督はパンツを脱いだうえで、その裸でどういう風に欲望なり生命力を見せるのかと言う恥さらし的な芸能をするのだが。
なのだが、いくらパンツを何枚も履いても、それが膨らんでいるのでその下にある宮崎駿監督の欲望が透けて見えて、そこが業の深い人だなーって思った。
「俺は飛行機が好きなんだ」「俺は俺の妄想を垂れ流すのが好きなんだ」「俺は戦争メカのうんちくを語るのが大好きだ」「俺はタバコが好きだ」「俺は都合のいい女が好きだ」「俺は処女が好きだ」「俺は他人なんかどうでもいいと思う」「俺はマザコンロリコンだ」「吾郎は生まれない方がよかったと思う」「72歳だけど死ぬのは怖い。生きねば」「でも自分が爺になっているところは見せたくない!仕事盛りの後の老後は描きたくない!」「家庭生活なんか面倒だ」「妻は黙って夫の仕事を手伝え」
っていうのが端々から漏れていて、「ウワー宮崎駿だなー」って思った。ヒロインがクラリスみたいに顔を覆って泣き出す動きとか、妹が顔をくしゃくしゃにして泣いたり、「あー、本当にいつもの宮崎駿だなー」って思った。単に慣れた手癖で書いただけかもしれないけど。
しかし、そういう宮崎駿の欲望が詰め込まれているのだが、同時にそれを隠してもいる。「俺は日本の国のことも考えている」「反戦要素も入れておきたい」「現代の生きづらさを抱えた観客に共感させてバケツ一杯泣かせたい」とか「時事問題に取り組んだ要素も入れて社会派映画っぽくしたい」「上品な映画を装いたい」という欲もある。自分や自分の作品を上品に見せかけた意欲がある。そういうところ、ジブリにはあるよね。まあ、それが「アニメでもサザエさんジブリだけは見てもいい」というPTAに受けがいいんだが。
しかし、なんでこんな自己中心的すぎるオタクの極北とも言える宮崎駿庵野秀明の作品が売れまくっているのか…。観客大衆の考えはよくわからんね。(だが、世界で一番売れたアニメはポケットモンスター ミュウツーの逆襲である。首藤剛志さんもまあ、アクの強い人だったけど)

  • 空中戦を封じられた飛行機乗り

その上、主人公の小学高時代から大学、就職、留学、結婚、仕事、42歳の時の敗戦までをいちいち評伝的に描いているので、非常に段取りが多く、結果的に126分の長ったらしい退屈な映画になっている。寝そうになった。
主演の庵野秀明監督はパンフレットで「宮崎駿監督が72歳を過ぎて少し大人になった映画を作った。だって地に足がついていましたから」と仰っていて、宮崎駿監督自身も「僕は漫画映画が好きでアニメーションをはじめた人間ですから、漫画映画の枠を超えていくというのはあんまり好きではなくて、むしろ反対してきた人間なんです。それがこういう地面に足をつけて生きていくしかないっていうカットばっかりの作品を作ってしまった」って自己反省している。
まあ、それは鈴木敏夫プロデューサーの作為によるところが大きいと思う。

プロデュースの基本は野次馬精神である。宮崎駿が戦争を題材にどういう映画を作るのか。戦闘シーンは宮さんの得意技。まさか、今度の映画で好戦的な映画は作るわけにはゆかない。そのことはあらかじめ分かっていた。得意技を封じられるとき、作家は、往々にして傑作をモノする。

いやぁー。僕としては空中アニメーション目当てに見に行ったのにそれがほとんどなくて不完全燃焼だったので糞つまんなかったですね。角を矯めて牛を殺す、葉をかいて根を断ったような感じです。惜しい・・・。なぜ一番の得意技を封じてるのか。


鈴木プロデューサーの「好戦的な映画は作るわけにはゆかない」という言葉はなぜかというと、「社会に広くアピールするジブリ映画なので、社会の評判を得るために、大衆の支持を獲得するために、好戦的な映画は作るわけにはゆかない」と言う権威主義ショーペンハウアーが人間の三つの価値のうち、最も低い「他人から見られる印象」のためだ。それを優先して、さらに観客から評判を得て興行収入を得て、さらに興行収入を得たという評判を得てさらに儲けるために、作品自体をゆがめている。

ショーペンハウアーは人間は3つの根本規定に帰着させられると言っています。
1.人のあり方
 すなわち最も広い意味での人品、人柄、人物。したがってこのなかには健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびにその完成が含まれている。
2.人の有するもの
 すなわちあらゆる意味での所有物。
3.人の印象の与え方
 印象の与え方というのは、ご承知のとおり、他人のいだく印象に映じた人のあり方、すなわち結局他人にどういう印象をいだかれるか、という意味である。したがってその帰するところは人に対する他人の思惑であり、名誉と位階と名声とに分けられる。

しかもそういう観客の「なんだか物足りない映画だったなあ」という不満を、パンフレットでのジャーナリストの立花隆さんの解説で封じるという多重的な言い訳がましさ!権威づけ!
零戦のメイキング・オブよりももっとスケールが大きい映画を作ったのだ。明治以来西洋に追いつき追い越せで、急ごしらえに作った富国強兵国家日本が、富国にも強兵にも失敗し、大破綻をきたした物語だ。」
と、政治的に立派なことを描いているように補足している。そういうことをアニメーション本編ではなくパンフレットの解説で書いて権威付けをしようとする態度が、本当に日本人的な言い訳がましさ、本質から目をそらし続けるいやらしさだと思う。
ハウルの動く城でも、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官を歴任していて有名だった緒方貞子氏をパンフレットに起用して権威づけしてたよなあ。ハウルの動く城は無意味な人間の戦争がさらに無意味な魔法使いの一言であっさりと解決する、戦争や命の重みを全く表現しないどころか、それを侮蔑したようなエゴイズム映画だったが、そのエゴイズムを権威づけで言い訳してるところがすごく鈴木プロデューサーの手腕を感じる。それで納得させられて「なんだかわからないけど立派な映画を見たなあ」と、アインシュタインを歓待した時のような感動を得る観客が愚かしいが、それが人間なのかなあ、と言うことも考えさせられる映画の周辺状況である。


そして、そういう映画が売れまくるここ十数年の日本映画界、や政界や社会が本当に上っ面のパンツだ。内容よりも本質よりも、権威づけとか見てくれの小奇麗さや美談っぽさが重視される。本質的な思考よりも物語構成よりも取ってつけた美談や説教がもてはやされる。ジャーナリズムと野次馬精神で動く知性のない自由と平等の社会。作品の内容よりも大衆が落とす金の量で価値が決まる資本主義社会。
社会主義者だった宮崎駿紅の豚で死んで、もののけ姫以降コマーシャリズム中心の作品を作るようになり、資本主義を体現するような作品つくり、というか作品周りの状況を作ってるのが非常に皮肉であり、それはちょっと面白い。
まあ、そういう皮肉に売れまくる状況や歪な構造の作品だが、その本質には宮崎駿のオタクっぽいエゴイズムが隠し切れなくなっている、と言うのが面白い。
同じく鈴木プロデューサーの下、押井守監督もエゴイスティックでオナニズムが根本にあるくせに小奇麗な見てくれの作品を出し続けて金を得ているし、そうしなければ生き残れないというのが娯楽業界の厳しさであり、そうやって金を稼がなくては生きていけないという資本主義社会での人間の浅ましさを感じる。悲しくなるなあ。

  • 続く

以下ネタバレにつき、アニメーション映画としての細かい感想は次回の記事で書きます。。
風立ちぬ は宮崎駿のいつもの自伝的理想と言い訳のネタバレ感想その2 - 玖足手帖-アニメ&創作-
これもアクセス稼ぎをするあさましい手法である。むなしい・・・

風立ちぬ・菜穂子 第2版

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その上アフィリエイトまで!私もあさましいよなあ!