玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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【第4話】さらざんまいは男の世界

 気負っても仕方がないので、つらつらとさらざんまいの第4話「つながりたいけどそばにいない」を見た感想を書く。味方だけど愛してないとか 守るけど側にいれないとか。
 要するに久慈悠の生い立ちが語られる回なのだが。


 プリキュア 男 女装 ホモ 兄弟 同一化 欲望 愛と言ったキーワードでさらざんまいを見てきた。
 今回のキーワードは暴力であり「罪」。これも幾原作品でよく語られるものだ。

  • 男の世界

 ジョジョの奇妙な冒険第7部STEEL BALL RUNの「男の世界」というのがある。
 今回のさらざんまいで久慈悠の兄の誓がヤクザの由利鴎を射殺するところが、ジョジョの奇妙な冒険第5部黄金の風プロシュート兄貴に似ている。が、その前に由利鴎を撃った悠は幼少期のリンゴォにも似ている。
STEEL BALL RUN vol.8―ジョジョの奇妙な冒険Part7 (8) (ジャンプコミックス)


『社会的な価値観』がある そして『男の価値』がある
昔は一致していたがその「2つ」は現代では必ずしも一致はしてない
「男」と「社会」はかなりズレた価値観になっている………
だが「真の勝利への道」には『男の価値』が必要だ… 


ジョジョの奇妙な冒険Part7「スティール・ボール・ラン」で登場した、リンゴォ・ロードアゲインの台詞。




 久慈悠もサッカーをしていたようだし賞状があるので優勝もしたようだ。彼の部屋(兄と共有かもしれない)には前向きなサッカーの標語を書いた紙が至る所に貼り付けられている。
 サッカー少年ということで一稀と燕太と、悠に共通点があるということが示された。しかし、部屋の内装というのを比較すると一稀の家はバリアフリーで春河に配慮しているのと、全体的にポップでアートが飾られているなど、ちょっと高級でリベラルなイメージ。一稀の家は春河が中心で、一稀がサッカーをしてもしなくても特に変わりはない。
 燕太は帰国子女という過去があったらしいのだが、彼の家は日本家屋でサッカーのグッズも多いのだが、祭りのような晴れがましい飾り方をしている。燕太のサッカーは一稀とつながるためのものだ。
 10歳の悠のサッカーの標語は「勝つために前向きであれ」というような標語が多く、必死さが伝わってくる。悠は今までの話ではサッカーをしていた素振りは全く見せないのだが。そして、今現在の悠の部屋にはサッカーの標語などの張り紙はまったくない。なぜなら、悠はサッカーで勝つという次元ではなく、世界に対して暴力で勝つ次元であるし、勝つための覚悟は標語を貼らなくても内面化しているのだろう。
さらざんまい 豆皿 「ア」マーク


 そのように比較ができるのだが、悠のサッカーや人生観には子供の頃から「勝利」が重要なファクターとしてあった。そこに、両親が世界に敗北して死ぬ事件が起こる。弱いものは消えるだけと言う兄。その兄を追って殺人を悠は冒す。悠は「弱いものは誰かに守られなくては生きていけない」と心に刻み、今でも兄を目指して強くなろうと思っている。
 だから、悠は「男の世界」で生きている少年だ。


 で、兄の誓は悠の殺人の罪を共有する。「罪も、罰も、分け合うんだ」と言うのは輪るピングドラムのキャッチフレーズであった。今回、自分の書いたピングドラムの感想を読み返すことはめんどいのでしないのだが。
 兄弟の同質化という点で前回までのラインの延長線上に見える。燕太も「一稀とは兄弟みたいに育ったから、考えていることがわかる」と同一化している。(同性愛としての欲求もある)しかし、一稀はゴールデンコンビという同一化をやめてしまっているので、燕太の同一化欲求はこじれている。同一化して考えがわかる、というのも一方的な思い込みじゃない?という視点もある一方で、さらざんまい状態という架空の設定で、心の隠し事も同一化して漏洩して強制的に分かり合わされるギミックも描いている。


 「男の世界」とは何か。社会的な価値観ではなく、自らの漆黒の意志と暴力で奪い、掴み取る勝利。社会的に罪があると言われても関係ない。自分が後悔しない事が大事。堅い意志で人殺しも辞さない。


 男のプリキュアとして見えるさらざんまいだが、プリキュアと決定的に違うと今回判明したのは、「男は罪を背負い、暴力を使う」ということ。同じ中学生でもプリキュアに変身する女児は無垢だ。正義だ。そして、プリキュアは赤ちゃんを育てたりすることで”未来”に向かっている。
 対して、さらざんまいの河童は隠し事や負い目、そして罪を”過去”に背負っている。そうしなければ生きていけないからだ。
 (ドキドキ!プリキュアのキュアエースはその問題があって分裂したりして無垢に生まれ変わっていたりした)
プリキュアオールスターズ 10thアート&チャーム vol.2 キュアエース


 幾原邦彦の世界観では世界は鳳学園の外や、子どもブロイラーや、透明な嵐とか、子供を虐待する親とか、世界は優しくないし、何もしなければ子供や少年たちから容赦なく奪う、時には存在すら抹消する残酷なものとして描かれる。


 幼児向けのプリキュアでも深いテーマ性を背負った悪役が出ることはあるのだが、プリキュアになる少女たちが罪を背負わなければ生きていけない、と言うほどの残酷レベルではない。


 なので、罪を自覚的に背負ってなお、前に進もうとする悠はプリキュアと違う。


  • ホモは罪

 さらざんまいは敵と戦うときに、敵の肛門に侵襲することで敵の尻子玉を奪って殺す。(まあ、実際には本体は新星玲央と阿久津真武に殺害されており、欲望を搾り取る過程で人間の体は死んでいる。欲望を手放すな、と言う呪いで欲望のみがカパゾンビに定着されて怪異を引き起こすものになっている。ノトーリアスB.I.G.みたいな本体がすでに死んでいるスタンドとしてのカパゾンビ)


 兄弟みたいな同一化としてのホモもあるのだが、カッパになった主人公たちがカパゾンビに行う攻撃はアナルレイプである。悪行で罪である。そして、アナルをレイプして尻子玉を抜いて欲望を消化して、敵の存在を否定して抹消する。プリキュアのように浄化してもとに戻すことはない。男の世界のプリキュアである河童は生と死、愛と欲望の間にいて、容赦なくカパゾンビの人生をかけた欲望を否定する。


 悠は誓のそばにいたいと思っているのに、それが果たされないので、安易に彼女の残り湯でそばにいるつもりになるようなカパゾンビは「甘ったれ」として否定する。そして、自分は人を殺してまでも兄の側に居たいという気持ちを持っていることをさらざんまい状態で河童仲間の二人と共有する。
 思えば、さらざんまいのカパゾンビの欲望と吾妻サラのラッキーアイテムと河童になる少年たちの漏洩する欲望のお題は共通している。そして、どうも欲望レベルとしては河童になる少年の「女装したい」「猫を去勢したい」「同性にキスしたい」「兄の側に居たい」という欲望のほうが、カパゾンビの欲望よりも業が深い。
 なので、カパゾンビの成人男性の欲望、つまりその命を河童少年たちが否定して、そのたびに自分の欲望を分け合って、肯定する、とまでは行かなくても認識して開き直って業を深めていく。という、蠱毒のような構図とも取れる。(ウテナの決闘も、鳳暁生とディオスにとってそんな感じだったけど)



 吾妻サラの放送の怪文書で「王子は愛と欲望の間にいる」と今回判明したのだが、河童たちも愛の使者という単純なものではなく、自分の欲望の力の強さを以てカパゾンビの欲望を否定していく競争みたいなところがある。その欲望が愛と認められると、ピングドラムのご褒美の果実のように金の皿が出るのかもしれないのだが・・・。金の皿なのか銀の皿なのかというのも理由が釈然としないので、河童の王子のケッピの思惑もまだ謎なのだが。


 話が少しそれたが、つまりカパゾンビよりも主人公たちの方が欲望レベルが強いのだ!としてカパゾンビの尻を犯して存在を否定していくのがさらざんまいの戦いのようだ。ウテナの決闘が単純な剣術ではなく覚悟の決まり具合で勝敗が別れるようなものだろう。つまり男の世界。相手を否定して消去して勝利をつかむ。
 それは相手の罪や欲求不満を癒やしてあげる母性のプリキュアとは、やはり対照的だと思う。


 それは、男女の体の構造の違いのレベルで端を発している。


 女性器は男のペニスを受け入れるように作られている。そしてまた、子宮で赤ちゃんという他者を育てて膣口から出産する機能を持っている。女性のセックスは受けである。受け身である。受け入れ体制が整っているのである。他者の侵入を許すのである。そしてマンコは気持ちよくなるのである。まあ、僕はあんまり女性経験ないし、脳内妹が好きすぎて彼女いない歴年齢という鳳暁生レベルのシスコンなのだが。そして、やっぱり女性器に対してもレイプしたら女性は心に傷を負って自殺するということもある。
 だから女性はチンポをとにかく許すというとは、全面的には言えないし、チンポを入れられて嫌な思いをする場合もあるだろうけど、生物的に見るとまあ、基本的にはやっぱりペニスを入れられて射精されて受精して妊娠して出産する機能ができてる。イヤダイヤダと思いながら、生活のために風俗で体を売って金を得る女性は、男娼よりも人口は多いし、店舗も多いし、デリヘルやソープはネットにも乗っているので社会的にも男が体を売ることより女が体を売るのは認められている。(まあ、ハッテン場とかについての僕のリサーチ不足はあるのだが)


 だから女性の描くBLでは受けのやおい穴に攻めのチンポを入れられて受けがメスイキすることでなんとなくレイプっぽく強引でも好きになっちゃったりする。そういう浅いBLを読むと、僕は「男はこんなふうじゃないし、単にヘテロセックスの女の見た目を男にしただけで、こんなの本当のホモセクシュアルじゃないよ」って思ってしまう。


 対して男の場合、肛門性交となる。
 汚い話をすると僕はブロガーだったりウェブエンジニアだったりして座り仕事が多いので痔になって肛門科に行ったり、心が弱いので精神を病んで全身の筋肉が引きつっているので、排尿時に骨盤底筋群が痙攣してものすごい激痛が発生して泌尿器科に行ったり、まあ医者にアナルをほじられたことがよくあるのだが。その指を入れる際、医者は決まって「はい、ちょっと気持ち悪いですよー」と言って入れる。気持ちよくなってはいけないのだ!基本、アナルに入れられるのは気持ち悪いものだというのが男の認識。まあ、俺が医者で気持ちよくなると医者も困るので気持ちよくならないように事務的に触診するのだろうけど。A性感といって、排泄器官も動物が食事をした結果としてうんこをするのを本能的に許すために、肛門には快感がある。(生物学者が「肛門が気持ちよくないと、生物はうんこをしなくて死ぬ」といっていたのをツイッターで見た)でも、肛門で気持ちよくなるのはなんか罪の意識が出てしまうのだ。


疾走【上下 合本版】 (角川文庫)

 重松清という小説家の「疾走」という小説で少年が肛門を犯されるのだが「精神を傷つけられた」と感じる。まあ、妊娠のリスクに比べると、肛門にペニスや指やディルドを入れられるのは物理的には大したことはない。裂けなければ。でも、猿のマウンティングのように、アナルレイプされるのは精神的に、存在を否定されて負ける屈辱なのである。
 だから、男の男に対するアナルレイプは器質的に女性に対する性交よりも「攻撃」や「否定」としての意味合いが強い。いや、女性をレイプするのを肯定しているわけではないんですが!女性とのヘテロセックスは愛情や利害関係があれば家族とか未来につながるのですが、男のホモセックスは基本的に攻撃的だ。男自体が攻撃的であり、競争的であるので。(まあ、本当に愛し合っているホモとかゲイの人とか、部下の男の機嫌を取る戦国武将のホモもいて、その感覚は脳内妹しか愛せないというセクシャルマイノリティの僕には理解できないのですが。)(同様に、普通に結婚したがるマジョリティの人の気持ちも全く理解できていない)



 気持ち悪い話をしてしまったが、BLに対する僕の知識も浅いので歴戦の腐女子さんからすると反対意見もあると思うのですが。しかし、腐女子さんですら日常的に攻めという単語を使っているように、男のホモセックスは攻撃が基本なのだ。


 さらざんまいでは同性愛として同一化していきたいという気持ちもありながら、愛情のない相手、カパゾンビとのアナルセックスは相手を否定して屈服させて抹消するものなのだ。そして、それは罪なのかもしれない。その罪を毎回重ねていく主人公たちはやっぱり業を深めていくんだろうなあという予想がある。


 久慈誓がヤクザの由利鴎に犯されていたかどうかはわからないのだが、ピストルで殺すというのも、アナルレイプの延長で、相手を強く否定する行為なんだろう。そして、それを共有している兄弟は離れていても同一化が強い。


 そういうわけで、男のプリキュアとして見た場合のさらざんまいは、単に肛門が汚いと言うだけでなく、自分の欲望によって相手を抹殺するというバトルの構造から、プリキュアに比べて格段に殺伐とした世界観で、それが幾原邦彦の中の男の世界なんだろうと思う。
 バナナフィッシュは割りと雑にアニメを見たけど、同一化する愛の相手のホモと、屈服させる手段としてのホモが描かれていて、それは割りと男から見てもリアルだなあって思った。


 女性は弱くてもマンコを差し出して守られて生きていけるけど、弱い男は犯された上に存在を否定されて消される。そういう男という生き物の脆弱性がさらざんまいから感じられる。


  • 春河が嫌い 異化としての異性装

 しかし、思春期なのにクラスメイトの女子がほぼ出てこないのがさらざんまいなのだが。女性キャラで出てくるのは画面越しの吾妻サラくらい。僕、意外とBLに出てくる女性キャラが好きなんですよ。世界一初恋の小日向杏ちゃんとか。田村ゆかりだし。
 男ばっかりの作品だとヒロインが男だろうと、紅一点の当て馬の女の子が凄く可愛く見える。(やっぱり僕は女好きなんでしょうね)


 それはそれとして、女装した一稀は可愛い。なぜか悠も女装した一稀に欲情しているふうだった。燕太が衝動的にキスしたのも女装しているとき。
 男同士の性的行動は攻撃につながるのだが、女装していると攻撃性が弱まるのだろうか?とりあえず、これはどういう意味合いがあるのか今後の展開に期待するとして。


 一稀が「春河が嫌いだ」と言い切ったのには驚いた。兄弟として同一化していく雰囲気が燕太にも悠にもあったのだが。カワウソ刑事のコンビも同一化を歌っているのだが。
 弟が嫌い、というのは異物として弟を見ているということなのだろうか?それとも同一化した上での自己否定?


 ここで、一稀が素では春河とぎこちない感じで、女装して自分を異化している時にはネット上で春かっぱと仲良くコミュニケーションできている、というのがある。


 ホモセクシュアルにもいろいろあって、トランスヴェスタイトなのか、男同士で弟に愛情を持つと攻撃的で気持ち悪いけど、一稀が自分を女にしたら春河を好きになれるのだろうか?うーん。微妙な線引きだ。


 男のアナルセックスは攻撃的だ、というのがカパゾンビとの欲望と命を奪い合う戦いで見えてきたが、そこで男らしい男の世界だけを描くんじゃなくて、「女になってみよう」という主人公の行動がどういう意味を持つのか?


 同一化的な愛情があると燕太の回で描いておいて、「異化」が一稀と春河の間にキーワードとしてあるようなので、ひねりが効いている。まだ前半なのにね。


 次回、吾妻サラの握手会で何かが起こるのだろうか・・・。カワウソも策を講じるようだし。そもそも、吾妻サラという女性と一稀が出会ったときに何が起こるのだろうか?っていうか、吾妻サラのお供のカッパとケッピの関係とかもどうなるんでしょ。


 しかし、吾妻サラの握手会には燕太も一緒に行くと言っているのに、何故か一稀は燕太にではなく久慈悠に助けを乞う。燕太を戦力外と思っているのか、鬱陶しいと思っているのか?燕太は一稀と同一化したそうだけど、一稀の方は燕太への感情が薄い・・・。この関係もどうなるのか。



 男とは!女とは!人間関係とは!という概念の深い所をポップな絵柄とエンターテイメントな歌や踊りを交えた楽しいアニメで考えていこう、みたいなところがあって、僕みたいな頭を使うことばかりにこじらせたオタクのおじさんとしては楽しいアニメですね。


 まあ、僕もつながれないおじさんだし未来に閉塞感はあるしカパゾンビみたいなもので、ブログを書いてちやほやされたかったというブログゾンビなのですが。ゾンビを殺しまくるカッパ少年たちにはどんな未来があるのだろうね。

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