さらざんまい第8話「つながりたいけどもう会えない」の感想です。
- 壊れていく世界
もうとっくに壊れていたのかもしれないが、今回はいろんなものが壊れていきます。
まず、カパゾンビが出ない。お約束が壊れた。
- つながりは切れた時にわかる
一稀は過去に悠に出会っていた。ミサンガももらった。しかし、一稀はそのことを覚えていない。
むしろ、この頃の一稀は「母親が生きるために自分を捨てた」というお気持ちでいっぱいいっぱいだったのだと思う。
ミサンガは切れた時に願いが叶う。今回、悠はそれを思い出す。しかし、悠は兄とともに去ることを決意し、思い出は消えていき、壊れる。
また、久慈悠が転校生ではなく、子供の頃に会っていたことで、三人組の人間関係の前提条件も壊れる。
- 燕太が壊れる
中2にしてパチンコ中毒になる。そこへ、偶然、久慈悠の兄、誓が現れる。警官から逃げる誓を逃がすのを手伝う燕太。燕太は三人組の中では倫理的(姉が教師)な性格だったが、前回漏洩したことで善悪の判断が多少壊れ、反社会勢力の誓の味方をするように成ったのだろう。グレているところに、かっこいい大人が出ると頼りたいと思ってしまったのかもしれん。
しかし、燕太は完全に悪になりきれもせず、誓と話をして悠も自分たち仲間を大事にしていることを聞き、また、サッカーを捨ててまで兄と一緒にいたいという気持ちを持つ悠に憐憫の情というか、そんなものを抱いてしまう。
そこで昔の悠が一稀のミサンガをしていたことを知って、作画もア太郎みたいに壊れる。
しかし、安田ヤスという4年前の事件で射殺されたユリカモメの弟分に見つかると、誓は迷いなく燕太を蹴り飛ばして盾にして逃げる。
誓は悠の兄で、助けてくれた燕太とも親しげに談笑していたのに、悪いやつなので倫理観が壊れている。
とか言いつつ、誓のせいで殺されかけたのに燕太は誓とまた会ってしゃべったりするけど。誓は「この世界は悪いやつが生き残る」と決め台詞を言って去る。
そこへ悠から燕太に電話がかかってきて、別れを告げる。ミサンガのことを燕太が追求するが、悠は兄さんのために生きると言って電話を切る。同じ隅田川の近くにいても携帯電話でつながって、そして切れるという薄さ。この演出、結構高度だな。
燕太にとって悠は一稀を取るかもしれない恋敵だったのだが、ミサンガを過去に一稀に渡したのに悠が去っていくのは嫌そうにする。燕太も単純に悠に嫉妬しているわけではなさそう。なんだかんだとさらざんまいしていた仲間意識もあるし、今回ミサンガを一稀が忘れている話を聞いて、自分と同じように悠も一稀に連れなくされているような同情を感じているのだろう。
- ケッピが壊れる
有能に玲央と真武を調べていたサラ、かと思うと雑なドジでケッピが冷凍されてしまった!さらざんまい以前にカッパになれないしカパゾンビと戦えないじゃん!!!
あと、サラのニュースの字幕で「あの二人が黒幕だったなんて。でもサラはあの二人が悪い人とは思えないディッシュ」と言うので、善悪の対立構造も壊れる。
- 警察が壊れる
いつもと違って真面目に警察活動をしているかに見えた玲央と真武。しかし、燕太を襲った安田ヤスをカパゾンビにするために射殺する。いつもは交番でやっているのに、白昼堂々射殺してしまうので、こいつらのお約束も壊れつつあるな。
そこに正規の警察官が銃声を聞いて駆けつける。が、カワウソ帝国バッヂの力で洗脳されて、安田ヤスを射殺したのは久慈誓だということになってしまう。警察の秩序が壊れた。
法の支配が壊れた!!!!
この世界は悪いやつが生き残るんだ・・・。という久慈誓の言葉が言うように、さらざんまいの世界観は可愛い絵柄で、かなり邪悪。そして弱肉強食の世界。きれいな母親ですら、自分が生きるために息子を捨てたのかもしれないのだ。
シェル・ブリットとかを書いてしまう幾原邦彦の世界観なのだ。それは彼が父を亡くし、母子家庭で育ったからかもしれないのだが。「公的な補助は期待できない」「世間は味方ではなく、敵」「地域共同体などはなく、街の姿も弱肉強食で変わっていく」という、かなりアウトローな思想がある。
少女革命ウテナでも社会的に成功した王子様の鳳学園の頂上が敵だったわけで。輪るピングドラムでも主人公たちの兄妹はテロ組織の家族として世間から冷たくされていて、陽毬は捨て子に成ってこどもブロイラーに飲み込まれかけた。
社会秩序、というか大きな社会構造への不信感がある。これは大人に虐待されて殺された子どもたちが主人公の萬画「ノケモノと花嫁」でも顕著な価値観だ。
小説、「シェル・ブリット」でも「社会秩序は残酷な弱肉強食で、その厳格なシステムをいかにハッキングして騙して生き延びるか」という主人公の行動がテーマに成っていた。
今回、さらざんまいのアニメとしてのテンプレートも壊れたが、社会を維持する警察もカワウソ帝国によって簡単に壊されると描写された。そして、それがまた久慈誓を追い詰めるという主人公に近い人物の危機につながる。
久慈誓と久慈悠は暴力を辞さない「男の世界」に生きている。が、その「男の世界」、個人の実力で勝利を勝ち取る価値観は社会的価値観という数の暴力で滅びゆくものとして、ジョジョの奇妙な冒険スティール・ボール・ランで描かれた。
さらざんまいの今回ラスト、事件現場に集まる警察車両。それはおそらく一稀たちを助けるものではないのだろう。
つながりを強調する、さらざんまいという作品だが、社会的な大きなつながりには不信感を匂わせている。浅草の古い店は再開発で容赦なく壊される。手の届く範囲の人とのつながりが大事だが、それも壊れやすいのだ。
高齢ひきこもりがこどもを殺害した事件で、テレビでコメンテーターの落語家が「ひきこもりは悪魔の予備軍」と言った。社会とのつながりを得られなかった人に対して、現実の社会は厳しい。助ける価値を社会が見出さない人は助けられない。結局利害関係しかない。それが世界。
少女革命ウテナの王子様にも大衆から「人の憎悪に光る百万本の刃」が向けられた。世界は憎悪に満ちている。
男のプリキュアとしてのさらざんまいだが、プリキュアは「ミラクルライトの応援」などで、なんだかんだいって「大勢の人の善意」に立脚しているところがある。さらざんまいは社会に不信感を持っている。社会に守られないが、社会という大きさに成りきらないグループの自助のつながりをさらざんまいは目指しているのだろうか。
- 一稀が壊れた
久慈悠を助けたい!なのに燕太が邪魔した!ということで悠本人よりも一稀が怒っている。悠は男の世界に生きているので希望の皿に頼らず、自分の力で生きようとする。また、そうやって生きるためには何かを捨てないといけない、というシビアな価値観を中学2年生にして持っている。
しかし、一稀は希望の皿で悠も含めた三人でしあわせになろうと思っていた。自分の力ではなく、ファンタジーな力にも頼りたいと思う。だから、それを邪魔した燕太が許せない。
一稀は春河とのつながりが一応決着したので、カッパ三人組のつながりを大事にしようとする。それで逆に燕太を強く憎むことになる。燕太は誓との交流で悠のことを知って同情し、皿を返しに来たが、一稀はそれも拒絶した。
燕太は殴られ、絶交を告げられる。燕太も、一稀が子供の頃の出会いを忘れていること、つながりを大事にしていないことで憤る。
二人の友情が壊れて、悠が「二人はゴールデンコンビでやっていけ」と願った気持ちも、壊れてしまう。
話をちゃんと聞かず、感情で「絶交だ」なんて言ってしまう一稀は、サイコパスとか性格が悪いとか女々しいというより、男でも子どもでもない「少年」という危うさを感じた。
少年なんだよなあ・・・。強い男にもなりきれてないし、子供っぽい夢を引きずっているけど、罪を犯してもケロッとしているような子どもでもない。罪悪感や過去もそれなりに感じて、でも力は足りないという壊れやすい少年なんだよなあ。
- 命が壊れる
そして、そこに玲央と真武が現れる。
欲望か、愛か。
燕太は撃たれる。真武がカパゾンビにしようと思わないで「助けを呼べ」と言ったので、愛だったんだろう。
しかし希望の皿は奪われ、エンディングから鳥と影が一つ減る。
燕太は死ぬ前に一稀が悲しまないようにか?つながりを切ろうと「嫌いだ」と嘘をつこうとしたが、できなかった。
弱肉強食な世界観で、しかも法の秩序も壊れて地域共同体も壊れつつある街で、毎回のお約束展開も壊れたアニメで、残り3,4話で彼らはどこに向かうのだろうか。
- 社会を破壊する天変地異の予感
カワウソ帝国とカッパ王国の戦争は関東大震災になぞらえられ、オープニングテーマでは毎回巨大なカワウソが東京スカイツリーを破壊しようとして、また、東京スカイツリーの地下にはカワウソ帝国の根城がある。
東京スカイツリーは高く、テレビの電波で遠くまで、情報というつながりを届ける大きな社会の象徴である。それに見下される街の中で、つながりが壊れていく少年たち。
東京スカイツリーはおそらく、最後に何らかの意味をさらに付与されると思うのだが、それが何なのかはわからない・・・。
村上春樹の影響は輪るピングドラムの頃からあるのだが、震災がまた起こるのか?
東日本大震災の時に絆ということが強く言われたが、原発事故の後処理はまだ終わっておらず、それに対する政府や活動家の間で意見が食い違い、つながりが壊れていっているのが令和元年なのである。
社会は人を守らないが、社会の最小単位の家族や友情に希望を持とう、という幾原邦彦監督の態度は、ともすればアンビバレンツな矛盾をも含むのだが。
しかし、巨大化しすぎた社会と、人間として観測できる範囲の齟齬も目立っているのが現代である。(何度も言うが、それをSF的に未来に置き換えたのがシェル・ブリット。)
鳳暁生やサネトシ先生や羽熊塚イタルなど、「世界の哀しみや邪悪を一身に観測するキャラクター」が幾原邦彦作品には多く登場する。
多くの場合、世界の哀しみを背負うものは救われない。なぜかというと、そうしてしまうと世界が救われてしまい、嘘の話になってしまうからだ。現実の世界は救いがない。
そして、友情や(疑似)家族に帰結するようなのが幾原邦彦作品のオチとして多くある。
ユリ熊嵐には世界を統べていたクマリア様は最初に爆死している。そして、世界の残酷さは小さな学校のクラスに吹き荒れる「透明な嵐」として表現された。
さらざんまいではケッピが王子様なのだろうが、そのケッピも白いケッピと黒いケッピに過去から分断されてしまっている。そもそもカッパ王国は滅んでいる。人間の世界の警察やメディアもカワウソ帝国や吾妻サラのような妖怪にこっそり侵略されつつある。
さらざんまいでは社会や世界の全てを背負うラスボスは見受けられない。玲央と真武も完全な悪とも言い難い様に見える。欲望というか、エネルギーを奪い合う生存競争には善も悪もない。
しかし、人の悲しみが表現されていないわけでもなく、社会からはじき出されて死んでいくカパゾンビの「(ある意味で悲しい)秘密の欲望」をカッパ三人組は知っていくし、自分自身たちの「秘密の欲望」もさらざんまいで共有される。
なので、極論を言うと一稀が悲しみを知って人の業を背負い続けていくと、少年は世界の果てになってしまう、という話なのかもしれない。
まあ、幾原邦彦監督にとって、世界の果てというテーマはもう古いのかもしれないのでやらないのかもしれないけど。
しかし、東京スカイツリーの電波はある意味、世界の果てまで届くかもしれず、あの高さは鳳学園の決闘広場のようでもある。
天空の城に届くような高さの東京スカイツリーを立ててしまった人間社会は希望を得られるのか、それとも憎み合い弱肉強食のまま朽ちていくのか・・・。
隅田川を下りながら東京スカイツリーを眺めつつ、電話に出ない悠は何を思うのか・・・。
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ていうか、ついに貯金が底をついて後三ヶ月は月1万円で生活しないといけなくなりました。まあ、米は親戚がくれるんですけど。
三ヶ月たっても金策がうまく行かなかったら自殺かなー。
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