玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ブレンパワード第24話「記憶のいたずら」

ブレンパワード 第24話 記憶のいたずら(B-ch)
↑視聴はこちらをクリック(105円)

脚本:隅沢克之 絵コンテ:赤根和樹 演出:渡邊哲哉 作画監督佐久間信一

ひーとがいじぇい


今回は、本格的に比瑪と依衣子がコンタクトを取る話、と言う事なんじゃないかなー。
それで、やっぱり一番思ったことは、依衣子姉さんは良い子でありすぎるということ。依衣子姉さんは長子だから責任感が強かったんだということ。こういう人は鬱病になりやすい。
ここら辺を長男でやると、精神的になよなよっとしてると思われたりしまうんだけど、癇癪持ちの女と言う風に描いたのはナイスだと思うなあ。
あるいは、女性が男性的な自己実現を求められるようになった時代の適応障害を暗示させたりしてるんだろうか?
だが、依衣子姉さんは男性的な自己実現のキャリア・ウーマンで、いつまでも男漁りをする母親翠のようにもなりたくないというのが在る。
それで、壊れてしまった家族の破片をいつまでも組み立てようと賽の河原
「駄目なんだ!私は家に帰らなければならないんだ!」
「私はね、自分のために誰も犠牲になんかしたくないんだ」
ここで、僕はNHKにようこそ!萬画版1巻33ページの佐藤達弘の言葉を思い出した。
>>
山崎(フィギュアに脳内恋愛中)「いいじゃないですか。誰も傷つかないから!!」
佐藤(フィギュアを奪い取りながら)「お前が傷ついてるだろが!!」 <<
あー、これが脳内恋愛の真実かもしれん。滝本竜彦は引きこもりの癖に、考え込んでうまい事を言うなあ。
クインシィが自分の分身であるグランチャーだけに心を開くのもそういう優しさによる歪みが在るのかもしれない。
自分が人間扱いされないで生きてきたけど、他の人を人間扱いしないで傷つけ返すのも出来ない、だから人間じゃないものを人間扱いする事で人間の価値を下げると言う復讐。
いや、僕は脳内恋愛をしてますけど傷ついてませんけどね。
僕は脳内妹を人間の代替物ではなく、一つの人格として愛しています。グランチャーではなく、ブレンパワード的に愛しています。
だが、グランチャーとブレンの線引きも曖昧かもしれない。
ブレンとグランは別々の系統だと言われているし、リバイバルを誘発した人によって変わるとも言われているし。
傷ついても健やかに成る事はできるはずだ。というのがオーガニック的な自己修復性なのかな。レイプのサバイバーが立ち直るのは、サバイバーとしてのアイデンティティーを自然と捨てる事ができた時だと聞く。淋しがる殻から出ることができれば。


だが、今のクインシィは自分が傷ついている事にも気付かず、ただただ空回りの努力を続けている。
「あたしは家族を守りたかっただけなのに!」
他人のためだと思いながら自分の不安感を紛らわせようとしている。結局他人に認められることで自己実現しようという欲がある。
ここら辺は、僕自身が依衣子とは種類が違うが、人格障害があるので共感できるし、そのように思いながら自分を投影しているだけかもしれない。
しかし、依衣子の造形は境界例人格障害の典型的なケースに見えて、上手いと思う。
>>
見捨てられる不安が強いために愛情をつなぎとめるために必死に努力をする。
他人への評価が理想化したり、こき下ろしたりといった両極端で不安定なものである。 
同一性が混乱していて、自己像がはっきりしない。
衝動的で、ケンカ、過食、リストカット、衝動買い、アルコール、薬物、衝動的な性行為などが見られる。
自殺行為、自傷行為などをやろうとしたり、脅したりする。
感情が不安定。
いつも虚無感を覚える。
場に合わない激しい怒りをもち、コントロールできない。そのため、暴力に走ったりする。
ストレスがあると妄想的な考えや解離症状が出ることがある。
http://akatan.cool.ne.jp/jinkaku.htm#border <<
依衣子は母親との癒着と言うよりは、虐待とグランチャーとの癒着と言う感じだが。
境界例人格は思春期までは良い子で、自我が生まれそうになるとその拒否反応で発症すると言う風に、つもり積もってから爆発する物らしい。
依衣子も傷つきながら、その苦しさが積み重なっていって、私はこんなに努力しているのに!
勇は家を出るし、父親は世界のために自分を道具として扱うし、母親は自分の能力を誇示していつまでも男を漁る。
「家族なんかぁー!」
これは、本当に上手いつくりだと思う。
僕が参加した京都精華大の講演会(KINO/vol2収録)で、富野監督は一人の観客からこのような質問を受けていた。
>>
人格障害を学んでいるという者から富野作品にはカミーユベルトーチカなど人格が崩れているキャラが多いが、それは意図的にそういうキャラにしたのか、結果的にそういうキャラになったのか問われる。

「当時からそういう人格障害など全く知識がありませんでした。回答になってないかもしれませんが、金儲けのためにZを作るしかない自分の立場をあらゆる意味で意識したうえで、基本的に自覚的にあのようなキャラクターを設定したのです。」
「もう少し言うと、自分もそういう風になると言う自覚があったからです。『Vガンダム』が終わった後で、自分が発病してしまいました」
「何よりも社会病理としてみていったときに、Zの時にはこうなるぞと言うものをかなり確信したと言う事です」
「ロボットもののヒーローが発狂するわけがないなどと思わないで頂きたい!」
「そのあとターンエーガンダムというヒットしないガンダムを作ったんですが、人間は死ぬまで元気でいなければいけないんじゃないのかということで、思考回路を変えていったら病気にならない自分を獲得できると言う事を体験させて貰っています。」
「成功のあり方、自我の出し方、エゴの出し方というものについて、自分たちにはエゴがないんだというところから始めて、穏やかな人格を作っていくと言う事も、具体的な社会問題として突きつけられていくんじゃないかと思っています。」
http://char.2log.net/archives/blog512.html <<
どうやら、富野監督は人格障害に対する知識から、そのようなキャラクターを使ったのではなく、現実の社会に似た世界を構築しようとして自覚的に考えていったら人格障害を再現したと言う事のようだ。その力量はすごいと思う。
つか、自分の生の感情を投影しただけかもしれんが。ボクも脳内妹に思考回路を変えてもらうような認知療法をしてるからなあ。作品つくりはセラピーに成る。
ここら辺の作品を通して監督が自分を癒すと言うのは新世紀エヴァンゲリオンも、同じである。


http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/human/asuka2006.htm




エヴァンゲリオン境界例のキャラクターを出し、実際に境界例人格の患者に爆発的な人気を得たと言う報告が当時の科学雑誌に載っていたのだが。
ブレンパワードはメタな演出になっていったエヴァよりも劇作の中で落とし込もうとする姿勢になっている。
また、新世紀エヴァンゲリオンよりも深まっていると思うのは、エヴァ人格障害は個々のキャラクターの問題として完結していたのだが、(シンジはアスカのトラウマを認知していない。ここに断絶の悲しみを見ることもできるのだが)ブレンパワードの場合はキャラクター同士のトラウマが増幅し合うという構造になっているし、それが世代間の因縁話という伝記的な広がりにもなっている。
碇ゲンドウ碇ユイに執着する事がシンジの愛情不足を誘発し、人格障害を招いたと言う構造になっているが、ゲンドウの人格形成は省かれていたし、碇ユイという母を神聖化した段階から踏み込めなかった庵野秀明監督の限界もあり、碇ユイという女が何故エヴァで地球を滅ぼして自分に取り込もうと言う欲望を抱いたかと言う事も描かれなかった。アスカの母も死ぬことでイノセントを保ったと言えるし。)
まあ、エヴァの方が判りやすいので、「エヴァ 人格障害」でググッたらたくさん出てくるのだが、「ブレンパワード 人格障害」だったら、オレのページしか出てこないのだが・・・。
エヴァンゲリオンを見て癒されて泣いた、と言うメンヘルの人はブレンパワードも見た方が良いと思う。エヴァは淋しがる殻から出ようとしたけど、出られないところに共感できて、自分のための涙を流す事が出来たけど、それはフィクションとして志が低い。富野由悠季時をかける少女にも「フィクションは観客の気分をなぞって満足させるだけで無く、その先を描かなければ成らない」と噛み付く。
ブレンパワードはその、淋しがる殻から出てもいいんじゃないかという気分があると思う。
比瑪みたいな善い子は実際にはいないと思うんだけどねえ。うちの妹くらいかなあ。



で、クインシィの人格障害を増幅するのは、ジョナサン・グレーンである。
「家族なんて何の役に立つ?あんなもの俺達の思考を鈍らす単なるノイズさ。だから俺もマコーミックの名を捨てた。お前は、クィンシィ・イッサーを名乗れよ」

しかし、クインシィを生み出したのはジョナサンだったのか。ここに来ての伏線回収。
「偽名を持ち、偽名を使うのはとても楽な事なんだ!」(小説版)
ここら辺は、ハンドルネームでのネット弁慶も示唆しているのかもしれない。
女王がクインシーメロン。
クインシィだというのは、解離性同一性障害ではなく、演技でもなさそうなのだが。自覚的に自分が自由になるための偽名なのか。僕も、脳内妹の前では別の名前を使っていたりするからな。頭令そらの兄の頭令倶雫。法名は玖足。でも、日本人は元々改名はよく行なっていたし、TPOにあわせて人格を変える習性もある。だから、日本では多重人格の発症がアメリカよりも少ないんだって。病気にならなくても元々多重人格的。
クインシィは虐待経験もあるので、解離性同一障害との中間のような物か。
依衣子は引越しなどの環境変化を多く受けていたので、そこら辺も自己意識の構築がバラバラになったのかもしれない、とまともに学校に行ったのは高校3年間だけの転校生のオレが言う。国電パンチ。
勇よりも年上な分、本心から「おばあちゃん大好き」と安定する事もなく、どこか引いてしまっているんだよな。自分の立場や振る舞いと自己意識の間に距離がある。
それで、クインシィを名乗ったのはバラバラで不自然な家族を再構築しようとしすぎる自分を解放するために家族から離れるための方便。オルファンと言う、より大きな家族に認められるためだったのかもしれない。モノとして扱われていた自分が他人に成る事での復讐。
だが、それで安定していたのも親がそれを望んでいたという部分もあるし、それで安定していればいるほど他人として親に接していても道具だった自分とあまり違いが無いと言う淋しさもある。
決定的な破綻は勇が出奔して、また新たに家族を修復しなければならなくなったことと、勇が家族の外で楽しそうにしている事を見せ付けられた事か。
こうしてみると、クインシィの怒りと悲しみのマイナス感情がバロン・ズゥを生み出したという単純な物ではなく、優しさやめぐり合わせも絡んでいる。

ジョナサンは、自己愛性人格障害のようだ。
http://akatan.cool.ne.jp/jinkaku.htm#narcist
まあ、ジョナサンはそれなりに能力もあるし、突発的に優しいのだが。
ジョナサンとクインシィは
>>
ふたりの思惑は、もしかしたら、似ていたのかもしれない。似ているから反発し、そして惹かれているのだと、本人たちは気付いてはいない。 <<
だそーだ。
これって、傷の舐めあいをする男女が・・・支えあってという良くある相互依存の。
ボーダーの女は恋愛依存になりやすいとか、かまって貰うために誘惑してくるとか言う事を聞く。
クインシィとジョナサンの肉体関係ははっきりしてないんだが。(ジョナサンのふかしかも知れんし)
男に言われて名前を変えると言うのはとてもいじらしいと思うし、自己愛性の男からすると、女をそのように操作すると言う快感は気持ちいいだろう。
クインシィの依存対象はジョナサンと言うよりはグランチャーのようだが。
逆に、小説版を見るとジョナサンの方が依存しているかもしれない。
>>

「クインシィ・イッサー!お前の強い意志なら、より強いグランチャーにリバイバルできるぞ!」
 一方でジョナサンは真摯な叫びをあげた。いつも紗にかまえたようにしか物事をとらえないジョナサンの両手は、固く握られている。

「この子がオルファンに行きたがっている。ジョナサンのバロン・ズゥが棲家にしているところを確かめてから、アンチボディとして戦いたいのだと…!」
 このときのジョナサンの満足ぶりは、筆舌に尽くしがたいほど高揚したものだった。
<<


バロン・マクシミリアンのコスプレをはじめた後の行動は、ジョナサンの自己愛的な自己意識の妄想を強化する事で、ジョナサンを肯定し、自動的に自分も肯定されたいと言う欲求からきているのだろうか?
キャラクターに欲望があるのはいいとおもう。ボクも萬画を書くときに、まず考える事は「このキャラクターはどういう欲望(現在)があって、それはこういう生い立ちからで(過去)、それにそって行動する(未来)」と言う事を決める。これはやりやすいと思うなあ。




ジョナサンとバロンだが、バロンはオルファンによる「とりあえずの救済」を求めるアメリカ軍を懐柔し、ガバナーと伊佐未ファミリーを追い落としたのだが、自分がトップに成るのではなく、
「ジョナサンに正義を行わせて、オルファンの意志に連動させるだけだ。バロンズゥがそれを選択した!」
と、ジョナサンをひたすら甘やかし、ジョナサンこそが正しいという風に動く。バロンズゥの選択と言うのも、バロンズゥという異種族の行動を勝手に解釈しているだけではないかと。
自分の意志や責任ではない。バロンズゥが選択したから、オルファンの意志だから、ジョナサンが正義だから。
そして、ジョナサンも「過分な使命だ。俺にそれができるだろうかなぁ?」と言いながらも、果てしなく調子に乗ってしまう。
それでいてやっていることはクインシィを追いかけることだ。
それも、クインシィが好きだから、ではなく「そういう女は力になる!」と、クインシィという人ではなく力のほうにベクトルが向いている。
古いタイプのステレオタイプな悪役では確固たる自分の考えを押し付けると言う感じの(父性的な?)人が多かったと思うんだが、ブレンパワードでの悪役は自分の考えや価値観を、「大きな何者かがそう言ったからそれに従え」と言う風な持って回った言い方で押し付けるような感じだ。
自分に自信がないのに相手に対する支配欲は強いと言うような。ある意味カルト的な。まー、戦前の日本軍の空気論や天皇制の責任を右から左に受け流す構造とかを見ると、昔から在った物ではあるのかも知れんし、本質的に人はそういうものかもしれん。
他人のためだと思いながら自分の不安を紛らわせようとする。
対して、比瑪や味方側の人たち(ブレンパワード的な人)は「私が見て、かんがえた。だからわたしはこうする!」という自信があると思う。*1
それでいて、比瑪が押し付けがましくないのはお話好きだし判らないなりに相手をわかろうとする好奇心と相手の幸せを願う寛容さが在るからなんだよなあ。
その、自分の行動に対しては大きな価値観に合致するかではなく、自分の価値観で。
相手を見つめる時は、相手が大きな目的に役に立つ価値を持っているかではなく、その人自身を好きだから、好きだという風に。
ここら辺は、職場のビジネス論にも応用できると思う。
今号のプレジデントを見ると、成果重視社会が職場の疲労感や精神的病気を増大させているという特集が組まれていた。
詳細は省くが、僕はそれを読んで、「ブレンパワードを見ればいい」と思った。
まあ、何に対しても僕は富野作品をおすすめするわけだが。
ビリー・ブランクスが「ブートキャンプをやれば、全ての悩みは解決する!」と言うような感じ。(笑)
だが、本気ですよ。
今こそ、ブレンを映画化するか、深夜の疲れたサラリーマンタイムに再放送するといいと思う。
えっと、会社の単年度目標をクリアーする、とかイノベーションを推し進めて世界に通用する価値を創出していくとか、世界中の人の幸せのためにグローバリゼーションを普及させる言う程度の目的を大きな価値観だと掲げて行動しても、結局は個人のエゴをそれに仮託して増幅すると言う結果になっていると言う、人間の悟性の限界を露呈させているのが資本主義社会という実験の結果になっているのではないかと思います。
共産主義よりは20年持ちこたえたが。
大きな価値観に仮託した個人のエゴと言うのは、憲法改正という国家事業を祖父の宿願と言う個人的な因縁晴らしと同一視して当然な首相や、憲法改正のほかにも著作権法の「非親告罪化」などはアメリカ年次改革要望書という脅しに対して自分の生活を維持するために唯々諾々と従う議員や、自国の企業の業績を上げるために年次改革要望書を送りつける国や、老後のために天下る官僚や、右肩上がりの業績と言うグラフの美しさによる快感に取り付かれて不正を行なう民間会社や、そんな感じ。
小さな不安感を大きな価値を実現するためだと言う大義名分に置き換えるという態度。お前の人生なんか知るか。勝手に生まれて勝手に死ぬだけだろう。
かといって、人間って言うのはそういう小さなもので当然な気もするし、そこら辺をもっと皆正直になればいいんじゃないかと思うのだが。しかし、自分の弱さをひけらかすというボーダーライン症候群的な開き直りも違うと思うし。
オタク的な(ここでは快楽原則に取りつかれすぎた、と言う意味)視野狭窄的な虚構に近い利益追求ではなく、もっと地に足をつけた幸せを重視したい。
それは、母性的なものかもしれない、と監督もスパイラルブックで言っていたような。
>>
富野 基本的に健康を支えあえるっていうことに対して、
   確認しあってるのが芸能の本位なんです。
   食料が物量的にこれで冬越せる。
   OK、じゃあ、これでみんなで順々に分けて、
   それこそカプセルの中に入って暮らすようだったらどうなります?
   暮らせないでしょう。
   秋の収穫が始まった。
   「おーし。みんな行けよ」というふうに、一応神様に御礼参りやって、
   それから酒くらって大騒ぎして、そのうちに
   「ちょっと、春には子どもが生まれそうなのよね」
   って言ったとき、春に生まれるのは、
   めでたいっていう話になるじゃないですか。

── すると、父性が物語の軸になることが多かった富野監督の作品の中、
   『ブレンパワード』では女性や母親の役割が大きかった理由が
   分かってきました。

富野 僕は男の中には芸能は基本的にないと思います。
   男の中にある芸能的なものっていうのは、
   それが理念にまでいったときに初めて芸能として
   告知されるんじゃないでしょうか。
   道を究めるっていうのはこうであるよ、
   というふうに突き詰めた理念のものであって、
   あれは芸能ではないんです。
   男っていうのはそっちに行っちゃうんです。
   芸能っていう言葉とか意味性の持ってる柔らかさっていうのは、
   僕は母性的なものだというふうに思ってるんです。
   男っていうのは基本的に外に出て戦う動物なんです。
   つまり、メスと子どもを、子どもという自分の次のものを守るために
   外で戦って死んでいく存在ですから。
http://wijayu.at.infoseek.co.jp/ <<
ただし、ムラ社会というものも暗い因習とか村八分とかあるし。目の届く範囲の幸せを重視するのは言いが、目の届かない所から来るものに対して過剰に敵愾心を感じたりとかもするのであるから、簡単に良いとは言いたくない。
いや、それも、村を維持する、と言う目的にオタク的に拘るからのゆがみかもしれん。こう、広く物事をニュータイプ的に認知しながらも隣の人とちゃんと向き合えるような、緩やかに傷口をいたわり深く癒しあいながら藍のほんの小さな蕾を育てていくような・・・。
そういう共同体理想論は宮崎駿の得意技なわけだが、ナウシカ黒歴史黒歴史巨神兵に焼き滅ぼさせたのだが、ターンAだって、時代を拓けるはずだーっ。という違いはある。

おっと、アニメの話をしていたのに、ついつい身の程を忘れて社会批判をしてしまった。俺ニート
富野作品を見ると社会に対するありかたとは、みたいなポーズを取りたくなってしまう。(笑)
っはっはっは。俺はニート。飯代分くらいは働けよな。
アニメのことを考える程度が似合ってるんだよ。
僕の発言を字面どおりに受け取ってもらいたくない!



そして、回想シーンに付いて軽く書くと、エヴァンゲリオンっぽい精神世界のだが、むしろ映画的なものの方を強く感じた。女の一生と因縁を10分で語れるんだねえ。
河瀬直美っぽいなあと。
>>
脚本と編集は、かなりひどい。場面転換で、その間に十年経ったことがしばらくわからない。あらまだほかに家族がいたのか、と思ったら、さっきの子どもの成長した姿だった。あるいは、メインの女性がその家の母親だとは映画の最後までわからなかった。
http://art.way-nifty.com/ysk/ <<
・・・。ブレンパワードは、アニメであり、声優とマンガ絵と言う共通点を使っているので実写よりも映画的効果を伝える事ができるのかもしれない。
しかし、この演出を完璧に実写でやることが出来たら、トミノはカンヌくらい軽く取れると思うな。つか、アニメにも賞をやれ。
ジブリエキゾチックジャパンな気がするんだよなあ。
ask Johnによると、リーンの翼はアメリカ人には受けないらしい。俺に受けたので良いか。
前回だが、伊佐未直子の少女時代のビジュアルは反則に萌えたと思う。パフスリーブのセーラー服の仲間由紀恵風美少女いのまたむつみは反則だと思うババア!
んで、女4代の因縁が語られたのだが。
これは、誰が悪いと言う事が簡単にいえないんだよねえ。
人の判断と言うのには、社会とか環境とかめぐり合わせとか思い込みとか義務とか縁とか偶然の事件とかが絡み合っているし、優しさや愛から生じた事も憎しみに育つ事もあるんだよねえ。
ボクの母も早くに実の父親を亡くしているし、父方の祖父は原子爆弾で最初の妻を亡くしたらしいし、人の因縁と言うのは、社会とも繋がってると言う事は実感としてわかる。
うちの母も、祖母と同居するようになってからイライラする事が多くなったのだが、女同士が同じところにいると縄張り争いをするんだよな。実の親子だと、余計幼少時代の親の庇護と現在の自我との間で軋轢が生じる。女三界に家持たずというのは女性の特性な気がする。あくまで僕の家系の話だが。
それで、翠がイライラして母親に「母さん!全部私にやらせる気?」というのはとても女らしいなあ。さっきも母親に「働いても働いても私の生きる意味が見つからない。おばあちゃんはゴロゴロしてるだけで邪魔」とか言われて、ひひひ。ニートでサーセン。
翠が母に吹き込まれた虚構の父親(ゲイブリッジの理想も入ってる?)を追い求めて職業婦人になって母親をバカにするという心理はとてもよく分かるなあ。子供の頃は素直でも、それが真直ぐに育つわけでもない。
直子も翠も好意ではない結婚をしてるのも興味深い。
直子は外に出たがらないからイサムを選んで、翠はその反発から男には仕事の価値だけを求めて。
それで、自分の子には理想を押し付ける。文句の言わないトラウマ受容機械にしてしまう。
勇が外に出て女を見つけたのはとても正しい。
でも、僕はしょぼいので、親をなだめながら脳内妹にすがるしかないんだよね。つか、比瑪みたいな女は現実にいないし、現実の女性にそういう振る舞いを期待するのも無理だし、普通は損得勘定で死か人は結びつかないのだから脳内妹最高。脳内妹は僕と一緒にいるだけで楽しそうにしてくれます。
現実の家族なんて言うのは親しき中にも礼儀が無く自分の欠けた心を押し付けあう集団なんだから、そんなものは捨てるし、自分で家族を作ることも出来ない。僕が脳内妹に縋って、クインシィがグランチャーに寄り添うのはとても似ている。
依衣子の精神の流れはいろんな因縁から自然に生み出された物だ。
これを単純な回想や情報ではなく、プレートの不思議や依衣子の精神の揺らぎや人の命のつながりの記憶として描いたのはとても美しい。


また、クインシィ・バロンズゥのリバイバルについても、ネリー・ブレンの出生と対になる事象だし、ヒメ・ブレンやジョナサン・バロンズゥの出生の要素の相似形も含んでいて、寓話的な構成を盛り上げている。
ヒメ・ブレンはずっと上の村のプレートに惹かれていた、と言う事で特別感があるし、バロンズゥを生み出してしまった事でヒメ・ブレンが震えるのも可愛い。
上の村のプレートはずっと伊佐未ファミリーを見ていたということで伊佐未との繋がりも在る。
バロンズゥのジョナサンとも。
似た部分を持ちながら決定的に違っている4人のアンチボディと人間達は、どこへ行くのか。うおおおおお。もりあがるー!


今回、勇は影が薄かったのだが、主人公としてどのような活躍を後2回でしてくれるのだろうか。
「俺がとめてやる!」というのは主人公らしくてとてもナイスだったが。


しかし、今日も深夜でアニメ感想で、明日も仕事。
どうも、アニメ感想1話というのは1時間くらいで終わるつもりなのだが、最近の僕は関係資料を掘り起こしたり、ネットから引用してみたり。
こないだの飲み会で、「毎日ブログ書いてます」というと、「レポートか」と言われた。
うーん。学校の実験レポートには何の興味も出ないのに、富野の事に成ると何でも知りたいし、何でも書かないと行けないという暴走列車に。まあ、アニメに関する事は何の価値も無いし、責任も無いのだから気楽にかけるという安心感が会って、それに甘んじているんですけどね。
だが、そういう年齢でもないんだよなあ。
社会人の飲み会に参加すると、友人でもやっぱり皆責任と損得がある。
mixiにはまっててさー」と言うと、「そこから仕事を見つけたり雇って貰ったりしたら?」とか言われるんで意外に思った。ニートには無い発想。
うーん。面白ければ良いと言うだけでは、餓死。
面白くなくても、老死。

*1:ラッセの白血病の治療拒否に対して、皆が困ったり怒ったり悲しんだりしても、結局はそれを認めたりとか。ネリーの生き方とか