玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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エヴァ、新旧のファンの違いについて庵野インタビュー(don't be)

2012/07/14(土)朝日新聞beに掲載された庵野秀明監督の新世紀エヴァンゲリオンシリーズに対するインタビューが話題である。

僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。
そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。
作品自体を娯楽の域に戻したかった。
ただ、今はそれ(現実逃避するオタクへの批判)をテーマにするのは引っ込めています。
そういう人々は言っても変わらない。やっても仕方ないことが、よく分かりました。
庵野秀明「娯楽の域をこえてエヴァに依存するオタクには、もう何を言っても無駄な事が分かった」 : 2のまとめR

という、オタク批判である。


時系列と登場人物を整理すると、
庵野はオタクを増長させた事が嫌だったと言っている。
旧作のテレビシリーズ新世紀エヴァンゲリオンのファンは、増長したのだ。
だから、旧劇場版THE END OF EVANGELION で現実に背を向けてエヴァと言うアニメに逃避するファンを批判し、責任を取って作品を娯楽にしようとした。だが、それはやっても仕方ないと判断した。
で、今のヱヴァンゲリヲン新劇場版はヒットさせたいけど、ファンが増長する事や過剰に反応する事は、自分の責任ではないと割り切っている。
そして、新作のファンは旧作のファンと質が違う。ただ、具体的にどう違うかは言えませんが、と言っている。
なぜ、新作のファンと旧作のファンが違う。だが、それは言えない。なぜか?それはおそらく、旧作のファンをさらに傷つけ、また過剰反応と増長を招くから、政治的に言うべきでないと判断したからであろう。


新作のファンは旧作のファンほど、エヴァーに入れ混んじゃいない、と言うのが大きな違いだろう。一般ライトオタク層に波及している。現在は不況が長期化して、もうどうでも良くなっている停滞した時代。ダラダラと娯楽を消費する時代。(東日本大震災以降、ちょっと変わったが?)
対して、旧作、90年代後半のファンは、バブル崩壊後の精神的混乱、新興宗教の勃興、心理学書籍の流行、などの暗い時代の暗い情熱をエヴァに向けていた、くどいオタクやサブカルチャー人が多かった。つまり、必死だったんだな。

聖母エヴァンゲリオン―A new millennialist perspective on the daughters of Eve

聖母エヴァンゲリオン―A new millennialist perspective on the daughters of Eve


じゃあ、なんで必死だったんだろう?
それは、テレビ版新世紀エヴァンゲリオンがグダグダのラストでありながら、主人公たちに「そこにいてもいい」と認めたからだ。それで、エヴァンゲリオンのファンと言うオタク達も「ここにいてもいいんだ」と擬似的に承認された感覚を感じて、エヴァに頼ってしまって依存したのだ。
ほら、オタクって基本的に今も昔もいじめられてるし、「この世にいるな」って皆に言われながら生きてるじゃないですか。そんな人たちが自己啓発セミナー的な破綻した最終回であっても「僕はここにいて良いんだ!」って思えるのは、すごく救いだったんだよ。実際、庵野アニメージュの当時のインタビューで「テレビの25話を見た女性から、本気で泣いたという話を聞いて嬉しかった」的な事を言っている。(要出典)

24話までのストーリーも、煎じつめれば「使徒をぶちのめしても、ここにいていい」と主張するために戦う話だったし。


※追記。下記の出典をみると、庵野が25話で女を泣かせたのは、「身に覚えのある気分の悪さ」を見せつけて泣かせて、嬉しかったという事で、別に救いではなかったようだ。でも、気分の悪いものであっても、自分の身に覚えのある事、自分に似たキャラがテレビに映るってのは、ゆがんだ自己肯定に成りそうだなーって言う風にも思った。少なくとも、一人じゃないっていうか。ここにいてもいいんだ、って。


貞本義行少年エースエヴァンゲリオンの1巻の庵野インタビューを引用しよう。

シンジは、他人との接触をこわがっています。
自分はいらない人間なんだと一方的に思い込み、かといって自殺もできない、臆病な少年です。
ミサトは、他人との接触を可能な限り軽くしています。
二人とも、傷つくことが極端にこわいのです。
二人とも、いわゆる、物語の主人公としては積極さに欠け、不適当だと思われます。
だが、あえて彼らを主人公としました。
「生きていくことは、変化していくことだ」と云われます。
私はこの物語が終局を迎えた時、世界も、彼らも、変わって欲しい、という願いを込めて、この作品を始めました。
それが、私の正直な『気分』だったからです。

新世紀エヴァンゲリオン (1) (カドカワコミックス・エース)

新世紀エヴァンゲリオン (1) (カドカワコミックス・エース)

つまり、バブル景気の頃の明るい気分に乗れなかった根暗な人物(おたく層とか精神障害者庵野本人)に重ねたキャラクターを”あえて”主人公にしたわけだ。
そういう人物が、最終的に「ここにいて良いんだ!」って思いました。っていうのがテレビ版エヴァに最初に込められた願いだった。だが、まあ、やっぱり根暗なオタクが存在するのは難しいので、最終回はすごく無理矢理になっちゃったわけだけど。


無理やりででも、「ぼくらはここにいてもいいんだ!」って居場所を提供されたオタクははしゃいじゃったんだな。「こんな自分みたいなダメ人間が出ているアニメですら世間に放送されているんだから、私たちもここにいていいんだ!」って。
まあ、ナディアの頃からはしゃいでたんだけど。
エヴァはそれをナディアよりももっと露骨にやってしまった。ナディアは、まだSFアニメとして、物語世界の中で閉じていた。でも、エヴァは「ぼくたち、あなたたちのものがたり」という風に開いてしまったんだなー。
で、「パロディ、オタク要素満載のアニメでも、僕らはここにいて良いんだ」とか「精神を病んでいる私たちも、ここにいて良いんだ」とか「無駄な軍事オタク、宗教オタクでも、ここにいて良いんだ」っていうふうにオタク達が増長したのだ。
そこに世間が迎合して、心理学本とか考察本を出したり、グッズを売りまくって「あなたたちはここにいて、商品を買って良いんですよ」ってやってしまったのだ。新聞にもエヴァの記事が載ったり、「経済効果!」ってあおったり、アスカと一緒に映れるプリクラとか出たし。
そりゃー、増長もするというもの。
僕も当時は中学生でしたしね、増長させていただきましたよ。
なんか、オタクが社会の中で発言権を持ち始めた機運のきっかけがエヴァでしたね。インターネットやパソコン通信の発展とも重なった時期で。
まあ、それが21世紀の社会的に市場としてオタクが認められる状況の切っ掛けになったんで、まあ、経済的には悪い事ではないのかなー。フィギュアに使われる石油資源は無駄かもしれないけど。


ですが、庵野秀明的にはそういうオタクどもの増長がしんどかった。
なんでか。
シンジが「僕はここにいていいんだ」と言うに至る物語は、同時に庵野秀明が「庵野秀明ここにあり」と言う気分を込めたフィルムだったからだ。すごく個人的なものだったんだね。最初は。

『新世紀 エヴァンゲリオン』には、4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています。
少年エース版1巻、庵野秀明

それをオタクが「庵野がオタクはここにいていいんだと言ってくれた!」と感じて、庵野に依存した。庵野は「僕がここにいるんだ!」と言う側にいたかったのに、信者から「庵野さんは僕らにいていいって言ってくれる」って言われてしまう側に立たされてしまって、庵野さん的には「いや、それは話が違う。居ていいのは僕であってお前ではない」という気分に成って、テレビと映画の間でオタクとの微妙な心理戦があって、劇場版EOEではああいう映画に成ってしまったのだ。


まあ、人の考えの流れ、人間関係としては、そういう事もあるかもねー。自分の承認欲求を満たしたかった庵野さんが、数百万人の視聴者の承認欲求を抱える羽目になるとしんどかっただろうなあ。


んで、今のファンはそこまで庵野に期待してないんだろうね。必死に庵野に認められる事で自分を認めて欲しい、みたいなアニメージュパソコン通信や変質者ファンレターを送りつけるような依存は、新劇場版ヱヴァファンはない。
なんでかって言うと、オタクの存在、「いてもいい感」みたいなのはエヴァじゃなくてもニコニコ動画とかツイッターとか、他のSNSで満たされてるしね。ほら、昔はアニメ雑誌やムーやメル友募集雑誌がコミュニティーだったけど、今は部数も減ってるし、違うじゃん。インターネットじゃん。
むしろ、庵野秀明はオタク同士の相互依存をするっていう役割から、「すごいクオリティーのアニメを作るベテラン」っていう尊敬の対象に変わってるんじゃないかなあ。今のファンからすると。あんまりナディアのころみたいな仲間意識はなくなったよね。昔は岡田斗司夫イデオンのイベントでファン代表としてコスプレしてたのにねー。今では文化人ですよ。



で、それに対して、朝日新聞

97年公開の完結作では、主人公の少年シンジが、「もういやだ、死にたい」「みんな死んじゃえ」とつぶやき続け、ヒーローらしい行動は一切なかった。「他人との適切な距離が測れず、虚構の世界へ逃避している」自分自身を含むオタクたちへの、苦い批判が込められていた。
***
旧作で無気力だったシンジは、09年公開の新作第2部ではヒロインの危機に「綾波を・・・・・・返せ!」と絶叫し、命がけで手を伸ばす。(中略
 その作品世界は、孤独と絶望の影が濃い旧作から脱し、「たとえ傷ついても自分の殻を破り、他者とつながりたい」強い意志を感じる

と、している。


うーん。僕はこの朝日新聞の太田啓之記者のまとめは新作を褒めすぎだなーって思うけどねえ。だって、旧作でもシンジは充分傷ついてたし。傷ついても他人とつながろう、なんて友達や同僚がバタバタ死んだり発狂したりする状態におかれた少年に言うのは乱暴な気がするなー。
新作のシンジは割と痛い目には合ってるし、ダメージ描写も増えたけど、所詮シンジはただの絵だ。どれだけ碇シンジさんが傷ついて命をかけても、それはただの絵だ。アニメなんだからいくらでも調子のいい奇跡が起こりますよ。


「『人の域に留めておいたエヴァが、本来の姿を取り戻していく。
 人の欠けた呪縛を解いて、人を超えた、神に近い存在へと変わっていく。
 天と地と万物を紡ぎ、相補性の巨大なうねりの中で、
 自らを、エネルギーの凝縮体に変身させているんだわ。
 純粋に人の願い叶える、ただそれだけの為に・・・』

♪ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ!!!」
ですよ。願望充足型の普通のオタク向けアニメですよ。


でも、漫画の奇跡でスーパーヒーローを眺めても、オタクはやっぱり救われないっすよ。

オタクみたいな人にとっては他人とつながる前に「自分はここにいても良いんだ」ってまず認めることがすっごい難しいの。俺とか。もうね、生きてるだけで、自分をひたすら傷つけちゃうんですよー。なんか、もう、それが癖なんです。
まあ、いいけどね、俺ももう三十路だし、収入も少ないし、他人を僕の人生に巻きこむつもりはないです。
「自分がここにいても良い」って言われなくても分かっているリア充の人たちは、リア充ワールドで傷つけあってでも他人とつながり合ってください。ただ、オタク達はその輪には入れません。すみませんさようなら。

電波オデッセイ(1) (fukkan.com)

電波オデッセイ(1) (fukkan.com)

電波オデッセイ(2) (fukkan.com)

電波オデッセイ(2) (fukkan.com)

電波オデッセイ(3)(完) (fukkan.com)

電波オデッセイ(3)(完) (fukkan.com)


もう一回まとめると、旧作のエヴァはとにかく人間関係が下手糞な少年と女性と監督が傷つきまくって「ここにいてもいいの?」と問い続ける話。
で、それに共感した人間関係が下手糞なオタクが「こういうアニメが放送されてるんだから、ぼくらもいていいんじゃないか?」と増長しちゃった。
旧映画版は「ここにいていい、なんてオタクの癖に増長しやがって」「あんたとだけは絶対に死んでもいや」「いつかは裏切られるんだ。ぼくを見捨てるんだ。でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」っていう3重くらいの矛盾した感情の吹き溜まりの映画。
新劇場版は「アニメキャラは作品の中にいていいし、願いはかなうよー」「でもアニメの外の視聴者の居場所は自分で確保してねー」「傷ついても他人とつながるのが常識だよー」という態度。
最初のエヴァは「シンジとミサトみたいに人間関係が下手でも幸せになるにはどういうふうにしたらいい?」「ここにいてもいい、って言う方法はあるのか?」と希望を模索してみた企画だったと思う。
でも、新劇場版は「やっぱり人間関係が下手だとダメ!」みたいな酷な結論に達した気がする。


僕みたいなひねくれ者としては、無理矢理戦わされて、他人を殺すのが嫌になって死にたくなるシンジくんが、無敵の奇跡を起こすロボットで彼女をゲットしようとするシンジさんよりも現実味があると思います。綾波もシンジに「返せ」って言われて受け入れるような女より「私はあなたじゃない」って言ってる方が綾波だと思います。
でも、ほら、そういう俺はもう三十路だし。自分の食いぶちや自分の精神は庵野に頼るよりは自前の仕事と脳内妹で補完しないといけない大人ですよ。だから、まあ、新劇場版はいいです。うん。ゆるす。
アスカも可愛い女だったが、やっぱり今は自前の脳内妹の方がかわいいしなあ・・・。うん。それが現時点の意見ですけど。
でも、ヱヴァンゲリヲン:Qと完結編でまたちゃぶ台をひっくり返してくるかもしれないので、そこは鑑賞態度を固定化しないように楽しみにしたいと思いますね。


以下全文

時は、2015年。
過半数の人間が15年前に死んでしまった世界。
コンビニの棚が埋まるくらいまでの、奇跡的な復興を遂げ、
生産、流通、消費、経済がもどっている世界。
その光景を見慣れたものとし、閉じた終息を当たり前の事としている人々の住む世界。
次世代を担うべき子供の数が減少している世界。
日本では壊滅した旧東京を切り捨て、長野県に遷都。第2新東京市を建設、次代遷都計画をダミーとした、迎撃要塞都市・第3新東京市を建設している世界。
これが『新世紀 エヴァンゲリオン』のおおまかな世界観です。
悲観的なビジョンで彩られている世界観です。
あえて、楽観的な気分を排除した舞台から、物語をスタートさせました。
そこにいる14歳の少年は、他人との接触をこわがっています。
その行為を無駄とし、自分を理解してもらおうという努力を放棄し、閉じた世界で生きようとしています。
父親に捨てられたと感じたことから、自分はいらない人間なんだと一方的に思い込み、かといって自殺もできない、臆病な少年です。
そこにいる29歳の女性は、他人との接触を可能な限り軽くしています。
表層的なつきあいの中に逃げることで、自分を守って来ています。
二人とも、傷つくことが極端にこわいのです。
二人とも、いわゆる、物語の主人公としては積極さに欠け、不適当だと思われます。
だが、あえて彼らを主人公としました。
「生きていくことは、変化していくことだ」と云われます。
私はこの物語が終局を迎えた時、世界も、彼らも、変わって欲しい、という願いを込めて、この作品を始めました。
それが、私の正直な『気分』だったからです。
『新世紀 エヴァンゲリオン』には、4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています。
4年間逃げ出したまま、ただ死んでいないだけだった自分が、ただひとつ
『逃げちゃダメだ』
の思いから再び始めた作品です。
自分の気分というものをフィルムに定着させてみたい、と感じ、考えた作品です。
それが、無謀で傲慢で困難な行為だとは知っています。
だが、目指したのです。
結果はわかりません。
まだ、自分の中でこの物語は終息していないからです。
シンジ、ミサト、レイがどうなるのか、どこへいくのか、わかりません。
スタッフの思いがどこへいくのか、まだわからないからです。
無責任だとは、感じます。
だがしかし、我々と作品世界のシンクロを目指した以上、当たり前のことなのです。
『それすらも模造である』
というリスクを背負ってでも、今はこの方法論で作るしかないのです。
私たちの『オリジナル』は、その場所にしかないのですから……

1995 7/17 雨とくもりの日に スタジオにて

17年前かー。もう、今の子たちは生まれる前ですやん。


追記:
あと、富野ファンとしては、やっぱり「人間関係がうまかろうと下手だろうと、みんな吹き飛べー!」っていうイデオンとか、「弱いものを守るために強いものが生まれる!」「頼まれなくても生きてやる!」っていうブレンパワードに共感を覚える方が強いかなー。富野の方が熱血だよね。割と。

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追記
依存の話で言うと、宮村優子さんとのアニメージュでの対談が端的と、さめパ(id:samepa)さんに教えられた。

宮村優子
「だって、ものをつくって、みんなに受け取ってもらうってことは……。だから、たとえそれがまやかしの幸せでも、幸せを与えているって(いう行為だと)思うんっすよ。それは! だから監督、ビデオでちゃんとしてくださいね!」

庵野秀明
「イヤ(笑)。」


庵野秀明
「方法論が違うだけで、言っていることは同じだったでしょうね。テーマ的には同じなんですよ。“現実に帰れ”ということだったと思います。
アニメーションっていうものが、少なくとも僕がやってきた「エヴァンゲリオン」っていうのが、ただの“避難所”になるのが、すっごいヤだったんですよ。現実逃避の場所でしかなくて、そこにどっぷりつかることによって、現実のつらさから逃げてるだけで、そこから現実に帰るものが、あまりなかったんです。
僕は多分、新興宗教の教祖になれる素質があったと思うんですけど、それがヤだったんですね。クモの糸にすがるのは、おれひとりで十分だと。」


Animage:
「そういう気持ちはわかりますか?」


宮村優子
「わかります。だって、アニメファンということに限らず、信じられないぐらい人に依存する人って、確かにいて、信じられないときがあります。
例えば、ファンレターの中に悩みを書いてくる人。もちろん、ファンレターに悩みを書いてきて、それでスッキリすればそれでいいですけど、それなら全然OKなんですけど、そうじゃない場合。「こんなに悩み書いてるのに、何で返事くれないんだ」


庵野秀明
「あまりにもストレートだったかな。やったこと自体には、間違いはないです。方法論に関しては、もうちょっとでも余裕があれば、別のこともできたかなとは思います。一種の、(作られた)快楽にそうそう続くものがないという現実を教えるだけでもよかったんですよね。世の中、裏切られるものですよ。」

Animage:
「ただ、当の庵野さんは、それこそアニメファンに見えるんですが。」

庵野秀明
「もちろんそれは、僕は自分が好きじゃないから。あれ(アニメファンが嫌いということ)は自分にも言っていることなんですよね。痛みの部分は同じだと思ってます。」

宮村優子
「自分が嫌いな人間は、他人を傷つけるんですってね(笑)。」

庵野秀明
「ボクもそう思うよ。結構、(他人を)傷つけてるもの。」

宮村優子
「私もそう思う。私も自分が嫌いだから、アハハハ。」

庵野秀明
「言いたいことだと思うけど、何言ったっけ?(笑)。言ったこと、もう忘れている。ただ、25話は、知り合いの女性が、もう30過ぎなんですけど、その人が見て、泣いたって言うんで、私はOKなんです。身に覚えがあると。あれで、私はOK。」

Animage:
「ミサトの件のところですね。」

庵野秀明
「ミサトの件のところで、身に覚えがあるんだなと。あれは、ある種の女性が見ると、すっごくイヤな気分になるはずなんですけどね。そこの気分がその人に感じられただけでも、OKかなと。少なくとも、知る限り、2人いるんです。2人もいれば十分です。もっといるとは思いますけど。」

Animage:
「泣けるっていうのは、どういうことなのかな。ある種の解放?」

庵野秀明
「いやあ、イヤな気分になりますよ。」

Animage:
「そういう意味での泣きですよね。」

庵野秀明
「25話って、見てる人間を、ホントはゲロ吐くぐらいイヤな気分にさせるのが目的だったのに、自分の力不足でした。現実のコピーではなく置換がうまくできなかったんですね。」

あんた、バカぁと、言われてみたい。(庵野秀明、宮村優子) - OguwaAsuka04的創作 - 巴哈姆特