玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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#シンエヴァンゲリオン 劇場版 の葬式で死んだと思った点

 この記事はシン・エヴァンゲリオン劇場版のネタバレです。


ネタバレ無し感想はこちら。
nuryouguda.hatenablog.com


 思春期を殺す葬式のつもりで、思春期の頃に大好きだったエヴァンゲリオンの最後の作品を見た。


 個人的に、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qの直後に起きた母親の自殺にも区切りをつけて、思春期を引きずって傷ついて泣いていた引きこもりの30歳から、諦めてつまらなくなったアラフォーのおじさんになるつもりだった。


 そういう気持ちだったので、特に内容には期待をしていなかったのだが。
 映画の内容も「ああ、エヴァンゲリオンは本当に死んだんだな」という感じがした。


(ちなみに葬式を終えたので、もう思春期的なこだわりとかオタク的な執着もなくなって、朝一でゲットしたパンフレットも読んでない)
 葬式は一回でいいので、月曜日の午後と水曜日の午前中にも予約チケットを取ったけど、2時間半の葬式を3回も繰り返しても得るものはないと思ったのでドブに捨てた。くたびれた大人だからね。



 墓を立てて、決別の言葉を述べて、以て終わりとする。

  • 普通のおじさんになる

 期せずして作品のテーマも「大人になれ」「けじめをつけろ」「責任を取れ」「退屈な毎日の繰り返しを肯定」「自然とともに生活しろ」「結婚して子どもを作れ」「思春期を卒業しろ」「仕事をしろ」「挨拶をしろ」「地域共同体の中で居場所を作れ」「親としての役目を果たせ」「老いた父親と会話しろ」「いつまでも子どもでいないで老いた親のケアをする大人になれ」、という、かなり保守的な内容だった。


 「は?」


 思春期だった僕が新世紀エヴァンゲリオンにゾッコンハマったのは、そういうスタジオジブリの教科書的なアニメ映画とは違って、ダメ人間のロックバンドの筋肉少女帯に出てくる包帯で真っ白な少女を引用したヒロインが出てきたり、社会に居場所を見つけられないこじれた思春期のもがきという、社会規範から外れたちょっと不良っぽいところだったんだが。

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 なんかエヴァンゲリオンはテレビの途中でのアニメージュの評論では「庵野秀明監督は普通にヒットするロボットものにするのは簡単だったけど、それはつまらないので精神的な描写にした」とか言われてたし、それは神経症的だった当時の僕たちの気分に合っていた。


 なんだよ。あの村。宮崎駿っていうかむしろ高畑勲みたいな農本主義。あのさあ……。あの村は何十年もあんな感じみたいな雰囲気だったけどできてから10年ちょいしか経ってないんでしょ?なんであんなに落ち着いた何代も住み続けているようなババァたちのコミュニティができてるわけ?あのババアたちももともとはネルフ職員関係者とかだし、14年前はもっとバリバリとした研究職とかで、もともとの農家ではないはずの気がするんだけど。
 スゲー取って付けたような感じがする農家描写。いくら庵野秀明さんが宮崎駿監督と仲が良いと言っても、そんな宮さんの価値観のパクリみたいな農本主義を見せられても、そんなのエヴァンゲリオンじゃないよ。牙を抜かれやがって!どうした、それでもこの世で最も邪悪な一族の末裔のシーンのアニメーターか!


 でも、一般の人はやっぱり神経症的な作品より保守的なジブリみたいな価値観の肯定がいいんでしょ。吉永小百合さんが未だに主役をしている家族をテーマにした邦画みたいな。
 なんか本当に普通の映画だったね。


 鈴原トウジや相田ケンスケが再登場するのはいいんだけど、彼らはすっかりおじさんになってしまっており、僕もおじさんになる感じになった。
 トウジとケンスケ、28歳であんなにおじさんっぽくなってるのだけど、昭和の頃の28歳といえば仕事もそれなりに順調になり、子どもも生まれて落ち着いている頃、なので今の28歳というよりは昭和レトロな邦画って感じ。保守。新世紀じゃなくて昭和の方に目線が向いてる。
 旧劇場版THE END OF EVANGELION では天才科学者の碇ユイが無限の命を持つエヴァンゲリオンになって星間播種となった。それはそれで異常な行動だと思うが。シン・エヴァンゲリオンは逆に過去の地球の生態系を戻すために、外宇宙ではなく滅んだ地球に対して播種して復活する。保守性が高い。



 碇シンジが渚カヲルの死でPTSDや嘔吐発作になる描写は僕も親の死でそういう感じになったので、多少は共感できる感じだったけど、周りの人がすごい優しかったし、アスカも典型的な古典的な意味でのツンデレ(表面的にはツンツンしているけど、隠れたところではデレデレと面倒を見ている)だったし、そんなこんなで碇シンジくんは周りの助けのおかげで立ち直れました。(僕はあんまり人に助けてもらえてないけど。行政サービスは利用するが)



 人造人間のアヤナミレイ(仮称)が村での生活で猫や赤ちゃんや新妻やババアや子どもたちと触れ合って人間性を獲得するっていうのもすっごく陳腐。アヤナミレイ(仮称)とババァたちが風呂に入る描写の繰り返しも似たようなレイアウトの繰り返しでつまらなかったな。


 洞木ヒカリの岩男潤子さんの主婦っぽい演技はよかったけど、行動パターンが完全にジブリ。挨拶などの人間の社会的行為を「おまじない」とか言う母親っぽさも教条的だったなあ。別れの置き手紙もすごくわかりやすい泣かせポイントだったね。


 で、人造人間だからアヤナミレイ(仮称)(黒波)は碇シンジと交流をしても、補給を受けられなくて死んでしまうのだが。
 その死を目撃した碇シンジはそれをきっかけに成長する。
 こっちを無理やり泣かせようとする感じが嫌だったね。
 長ったらしい(エヴァンゲリオンらしくない)一般社会の人々との交流パートが、黒波が死んだと同時に終わってアクションパートに移行するのも、嘘くさい話だったなあ。
 結局黒波は綾波じゃないから死んでもいいキャラクターで、シンジの成長を促すきっかけの一つに過ぎないという程度の描写で作り物臭かったなあ。
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 庵野秀明監督と仲がいい幾原邦彦監督の「さらざんまい」は妖怪に変身していた主人公チームの一人が最終回で罪を償うために服役するという社会性の描写があったけど、かといって社会規範や法律が本来の人間、とまではやってなくて、青春と友情エンドになった。そういう微妙なバランスが丁度よかったんだけど。
 少年個人の内面の悩みを突き詰めた新世紀エヴァンゲリオンに比べて、内面は関係なく共同体の中でノルマをこなせというムラ社会の描写はエヴァではやってほしくなかった。内面は関係なく共同体で表面的な行動を認められたら落ち着く、とかそういうぬるい話は新世紀エヴァンゲリオンとは違う。


  • 嘘くさい話だったなあ

 それで父親の碇ゲンドウと碇シンジが対話するのも古臭い邦画という感じだった。というか、父親と似たような息子が対面するっていう映画は寺山修司の映画の田園に死すでも既に若干古臭い感じになってたんだけど。(それを舞台装置のトリッキーさでごまかして新しそうに取り繕うのも田園に死すと同じ感じで、むしろギャグっぽく見えるよね)
田園に死す


 いや、僕もこの映画を見終わってから父親と会話しようと思ったさ。でも午前中の野良仕事から帰ってきた父親に「午前中は映画を見てきたよ。今、お風呂を沸かしているから先に入ってくれていいよ。昼ごはんも用意してるよ」という簡単な連絡をしても、老いた父親は「ふぁ」「そう」「引き出しを閉めろ」という程度のことしか言えない。


 シンジくんがやっと父親の碇ゲンドウと会話できたことで感動している人もいるようだが。
 僕は老いた父親と長文セリフでのまともな会話ができなくなっている。だから、あんなふうに碇ゲンドウが自分の半生を振り返って秩序だって何が辛くて何が嬉しかったのか心情を息子に吐露して説明するっていうのは嘘くさいと思った。碇ゲンドウってそんなに親切な説明をする男じゃなかったじゃん。老いた親は思考力も低下しているけど、子供に対してはマウントを取りたがるので、あんなに素直に整然と本心を語るなんてことはないです。


 というか、むしろ35歳で新世紀エヴァンゲリオンを作った庵野秀明監督が還暦を迎えて「若い人に話を聞いて欲しい」という甘えた老人になったようにしか見えなくて幻滅した。
 っていうか、S-DATってTV版ではそんなに重要アイテムじゃなくてシンジくんの暇つぶしだったのが、新劇場版では、いつの間にかループの象徴になって、今度はゲンドウとの絆になった。都合いいね。


  • 普通の映画

 ていうか、最後に成長した碇シンジくんが声変わりをして神木隆之介くんの声になる。緒方恵美さんの力量なら若い成人男性の声を出せるはずだ。でも最後のラストのドッキリサプライズ要素として神木隆之介くん。
 そんなの、天気の子とか他の普通にヒットする邦画やアニメでいくらでも見た。今更なんの驚きもない。単に「緒方恵美さんの演技力より神木隆之介くんの集客力を選んだのね」っていうプロモーションのお仕事にしか見えなかったなあ。


 まあ、シン・ゴジラも「官僚と政治家と日本国の企業の技術が真面目に頑張ればゴジラに勝てる」とか「暗号を正しく解いたらゴジラに勝てる」「人間はゴジラも原発もアンダーコントロールできる」とか言う、ルールに則った規範的な、プロジェクトXみたいな保守的な作品だったので、シン・エヴァンゲリオン劇場版も保守的になるのも予想の範囲内。


 本当に普通の映画だったね。予告編で流されているデートムービーとか高校生が戦国時代にタイムスリップとかモンスターハンターが映画になるとか、そういうのと同じくらいの普通さ。


  • 結局庵野秀明監督は昭和の重力に囚われてるんでしょ

 怪獣映画のBGMとか昭和歌謡とか。


 何よりも「鉄」「鉄材」「鉄塔」「鉄道」「建設作業機」「軍艦」というモチーフが多用されていて、なんか未来っていうか「新世紀」という感じがなくて、「昭和」って感じだった。老いたな、庵野秀明。


 でもさあ。僕が中学生の頃に新世紀エヴァンゲリオンですごいな、新しいなって思ったのは、「材質」なんだよ。
 全部同じような硬さの金属で出来てるガンダムのモビルスーツ(いや、ガンダリウムの装甲とフレーム材質は違うんだけど)やトランスフォーマーとか勇者とは違って、エヴァンゲリオンは拘束具と装甲板は硬くて、腕のコーティングは柔らかくて、本体は人造人間で内部骨格と筋肉で作られている。
 特に、エヴァンゲリオンの足裏はスポーツシューズのように少し柔らかくて衝撃を吸収する用に作られている。そういうロボット一体でも部位によって材質が違うという、技術的な説得力が新世紀エヴァンゲリオンの魅力だったんだが。
 ロボットデザインにスポーティーさを取り入れたのも新しく見えた。(これは富野由悠季作品のキングゲイナーやGのレコンギスタに逆輸入的に継承されている)
 金属の拘束具によって怪獣のボディが拘束されているというコンセプトも当時としては新しかった。でも、なんかそういう質感の魅力がシン・エヴァンゲリオン劇場版にはなかった。
 他にも新世紀エヴァンゲリオンには「硬化ベークライト」とか「LCL」とか「超電磁コーティングシールド」とかいろいろな未来っぽい素材が合ったんだが。


 単なるアニメ絵。って感じだった。まあ、それも「これはただの絵だ」というエヴァンゲリオンらしさかもしれないけど。


 たくさん出てくる量産型エヴァンゲリオンも機械的な部品とエヴァの生体部品の組み合わせだけど、あんな神の領域とか色々出てくる謎のフィールドとかやってるのに、物理的な金属素材や蓄電装置って面白くない。


 というか、身も蓋もない事を言ってしまえば素材の未来っぽさは非常に精密に設計された半透明装甲で覆われたファイブスター物語のGTMや、GのレコンギスタのG-セルフのインビジブルチタニウムやフォトン装甲とかのほうが未来っぽい気がした。
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 結局、宇宙戦艦ヤマトとかをありがたがる、鉄鋼業が盛んだった昭和の機械に対するノスタルジーって感じだった。


  • アクションがつまらない

 画面は結構お金かけてそうだったけど。
 CGで画面の情報密度を増やして、カット割りを速くしているから迫力があるように見えるけど、戦術的な殺陣としてはそんなに大したことをやってない。むしろゴチャゴチャしてて画面が汚い。
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 たくさん出てくる量産型エヴァンゲリオンが団子になったり吹き飛ばされたりしても、しょせん雑魚って感じなので何のありがたみも迫力もない。エヴァ8号機は縦横無尽に飛び回るし量産型エヴァンゲリオンの群れを駆逐するけど、それはそれで敵の質量の重みとかが感じられない、単なるCGのテクスチャって感じ。Airの弐号機と量産型エヴァンゲリオンの殺陣のような重厚な殺意がなかった。ゲームっぽい。

劇場版「 Air 」量産型エヴァシリーズとアスカの戦闘シーン。
このシーンはアニメの作画にそれほどこだわらない人であっても、この映画を観た人なら
大抵印象に残っていると答える名シーン中の名シーンである。
これも磯光雄の仕事であると、あとからわかった。


じっくりと見てみると、飛行する戦自機体が物理攻撃を受ける瞬間の浮遊感覚や
エヴァシリーズが使用する武器の途方もない重量感、爆発、巻き上がる土砂、
遠心力で振り回されるカメラ、ナイフが刺さるときにアスカが感じる手ごたえや質感などが
画面を通じてビシビシ伝わってくるのがわかる。
sajiya.blog89.fc2.com

 これがなかった。


 シンエヴァンゲリオン劇場版の前半では鉄材や鉄道などの古臭い素材が強調されていたけど。終盤ではうって変わってエヴァンゲリオンの材質も「なんかよくわかんないパワーで構成された半物質化した霊体」という感じだったり、敵をやっつけて食べたら手足が復元するという感じで何でもありで、何度もそういう描写が繰り返されて、飽きた。
 まあ、見た目の迫力はあったんだけど、「再生した!すごい!」という新世紀エヴァンゲリオン第拾九話のような一発のインパクトとありがたみはなく、「どうせアニメの絵のロボットなんだからいくらでも再生もパワーアップもするでしょ」という冷ややかな感じになった。


 その上、フォースインパクトだのアナザーインパクトだのアディショナルだのマイナス宇宙だの、しゃらくさい作りごとの用語で命名されたわけがわからん戦場で戦っているのでますます戦う重みがなくてつまんねーって思った。


 イマジナリー空間でのエヴァンゲリオン初号機と13号機の戦いもフリクリのギャグパートにしか見えなくてつまんなかった。っていうか、フリクリのほうがもっとたくさん動かしてた。
 富野由悠季流の映像の原則に正直なのか、画面下手の敵側に13号機がいて上手側からシンジくんの初号機が挑むというわかりやすくて退屈な構図が繰り返されていたので、舞台背景が変わっていてもちっとも面白くなかった。


 最近は富野流の映像の原則は原則であって、富野由悠季本人の最新作のGレコではあえてそれを外している応用カットが多いので、最近は映像の原則の上手下手はあまり考えていなかったんだけど。



引用元
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-200.html


 アスカが「ウワーーーーーッ!」って叫びながら敵に飛びかかるのが、画面右上からアップになっていくという「わかりやすく強い構図」の繰り返しで、飽きた。 少しは回り込んだりしろよ!
 もちろん敵が出てくるのもおしなべて画面左の下手側からなのでアクションは単調。


 あんなに戦闘アクションでインパクトを残したエヴァンゲリオンの完結編のアクションがこれって言うの、本当に死んだんだなって感じ。


  • 世界描写に切迫感がない

 第三村は生活感にあふれている。だが、結局は舞台は冒頭のパリ、第三村、ネルフ施設跡地、南極の点でしかない。点と点の間がない。(せいぜいケンスケが見に行く田んぼや境界線くらい)映画らしい移動のダイナミズムが殆どない。せっかくの巨大戦艦なのに。


 南極に進行するヴンダーはたしかに迫力はあるのだが、結局の所ゴールに向かって進んで途中の障害を突破する、というマリオみたいなゲームみたいな感じで、あんまり映画っぽくなかった。
 逆襲のシャアのギュネイやクェスと違って敵の障害物のエヴァンゲリオンインフィニティは存在に何の重みもないし。
 それに南極の遺跡のスケール感もよくわからないし、巨大であるはずのエヴァンゲリオンもたくさんの胡麻粒のように描写されているのでヴンダーの進行の達成感とか、ゴールに近づく距離感とかも感じられず、なんとなく南極の変な空間で戦艦とエヴァンゲリオンがチマチマと戦っているという感じで、TV版で実際の地名を出していたような移動のダイナミズムがない。
 一応、冬月先生の将棋趣味が艦隊指揮に投影されているっぽい要素はあるが、所詮無人戦艦なので映画的ではない。


 槍が何本あろうがどうでもいいんだよ!どうせ適当に新設定で突っ込んだだけでしょ。どーにでもなる


 しかも終盤で破局が起こっても、生活の場であった第三村は都合良く作られたなんだかよくわからないバリアーで守られていて、普通の映画要素を支える一般人は保護されている。甘っちょろいんだよ!
 ミサトさんが撃つの撃たれないのっていうイデオンのバンダ・ロッタみたいなシチュエーションになったときも、ミサトさんとシンジくんに対するヴィレの職員が横並びっていうつまらないレイアウトで、あんまり緊迫感がなかった。サクラのノンリーサル射撃宣言はちょっと面白かったけど。
 結局、ミサトさんは撃たれても大して行動に変化はないし。ドラマ的にも。


 旧劇場版での流れ弾を避け損なって大人のキスをしてうっかり死んでしまう、という儚さがなかった。


  • 役割をまっとうするキャラクター

 責任を取る、けじめをつける、という「おとなになる」ということを強調した映画だったが。「大人になりきれない」というのがエヴァンゲリオンだったと思ってたんだが・・・。
 みんな老いたしおじさんおばさんになった。


 加持リョウジはTV版では特にはっきりした成果や関係も不明瞭なまま死んだ。それで惣流・アスカ・ラングレーと葛城ミサト三佐は深い悲しみを感じた。僕はそれでネルフを取り巻く陰謀や加持が戦ってきた大人社会の深い闇を感じたし、それは旧劇場版の戦略自衛隊につながっていた。


 シン・エヴァンゲリオン劇場版での加持リョウジは、なんだかよくわからない仕組みを使って、自分の命と引換えにニアサードインパクトを停止させ、ヴンダーをヴィレに託す役割を全うした。なんかよくわからんけど、渚カヲルのことも救った。
 曖昧に殺されるスパイではなく、命と引換えに世界を救うヒーローの山寺宏一さん。すごくわかりやすくなっている。本当に普通の映画だったね。


 洞木ヒカリと葛城ミサトは態度こそ違っても母親としての役割を全うした。トウジもケンスケも働いてる。まあ、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序の段階から「職務の役割を果たす人たち」という路線ではあったのだが。


 アヤナミレイ(仮称)も人間ドラマを見せてシンジを立ち直らせて観客を泣かせようとするというドラマツルギーに殉じてきれいに死んだ。


 唐突に流れ弾や凡ミスやカスパーの裏切りでうっかり死ぬ、というのが新世紀エヴァンゲリオンの儚くも美しい魅力だったのだが、役割を全うしてちょうどよいタイミングで死んでいく、わかりやすいガンダムユニコーンのキャラクターみたいなフィクションっぽさの高い死に様。ヴンダーは割と派手に被弾しているけど、乗員の死亡ははっきりとは描かれなかった。
 本当に普通の都合がいい映画だったね。


 無敵の覚醒シンジくんが次々と他のキャラクターの問題を解決して回るのは、逃げ回っている覚悟が逆に魅力だったと小説家の滝本竜彦に言われた旧作のシンジくんとは違って、とても都合のいいドラマツルギーだった。


 人生って、そんなに都合よく生きたり死んだりできるものかねえ?


 碇ユイ(綾波ユイ?)も旧作と同じく完璧な聖母という感じだったが、自分を星間播種にすることなく、息子の成長のために夫と心中してみせた。(?)
 エゴイストな天才科学者のユイから変わって、子供のために消える保守的な母親という役目を全うした感じだ。


 さらに邪推するとこの映画は「責任を取る」「けじめをつける」「仕事をする」という言い方が多くて、映画全体の雰囲気も「仕事だから仕方なく終わらせた」という感じがして、気迫が弱い。かつての新世紀エヴァンゲリオンも、もちろん、オネアミスの翼、トップをねらえ!、ふしぎの海のナディアの責任をとってのものではあったのだが。
 なんか、旧劇場版はオタクを全員殴ってやる!みたいな殺意が映像から溢れていたけど、カラーの社長になった庵野監督としては「仕事として成立させて会社での役割をちゃんとする」という経営者目線で、クリエイター根性が薄れていた気がする。


 まさに、綾波レイのモデルになった筋肉少女帯※訂正 大槻ケンヂの「お仕事でやってるだけかもね」だ。

  • 説明セリフ

 説明台詞が多すぎる。造語も多いが、ほとんど聞き流しても問題ないくらい無意味な単語の羅列だ。それよりも説明台詞が多すぎる。
 変な怪物体や怪戦艦や変な事象が起こる。それについて視聴者が考えるよりも速く解説台詞が入る。色々と含みをもたせてモヤモヤと設定を考えるのも魅力だった新世紀エヴァンゲリオンだが、完結編だからだろうか?一般受けを狙ったのだろうか?シン・エヴァンゲリオン完結編では視聴者に考えるすきを与えない説明セリフと、細かくて多いCGテクスチャを連打してくる。それなりにワンカットの迫力はあるのだが、果たして2時間半も費やすほどの意味合いはあったのだろうか?説明セリフで視聴者が考えないアクションが連続するので、むしろ退屈。


 碇ゲンドウの長ったらしい自己弁明も、ぶっちゃけた話、旧劇場版の頃から碇ゲンドウが人間が苦手でユイと会いたいというのはわかりきっていたので、今更それに修飾を重ねて長台詞にされても、冗長としか思えなかった。まあ、マリを出す意図もあったんだろうけど。


 人と目を合わさないし、本音も言わないってのが新世紀エヴァンゲリオンの特徴的な人間の芝居の演出手法だったが、普通の映画っぽく鈴原サクラとピンク髪も気持ちをはっきり言う。
(おしっこの下りはシドニアの騎士やGのレコンギスタというより、むしろシュガシュガルーンだろうね)


 いや、脇客はどうでもいい。アスカが「あの時なんで殴りたかったか分かる?」とシンジに問うて、シンジが正解を言うと認める。
 自分の気持の正解を伝えられなかったのが新世紀エヴァンゲリオンだったが、そういう人と人の間のズレがテーマだったが、今作ではあっさり正解を認める。その上、好意を持っていたなんてことも言ってしまう。
 まあ、ヱヴァンゲリヲン新劇場版は企画の発端が新訳Zガンダムなので、健やかにコミュニケーションを成立させる改変は当然といえば当然なんだが。
 内面を簡単に吐露して、それを受けた相手もそれを受け入れる。ATフィールドは自分を維持するための心の壁ではなく戦闘シーンの恐怖感程度にテーマ性が減衰している。
 言いたいけど自分を保つために言えないから苦しむ、オナニーしていることを知られたら首を絞めるしかないって言うエヴァンゲリオンだったけど、ポジティブ改変されて簡単に女が本心を言っちゃうのって、なんか恋愛の駆け引きとして、つまんねーな。
 夕方のテレビ放送で「異性の寝相の悪さ」とかベッドシーンをぶち込んできた不良っぽかったエヴァンゲリオンが、すっかり普通の映画になっちゃったね。


 あと、単純にナントカインバクトとかネオンジェネシスとかニアサーとかヤマト作戦とか、ネーミングがダサいなって思った。(ニアサーは東日本大震災を3.11と言い換えるみたいなものだろうが)
 新世紀エヴァンゲリオンってもっとネーミングセンスもキレていたはずなんだが。


  • 女性描写が宮崎駿

 宮崎駿の女性キャラクター、無垢な幼児、美少女、妊婦、母親、パワフル老婆である。


 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qでエヴァの呪いでアスカが年を取らないっていうのはギミックとして面白かったけど。結局さあ……。キャラクタービジネスなんだよね。
 だから作中世界の変化や視聴者の高齢化に合わせてエヴァの適格者以外が年を取るのはわかるけど。


 なんか、「キャラクタービジネスを成立させるには、美少年と美少女はずっと若いままでいてもらわないと困る」というご都合主義を感じてしまったなあ。まあ、プラグスーツのデザインは面白いし、やっぱり貞本義行デザインの極度にウエストの細いフェチな体型は魅力的な造形だが。


 そして、母親になるキャラクターは母親らしく年をとってもらう。


 29才でフラフラと独身キャリアウーマンをやっていた新世紀エヴァンゲリオンの葛城ミサト三佐ではなく、ちゃんと母という役割を手に入れた葛城ミサト大佐だ。
 なんか、95年当時はアラサーになって友人の結婚式で焦ったりする、独身の若者と既婚の母親の境界線だったミサトさんは新しい女性の生き方という感じだったが、そこから四半世紀たって、やっぱり女性は母親に落ち着きたい、という保守思考になったのだろうか。


 そして、第三村のヒカリもお母さんらしくなり、幼児におまじないとか言う。第三村には他にババアがたくさん。妊婦もいる。宮崎駿の世界だ。


 Vガンダムの後継だった新世紀エヴァンゲリオンの、母親にも女にもなりきれない、中途半端で哀しい迷える女性の姿はシン・エヴァンゲリオン劇場版にはない。


 旧劇場版で女の面倒くささを炸裂させた赤木リツコ博士は髪をバッサリ切って女性性を捨ててる。赤木リツコ博士と同性愛的関係だった伊吹マヤも年をとっているが、それほどブサイクにはならず、若い男を叱咤激励する分かりやすい先輩になっている。
 また、どうやら魔女であったらしい真希波・マリ・イラストリアスも年を取らないが、同性愛傾向がある。


 対して、日向マコトと青葉シゲルはメガネや髭剃りなど、「おじさんっぽさ」を強調している。なので、男のキャラクターはおじさんになるけど、女性キャラクターはきれいな美少女のままでいるか、同性愛か、母親、というふうに役割を割り振られている。それでいいのかな?


 たしかに新世紀エヴァンゲリオンは異性に対する煩悶などが気持ち悪い作品であったが、「異性がわかりにくい」というのから「わかりやすい役割の女性」にして、それでいいのだろうか。


 髪が長々と伸びた綾波レイはフェティッシュだったけど、問題が解決すると元の髪型に戻る。少女が髪を切るジブリーーーー!


 記号的なキャラクターになっちゃったな。


  • 雑なカップリング

 いや、ケンスケとアスカは傭兵稼業を続ける中で愛着が湧いて、っていうのは分かるんだけど。アスカの依存対象だったぬいぐるみの中から出てくる王子様としてケンスケが役割を与えられるのはどうなんだろう。


 もちろん、TV版とは違うカップリングで新しいエンディングへ、という意図はわかる。(テレビでは生存期間が違う加持リョウジと渚カヲルとか)


 まあ、わかるんだけど、マリとシンジがくっつくのって、どうなの?それまでほとんど接点がなかったけど。パラシュート降下のあとはほとんどEVAの機体越しにしか接点がなかったけど。乳が大きいいい女なら無条件で愛されるって?


 というか、坂本真綾をワイルドカードに使いすぎな気がするのだが。


 そんなに結婚して落ち着くことがいいのか?安野モヨコ程度の女にそそのかされて!!(このセリフはブレンパワードのパロディなので、安野モヨコさんのことは逆に認めているという意味です)


 まあいいや、おかげで思春期の頃に綾波派だったか、とかアスカ派だったか、とかどうでもよくなって、エヴァの美少女たちもみんな過去の人、中学生の頃に校舎ですれ違った程度の重みになった。そして俺はキモくて金のないおじさんになる。


  • エヴァンゲリオンに魅力がない

 碇ユイの魂はエヴァンゲリオン初号機ではなく碇シンジの中にあったというのは、母親らしさでもあるが。(破ではポカ波に被さっていたユイだが、破のラストで綾波からシンジに移動したのかな)
 終盤に「さらば、全てのエヴァンゲリオン」とエヴァンゲリオンに別れを告げるシーンが有るのだが。旧劇場版が好きで量産型エヴァンゲリオンの第何号機がどんな風にエヴァ弐号機に殺されたのかを覚えるくらいのオタクだったのだが。
 それに比べると、シン・エヴァンゲリオン劇場版のエヴァンゲリオン、13号機まで、ポッと出の大量生産機とか数分しか出てないやつが大半で、全然愛着もキャラクター性もなくて。そんなペラペラのものに対して「さらば、全てのエヴァンゲリオン」って言われても、もともとそんなに知らんし。
 Mark.6のデザインは多少良いかなって思ったけど、ほとんど出なかったし。そもそもナンバリングの名前の付け方の違いもよくわからんし。(調べたら出るんだろうけど)
Revoltech Evangelion Evolution エヴァンゲリオン Mark.06



 感動的にエヴァとの四半世紀に渡る関係の別れを告げるシーンなのに、全然感動しませんでした!
 単なる段取りって感じ。いや、まあ、8年もかけてデザインや作画したスタッフには愛着があるのかもしれんが、僕は、あんな腕だけとか下半身だけのエヴァンゲリオンを好きになったりはしませんよ!
 プラスプラスプラスなんとかってのも計算がだるいだけだったし。マリは仮設5号機から8号機に乗り換えるような女だし、そんなにエヴァへの愛着は感じられず、なんだかなあ。
リボルテックヤマグチNO.139 エヴァンゲリオン8号機B 正規実用型 (ヴィレカスタム) 8号機B


 機動戦士ガンダムのラストでガンキャノン、ホワイトベース、ガンダムが次々と大破していくところとか、機動戦士クロスボーン・ガンダムで「俺のX3」が大破するところは感動があったんだが。
 初号機もユイというわけでもなく、かと言ってシンジの相棒だったわけでもなく、大半の期間をヴンダーのエンジンとして過ごしていたので、別れに愛着も後ろ髪もない。



 TV版の頃からバンクの使い方が上手かったエヴァンゲリオンだが、今回のゲンドウの13号機とエヴァ初号機の戦いもバンクが多くて、最終決戦としては物足りないものがあった。
 希望の初号機と絶望の13号機っていうのも設定トークという感じでドラマになってない。
リボルテックヤマグチNO.136 エヴァンゲリオン第13号機
DYNACTION 汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン初号機 約400mm ABS・POM・ダイキャスト・PVC製 塗装済み可動フィギュア


  • アニメを作ることを舐めてはいけない

 質感がバラバラ。


 CGのリリス頭と手描きのリリスボディとか、イマジナリー世界での戦いとか、意図的に「これは虚構だ」「これはただの絵だ」と見せたい意図はわかったが。
 それにしても美意識がなさすぎないか?旧劇場版はCG技術は昔だったけど、映画としての美意識はあったぞ。


 あんな10年前のニコニコ動画みたいなクオリティのCGのリリスの大群とか、ギャグじゃん。ギャグに見せたかったの?


 というか、製作期間が長すぎて、関連制作会社も多すぎて、シーンごとの背景素材の雰囲気が揃ってない。
 同じカットでもCG素材と動画素材と背景素材の情報量が揃ってない場面が多かった。
 ディレクションレベルで統一ができていなかったんじゃないの?
 TVシリーズならいいのよ。1話ごとに作画監督や雰囲気が変わっても。でも映画ですよ?
 なんかとっちらかった印象で、ワンカットごとのクオリティは悪くはないんだけど、雰囲気がバラバラで統一感が少なかった。アヤナミレイ(仮称)が死ぬまでの日本映画っぽいところはそれなりに背景の雰囲気が合っていたけど、終盤になるほどにワンカットごとの統一感がなくなっていった。それで美しければそれで良かったんだが、僕は美しいとか連続しているとか、思わなかった。


 画面は結構お金かけてそうだったけど。お金をかけたほどの演出効果があったかは疑問。
 なんかたくさんの制作会社が頑張った結果、部分の個性は出たけど全体の統一感がない感じ。いろんな制作会社が参加するビッグビジネスとしての弊害が出た感じ。


 旧劇場版はワンカットワンカットが一枚絵になっているほどレイアウトが決まっていたけど、なんか、CGメカの情報量が多い割に意味は少なくて、最終決戦とかやってもCG戦艦のテクスチャの細かさがノイズになっていて、あんまり「美しい」って圧倒される感じはなかった。
 いや、僕が思春期の頃に旧劇場版で圧倒されただけで、今の若いエヴァ視聴者には、これがきれいに見えるのかもしれないけど。


 原画を見せていくのも、かつては「これは虚構だ」とぶちかますことに意味と新しさとインパクトが有ったけど、今回も「まあ、エヴァの終盤と言えばこれだよね」くらいの義務感でやった感じで、それほどすごいとは思わんかった。まあ、イマジナリー空間に侵入する8号機っていう意味合いはあるんだが。


 ラストの実写っぽいところも、昭和っぽい鉄道趣味が見えたし、現実の現状追認という感じで、あまり未来に向かう感じはしなかった。若者が悩みながら未来を模索するって言うより、「これでいい」という老人みたいな仕草。


 音楽も旧作のほうが良かったかな。クラシック音楽の使い方もいつの間にか陳腐になったし。
 宇多田ヒカルさんも天才少女シンガーから、すっかりプロになっちゃって。落ち着いていて。
 「甘き死よ、来たれ」ほどのグルーブ感は感じなかった。


 まあ、実直に仕事納めをするのが目的で、かつてのようにオタクをボコボコにしてやろうとか、新しいものを出して出世しようという殺意は薄くて、ただお仕事をやっただけなのかな。制作会社がたくさん絡んでるのも作品というよりビッグ「コンテンツ」になったからだろうしね。映画じゃないよ、ビジネスさ。


 はぁ、出がらしには興味が失せたわ。 今ここでさっさとし・・・・(とか言うと検閲されるので)・・・し、シ、シン・ウルトラマンのお仕事頑張ってください!

※追記3/14
言い訳っぽいですが「興味が失せたわ〜」の下りはオーバーマンキングゲイナー第22話「アガトの結晶」の敵役のキッズ・ムント総裁による「身の程を知れ、若造。拳銃の使い所も分かってない男が。私に挑もうなど、思い上がりも甚だしいいいいいいいっ〜。虫ケラには興味が失せたわ。いまここでさっさと死ね」のパロディです。
富野作品の悪役ならこういう事を言いそうだなという意味でした。
また、普段からTwitterで富野アニメ大喜利をしているので、なんとなく「興味が失せたわ」の続きとして書いてしまいました。
ボク個人もエヴァについて興味を失って、「作品の概念として」死んでもらいたかった。というのが文の本意です。


ただパロディだから本気の殺意ではなくネタとして許される、と思っていた僕も反省スべき。
でも、エヴァファンにはキングゲイナーを見てほしい。なんで庵野秀明監督が影響を受けた富野アニメを見てないんですか?
ハムサンドにしてくれるわ!


 でも、これだけは言わせてもらう。アニメを作ることを舐めてはいけない。


  • おじさんになった僕


「社会は箱でできている」
「大人になることはいくつもの箱だよ。人は体を折り曲げて自分の箱に入るんだ。」
「ずっと一生そのままに。やがて箱の中で忘れちゃうんだ。」
「自分がどんな形をしていたのか。何が好きだったのか、誰を好きだったのか」
 そういうわけで、輪るピングドラムの渡瀬眞悧先生のいうとおり、僕はシン・エヴァンゲリオンを見て、なんでこんなものが思春期の頃に好きだったのか忘れた。
 DVDも途中まで見返したしHGのプラモデルも零号機初期型しか作ってないけど、興味が失せた。なんで母親に嫌がられてまで、こんなもののビデオを熱心に見ていたんだろう。


 僕は大人、というよりただの疲れたおじさんになったのさ。
 大人になるってことは、尊敬していた大人に幻滅し、自分の子供っぽい期待を捨てること。


 しかし、僕がこんなことをエヴァンゲリオンに対して言うなんてね。
「記号的なキャラクター」「ご都合主義の設定」「世界を描けていない」なんて。どれも、あの頃エヴァンゲリオンが好きだった僕たちエヴァのオタクに対して、大人たちが投げかけてきた言葉だ。
庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン


 僕もつまらないおじさんの側になったんだろう。


 思春期はもうおしまい。人からどう思われるか気にするのもおしまい。生殖適齢期は過ぎている。ただ、キモくて金のないおじさんとして、ずるずると堕落していくだけだ。

堕落論


 母親の自殺を悲しむのもおしまい。ただ、つまらない人間同士がつまらない不動産投資とか銀行融資の仕事をして、馬鹿な母親がひっかかって借金をして、つまらない死に方をしただけ。世は常にこともなく、つまらない。


 だから、エヴァンゲリオンに対してこんなに長文を書くのも、もうおしまい。明日からは語ることもなく、だらだらソーシャルゲームをして適当に読書をして、新作アニメをながら見する。


 というか、腰痛と歯槽膿漏と脂肪肝を治すのが先決だ。おじさんだからなあ。


 まあ、好きだったものに決別をつけたので、多少テンションは落ちている。でもFGOの天草四郎のトンチキシナリオを読んだり、ウマ娘プリティーダービーをしたり、アイマスをしていればそれなりに楽しいだろう。


 本来はDVDを全部見返した上でシン・エヴァンゲリオン劇場版を見るはずだった水曜日、青森で開場した富野由悠季の世界展の(兵庫と富山で見た)感想の残り、イデオン以降のイラスト部門について、でも書くか。


 富野由悠季はスゲーよ。今年で80歳になるのに昭和へのノスタルジーなんてないもん。(ヒミコヤマトは???)
 今も未来に向かって格闘する子どもたちを育てようとしている。




  • ほしい物リスト。

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