玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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少女☆歌劇 レヴュースタァライト とウテナの違い

 少女☆歌劇 レヴュースタァライトの最終回を見ました。
 思ったよりは悪くなかった。
 東京タワーが動くところは面白かったです。
 ただ、やっぱり「少女」趣味なのが鼻につきました。
 

 やあ。
 僕は老害のメタファーだよ。

 古川知宏監督は幾原邦彦氏と組んで作品を作った経験もあり、ウテナスタァライトの比較は多い。
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 でも、ウテナゾンビとしてはウテナとの違いの方が気になった。

 
 おそらくウテナ世代で詳細にレビュースタァライトの記事を出しているのが
d.hatena.ne.jp
 テリー・ライスさん。画像などはこちらを参照。長いけど。



 しっかりした記事はテリー・ライス氏に任せて、少女☆歌劇 レビュースタァライト少女革命ウテナとの違いについてなんとなく書いていこうかと。

 デュエリストはただ一人薔薇の花嫁を手に入れ世界を革命する。
 舞台少女は一度負けてもオーディションの点数に余裕があれば再チャレンジできる。決勝戦が4人に絞られても観客席に追いやられた舞台少女は怒らない。舞台少女はウテナ生徒会のデュエリスト個人主義者とは違い、みんなで舞台を作るため、最低限の協調性は持っている。
 仲がいい。
 生徒会のデュエリストは選ばれたもので、若葉など一般生徒を踏みつけにする。しかし、少女歌劇のA組は裏方のB組とも協調する。
 (ていうかウテナの生徒会、普通の学校の生徒会がやるべき学校行事とか全然してなかったよね…)
 なので、緊張感が違う。相手を破滅させても仕方がない、くらいのエゴが生徒会にあったが、少女歌劇はやがて仲良くまとまるだろうというような予定調和の予感があって、あまりギラギラしていなかった。
 特に、カップリングがかなり意識されていて、安定感があった。不安定がなかった。

作中のシンメトリーについては、関係性を結びつけるという面と対称を配置して何かを物語るという意図を含む面がことさら強調されているのです。
d.hatena.ne.jp

 と、テリー・ライス氏は第一話の感想からおっしゃってて、それはそうなんだろうけど、結局百合カップリングが割と安定している印象。飛び入りの華恋がいても、それはそれで同じく転校生のひかりとカップリングするのだろうねーという予定調和があって、ぞくぞくするような人間関係の危険性はあまり感じられなかった。
 だって、ウテナとアンシーは最後まで殺し合いをするかどうかのラインに居たので。そう考えると、似たような幼児の時の思い出があっても、ウテナとアンシーに比べるとレヴュースタァライトは平和だよね。
 これは自意識が強い幾原邦彦監督と、そのフォロワーである古川知宏監督の違いなのだろう。古川監督の方が職人として製品を作る意識が高いと言える。(これはテリー・ライス氏がロシア構成主義と述べたことにも関連していて、両監督はどちらも「キッチュ」な現代性を指向しているにも拘らず、古川監督の方がきちんとしている。)

作品の主幹となるデザインワークにこの「ロシア構成主義」を用いているわけです。このため、アニメ版においてはこの徹底した「構成主義」によって、画面が積み重ねられていきます。この辺りが幾原監督の諸作品と決定的に違う部分です。幾原監督のデザイン(というよりはアート)スタイルの信条はおそらく「美は乱調にあり」を徹底しているのだと思われます。たとえばTV版ウテナのコンセプチュアルデザインを手がけた長濱博史さんや劇場版ウテナ小林七郎さんによる背景美術やインパクトのあるビジュアルで畳み掛けたり、動作の省略によるメリハリのつけ方などなど、画面内の整合性を問わず、絵を繋げていく手法といえるでしょう。

対して、古川監督あるいはこの作品では「構成主義」であるがゆえに「過程」を逃さないのが特徴的。画面を構成として重ねていくため、AからBへと移る動作の過程も「構成」要素なので省略は許さずアニメートしていきます。ある意味、画的な美しさを成立させるためには構造や過程を演出として「省略」する事も是とする幾原監督とはだいぶ異った手法のように見えます。この辺りはアニメーターとしても実力のある古川監督だからこその手法といえるのではないでしょうか。

省略とビジュアルインパクトの鮮烈さで尖った前衛的センスを押し出していく幾原作品と比べると、ひたすらに「構成」を次々に重ね、構築されることによって先鋭化した結果、前衛性を獲得したものこそが「少女☆歌劇レヴュースタァライト」そのものなのです。

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」EDシングル Fly Me to the Star


 ただ、純粋無垢な子供時代こそが真実、というような描き方はアニメーション監督として一線に立ち続けた高畑勲監督ですら「かぐや姫の物語」に見られるように、逃れられなかった観念なのである。(僕は子供の頃のことは大して覚えていないし、親に流されていたままだった気がするんだが)

  • 過去に立脚した価値観

 古川監督は幾原邦彦監督の下で演出した過去を持つ。だから、そのような演出を本作でも行った。しかし、幾原邦彦は未来を見ている。華恋とひかりは過去の約束に執着した。
 アニメ演出家も黎明期の高畑勲出崎統が死に、富野由悠季宮崎駿の影響を受けた幾原、庵野秀明の部下だった人が一線に出る時代になった。そこで過去の成功体験をリフレインすることが果たして、「輝き」だろうか?

 スタァライトは劇中劇である。なので、それは割とどうにでもなるというか。アンコールや再演ができるのは、ちょっとびっくりしたけど、まあ、そもそも劇中劇だし。(それに、演劇では女神役とヒロイン二人で固定されてたけど、それで劇が数十分の演目を維持できるかというと、ちょっと心もとない。まあ、実際のスタァライトの全貌は描かれなかったのですが)
 そう考えると、実際の演劇の縛りがあったプリンセス・チュチュに比べると弱い気がした。
 ウテナの王子様という概念は、いわゆるシンデレラや白雪姫などの多くの童話や寓話の広い概念だったので、どうにでも変えられる劇中劇よりも高い壁としてメタファーの強固さを出していたと思う。ジェンダーにもかかわってきたし。
 その、ジェンダーとか社会的役割にまで影響を及ぼす王子様という寓話のメタファーに対するウテナに比べると、スタァライトは百合っぽさを出すための装置にすぎず、切迫感が薄く見えた。

  • 演劇と決闘

 舞台少女は舞台に生かされている。私にとって舞台はひかりちゃん。ひかりちゃんがいないと私の舞台は始まらないの。ひかりちゃんがいなくちゃ駄目なの。
 レズレズしい百合百合展開を期待するならそうなのであるが、華恋は舞台の観客に見せることを考えていないので、アイドルマスターシンデレラガールズよりも内向的で自己中心的だ。
 対して、薔薇の花嫁の背負っているものは世間である。そして、それは好意的な視線ではない。王子と姫に縋り付こうという民衆の汚い嫉妬や期待がないまぜになった百万本の剣に薔薇の花嫁は貫かれ続けている。それがウテナとアンシーの幼児体験である。そしてウテナは一回、概念として自意識が死んでいる。
 それに比べると、華恋とひかりが子供の頃に見た「スタァライト」はあまりに穏当で平和で幼児的で狭い。
 結局、子供の頃のイノセントな思い出を取り戻したいという欲求がレヴュースタァライトには強すぎる。というか、ウテナの「強く気高い王子様になりたい」という生き方の志向性に比べると、「子供のころの運命と約束」に執着しているレビュースタァライトは未来ではなく過去の方に視線がいっている気がする。
 ウテナは子供の頃のアンシーとの約束を果たすだけでなく、「強く気高い生き方」をその先も未来においても目指していたのではなかろうか。
 また、ウテナを探しに行ったアンシーは決闘者ではなく、薔薇の花嫁で、対等な存在ではない、ジェンダーギャップのある立場ということも、おなじ舞台少女同士の話のレヴュースタァライトとは異なる要素であろう。

  • モブおじさんとアイドル

 唯一の観客であり男性であるキリンが第四の壁を越えて視聴者に『そう。あなたが彼女達を見守り続けてきたように』と訴えてきたのだが。それは演出としては多少面白かった。
 だが、そう、このアニメには観客がキリンと視聴者しかいない。ラブライブ!と同じく観客、そして男性が排除された世界だ。それは男性、その強さと社会的地位と戦ったウテナとは全く違う。
 それはこのレヴュースタァライトというアニメがソーシャルゲームの宣伝であり声優のアイドルソング売りの商業主義の装置の一環だからである。
 百合百合しいキャラクターの「関係性」(余談だが、私は「関係」と言えばいいのに「関係性」というオタクを嫌っている)をメタファーや第四の壁越しの透明な存在としてまなざすのが視聴者消費者である。
 王子様がその社会性において、鳳学園の学園長室が世間的において、「子どもにはわからない重要さ」という資本主義的価値を持ち、それに拘泥する鳳暁生のみっともなさがレヴュースタァライトにはない。脱臭されている。
 そして、アイドル的なスタァキャラクターを見る視聴者の生臭さも社会性も消去されている。
 そして、安心して空気のように百合百合しいキャラクターを眺めて楽しむことができる。そこに自らを省みて自戒する毒はない。
 そして、スタァライトはまた再演され、他の学校のキャラクターを加えたソーシャルゲームラブライブ!と同じブシモからリリースされる。
 本稿では私のスクフェスの運営会社のKLabとの個人的確執は省くが、結局は資本主義的なアイコンに過ぎない作品だったのだろうと思う。


 舞台少女は舞台に生かされているが、アイドルゲームはファンの課金に生かされている。しかし、ラブライバーやブシモのゲームに課金するモブおじさんは自分以外のおじさんを見ることを嫌い、社会と男を排除した作品を愛好する。
※追記
 ならば、キリンが第4の壁を越えて視聴者に訴えたのも、芸術的な意図と言うよりは、「私たち視聴者は彼女たちを見守ってきたので、ソーシャルゲームでも愛する義務がある」という観念を植え付けようとする広報活動にすぎないのではないのかもしれない。


※※伸びてきたので追記の追記
p-shirokuma.hatenadiary.com
p-shirokuma.hatenadiary.com
ure.pia.co.jp


 そして、舞台少女とアイドル声優は、自らの力を願う決闘者と違い、愛されるために存在するアイコンシステムとしてソーシャルゲームの売り場に並べられる。
 彼女たちは彼女たちの人生を生きるのではなく、物語を作るのではなく、ファンに愛されて集金するための装置として機能する。
「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」1stシングルCD「プロローグ -Star Divine-」


ロシア構成主義 - Wikipedia

端的にいえば今で言うところの「前衛芸術(=アヴァンギャルド)」ではなく社会主義国家建設の下、勃興した「大衆芸術(=アヴァンギャルド)」という芸術運動です。従来の王侯貴族に親しまれる「芸術」ではなく、革命によって国家の主体となった「大衆」のための「分かりやすい芸術」です。現在の「ポップアート(デザイン)」へと直結する運動といえば理解は早いでしょうか。

 テリー・ライス氏はレヴュースタァライトのロシア構成主義の要素を上げていらっしゃるのだが。
 王侯貴族の気高さではなく、庶民大衆の分かりやすい芸術としてのポップアートとしてこの作品を紹介しているが、現代における大衆文化はソーシャルゲームである。
 王侯貴族の権威主義が破壊されて200年近く。大衆に力が移譲されたかのように見えるが、それは安っぽい快楽原則に流されているだけではないと言えるだろうか?
 まあ、アイドルマスターシンデレラガールズのプロデューサーとカルデアのマスターをしているソシャゲ中毒の僕にそれを強く非難する資格があるのかというと、ないのだが。


 アイドルキャラクターの偶像は愛されるために歌って踊って奪い合って、名探偵コナンも売れる限り永遠に小学一年生を繰り返し、人格キャラクターではなく、集金インターフェースとして利用され続ける。
 資本主義のシステムにキャラクターが利用されるのは、ウテナの時代から20年後の21世紀の課題だ。(もちろん、鉄腕アトムノベルティ収入で制作費を回収していたという歴史もあるが)


 それは幾原邦彦監督が永遠に勝つことのできない敵として描く百万本の剣、こどもブロイラー、透明な嵐、ノケモノと花嫁の世間の大人とどう違うと言える?


 10年第3作目となる幾原邦彦作品。「さらざんまい」
sarazanmai.com
 「手放すな、欲望は君の命だ。」


 僕たちオタクはキャラクターを欲望する。では、キャラクターの欲望は?キャラクターに命は宿るのか? 


 華麗に続く
ノケモノと花嫁 THE MANGA (1)

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nuryouguda.hatenablog.com
君は僕にプレゼントを贈る星と贈らない星を選ぶ。

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 富野由悠季は演出家


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