※注意
この記事は本来は劇場版が公開されて観客動員数が増えるかどうかというゴールデン・ウィークの一週間以内に書き上げるべき行灯記事、宣伝記事だったのだが、僕はクソなので庭木の手入れなどを優先してしまい、多くの劇場で前編が上映終了した6月になってしまったのはとても申し訳なく思っている。
まあ、僕も小説家になろうで小説を書いていたけど、せっかくウェブ小説という媒体なのだから、と、戦闘シーンの場面の参考としてグーグルマップにリンクを貼ったら外部にリンクしてると怒られてアカウントBANされた(pixivは残ってるけど、ちょっと乳首を描いただけで怒られた)というわけで、なろうには複雑な思いがあるし、そもそもなろう発の小説はほとんど読んでいなくて、アニメになったものをなんとなく見ているだけなんですが。
と、まあ、僕の個人的な事情はともかく、輪るピングドラムを放送から10年以上経って劇場版にするにあたり、幾原邦彦監督はいくつかのインタビューで「今の若者にも見てほしい」という発言をしている。クラウドファンディングの出資者のメインは輪るピングドラムの放送当時からのファンや、更に前のセーラームーンからのファンかもしれないけど。
- ピングドラムとループもの、なろうファンタジーとの親和性
それで、今の人に見てほしいという幾原邦彦監督の立場で言えば、今のヒットしてるアニメに近い構成をしたのだろうという推測は立つ。
で、今ヒットしているアニメと言えば東京リベンジャーズ、サマータイムレンダ、Re:ゼロから始める異世界生活、ちょっと前は僕だけがいない街などのループもの、あるいは無職転生や破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった、その他の異世界転生もののなろう小説系のものです。
もともと輪るピングドラムではすでに、主に荻野目桃果の能力で世界を塗り替える要素はあった。
2011年アニメの三注目作「まどマギ」「ピンドラ」「シュタゲー」がどれも破綻的帰結を回避するために時間軸ごと世界を上書き改変しようとリトライする物語であることは評論的にも注目されるべきところ。破滅回避を目指すループものとしては「アスラクライン」や「ひぐらし」も該当するのだけど。
— 小森健太朗@相撲ミステリの人 (@komorikentarou) 2012年6月23日2011年アニメの三注目作「まどマギ」「ピンドラ」「シュタゲー」がどれも破綻的帰結を回避するために時間軸ごと世界を上書き改変しようとリトライする物語であることは評論的にも注目されるべきところ。破滅回避を目指すループものとしては「アスラクライン」や「ひぐらし」も該当するのだけど。
そういうわけなので、劇場版輪るピングドラムは、TV版で「きっと何者にもなれないお前たち」とプリセス・オブ・ザ・クリスタルに言われて、そのとおりに何者でもなく、どこへでもできる存在になった高倉兄弟が、「きっと何者かになれるお前たち」と荻野目桃果に言われ、TV版の物語が記された「カエルくん、ピングドラムを救う」という本を読むことで、記憶を取り戻し、「運命の輪を閉じて世界を守る」という役割を与えられ、高倉兄弟としての自我を取り戻す代わりに他の本へのアクセス権限を失い、高倉冠葉と高倉晶馬としての自意識を得る。
(そらの孔分室の他の本の書架が分解され、彼らが本を読んでいる足場はどんどん狭くなり、地下に降りていく。深く。もっと深く)
若い頃にTV版輪るピングドラムを見て「きっと何者にもなれない」というセリフにショックを受け、今、劇場版輪るピングドラムでの「きっと何者かになれる」というセリフに安堵するファン(どちらも異常者である荻野目桃果の人格から出たセリフ)は、ちょっと幾原邦彦監督の手の上で踊らされている気がするのだが。
僕は現実の視聴者のことより作中の人物のほうが偉いと思っている虚構主義者なので、劇中の描写だけを見ればTV版の輪るピングドラムの高倉兄弟はたしかに何者でもないなにかになってしまったし、劇場版で膨大な書架(様々な人生の記録の本)が分解されて、「高倉兄弟」としての記憶を取り戻し「高倉兄弟」という何者かになるのと引き換えに、他の記憶の本にアクセスできる可能性が狭まって他人になる可能性を喪失しているのを絵で見せているので、あまり「何者かになるかどうか」という文言は視聴者の問題は興味をそそるフックであっても、作中の人物にとってはただの事実でしかないと思っている。
僕は現実の視聴者とリンクさせる作品読解より、作中の世界で、それがどうか、ということの方を重視するタイプ。それは僕の個人的な思考の癖に過ぎないんだが。
しかし、僕が世間から遊離しているのとは関係なく、幾原邦彦監督はやはり興行収入を稼ぐため、生活のため、オールドファンに受ける閉じた作品にするのではなく、新しく輪るピングドラムを見る視聴者を求めているようだし、子供の頃に輪るピングドラムを見てよくわからなかった人が20代くらいになって再見するということにも意識を向けているようだ。
僕と幾原監督は別の人間だし、考えも才能も違うからね。
- 現代的家族、それはRPG
輪るピングドラムを現代の新しい視聴者にも見てほしいとインタビューなどで幾度も発言する幾原邦彦監督。2011年のTV版のときの「きっと何者にもなれないお前たち」はフックになったけど、今はその時よりも(その当時でもすでに酷かったが、)家族や社会の繋がりや信頼性が低下しているので、「きっと何者にもなれないお前たち」は毒が強くなりすぎていて、「きっと何者かになれる」に変更したとのこと。
そういう観点から「じゃあ、劇場版輪るピングドラムはどのような点で現代風になっているのか?」と考えたところ、
「これって小説家になろう系でよくある、異世界転生、もしくは強くてニューゲーム、あるいはタイムループコンティニューやり直し系じゃん」という身も蓋もない観測結果を得た。(映画は8回くらい見た。輪るピングドラム展にも行った。シスコンなので)
膨大な人の人生の記憶が記録されている本がならぶ中央図書館そらの孔分室はそのまま、膨大な種類の異世界に通じるゲートだし、司書である荻野目桃果は平野耕太のドリフターズとか無職転生やノーゲーム・ノーライフとかそこらへんのたくさんの転生モノに出てくる管理者?神様?みたいなアレだ。
輪るピングドラムのTV版では理不尽な罰を与える女神様(島本須美)が登場したが、劇場版では島本須美さんの影響力が若い視聴者には少ないと判断したのか、TV版の前半でかなり印象的だったイリュージョン演出を減らす一環なのか、出ない。
TV版の終盤で何者でもない異世界旅行者になった高倉兄弟が劇場版でTV版の物語を”編集”されている「カエル君、ピングドラムを救う」という本の中にカエルのは、ゲームや小説のようなファンタジー世界、つまり、現実よりも一段下の虚構の世界に入るSAOやオーバーロードやら、まあ、そういうなろう系のアレだと思う。
いや、まあ、僕は小学二年生の時点でミヒャエル・エンデのはてしない物語や筒井康隆の虚航船団を読破するような嫌な子どもだったので、昔からそういう作品はあったことは知っているのだが。(ネバーエンディングストーリーの特撮メイキング本を絵本のように幼稚園の頃から愛読していた)
なろう系異世界転生小説を悪く言うと、なんか自分のステータスがゲームみたいに表示されたり(別にBLAME!や虐殺器官みたいに眼球に受信装置があるわけでもないのにさあ)、作り物のような世界に転生して、作り物のような世界の中で一段上の存在である自分が作り物のゲームキャラクターのような奴らの社会の中で一種の超越者として力を振るうところが面白みなのだろうと思う。
現実にはルールがあまりないし地獄なんだけど、ゲームのように能力が明確に示される仕組みがある世界は安心感がある。鬱屈したものを抱えているオタクにとっては「公平に能力が明示される世界なら、俺は他の人間を見返せる」という気持ちがあるのかもしれない。
最近の自己責任社会は、能力主義だけど能力があるかどうかを認定するのも、結局人事権をもっている上司に気に入られるかどうかというコミュニケーション能力が問題になっていて、能力主義は機能していない。(僕もいちおう六本木ヒルズ族でラブライブ!のスクフェスで倒産を回避したKLabでそういう情実人事で過労に追い込まれて死にかけた)
輪るピングドラムのテレビ放送以降の2011年以降のアニメでは、そういう転生モノや異世界転移モノやタイムループモノがマジで、それ以前ではかなりの変化球としてみなされていたと思うが、なんかそういうもののほうが主流みたいなくらい売れている。その商業的メカニズムについては僕は世間が嫌いなので特に考えたくないんだけど。
やり直し可能で、しかも自分の本来の次元よりも一段下で安心して見下せるゲーム的世界の中で、美少女たちにちやほやされて願望が充足されるというのがここ10年くらいのトレンドなのだと思う。
(転生とは違うけど、僕はIDOLM@STERのゲーム、特に据え置き型よりもソーシャルゲームを好んでプレイしているけど、これも自分より一段下の美少女アイドルに対して指導者のプロデューサーとして関わるという側面もあると思う。まあ、千早に手を焼くこともあるのだが)
完全新作よりもエヴァンゲリオン、ウルトラマン、仮面ライダー、ドラゴンボール、ガンダムのリメイクが三世代コンテンツとして流行しているのも「ある程度評価が定まっているし安心して楽しめるものを現代風の画風に直す」という感じで割と安牌が好まれる時勢だと思う。30年くらい続いている名探偵コナンとかワンピースもそういう領域かもしれない。
いや、なろう系の悪口を書きすぎたが。(だって、富野由悠季のバイストン・ウェル物語はだいたい現実よりももっと訳がわからなくて不条理でハードな異世界ですしね。勝たねば、死!)
幾原邦彦監督のインタビューに話を戻すと、現実の社会の家族とか親子とか会社の労使とか地域共同体がどんどん弱くなってきており、その反動でそのようなものを求める人が増えているという発言がある。
シン・エヴァンゲリオンが旧作の尖った部分や人間への嫌悪を削ってジブリのような農本主義共同体(ていうか庵野秀明さんは風立ちぬでジブリの主演をしたし)で人間性を回復したり、シン・ゴジラなどでも公務員は全力で国民を守る、という保守的な過去の時代にあった安心感に回帰している(しかし、それは架空である)し、そういうものが人気を博しているという現状分析もあるだろう。
過去に遡れば、幾原邦彦監督が手掛けた美少女戦士セーラームーンのセーラー戦士たちも学校や家庭環境の違いを越境した共同体だったわけだし。反面、少女革命ウテナは欺瞞に満ちた現実社会の共同体のルールの外に出よう、社会の外にこそ純粋な友情がある、という作風だった。
で、やっとこさ輪るピングドラムの高倉家の話になるが、幾原邦彦監督のインタビューとかオーディオコメンタリーによるとなんだかんだ言って、メインキャラクター全員の家庭はだいたい崩壊しており、彼らは家族はこうあるべきだ、という理想や渇望を持っているが、安定した家庭で育った経験がないので、それは幻想であり、ちゃんとした家族のことを知らず、兄弟や夫婦の形をしていてもどこか「役割を演じている」という意識がある。
で、表題の話に戻るが、輪るピングドラムの高倉兄弟や多蕗夫妻は「家族ごっこの役割を演じている」という要素がもともとのTV版からあったし、作り手もキャラクター自身にも、その自覚があったのだが。特にメインヒロインの高倉陽毬は兄に愛されているが異性として愛されないように、女らしい部分をあまり表に出さず、妹として愛されることを選んでいる。
そういうわけで嘘くさい共同体という面がもともとからあったのだけれども、幾原邦彦監督の最近のインタビューの言葉を借りれば、過去の作品で嘘くさい共同体をやったり社会的規範の外に出ようとする寺山修司のような意欲があったのも、社会が安定して「正解の家族像」がしっかりとあったからこそ、逸脱もできたということらしく。輪るピングドラムのテレビ放送時よりもさらに正解の社会像が崩壊して家族や地域社会の強度も弱くなった現在では「役割が明確な共同体」を求める欲求が増していると、幾原監督は語る。
それを異世界転生なろう系ファンタジー的な枠組みと合わせて考えると、たしかに最近のファンタジー系アニメは恋愛や結婚や家庭構築という古い人間関係像ではなく、「RPGのパーティ」としての役割や職能に当てはまる関係性を欲しているような構図の作品が非常に多いと感じられる。
異世界転生ではなく、歴史モノのジャンルになるであろうゴールデンカムイでもアシリパさんはヒロインと言うより「パーティの女勇者」という感じで、あまり性的にも恋愛対象としても見られておらず、それが原因かはわからないが男女ともに人気を博した。僕は尾形百之助みたいな狂人になりたがっているアホですけど。
もちろん、なろうファンタジー物でも、主人公は異性にモテたいという気持ちはあるし、なろう系ファンタジーアニメは同性同年代の人間関係より、自分のことを勇者として慕ってくる複数の美少女、あるいは(悪役令嬢ものでの)美少年とのパーティの関係が多く描かれている。そこにもちろん美少女や異性に対する性欲はあるのだが、恋人、という危険で不安な関係よりゲーム的なパーティでの勇者と僧侶や魔法使いとしての役割分担としての関係が描かれる。恋人や夫婦ではないので、複数の美少女キャラクターが攻撃役とか回復役としてパーティに同居して同じように主人公の勇者に好意を向けることも多い。展開に応じて、ヒロイン役のキャラクターが交換されることも多い。
魔法科高校の劣等生のお兄様も多くの女性キャラクターに好かれているけど、妹以外には割と冷淡だったりもする?
(あと、ヒットしている五等分の花嫁とかかぐや様は告らせたいとかも好意があるという安心感があった上で、様々な役割や性質の複数のヒロインなどとの関係を描いているのかもなあ。百合系もゼロ年代にはある意味同性愛として異端だったのだが、ココ最近は女の子同士、男の子同士の安定した部活などの枠組みを描き、恋愛という危険な事件を回避しつつ安心して視聴者が萌えられる作品が主流派になっているのやもしれない)
まあ、僕は実はあんまりなろう系のファンタジーは好きじゃなかったりするんで、分析もそんなに正確ではないと思うし、なろう系ファンタジーについて語るのは本稿の目的ではない。
輪るピングドラムを現代風にするに当たり、どうやら幾原監督は「高倉兄妹は家族ではなく、冒険者パーティのようなもの」として役割によって繋がっている関係であるという自覚をTV版よりも強めたのではないかと思う。ということ。
人生という冒険はつらい。なので、身を寄せ合う青少年たちは家族になるのだけど、それは今の時代ではむしろ冒険者パーティの方に近いのではないかという。
- 悪くてニューゲーム
というわけで劇場版輪るピングドラムはテレビゲームのように編集され整理された「本」の中に高次元から入り込むという点でなろう異世界転生に近い構成である。
また、近年のインタビューで幾原邦彦監督がしきりに「この映画は、お兄ちゃんが妹を助ける話です」と保護者と非庇護者の”役割”を強調しているのだが。
でも、よくよくこの「君の列車は生存戦略」を見てみると、「お兄ちゃんが妹を助ける話」というだけではないよなって思う。っていうのがほぼラストのTV版のエンディングテーマ曲が大音響で流れる赤く燃える蠍の魂の生存戦略からの冠葉のクッソ重い妹大好きシーンの連打ですけど。
だいたいの異世界転生は転生する前よりもマシな人生をしようとしたり、死に戻りなどのループものではいちばん大事なヒロインを助けるために他のヒロインや協力者を利用したり、まあ、割と外道な策を弄したりしつつも、バッドエンドを避けるためとか世界の破滅を避けるためとか、多くのヒロインからの好感度を上げるため、いいことをしようとする。
強くてニューゲームなので、前の人生よりもマシで良いルートに方向修正しようとするのが大体のトレンドだと思うけど。
幾原邦彦監督ってそういう世の中のメインではやっている演出の後追いをする人ではないです。むしろ、その先を開拓するために突出させる人です。
実際、そらの孔分室の司書を名乗る荻野目桃果によって、高倉兄弟の二人は「運命の輪を閉じるため、世界を壊さないため」というミッションを課せられて本の世界に入るのですが。
TV版第12話の死にかけ陽毬と生存戦略をする冠葉に被さって、謎海岸の潮干狩りでの冠葉が「ずっと好きだった!」って言うけど、この冠葉は本の中の冠葉じゃなくて、そらの孔分室にいるこども冠葉でもなくて、すべての記憶と因果と罪を自覚したフルアーマー冠葉だから。なんとなく歌の勢いで12話の冠葉のように見えるけど。
あの謎海岸はTV版で闇落ちした冠葉を助けようと、晶馬と陽毬が話し合った異次元空間なので。
TV版では行けなかった冠葉が行けた謎海岸。
そして、「俺は罪を犯した黒い羊!家族を壊してもいい!陽毬を!」って宣言するのがとてもロック。荻野目桃果に課せられた「運命の輪を閉じるため」というミッションを放棄してる。むしろ外道幽霊の渡瀬眞悧の「君たちは呪いから出られない」「君は間違っている」という言葉の方に乗っかって、「どうせ間違ってるなら好きなことをしよう!」ってなってる様子。
だいたいのやり直し物だと、まあ、色んな作品があるので例外もあるだろうけど、過去の罪を反省して、ヒロインを救うために、冒険者パーティーの関係を修正するのが定番だと思う。シュタインズ・ゲートでもダルとの友情によるラボメンのパーティ構成がわりと大事だったし、まどマギの続編のマギアレコードでも色んなキャラクターとの絆?だし、シン・エヴァンゲリオンでもシンジくんがお悩み解決マンになった。
でも、輪るピングドラム劇場版前編「君の列車は生存戦略」の冠葉は自分がTV版本編で犯したテロや殺人の罪の記憶を自覚した上で、それを償うとかいい人に更生するのではなく、「俺はすでに罪を犯しているから、家族という共同体を壊してもいいから妹への愛を実現させよう!」ってTV版よりもさらにダーーーークネスでエゴイスティックな欲望、愛の呪いに自覚的になってやる気を出していて、ちょっとこれは他のなろう系ラノベよりもやっぱり危険思想だよねって。
いや、まあ、普通に晶馬も殴り返すと思うので、最終的には後編で、どうなるかは今の時点ではわからんけど。
- まとめます
なので、輪るピングドラムという割と変なTVシリーズを「そらの孔分室」という劇中でも特に変な場所を軸にして、逆に最近流行りの定型的なループものや異世界転生ものやゲーム的世界での役割明示パーティものに近い枠組みの構成にしている。
そういう今風にアレンジした劇場版だけど、大抵の人は人生をやり直しができるとなると「前よりもいいことをしたり、いい人間になるために本気で生きよう」という風に話を勧めがちですけど、すべての因果を自覚してる次元でのフルアーマー冠葉は「共同体パーティや世界を壊してもいいから愛する妹を愛したい」ってなっている。
そして、僕もシスコンなので、それはとても応援したい。
しかし、大抵の異世界転生ものでは、それが物語の主題ではない限り、転生やタイムリープの世界構造システムの仕組みそのものは描かれなかったり、変動しないことが多いのだが、そらの孔分室という異空間はもともと幽霊の渡瀬眞悧が司書をしていた場所だし、劇場版でも渡瀬眞悧と荻野目桃果の間で主導権争いが描かれている。
というわけで、大抵のループものでは破滅を回避したりヒロインと同時に世界を守るという、多くの視聴者が常識的に賛同できる行動なのですが、この映画では最初からエレベーターや回想シーンの表示が故障していたり、世界そのものが壊れている感じだし、フルアーマー冠葉も「別に世界を壊してもいいのでは」という行動に出ている。
人生をやり直せるとしても、別に良い人生のルートにしなくてもいいんじゃないの?という点で現在主流のなろう系の枠組みに似せているけど、思想の方向性は悪の方に向いているような。その点でやはり、今風に寄せているけどオリジナリティが高く、新しい作品だと思うし、不穏。後編が楽しみですね。
とりあえず、後編が楽しみですね。って言っておけば前後編の映画の感想としてはオチが付く感じなので便利ですね。
個人的には世界とか人類とか、そんなに好きじゃないし、好きな妹のために生きるほうが共感できるけど。どうなるんすかねー。
ていうか晶馬が陽毬の運命の人ということを知った状態で、TV版の最終的な運命の至る因果関係も承知した上での高次元フルアーマー冠葉がどうするのか。そこに受肉した荻野目桃果と寄生している渡瀬眞悧の闘争も絡んできて、スリリングですねー。
晶馬も無自覚にピングフォースシールの呪いを一時的に解除するような謎の呪術を行使して渡瀬眞悧の企みを微妙に阻害しているし。呪術廻戦の流行りも取り入れてるのか。
そして、高倉陽毬と荻野目苹果というヒロインは高次元から世界に入ってきた男二人に対して受け身のままで終わるのか、新しいステージに行くのか。
待て、しかして希望せよ!
(というわけで、またしても徹夜になってしまったが、1ヶ月近く書きあぐねていたネタを書きました。まあ、「なろう異世界転生っぽい構成だけど善悪の考え方はなろうっぽくない」というだけの話です)
- ほしい物リスト。
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↑グダちん用
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