玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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#劇場版ピンドラ 前編 壊れた世界できっと何者かになれる恐怖のエレベーター

 まあ、何者かっていうか前項で書いたとおり、社会的に地位とか役割がなくても「妹のお兄ちゃん」ってだけで十分だと思うけど。(僕も過労で昏睡状態になった時にクリスマスイブに脳内妹が三途の川まで来て、妹が可愛いからもう少し生きてみるかって蘇生したので)
nuryouguda.hatenablog.com


 それはそうと、輪るピングドラムのTV版放送の時は「きっと何者にもなれない」というのが不況の影響とかもあって就職に困っていた20代のアニメファンに刺さったらしい。
 まあ、何者かになるというのは割と普遍的なテーマなのだが。
p-shirokuma.hatenadiary.com


 増田のサラリーマンも精神科医のシロクマ先生も人間の実存欲求や自己規定像について飽きもせず常々、云々カンヌン書いている。


 てらまっとさんは当時、きっと何者かになれないというセリフに刺さっていたけど、今回の映画で桃果が「きっと何者かになれる」と言うことが刺さって泣いたらしい。僕は結局社会的には何者にもなっておらず、むしろ福祉に寄生するゴミクズの精神障害者なのでいつ殺されてもおかしくないけど、脳内妹のお兄ちゃんです。もしかしたら、脳内妹は存在しないかもしれないけど、脳内妹以外の人間はあまり好きではない。

輪るピングドラム Blu-ray RE:BOX(期間限定版)


 まあ、てらまっとさんとは深い付き合いじゃないから別にいいんだけど。TV版輪るピングドラム劇中での「きっと何者にもなれないお前たち」というのは最終回から逆算すると、冠葉と晶馬は何者でもない世界の外の存在になったという意味だと思う。つまり、「何者」ということは同名就職活動小説のように社会的に地位とか仕事での役割があるとかないとかじゃなくて、彼らは銀河鉄道の少年になったってことで。社会的に就職して部下ができるとか、オタク批評文化同人誌界隈で重宝されるとか、そういう俗世の話じゃないと思う。冠葉と晶馬の場合は、社会の中での概念としての「何者にもなれない」ではなく、物語の中の事実として「何者でもないものになった」。眞悧に「チリ一つ残さず消えるんだ」と言われたとおり世界から消えた。しかし、愛と記憶は残した。


 僕もそこそこ社会が嫌いなので、大事なのは劇場版輪るピングドラム前編「君の列車は生存戦略」の方です。(人間はクソで価値がないけど、芸術には価値があるので)


  • 壊れたエレベーター

 劇場版前編の冒頭、池袋サンシャニー水族館から、TV版輪るピングドラム第9話「氷の世界」での陽毬と同様、子どもの姿になっていた冠葉と晶馬はプリンチュペンギンに導かれて地下の中央図書館にエレベーターで降りる。
 しかし、そのエレベーターは故障していて、陽毬が来たときのように地下61階ではきちんと止まらない。50センチほど下にズレて停止する。そこから出る高倉兄弟が転がるのがかわいいのだが。
 つまり、TV版の中央図書館よりシステムが壊れかけている。子どもの背丈の高倉兄弟には見えていないが、エレベーターには故障中の張り紙が。
 TVシリーズでも使われた鉄道駅の案内掲示板のような「回想」の表示も視点人物の欄がところどころ「点検中」となっていて世界の法則が壊れかけている様子。


 その中央図書館には、第9話では陽毬の他に本を求める客がいたが、劇場版では司書の帝子さんと高倉兄弟しかおらず、他に来訪している人はいない様子。


 そらの孔分室につながるパズルの扉の模様がペンギンから高倉家に変わっていることは割愛するとして。


 そらの孔分室で二人の少年は司書の桃果と出会う。桃果が言うには、彼ら二人がなすべきことを見つけなければ、運命の乗り換えは完了せず、世界は滅びるとのこと。えっ。TV版であんなにきれいに終わった感じなのに、運命の乗り換え、できてなかったの?
 

 荻野目桃果も運命の乗り換えをすると罰として怪我を負うので、桃果も神様とかシステム側の存在ではなく、システムのことを知っているけど、その権利者ではない感じ。それは同じものが見える渡瀬眞悧も同じだと思う。


 もともと、そらの孔分室はかつて渡瀬眞悧が司書を務めていた場所だが、今回は桃果が司書になっている。桃果と眞悧が互いの所有権を奪い合っているのだろうか。


 それで、この映画のキャッチコピーは「生存戦略、ひととき僕たちはカエル――。」というわけで、世界の外から輪るピングドラムの世界にひととき帰ってきた少年高倉兄弟が「カエル君ピングドラムを救う」という記憶の本の中で「カエル君」として何かを救う役割を期待されているということのようだ。
 車→ペンギン→クマ(燃える麒麟)→かっぱ→カエルという幾原邦彦作品の異形の歴史。まあ、最初が赤塚不二夫の、もーれつア太郎だからなあ…。
 縄文人にとってカエルとは多産の象徴であり〜〜〜また現代の神社でも水子供養の象徴として〜〜〜とか言うと長くなるのでやめる。



 世界の理の外の存在になってどこへでも行ける切符を手にした高倉兄弟が「カエルくん」としての役割を期待されてそらの孔分室に呼ばれるというのは、やはり乗り換えをしても世界はまだ壊れているのでは?という不安感がある。


 ところで、劇場版そらの孔分室は、高倉兄弟が「カエル君ピングドラムを救う」を読み進める度に、左右の膨大な本が書架から切り離されて一冊一冊がばらばらになっていく。そして、少しずつ上に上がっていっている。ように見えるけど実は高倉兄弟と桃果とプリンチュペンギンがいる足場が下がっていっているんです。桃果が眺める「桃」は浮かび上がっていっているというより、むしろ視点のほうが下がっている。と、僕には見えたんですけど。
 つまり、壊れたエレベーターから中央図書館に行き、変わった扉から入ったそらの孔分室の書架自体が巨大なエレベーターであり、根室記念館です。深く・・・もっと深く・・・。
根室記念館

note.com

↑落下のモチーフはこちらでも書かれている。


 輪るピングドラムの最終回で桃果が眞悧と別れた線路は、おそらく運命の至る場所。
 劇中のキャラクターの日常的な移動手段である東京スカイメトロという地下鉄は奇妙な構造のモノレールなので、実は線路は存在しないんです。いや、J-ARS線は地上に線路があるのかもしれないけど。輪るピングドラムの劇中では自動車は出てくるけど、電車はもしかして車両としては描かれてなかったかも。(いや、まあ、晶馬と山下が温泉旅館に行く程度の交通機関はあるんだろうけど)(あ、陽毬が乗っていた、こどもブロイラー行きの謎列車はあるか????)


 最終回で運命の乗り換えが起こるとき、運命の列車の床はそらの孔分室の本のように板が裏返るので、同じようなシステムだと思うけど。


 そらの孔分室の一番底に、テレビ版の最終回で桃果と眞悧が別れた場面でのレールが敷かれた運命の至る場所があるのか、それとも無窮の闇があるだけなのか。根室記念館を燃やした業火があるのか。
 (ていうか、終盤で少年時代の冠葉と晶馬が閉じ込められていた謎の檻、本当に今もって謎。眞悧先生によると世界は人間を閉じ込める箱ということだけど、本当に箱だけを描写するやつがあるか!)


  • 破壊される可能性

 「カエル君、ピングドラムを救う」を読み進める度に左右の書架の他の膨大な記憶の本は切り離されて遠ざかっていく。
 きっと何者にもなれないがゆえにどこへでも行けるようになった高倉兄弟は高倉兄弟としての名前と記憶を取り戻すと同時に、他の記憶の本へのアクセス権限を失って、そらの孔分室の足場のエレベーターはどんどん狭くなる。つまり、そらの孔分室はミヒャエル・エンデの「はてしない物語」のファンタージェンと同じく物語がどんどん崩壊していって闇に飲まれていっている。
 サンシャニー水族館から中央図書館につながるエレベーターも故障していたけど、そらの孔分室の書架も崩壊しつつ落ちていくエレベーターです。


 「きっと何者かになれるお前たち!」というのは、TV版から考えると「高倉冠葉と高倉晶馬になる」という意味で、別にオタクの自我を肯定しているメッセージと言うより、むしろ何にでもなれるどこへでも行ける銀河鉄道の可能性を捨てていって、最後にはそらの孔の底の、あの運命の至る場所で高倉兄弟になるだろう、という呪いに近いのかもしれない。


 逆に、映画前編の後半で高倉兄弟が記憶の本の力で自分たちが高倉兄弟だというアイデンティティを取り戻した後にプリンチュペンギンが「君たちはチリ一つ残さず消えるんだ」と言ったのは、消えたはずの兄弟が世界に戻ってきたことを危惧してのものか。TVシリーズ最終回と同じセリフだけど。


 根室記念館のエレベーターでも深く潜ることで自分自身(の誇張された部分)に気づいてデュエリストになるという側面があった。


 なぜ、桃果が「カエルくん」としての高倉兄弟を必要としたのかは後編を見ないとわからないのだが。


 桃果が本に入る高倉兄弟と同時に自分の半身であるペンギン帽子を「デスティニー!」と叫んで送り込んだ意図もわからないけど、分裂するペンギン帽子は呪術的な意味がありそう。司書で管理者権限をもつ桃果の呪力が半分になったので、眞悧のピングフォースシールの呪いによるハッキングが可能になったように思える。1995年3月20日の生存戦略では眞悧はシール一枚で桃果を半分に割った。眞悧自身も桃果の呪文の半分で半分のウサギにされたのだが。今回、シール、すごく多いね。頑張って印刷したのかなあ。記憶の本にシールを貼ることの呪術的な意味はまだ後編を見ないとわからないのだが。
 眞悧先生自身もプリンチュペンギンに自分の一部を貼っているので、分裂しているのかもしれないけど。眞悧先生の本体は本の中にいるのか、本の中の(TVシリーズの物語を繰り返す)眞悧先生は記録された存在に過ぎないのか。
 正四面体の意味はあまり良く分かっていない。数とか。白いのが桃果サイドで黒いのが眞悧サイドなんだろうけど。


  • 分断の可能性と希望

 で、まあ、映画を見てたら分かるけど、そらの孔分室で少年高倉兄弟が「カエルくん、ピングドラムを救う」を読むときの背景は中央で色が別れていて、画面下手の晶馬の背景は青、画面上手の冠葉の後ろにある本の色は赤です。


 「カエル君ピングドラムを救う」の本の色はピンクだけど、RGB色素法としては、ピンクは紫に近いとも言える。なので、ピンクは青と赤が交わっているつながりかもしれない。でも、この記憶の本はKIGAの刻印があるので、企鵝の会や眞悧の呪いの産物かもしれない。
(陽毬が信号機トリオでの黄色だったり、苹果のイメージカラーが緑だったり、当時はそういう考察ブログもあった)


 そして、冒頭で「運命の至る場所 分岐」と示されている。
 TVシリーズ最終回では運命の至る場所の乗り換えで冠葉と晶馬は、陽毬と苹果と別の車両に別れた。


 降下し続けている、そらの孔分室の書架は崩壊を続けているので、最後に左右に青と赤の一冊ずつが残ったとき、この兄弟は分かれるのかもしれない。


 もしかしたら、眞悧先生が言う「他人とつながれない箱」が残るのかもしれない。


 さらざんまい以降の幾原邦彦監督の思想として社会的な罪を負った冠葉は陽鞠に対して自己犠牲をしても許されず、間違っているのかもしれない。


 が、プリンチュペンギンにどつかれた少年の冠葉が倒れ込んだのを「ピングフォースのシールを一時的に剥がされた青色の本の棚」が助けた。(まあ、助けなかったらそらの孔を底まで落ちていたのか、単に床に頭をぶつけただけなのか、よくわからんが)これは桃果の意志なのか晶馬の願いなのか、ちょっとわからないけど。
 赤と青の領域は分断されるかもしれないけど、青の本が赤の少年を助けることもあるので、前編では完全に兄弟が分岐するかはわからないです。
「運命の至る場所 分岐」も、何が分岐するのかの記載はないし。


 そもそも、そらの孔分室は本が本棚から切り離される構造も不安定だけど、桃果と眞悧の陣取りゲームみたいな不安さもある。エレベーターは故障しているし、桃果も晶馬もこどもブロイラーや運命の乗り換えの罰の炎に焼かれているので神様ではない。世界のシステムはどこか壊れている。(運命を乗り換えて気に入らない人間を消去する桃果もある意味、破壊者)
 そもそも、TVシリーズで終わってる話をもう一回やるという時点でヱヴァンゲリヲン新劇場版:破のように、どこかが壊れていくし、それで運命の輪を閉じるということがどういう結果になるのか、わからない。


 壊れている世界で固定された何者かになることは、正しいのだろうか。


  • まとめ 何者かになれると他のものになれない

 僕は輪るピングドラムでの「きっと何者にもなれない」というのはストーリーの中のそのままのセリフだと思っているけど、なんかこう、社会的な惹句として流行してインターネットとか若者心理学とかで使われることが増えたりした。


 何者かになりたいか?


 俺はアニメが好きなおっさんで、脳内妹のお兄ちゃんでしかないが。戦争や災害はたしかに怖いし病気がちだが、生きている間に自分の命を使ってヘラヘラアニメを楽しんでいくだけで、別に何者かはわからない。ブログを評価してもらって読者の人にお金とか食料をもらったのはとても嬉しいけど、それも僕が何者かになったわけではなく、読者の人が「物をくれる人」になっただけで、僕は僕ですし。それにブログでもらった食料で生きてる人を定義する言葉はあんまりない。奢らレイヤーとかプロニートとか風流人とかいう人もいるけど。
 でも、物をもらうのは副次的なもので目的ではない気がする。いや、もらえるものは病気と呪いと毒物と爆発物と暴力以外はもらいたいが。
 たぶん、仕事をしていても僕は仕事ではなくオタクである自分の快楽を優先して、仕事は生存を延長する金を得るツールとして割り切って、仕事をアイデンティティにするタイプの人間ではないような気がする。



 輪るピングドラムでモチーフとして使ってあると言われる宮沢賢治の銀河鉄道の夜ではジョバンニは万能の「どこへでも行ける切符」を持っている。
銀河鉄道の夜

 鳥捕りが言うには、

「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」

 とのこと。


 輪るピングドラムのTVシリーズのラストでの二人の少年もどこまででも行ける何者でもない可能性の存在になったと思う。


 それが記憶の本という可能性をどんどん離して行って、深く潜って高倉兄弟にカエル―というのは可能性を捨てることなのか、それとも本来の自分を取り戻すことなのか。万能の可能性の旅を捨てて、高倉兄弟という呪いに戻らないといけないのか?
 後半のラストを見ないとわからないなあ。


 僕はTVシリーズが好きですし、幾原邦彦監督やキャストや関係者の人も映画を機にTVシリーズを見返してほしいということも言っているので、TVシリーズを否定するものにはならないとは思うけど、車にしたという前科があるから否定でも肯定でもないよくわからないものになる可能性はある。
 

 ただ、銀河鉄道の夜も現実に帰れ、そして勉強をしろという漂流教室のような啓蒙思想っぽいのがラストにある。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決っしておまえはなくしてはいけない」

 どこへでも行ける切符を持ちながら、現実に帰るというラストは、まあ文学的に難しいので僕はなんとも言えんけど。時代も違うし。文明開化富国強兵〜。


 まあ、何がいいたかったのかって言うと、劇場版輪るピングドラムRE:cycle of the PENGUINDRUM前編「君の列車は生存戦略」に出てきためちゃくちゃデカい本棚が思いもよらない動きをするのが面白かったし、映画ではデカいものが派手に動くと面白いね、ってそれだけ。
 そらの孔分室が巨大なエレベーターになっているのは面白いなあって思ったけど、Twitterとかはてなの観測範囲ではそういう感想がなかったので書いた。まあ、他の人にとってはそんなことは見れば分かることなので、別に書き起こすほどのことでもないのかもしれんけど。


 メチャクチャ高解像度風景も映画らしい量感だなあって。爆音で歌がかかるのもすごくいい。
 エンドロールのピクトグラムもTVシリーズのあらすじらしいけど、パイオニア探査機やボイジャーのゴールデンレコードみたいな人間の世界からのメッセージという感じで宇宙っぽくていいと思う。



  • ほしい物リスト。

https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/6FXSDSAVKI1Z
↑グダちん用


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