玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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輪るピングドラムBD8巻最終巻 妹良ければ全て愛してる あるいはアニメの立体性について

これを輪るピングドラムに対する、最後のキチンとしたブログにする予定。


やっぱり、輪るピングドラムは最終的には妥協したと思うんだよね。テレビで放送するために。渡瀬眞悧の世界に対する絶望とか「何者にもなれない」「選ばれる、選ばれない」「分けあう」「運命」とか、割と重いテーマがあるんだけども、そこら辺を論理的にスルーして、俳優の演技と、美術と音楽の力で強引にまとめたなーって気がする。そんな最終回。

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だが、むしろ論理的に回答が出なくてもいいのかもしれない。
やっぱり、最終回はいろいろと流れがおかしい。

  • 眞悧が運命の列車で高倉兄弟という世界が壊れる所を桃果に見せようとする
  • 運命の列車に荻野目苹果が乗り込む
  • 陽毬が「生存戦略ーっ!」って叫んで、プリンセスオブザクリスタルの衣装に変身するけど、いつの間にか帽子がどっかに行ってる
  • 陽毬が冠葉に歩み寄る時、いつの間にか晶馬の衣装も変わっている(荻野目さんの事を無視している)
  • ピングドラムとやらを晶馬が陽毬を介して冠葉に返す
  • 冠葉の血が変身して運命の果実がたわわに実る
  • また戻って陽毬がネグリジェに戻って、死んでる(おかしい!)
  • 晶馬と冠葉が檻の中で出会った回想シーンに飛ぶ(おかしい!)
  • 檻の中の少年の回想シーンの「運命の果実を一緒に食べよう」を苹果が唱える(おかしいって言うか、苹果はそれまで何をしていたのか)
  • で、乗り換え
  • 多蕗夫妻は乗り換えたのか、残されたのか?

とか、色々とおかしくて繋がってない所がある。場面転換が強引過ぎる。因果関係のつじつまが合っていない。帽子になった桃果が苹果を無視するのもおかしい。(まあ、桃果は外法の外道少女なんだけど)


でも、「高倉」「夏芽」の兄妹弟と、桃果の妹ので晶馬の嫁で陽毬の友達の苹果は互いを激しく重いあっていたんだなーって言う事は伝わる。
最後の生存戦略シーンは全然因果関係が繋がってないんだけど、冠葉が「俺は陽毬にすごく何かを与えたいけど与えられてないし、人殺しとかしちゃったし、心が苦しいぜー!」っていう気分とか、陽毬が「いろいろと痛いけど冠葉を助けたい!」って気持ちとか、晶馬と陽毬の「冠葉との生活はウザい部分もあったけどおおむね許す」っていう気分とか、男たちが女たちを愛している気分は伝わってきた。


んで、割と考察ブログとか、自分で書いたし、読んだし、オトナアニメディアとか生存戦略の全て公式ガイドブックとかオーディオコメンタリーとか、BDのブックレットの解説とか読んだんだけどね。どうも、そこで「95年のオウム事件が〜」「90年代の亡霊〜」とか「選ばれる事とは〜」とか「自称選ばれた眞悧は何者にもなれないものたちの世界を否定するけど、主人公たちは何者にもなれない事を肯定して〜〜」とか、色々書いてある事がどうにもモヤモヤして気持ち悪い。しかも、その論考って、アニメの本筋の一部分だけを強調して無理矢理文章に落とし込んでるみたいで、かなり反証が沸きだしてきて読んでてモヤっとする。

『輪るピングドラム』公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて (一般書籍)

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なんか「この作品はこういう事を言いたいんだぜー」「こういう思想なんだぜー」「俺は読み説いたぜー」ってみんなが言ってるのが、なんか独りよがりなオタクっぽくて気持ち悪い。いや、俺もオタクなんですけどねwwwコポォwww
あるいは「眞悧やオウムは悪いけど、僕たちや主人公は悪くない」っていう大衆たちの自己正当化の悪あがきに見えて、それは嫌いだ。


幾原監督の言ってる事も割と分かる部分もあるし、逆に「こいつ、カッコつけてるけど多分その場で思いついた事を言ってるだけだな」とか「思想っぽくした方がカッコいいからカッコつけてるだけだな」とか「なんとなく思いついたネタを入れたかったんだな」っていう部分もある。思想とか論理というよりも芸術的な勘を優先させたっぽい所もあるし。
もちろん、テロリストや、それを内包する世界を描こうという意欲も感じたんだけど、そこには主眼を置かなかったっぽい。それは作品としてのまとまりを付けるためでもあるだろうし、テレビで放送するために穏当にした部分もあるだろうし、女性受けや一般向けを狙ってワザと甘口にしたっていう部分もあるだろう。
ぶっちゃけ、辛辣な文明批判とか、生存戦略をする生物としての人間へのニヒリズムとかテロリズムとか世界への憎しみについては小説のシェルブリットの方がまだ論理的に一貫している。オススメ。小説の方が説明がキチンとしてる。


だから、なんで輪るピングドラムがこういうアニメになったのかって考えると、感覚的な部分を大事にした方がいいのかなーって思うわけよ。
「思想史的な位置づけ」とか「90年代の総括」とか「論理的にテーマを伝える啓蒙薫陶物語」として見ると、ピンドラはぐちゃぐちゃです。時系列も色々とこんがらがってるし、運命の列車に乗っている他の一般大衆の乗客が全然高倉兄弟や眞悧に気付いていないし、企鵝の会は最後に自然消滅しちゃってるし、全然社会とか人間が描けてないし、描く事も放棄してます。ザンボット3の方がまだ人間を描いています。


つまり、線形的には論理や作中のドラマ進行が一本線に繋がってないんだけど、感覚的、包括的にとらまえた時「愛してる」って感覚を漠然と抱くというような雰囲気はすごいあるよね・・・。


ほら、数式を書く前に概念を感じるアインシュタインの例を挙げるまでもなく、僕らは掃除をしながら電話で話す時など、複数の思考や概念や感情や位置情報を同時並行的に脳で統合しているでしょう。
あるいは、会話する時は一つの言葉しか出せないけど、それに関する思考は同時に感情や過去や空気や論理を並行して脳内では処理してるよね。
つまり、輪るピングドラムは小説やアニメだし、確かに文章や絵コンテやフィルムというレールの上に描かれた線形芸術だから、出力系は1次(時間を含めると2次元)なんだけど、受け取った視聴者の側の脳の内部でいろんなシーンやいろんな演出やいろんな時間軸や世界線を、全体的に処理して振り返ってみると、立体的に「愛している」って言う感覚とか「ああ、面白かったね」っていう気分とか「ドキドキしたね」っていう気持ちになるんだと思うわけよ。
(追記)
あるいは、幾原監督とかの作り手には同時並列的に「愛してる」を表現するための、いろんなメッセージやシークエンスがあって、それをとにかく無理矢理にでも作品に全部乗せたためにこうなったのでは。


つまりどういう事かというと、こういう事です。
アニメは譜面というレールに乗った音楽と同じような時間芸術だけど、輪るピングドラムはそこを枝分かれさせたり並行させ、複数のレールを乗り換えたり乗り継いだりして行くことで、むしろ線形芸術というよりは絵画や彫刻に近いような立体的芸術とか、時間を超越した空間性で感情を伝える系統の芸能だったのではないかな。


言ってる意味分かる?
ほら、昔の熊野観心十界曼荼羅とかブリューゲルの十字架を担うキリストなどの宗教画は、一枚の絵の中に「複数の視点」「複数の時間軸」「複数の世界の次元」を描いているわけでしょう?
さらに、絵に描かれた約束事──シンボル(象徴・記号)、アレゴリー(寓意)、アトリビュート(持物や目印)などで一枚の絵の中に画像言語で意味性を圧縮するという演出を行ったりもしている。

すぐわかる西洋絵画よみとき66のキーワード

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で、最近の写真とか映画とかアニメや小説ってのは、大抵は一本線のドラマを追う感じの線形芸術なんですよね。遠近法の再発見が影響してるのかもしれないけど。(遠近法で時間経過を表すような宗教画もあります)
そう考えると、ピングドラムは一本筋のドラマを追うべきメディアであるアニメでありながら、複数の視点の混在による立体的芸術というか感情伝達技法になろうとしたのではないかな、と思う。


例えば、僕のこのブログだって、文章としては一本線に文字を載せて行く媒体だけど、色々な話題に脱線したり、伏線したり、枝葉を伸ばすような所を自分でも自覚している。むしろ一本線だけで論理展開をするのが下手。だから、枝葉を伸ばした全体の樹としてのメッセージを伝えたいなーって思ってる。うん。よくわからんだろう。俺もよく分かってないんだ。


で、それで何を僕が一番受け取ったのかというと、やはり社会に不満を持っている低所得者の割に世界中で殺されている子どもたちの命のレートについて悩んでいるボクとしては眞悧に共感する部分もあるし、「話が下手でつまらないから」っていう理由で晶馬に永遠に捨てられるホモの山下にも共感するんだけど、やっぱり全体的に包括してみると、
「冠葉と晶馬って言うお兄ちゃんが」「真砂子と陽毬と苹果」っていう「妹」たちのために「命がけで頑張る」っていう話だったかなー。って思う。ほら、俺、シスコンだし。
やっぱね、世界が間違ってるとか、世界を革命するとかどうとか言っても最終的にはお兄ちゃんは妹のために自分を捨てるのがカッコいいって思うし、そういう自分が楽しいから、死んでも嬉しいし、むしろご褒美です。
逆襲のシャアの小説版のラストのアルテイシアとかね。


だから、やっぱり僕は5話で晶馬と冠葉がリレーして陽毬のために帽子を追いかける所が好きです。
テロの事はそんなに重視してないです。
まあ、僕も世界は嫌いだけど、テロリストとしての格は小娘に失敗させられた眞悧よりも、ガンダムのシャア総帥とかカロッゾ・ロナとかドゥガチ皇帝やフリット・アスノの方が上だからなあ。(フリットは"人類"を粛清しているという意識が全く無いのが良いよね)


でも、幽霊の眞悧は陽毬にマフラーを送ってダブルHとの絆を深めたりもしたし、桃果に何度も振られてるのに何度もキスをしようと思っていたり、全てを憎んでいるとか、自分を卑下しているというわけでもなさそうなんだよなー。

輪るピングドラム 下

輪るピングドラム 下

むしろ、高倉兄弟の命を揺さぶることで、「この世界に運命があるのか、それを確かめたい」という実験的学究精神を感じる。高倉兄弟がどういう選択をするのか観察するのが目的で、実際に世界を滅ぼすかどうかって言う事は幽霊になった後にはあんまり興味がなかったようにも見える。そういう風に高倉の少年少女達がどう動くかっていう不確実性に期待するって事は、やっぱり最後の最後で人の愛を信じたいという希望めいたものを持ってる人なんじゃないかな。
作中の人物が「この世界に運命があるのか確かめたい」って言うのは、割とメタフィクションな所もあるし、眞悧には監督の口癖とか仕草が投影されているよね。だから、眞悧は世界は嫌いだけど、世界とはちょっと距離を置いた所から世界の中の若者たちがどういう生き様をするのか、その反応を引き出して行こう、って言うアニメ監督に似た人物だったような気もするんだよなー。


桃果が考えてた事はグレートマザー兼処女聖母らし過ぎて、俺にはちょっと分かんないっす。妹に対しても無反応だし。しかも、自分と同じ能力を持つ眞悧に対しては、徹底的につれない悪女。




そんな感じで、感想は終わりにするけど、世界から消えてしまっても、お兄ちゃんたちは妹のために何かをしたって言う充実感から、世界を見守る座敷わらし的な存在になって、僕らには見えないけど、今日も東京の空の下とか、街角でペンギンたちと存在しているのかもしれませんね。
そういう妖精もメルヘンチックで、良いじゃん。
宮澤賢治もそういうものに私はなりたい。って言ってたし。
何者でもないんだけど、何者にもなれなかった事を恨みにするんじゃなくて、むしろ何者でもないからこそみんなを見守る存在、みたいな。そういう暖かい何か。
いいよね・・・。
うん。感動。

永訣の朝―宮沢賢治詩集 (美しい日本の詩歌 11)

永訣の朝―宮沢賢治詩集 (美しい日本の詩歌 11)

まあ、そんなのはメルヘンの中の理想論で、賢治の妹はキリスト教への信仰も空しく死んでしまうし、賢治も死ぬんだけどね。
まあ、一時的に現実の中で気を紛らわすメルヘンってのは必要かもね。
俺は、まあ、ピングドラム、好きだよ。やっぱり妹のために頑張るのは男のロマンだし。


妹が良ければテロ組織がどうなろうが、自分や他人が死のうが、友達からの好意に気付けなくても、ハッピーエンドです。


でも、もし劇場版があるとしたら、企鵝の会の超ハードな諜報戦と世界との対決を描いたハードボイルド活劇もみたいですね。
でも、それは幾原さんの趣味というよりは、僕の趣味なので、超能力者の脳内妹が世界中の大富豪やマフィアカルテルや軍隊や神仏を蹂躙する小説を書くべきだから、やっぱり仕事や介護を手早く済ませるべき。