玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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機動戦士クロスボーン・ガンダムX‐11 第2巻 完結 感想

 どうも世間ではテレビでガンダムの暖簾貸しをしてもらったアニメが始まったことが話題になっているようだが、オールドスクールなオタクとしてはクロスボーン・ガンダムの方が重要。(地方民なので発売日に買えなかったけど、なんか考えていたら三日くらい経った)


nuryouguda.hatenablog.com

↑1巻の感想

  • スピンオフっぽさ

 無印クロスボーン・ガンダム全6巻が1,2クールのテレビアニメを想定していて、鋼鉄の7人全3巻が七人の侍オマージュの映画っぽい。
 なので2冊で終わるクロスボーン・ガンダムX-11はクロスボーン・ガンダムDUST全13巻のスピンオフテレビスペシャルくらいの映画未満の感じだと思うけど。
 割とこう、それはそれでテンポコントロールが巧くいっている感じはした。1巻の感想でも書いたけど、やはりカーティス・ロスコは女王陛下のスパイという007っぽさがあるし、007は二度死ぬっぽさがある。(僕は欲を言えばジン・ジャハナムは2度死ぬを見たかったのだけど)
 X-11の1巻で過去と現在を複雑に回想するような、スパイと暗殺者の男女二人の密室劇だったけど、木星の海に沈みかけていた宇宙船で、二人の男女が脱出に成功した後にサクッと敵のボスの本拠地に到着して決戦になるっていう流れは、かなり映画的に段取りを端折っていてルパン三世テレビスペシャルくらいのスピード感があった。
機動戦士クロスボーン・ガンダムX-11(2) (角川コミックス・エース)

  • 敵の格の低さ

 クロスボーン・ガンダムシリーズは悪い独裁者を3、4回くらいやっつけていたけど、今回の敵の「豚の王」は独裁者というほどでもない感じだった。優秀なスパイである主人公のカーティス・ロスコは豚の正体を10年以上前からわかっていたけど、豚はカーティス・ロスコの正体を分かっていなかった。
 また、悪い独裁者ではない権力欲の豚、というところでまた木星の政治や経済と連動した戦争の難しさを表現していた。
 今回の敵については後述するが、敵のボスの格が低いことで、これまでのクロスボーン・ガンダムシリーズよりも軽いスピンオフとしての立ち位置を明確にしている。


  • エヴァンゲリオンのアンサーとしてのクロスボーン・ガンダム

 もちろん、キャッチコピー合戦として、「頼まれなくても、生きてやる!」のブレンパワードが新世紀エヴァンゲリオンのアンサーだったことは事実だと思うんですけど。
 同じ少年エース創刊号組の新世紀エヴァンゲリオンと機動戦士クロスボーン・ガンダムも互いを意識しあっていたと思います。あと機動新世紀ガンダムX(これはむしろアニメ新世紀宣言から来てるんですけど)。


 ちょっと、この命題についてはいつか書きたいと思っていたけど、ヱヴァンゲリヲン:新劇場版もクロスボーン・ガンダムも終わってしまったので書くけど。


 やっぱり、同じ少年エース創刊号組として「吠えるロボット」のクロスボーン・ガンダムとエヴァンゲリオンは意識しあっていたと思う。(マクロス7トラッシュは読んでないけど…)


 まーそのー。単純化してしまえばロボットに乗っている少年が、囚われのお姫様とか強化人間とかクローンとかリリスの使徒とか式波シリーズにされている少女を救うー、みたいな話だと思う。


 で、まあ、エヴァンゲリオン新劇場版はマルチバース的なパラレルワールド的な?なんか奇跡を起こせる槍みたいな?ソレでアレしたわけですけど。
 ガンダムシリーズももちろん初代ガンダムの劇場版と小説版の時点でパラレルワールド要素を持っていたんですが、クロスボーン・ガンダムはクロスボーン・ガンダムシリーズのルートを進んでいるし今のところ長谷川雄一先生以外の人は描いていないのでパラレルワールドではない。なんか神様みたいな使徒とか宇宙生命体とかはないし、クロスボーン・ガンダムはむしろ宗教的なものを初代シリーズから拒絶している。


 クロスボーン・ガンダムシリーズに対しては批評界隈から古臭い、少年が少女を救う話ーみたいな批判があったりしたけど。
 DUSTでは少女によって少年の心が救われたし、X-11では女の心を少女の心が二重参照的に救った、みたいなテーマの彫り下げがあった。


 旧新世紀エヴァンゲリオンの惣流・アスカ・ラングレーも機動戦士クロスボーン・ガンダムDUSTのアッシュもX‐11のイオも心の裏に無力な子どもの心を抱えていたけど。
 旧劇場版のアスカは異性として補完後の碇シンジと上手くいかなかったし、新劇場版のアスカは大人の傭兵になることで無力な子どもの心の問題をスルーした感じで、オタクとしての僕は消化不良感があった。
 

 DUSTでは無力な少年の心が別の少女からの干渉で解放されたっぽい?


 X-11では大人の男に「自分を大事にして生き延びろ」って言われていったんは戦場から外された強化人間の女が、自分の中の子どもの心と二重参照状態にして強くなるという感じで、そういうロボット物としてはあまり表に出ないメンタル的なテーマも、前作よりも掘り下げていた印象があった。


 それがシン・エヴァンゲリオンよりも人物描写として明確に深堀りしている、かどうか、という所はまだ僕個人としては判定できないのだけど。
 ただ、「使徒だったから」とか「人類補完計画のシナリオだったから」というエヴァンゲリオンに比べると、クロスボーン・ガンダムの方が「神様なんて関係ない!俺が戦って勝ち取る!」という人間としての力強さがあった気がする。まあ、海賊と中学二年生はまた違うんですけど。
 

 今回のX-11ではモビルスーツとシンクロしている強化人間がモビルスーツの腕が傷ついたら痛みを感じるっていうのは、明らかにエヴァンゲリオンとの連想を隠さなくなったなって感じだ。最後だしな。


 ただ、逆襲のシャアまでに富野由悠季の描いた強化人間の女の悲劇では、強化手術によって消し去られた本来の記憶は取り戻せない、という悲劇だったが。長谷川裕一先生の場合はもうちょっと人間のパワーを信じている感じなので、強化人間と別になった元の人格が、強化人間の人格を後押しする、というちょっと違うアプローチになっている。これ以上はネタバレになる。


  • わがままなやさしさ

 前巻の感想で書いたけど。

nuryouguda.hatenablog.com


人間性を蹂躙された強化人間に対して人間らしさを取り戻すようにカーティスが要求するのだが、保護者のポジションのおっさんが、何も考えないで暗殺者をやっていた女に「自分の頭で考えろ」と言うのも割と人間観の押し付けでは?みたいな感じの場面もある。


政治家の言うことに従っているからとか、国家や国際同盟の方針で決まったからって言って、それで軍事行動に正当性をもたせると、兵士は精神的に楽といえば楽。宗教戦争とか。(小説版機動戦士ガンダムの密会とかでは、そういう殺人の正当化を動物以下の狂気と明言している)
 ガンダムシリーズの倫理観ではそういう思考停止は悪なんだけど、でも楽じゃん。現実のガンダムファンもガンダムカフェ閉店セレモニーで「ジーク・ジオン!」って叫んで全体主義的な連帯感に酔ってるわけじゃん。


 というわけで、今作のヒロインの強化人間がいきなり自分の頭で考えろって言われるのはすごくしんどそう。


 でも、トビア・アロナクスも彼の50数年の人生の大半を「そういう独裁者の命令に反する海賊行為」に費やしているので。海賊はアウトローなので自分の頭で考えて戦って生き抜いているし、そのためには身分すら偽る。なにかに保証されているとか正しいかどうかではなく自分がそうしたいと思ったことをやっている。むしろ、カーティス・ロスコも自分が続けてしまった生き方に固執しているのでは?


 で、強いものが弱いものに言うことを聞かせる主義と戦ってきたキンケドゥやトビア・アロナクスだけど。機動戦士クロスボーン・ガンダムゴースト編の主人公のフォント・ボーも「弱肉強食の強者の論理」と戦ってきたし、DUST編のアッシュ・キングもそんな戦士だった。
 グラップラー刃牙シリーズの「強さの最小単位は我儘(意志)を通す力」という考えで国と対峙する格闘家バトルマンガの価値観もあるが。独裁者の個人的なトラウマとかわがままで国が動かされて戦争で人がたくさん死ぬのはアカンやろって言ってるのが初代の機動戦士クロスボーン・ガンダム。あとシャアもだいたいそんな感じ。


 そういうわけでガンダムは残虐バトルファイトだしガンダムは最強なのでわがままな独裁者に勝つんだけど。


 でも、ガンダムパイロットは最強だし勝利者なんだけど、そういうふうに生きてきた男が「命令に従うのではなく自分のしたいことをしたいように生きるのが人間の生き方だ」と他の女に押し付けるのも、少年らしい真っ直ぐな正義感のまま進んだワガママな態度では?


 みたいな感覚を感じて第一巻が終わった。これは長谷川裕一先生が明言したことではなく、僕が感じた感想ですが。
 俺が好きでやってることだって言ってるヒーローのドラマ、男の子のロマンスに巻き込まれる女はしんどいのでは?みたいなVガンダムを大人になってから見返すときの気まずさみたいな反省感もある。


 と、書いていたのだけど、多分ネームや構想の段階では決まっていたと思うので、僕のブログが変に長谷川先生に影響したということはないと思うのだが。
 ただ、海賊が「自分の頭で考えろ」って言うことも洗脳者が「従え」というのとほとんど同じなんじゃねーの?という疑問が作中で描かれていて、そこは本当にきちんとわかってらっしゃる作家だなあと感心した次第。


 ただ、これについて3日くらい考えてみたけど、強化人間の女に対して、「自分に従え」という豚と、「自分を大事にしろ」というカーティスはどちらもエゴなんだけど、違うよなあと思い返した。
 豚は強化人間の女を「自分に従って、自分の利益のために死ね」と道具にしているけど、カーティスは「自分自身を大事にして生き延びて、いつか人間性を取り戻せ」と言っているので、どちらもわがままを女に押し付けているけど、両極端ですね。


 また、豚は責任を取らず、部下を道具にして死なせることに罪悪感も持たないけど、カーティスは自分が女に「自分を大事にしろ」というエゴを押し付けることで、エゴだと自覚したうえで、その女が戦場から離脱して自分が孤軍奮闘して苦戦することになっても、その責任を最後まで背負うので、やっぱりヒーローは同じエゴイストでも悪役とは違うんだなーって。
 悪い奴は責任を取らないために部下を道具にするけど、ヒーローは自分のエゴのために自分が苦境に立たされても、最後まで責任を果たそうとする。かっこいい!
 まあ、強化人間の女は単なる助けられるだけのゲストヒロインにとどまらず、自分の意志で戦場に戻ることを決意して、カーティスを助けるのだが。
 それはそれで戦闘美少女の精神として自覚的に掘り下げている描写だと思う。


※追記
 クロスボーン・ガンダムシリーズのラストでは敵のボスの顔を見た上で殺害する、ということに割と重点が置かれていた。今回は男のカーティスではなく強化人間の女が自分の足で敵を殺害する。一貫しているテーマだし、暴力の行使が主人公の少年から女に移ったとも見える。


  • AIとガンダム

 DUSTの一個前のシリーズである機動戦士クロスボーン・ガンダムゴーストから、操縦補助の猫耳美少女(っぽい二次元キャラの)AIのハロロが出てましたけど。
 ハロロは所詮プログラムなので、割と便利アイテムや画面のにぎやかしとして描かれていたので、それほど作品のメッセージやテーマに影響はしていなかったのだけど。
 昨今のロシアによるウクライナの軍事侵攻などが連載期間に被ったからなのか、結果的に戦争でのAIの使い方の描写が深まったように読めた。
 カーティスやフォントはAIを戦闘中の情報収集の道具として使って、戦闘行為の意思決定は自分で行っていた。
 対して、敵の「豚」の側もAIを使っていたが「兵士に対して耳障りの良いナショナリズム的な高揚感を与える、指導者からのメッセージに聞こえる合成音声を聞かせて、兵士個人の意思決定を豚の奴隷にさせる」という逆の使い方をしていた。


 これは割とガンダムとしてもクリティカルな批評的な感じで「ジークジオン!」みたいに全体主義的に酔っているのがガンダムファンだったりすることへの忠告のようでもある。
 「ジークジオン!」みたいに言わせるのがかつてのジオン公国のザビ家はナチスドイツのような広報戦略だったが、現在では(そしてミノフスキー粒子下の無線が届きにくい宇宙戦国時代の戦場では)、「兵士が自分の意志や判断を放棄して”命令だから仕方ない”と自分に言い訳しやすくさせる、AIによる耳障りのいい合成音声の演説」という風に翻案して、現代風にアレンジしている。
 数十年前のナチスドイツやギレン・ザビは全体主義に基づき、国民を束ねる言葉を言う能力がある指導者だったが、AIで「理屈はどうでもいいから言い訳にできる言葉を個々の兵士に与える」事が可能になった現代の情報戦では、指導者の思想の強固さは必要とされず、指導者が小物の利己主義者で指示も雑でも、AIの耳障りのいい言葉があれば兵士は戦争をする。
 そういう科学技術が部分的にSFに追いついている現代におけるSFロボットマンガとしての情報戦のアップデートがクロスボーン・ガンダムシリーズという30年近く続いているマンガでなされているのは、作者の手腕がすごいな、と感じる。DUSTの首切り王の「虐殺を賛美せよ」という「感染する毒の言葉」は伊藤計劃の「虐殺器官」をガンダムに入れたという感じだったが。


 それがまた、現在も続いているロシアの戦争についても「兵士たちは特に特別に邪悪ではないが、自分の国のためとか家族のためなどという聞きたい言葉や強い国のイメージに囚われて戦争に駆り立てられているのでは」という批評性を持っている。もちろん、単なる2022年時点の現実への時事評論だけではなく、機動戦士ガンダムの中での木星タカ派の政治思想が結局は独裁者の暴走だけではなく、木星人なりの地理的な社会風土がそういう思想になりやすいと描いている。それは宇宙戦国時代における戦争と経済の描写として納得のいくものだった。



 同時に、やっぱり「自分に言い訳をするために強者の言葉にすがらず、自分で考えて戦え」というポリシーはクロスボーン・ガンダムシリーズとして一貫しているので、単に現代風にアレンジしただけでもなく、ちゃんと作品のテーマを強化するのに使っている。


 やっぱりそういうところはうまいですよね。長谷川裕一先生は。


  • ロボットマンガとして

 そういう感じで割と戦争と経済と思想について考えさせられるテーマ性があったけど、それはそれとしてクロスボーン・ガンダムシリーズらしく、「クッソ強い敵ボスマシーンを欠陥品のマシーンで、どうやって攻略するか」というバトル要素もちゃんとあって、うんうん、これがクロスボーン・ガンダムだよね。ってなる。
 そこで命がけの乾坤一擲をしたり、アッと驚く切り札の兵器が出てくるのもクロスボーン・ガンダムらしいんだよなあ。


 それはとてもきれいな構成なんだけど。007シリーズのような”大人の”スパイアクションだと思っていたけど。
 やっぱり元々は少年エースに掲載されていた少年ロボットマンガなんだよなあ。
 だから、男が年齢を重ねても、「冒険」はいつだって、少年のころと変わらず、好きな女の子に振り回されるものなんだよ。と、最後の最後に原点回帰していく。
 こういうちょっと抜けていてシリアスになりすぎないのもやっぱりクロスボーン・ガンダムとか長谷川裕一萬画らしいよな。オッサンになっても同じ感じでガンダムの漫画を読んでいる俺としてもな…。
 という感じで納得してこの長いシリーズは終わった。



  • ほしい物リスト。

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↑グダちん用


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