第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」
脚本・星山博之 絵コンテ・斧谷稔 演出・藤原良二 作画監督・中村一夫
第43話「脱出」
脚本・星山博之 絵コンテ・斧谷稔 演出・関田修 作画監督・山崎和男
もう、正直、見たのが3週間も前で、ララァの死の顛末の解釈ばかり考えていたので、最終回に向けて特別に書きたい事があまりない。
ただ、キシリアがギレンを射殺したのも、セイラがシャアを殺そうとしたように、父に従い兄を独占しようとする妹らしさも少しあるのかなー。とか、シスコン的には考えたりした。
キシリアは戦後を考えてもいたんだろうけど。
人間の感情の暴走と、その生きる力がすごいなあ。
密会を読み直して、多少気になったことを。
たぶん、シャアはララァを失ってから初めて人間らしくなったんだろう。
まあ、そこからがクワトロ・バジーナやネオジオンにつながる転落の始まりかもしれんのだが。最初のシャアは本当に、血も涙もない亡国の王子だったもんなー。
そして、人間になったシャアはララァが仇討ちを望まないと分かっていても感情のままにガンダムと戦ってアムロを殺そうとする。
ニュータイプのありようを示したから殺すとか言うのはシャアの賢しさからの言い訳に過ぎないんじゃないだろうか。
その賢さは感情、止められない肉体を覆うもの。
「密会」によると、アムロはララァの記憶を取り込んでララァのその意識を力にし、シャア・アズナブルはララァを抱いたその「体感」をバリアーにしてジオングを駆り立てたらしい。
ララァというのは、ちはやぶる女神のような、シャーマンのような、そして、アムロとシャアの二人の男に違うものを与えて去った残酷で美しい女!
そんな女に出会った男の感情は突っ走るしかないのか。
キシリアを殺したのも、論理的には一貫してなくて感情的な部分が大きい感じだからなあ。
「やはりザビ家はゆるせんと分かった」の「やはり」の部分がかなり謎だし。
ガルマへの手向けなのか、初志貫徹なのか。
シャアは独り言や嘘が多いからよく分からん。
独り言で自分に向けて嘘を言ったりもするからなあ。
「ララァ、私を導いてくれ」って言いながらララァが導いてくれないことを知っているし。
シャアの屈折はよく分からんが面白い。
ただ、「お前ももう大人だろう。いい女になるのだな」の一言でセイラと縁を切ったシャアは、姫と王子の兄妹が互いを理想化した自己愛からは卒業したのかもしれない。
シャアはここで普通の人間になったのだろうか。
それでもシャア・アズナブルとしての実績、キャスバル・レム・ダイクンとしての血、それからニュータイプのララァを知って影響されてしまった男として、シャアの今後の人生はまだまだ普通の人生をやり切れないで、進んでいってしまうんだよなー。
セイラさんはシャアが普通の男になって、突き放されて、それからは独り身で生きていくが、それも生き方か。
だが、シャアもなんだかんだ言って最後までララァを引きずりながらいろんな女をふらふらするわけだし。王子をやめた割に中途半端に担ぎ上げられたりかっこつけたりするし。
やはり、人は変わる部分と変わらない部分があるとかいドラマだし、富野由悠季監督自身なのかな。
本放送と、映画と、密会と、今の僕にも隔たりがある・・・。
いろいろな違いがあるし、割り切れないところもある。
シャアについて書いたけど、アムロもいろいろと今後ふらふらするよなあ。
ベルトーチカチルドレンでもララァの夢は見たんだっけ?
ララァの夢はシャアは見ないんだよな。
ララァとアムロは精神的な愛だったけど、ベルトーチカとパートナーになるように現実での健やかさを身につけられて力っていうのは、ブレンパワード以降にもつながるよなあ。イデオンとも関係してるし。
白富野と黒トミノはやはり、分割しにくい。
今回のアムロ・レイに関しては、本当にラストの「超能力を自分の友達と自分を少し助けるためだけに使う」とか「みんなの手の中に戻る寸前に終劇」とか、非常に美しいと思う。「みんなの手の中に戻る寸前」という中途半端な感じもガンダムの割り切れないような、ちょうど良さだ。
現実認知の繰り返しはファーストガンダムからと - 玖足手帖-アニメ&創作-
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20071204/1196784396
そして、ガンダムが手足も頭も失っても、死を覚悟したアムロを迎えてくれて
「まだ、助かる!」との救いの神であったのが本当に素晴らしい。
ガンダムはマジで神様。