玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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マジ恋、境ホラ、ピンドラ最終回に見る愛の不明瞭さ

真剣で私に恋しなさい!!の最終回で主人公の父が主人公に

愛する人が集まって家族。家族が集まって国。
だから民は国を愛さなくてはいかん

と、言っていた。が、このアニメでは「不法入国者」という「国外」の敵が設定されていた。
また、「不法入国者」に国を売る「独裁者アドルフ・ヒットラー」のような私利私欲を持った「総理大臣」という敵も設定されていた。
僕は「アドルフ・ヒトラーは悪い奴だから、ヒトラーに似た奴も全員悪い奴だ」というケガレ思想はあまり好きではない。
それに対して主人公や麻生太郎に似た良い者が戦った。「好きなものを好きというのが自然だ!愛するものを守る!」と。
つまり、良い者は愛し合っているが、その愛は国の中や家族の中に閉じているのであり、日本に入国しようとする不法入国者と言う弱く蒙昧な輩には実りの愛を分け与えないのである。愛するものは守るが、愛されない者や愛の外のものは排斥するのが愛なのである。
そして、真剣恋の主人公のヤマトは最後に美少女ヒロインたちの愛の告白を受けて、「俺は誰も選べない」と、逃げて終わったのである。ギャグで茶化したような終わり方で、ハーレム騒動マンガのオチやエロゲー原作アニメのオチとして、愛の告白を受けて選択をせずに誰も選ばないというのは、定番である。
が、この愛の対象が個人的な愛だけでなく、家族や国家の境界線の引き方に結び付くのならば、「誰も選ばないが、愛される」という状態は「愛」の友愛の部分だけを見て「愛していない物を排斥する」という愛のもう一つの側面から目を逸らした結末と言えよう。
エンターテインメントで愛の残酷な面は提示しにくいのである。視聴者は、非実在青少年の明るく愛し合う所だけを見たいのである。
だけど、そのような明るい所しか見ようとしない人間は、本当は自分しか愛していないのである。

また、主人公たち良い者が愛し合うのは、彼らが美男美女の非実在青少年で同じ学校に通っているという偶然以上の理由はないのである。愛していない人を愛していないのは、単に他人を良く知らないだけなんじゃないだろうか。本当に世界中の人の事を全て知って、世界中の人を平等に扱うと、結局は誰も愛さないのではないだろうか。


だが、僕は「同じ家、同じ国に生まれたから、同じ家族や国民を愛さなくてはいけない」「外の家族や別の国を愛してはいけない」という人は好きではない。

僕はコスモポリタニストで個人主義者でアナーキストで刹那主義者で厭世論者だからである。
僕は誇りを持って「僕は僕以外の人を愛さないし、他の人は平等に愛さない」と言いたい。
でも、地震が起きた時は帰宅難民者に持っているカイロを配ったりした。でも、避難所でただ飯を食ってたけど、実は自分も分の保存食は隠し持っていた。僕はエゴイストだよ。

だから、この作品の「真剣で私に恋しなさい!」というタイトルは「現状では真剣ではない」「現状では恋をしていない」ということに対する不満の発露であり続けるし、また、「真剣で恋をすると他人を殺すことになるので、そこを巧妙に避ける」という見て見ぬふりの現状肯定の現在進行形でもあり続けるのだ。



境界線上のホライゾンでは、主人公の葵・トーリがヒロインのホライゾン・アリアダストに愛の告白をした。彼はヒロインを救うためにヒロインを殺そうとする敵国の騎士や敵兵を抹殺した。これはマジコイよりは愛の暗黒面を見つめている。だが、その殺人をエンターテインメントの文脈の中で正当化するために「ホライゾンは敵国に魔術的手段で感情を奪われていてかわいそうだから、取り戻すのが正当である」とか「葵・トーリはアリアダスト家を守る一族の末裔である」とか「作品世界では過去の歴史を再現しているので、その流れに合わせている」とかという大義名分が設定されている。つまり「愛のために愛するもの以外を抹殺する」という愛の外道面を上手く脱臭しているのである。まあ、葵・トーリ自身はそこらへんに自覚的っぽいんだけど、トーリは悲しい感情を抱いたら死ぬっていう設定が付け足されているために、無理矢理殺人を後悔してはいけないっていう展開に持って行ってるよなー。
殺人や戦争を主人公が行うにあたって、そのように大量の言い訳を用意しなければ出来ないというのが、21世紀のエンターテインメントの優しさであり、歪な所である。

↑超分厚いラノベ


るろうに剣心全28巻 完結セット (ジャンプ・コミックス)

るろうに剣心全28巻 完結セット (ジャンプ・コミックス)

↑不殺を明治初期の動乱期に行おうとした侍を描いた90年代のマンガ↑ロボットは壊すけど、中の人は殺してはいないという00年代初頭のガンダム


21世紀以降のエンターテインメントでは、「殺すけど、それには言い訳がある」と言う感じかな。
79年のガンダムだと主人公のアムロ・レイジオン軍をぶち殺すことには「降りかかる火の粉を払う」という理由だけで十分だった。が、続編のZガンダムではカミーユが「降りかかる火の粉以上に敵を殺しまくった結果、発狂」「発狂しかけるが、少女の愛によって救われる」というエンディングになった。逆襲のシャアでは人の心の光とか、家族愛を得たから、とかそういう理由付けがあったなあ。∀ガンダムは「人が安心して眠るため」という大義。Vガンダムは全体的に全員が発狂して殺し合ってたから大義とかない。


だったら、最初から殺したり奪ったり戦ったりしなければいいと思うのだが、そのようなアクションがなくてはエンターテインメントにはならないし、つまらないという面もある。殺人は祝祭なのである。


また、なんだかんだと言って愛は選別行動であるし、また、選別しなければ愛するものを守れないという局面もある。
不況や東日本大震災以降、自分の家族は大事だけど、自分の愛する人を守ることに精いっぱいで、配給がもらえない人や、放射能汚染された地域の人がハズレのくじを引いても助けることができないという現実を認知した人も多かろう。少なくとも僕は助けないね。無職だし。
絆と言うのは、繋がれていない他の物を排斥する事である。


個人的に原子力発電所の崩壊による不幸は、先に原子力発電所補助金によって賠償されていたので、良いんじゃないかなって思っています。あらかじめ崩壊する事を分かった上で廃棄物や高温廃液を垂れ流していたんだし。20年前の幸福のために既に先払いで保証はしていたので、現在に崩壊が起こってもそれはあらかじめ得た幸福に対する単なる等価交換なんじゃないかな。むしろ、今までが幸福すぎた。
僕も原発補助金を貰ったことがあるし、すでに僕の命のうちの幾分かは事故が起きて死ぬ可能性を内包したシュレーディンガーの猫であり、何パーセントかは既に幽霊なのだ。

分かりやすく例えると、みんなは自動車事故で死ぬ可能性を受け入れた上で自動車に乗っているのだから、シュレーディンガーの理論によれば、既に一部分は死んでいるのだ。
また、僕らは超低賃金で働かされている人が作ったチョコレートを食べているのだけど、そうしないと自分が食べられないし、自分と不幸な人の差は単に「その国に生まれたかどうか」という偶然でしかない。
だが、それでいいのだ。攻殻機動隊人形使い風に言うと
「縁があったからだ」

攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

攻殻機動隊 (1) KCデラックス


話がそれた。


そこで、輪るピングドラムの最終回では
「愛する者を救うために他人をぶち殺す」というのと
「愛するものを救うために自分が死んでも良い」っていうのと
「愛する人を救いたいけど、世界中の人は救えない」というのと
「愛する人を救えたら、別に他人は殺さなくても良い」っていうのと
「結局小さな家族しか大事にできないし、それが人の限界」
という事をいっぺんに提示してて、すごい勢いだなーって思う。


君は、誰を愛し、誰を殺すのか!