「Project Itoh」の第2弾、『ハーモニー
その時の感想はこちら。
先週はアニメ公開前だし小説だしということでネタバレを避けたが、今回は映画と小説のネタバレをガンガン入れていこうと思います。良かれと思って。
- ネタバレ前のオードブルとしての作品情報
【作品情報】
‣2015年/日本
‣原作:伊藤計劃
‣脚本:山本幸治
‣演出・CGI監督:廣田裕介
‣キャラクター原案:redjuice
‣キャラクターデザイン・総作画監督:田中孝弘
‣プロップデザイン・作画監督:竹内一義
‣音楽:池頼広
‣アニメーション制作:STUDIO 4℃
‣出演
霧慧トァン - 沢城みゆき
御冷ミァハ - 上田麗奈
零下堂キアン - 洲崎綾
オスカー・シュタウフェンベルク - 榊原良子
アサフ - 大塚明夫
エリヤ・ヴァシロフ - 三木眞一郎
冴紀ケイタ - チョー
霧慧ヌァザ - 森田順平
- アニメとしての表面的な感想
なかむらたかし監督の絵は独特だ。で、結構好きなんですよ。というか、世界名作劇場 ピーターパンの冒険が直撃世代なので、そこだけがピンポイントで好きというか。
詳細はウィキペディアを見てもらうとして、なかむらたかし監督のアニメスタイルによるインタビューはこちら。
http://www.style.fm/as/01_talk/nakamura01.shtml
で、なかむらたかし監督の絵はスタイリッシュで情報量が少ない洗練された線だが、その中でどこか温かみがある人物造形、という点で好きだったのだが。
なので、作画オタクの人が褒めるゴールドライタンとか幻魔大戦系のリアルなアニメート、AKIRAみたいなサイバーな絵作りのなかむらたかしさんの絵は実はそんなに好きではないのだ。
そういうわけで、今回のハーモニーはどうなるのかどうか、期待半分不安半分で見た。のだが、結果的には、やはりサイバーで未来チックで洗練された画面感になっていて、体温が低い感じの絵だった。なので、そこはどうなんだろうなーって思ったのだ。
いや、洗練されているからこそ醸し出されるノイタミナらしいオサレ感は出てたと思うのだが。
もう一人の監督のマイケル・アリアス監督の鉄コン筋クリートは原作はそれなりに楽しんで読んだんだけどアニメは何となく機会を逸して見てなくて出崎統監督が貶していたと言う印象。
というか、作画なんだがほとんどCGIでやっていて、なかむらたかし監督のスタイリッシュに線を選択している上に立体としても確かな絵柄はたしかにセルルックCGと親和性があるんだけど。
細かい話なんだが、霧慧トァンの顔のアップをカメラが回り込んでいくカットで、たしかに3DCGとしてデッサンに全くの狂いもないのだが、トゥーンシェーディング、トゥーンレンダリングされているために鼻の輪郭線が角度によって変わるのだが、カメラが回り込むにつれて鼻の線がにょきにょき伸びていって、そこは気持ち悪かった。
ヒロインの顔のアップの回り込みのシーンは演出的にもストーリー的にも(独白を聞かせるシーンだったので)重要シーンだと思うので、あんまりそういう不気味の谷を意識させるような輪郭線にょきにょきは演出処理でワラっちゃって欲しかったんですが。
うーん。
ハーモニーLINEスタンプを見ると作画がしょっぱそうな感じがあったんですが、映画を見ると撮影処理とか照明効果も加わって、そんなに作画崩壊的な所はなく、きれいに見れたと言う印象はある。というか、かなりの多くの部分でCGI(Computer Generated Imagery)が使われていて、キャラクターの動きやカメラの回り込みでのデッサンの狂いはほとんどなく、精密な印象。
なので、未来社会としてのハーモニーの「生府」感とか、ETMLでエミュレートしているフィクションとしての嘘くささは表現されていたのかな、とも思うのだが。
まあ、芝居としての自由度は高いがコストが高く、失敗したら作画崩壊と言われる手描き作画と、コストが安く安定して生産できるしオサレなCG作画との兼ね合いはあるよな。予算も。
3DCGバリバリ電脳会議については賛否両論がありそうだけど、まあ、僕は特にそこは重視してない。オサレ感はある。ただ、作中のWHOがなぜ、そのオサレ感満載のインターフェイスを会議用に採用したのかということはよくわからない。
- 背景美術や演出について
ピンク色を主体にした日本生府のビル群や建築の方向性は、動くジャングルジムを何故か出さなかったことの代替案だった気もするんだが。
しかし、ピンク色の空港とかとにかくピンク色ばっかりの建築美術という色彩設計的にうざくなりそうな大道具だが、それがあんまり目に辛くない感じにまとめられている美術技巧は評価できる。
全体としてはモノローグと会話を積み重ね続けるような作劇で、原作の記憶が鮮明に残っている人にとっては退屈なのではないか、なんてことを思ってしまいました。
積み重ねられる会話を、いかに単調でなくするか、というところに相当の演出の工夫がなされているな、とは思って、3DCGを使ってアニメっぽくないカメラの動きを挿入したり*2、会話に重ねて写される美術、とりわけ淡いピンク色で描かれるユートピアや白亜の電脳空間なんかは印象的ではあるのですが、どうにも映像的な刺激に溢れている、とは言い難い、というか。amberfeb.hatenablog.com
まあ、単調な映画だということには同意する。ただ、「映像的な刺激がない」というのは「刺激を排除した生命主義社会」を表現したものかもしれないので、そこは美術スタッフや演出家や観客との意見のすり合わせどころかなあ。
本当に退屈な沢城みゆきのモノローグ主体の映画だったのだが、過去篇をを回想する時のフラッシュバックする時のワイプのアナログっぽいセピアな処理とかカメラの揺れ(もちろんCGだ)などで多少なりとも映画的な絵の面白さを入れていこうという努力は感じられた。
まあ、退屈なモノローグ映画だからと言ってだめかって言うと、フランス映画とかレム映画とかはそんな感じだし、マイケル・アリアス監督は外人だし、雰囲気オサレを目指すというのが目的だったらそんなに映像的ハリウッド流刺激を使わなくてもいいのかな、とは思うので、そこは取捨選択ですね。
<caution>
ここからはネタバレ、あるいは不快な表現が増加します。
</caution>
大量な自殺、殺害、闘争シーンが描かれるのだが、これも映画的にはそんなに刺激的には見えない。私自身、母親の自殺した死体を見ているから慣れているからかもしれないんだが。あまり死体や流血シーンにえぐさは感じなかった。それがWatchMeで録画されたもので生府の会議などで処理される情報として描かれたからかもしれない。
あるいは、この退屈なモノローグや短く編集した原作通りの会話を垂れ流す映画においての数少ない興奮シーンとして、<surprise>殺人シーン</surprise>というタグで挿入されているだけで、殺人シーンそのものがトァンの物語や行動に対して映画的にほとんど影響する効果がないため、いくら殺人の絵が垂れ流されようがどうでもいい、という印象を私は受けた。(もちろん、映画の殺人シーンに対するリアクションは観客によって個人差があるわけだけど)
<surprise>殺人シーン</surprise>とか<mourn>悲しいシーン</mourn>と、「ここは笑う所」「ここでアドレナリンを出してください」「ここは泣く所」みたいに音楽とかカメラの感じで盛り上げている演出が分かりやすかったので、逆にETMLで感情をエミュレートしているだけみたいな感じがあって、映画全体の印象としては平坦だったが、それはそれでハーモニーの世界なのかもしれないし、単に映画としてシーンをツギハギしているだけなのかもしれない。
ただ、ノイタミナはマニア向けというよりは一般向けに分かりやすさも大事にしている枠なので、そういう風にタグのついた演出で一般視聴者層に訴求しようという分かりやすい演出も大事なのかなー。
ラストとか。
- 原作との兼ね合い
ていうか、これ、原作を読んでなかったらちんぷんかんぷんだったと思うんだけど。ジャングルジムの話が出てないので生府の過剰な社会リソース保護思想も映画だけではわからない。学校時代ではミァハ、トァン、キアンだけしか出てこないので、どれだけミァハが学校から浮いている異常者かっていうことも分からないし、同時にミァハを浮かせる生府学校社会の異常さも分かりにくい。
電車の中での良かれと思っておばさんくらいだろうか。
なんで生命至上主義社会になったのかもわからないし、何でそれに対してトァンがムカついているのかもわからない。またカフェインの話が削られているし、トァンがアニメ的な美女として描かれているために原作の「酒と煙草のやりすぎで肌がガサガサのダメ人間」っぽさがなくなっているし、そのおかげで嗜好品で体を傷つけるタブーが生府社会でどういう意味を持っているのかって言うこととか、タブーを破ることで自傷行為を通して社会にちょっと反抗してるというトァンの生き方も見えにくい。
なので、ニジェールのトァレグ族の大塚明夫も大したインパクトがなく、(だいたいヒマワリが核汚染に対する浄化措置と言う説明もなく)酒の密輸シーンも単に「榊原良子に怒られたなー」くらいの印象しか、映画単体では無い。
まあ、一応説明セリフはあるんだけど、セリフで流れているだけだし、生府社会の息苦しさは感じられなかった。なんとなく「未来っぽいなー」という印象だけで。
原作ではミァハのセリフと地の文の伊藤計劃のダラダラと長い豆知識の羅列のロジックが粘着的でそれによって生府社会のロジックの鬱陶しさが読んでて感じられたのだが。
この映画の引っ掛かりの無さは「原作通りのセリフを入れておけば正しいだろう」という絶望先生の「原作通」の話のような演出のせいだろうか。しかし、メディアの違いは厳然としてある。原作は膨大な豆知識によって動物としての人の進化についてトァンと同時に読者も思索していくという流れだったのだが、映画では豆知識部分のセリフや地の文の全てを記述することはできてない。なので、ラストでミァハが「継ぎ接ぎとしての意識」とか言いだしても唐突に聞こえた。原作ではそこに至るまでに継ぎ接ぎの進化、継ぎ接ぎの文化様式の変化などを膨大な豆知識や思索や対話で読者に考えさせているという構造を組み立てていたので、ラストの問答もその延長として読めたわけだが、アニメでは「ここは笑う所」「ここはショッキングシーン」「ここは百合シーン」「ここはオサレシーン」「ここは哲学的会話」とタグ付けされたシーンが並んでいるだけのように見えて、なかなか全体としての繋がりが見えず、映画としての動きが何か感じられなかった。
もっと映画として再構成するために原作通りのセリフを諦めて脚本を書き直しても良かったんじゃねーのかって思う。なんか、原作通りのセリフを抜きだしてアニメにした、と言う感じで色々と欠けた部分が多くて、原作通りだけど、それだけに原作の構造とは違ってしまってるな、という欠けたジェンガを見るような気分です。双曲線の話も財布の話も手話民族の話もなし。肘から先と2万クレジットの話はある。
なにしろ、<次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ>という秘密結社についてインターポールのヴァシロフが唐突にトァンに教えて、原作ではそれを中心にいろいろ捜査したりなんなりするんだが、アニメでは捜査の苦労などはあまり描かれず、割とアッサリ向こうからやってきた父親と再会する(まあ、ここは原作通りなんだけど)。
で、父親のヌァザがアニメでは「お前も知っているだろうが<次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ>は…」と語りだして、おいおい、知っていなかったらどうするんだよ。って思った。
まあ、ガブリエル・エーディーンにトァンが<次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ>の名前を出したからヌァザが出てくる段取りになったって話なんだろうけど、しかしアニメの「お前も知っているだろうが」はちょっと段取りセリフとしては微妙だ。
- 原作のテーマは僕はこう思う
ロジック(社会、概念、清潔、平和、セラピスト、ミァハの知識、ハーモニー)と物質性(個人、身体性、混沌、野蛮、食事、自然、意志と感情)のせめぎ合いが原作のハーモニーのテーマだと思う。
むしろ、非常にロジカルで言葉の言葉である理論だのロジックを主軸にしながら、それに対抗するように感覚的な
花の美しさ、嗜好品の旨さ、スラムの猥雑さ、暴力の痛さ、動物の暖かさ、空気圧、体の重さを表現せざるを得なかった伊藤計劃の二律背反性が非常に面白いな、と思った。
原作のラスト近くでトァンは空気の薄くなったチェチェンの山岳でトァンが電脳でプログラムされたサイボーグの荷運び馬という文明ロジックの産物の背中の体温にふと愛着を感じたり、かと思えば人類の脳の進化の動物性とロジックについて哲学的に考える。
この二律背反性が伊藤計劃が病気になりながら病気の無い世界を書くという状態で生み出したハーモニーの独特の響き合いだと思うのですが。
対してアニメは全体的に清潔なロジックを取り出して描かれた。
CGIで統制された清潔な絵柄で、霧慧トァンの肌も髪もつやつやに変えられ、だから永遠の美少女の御冷ミァハとの差もなくなり、荷運び馬も分かりやすいロボットに変えられ、ウェルメイドにサイバーな未来社会を描いたノイタミナディストピア同性愛ものシリーズの一つにまとめられた。
なかむらたかし監督の絵のスタイリッシュさも裏目に出ていて、日本人が健康的で画一化されているが、イラクの雑踏は多様性がある、と言う原作の描写が絵としては表現されておらず、イラクのモブも日本のモブと同じくらい無個性だった。螺旋監察官の兵士の一部が義眼だったりする程度で、あまりグレーゾーンの人々の多様性とか、ニジェールの戦士の力強さは伝わってこなかった。イラクの金物屋での銃撃戦も映像的にスタイリッシュになっていて、突然の銃撃戦に切れるイラク人の親父などのモブキャラがおらず、主要キャラだけの整理された銃撃戦になっていて、戦闘シーンなのに映像として平坦な印象のままだった。まあ、その平坦さがETMLらしさなのかもしれないけど。
- 飯を食わずにレズキッス
何が印象的かと言うと、アニメはマジで食事シーンがごっそり削られていてビビった。
ハーモニーって実は食に対する嗜好の話でもある。
「健康的な食事をしましょうよ―」っていう日本生府やWHOの方針がマジで気に食わなくて、トァンは「私はカフェインも酒もガンガン飲みたいんじゃー!」って思って煙草を吸うために紛争地帯に就職するような欲望に忠実な薬物中毒者です。
いや、僕も睡眠薬と吐き気止めをブレンドしてウォッカ40度で飲み下して脳を気絶させて眠った後、目覚まし時計とカフェインガムで強制的に脳を動かして、執筆する時もアルコールをガソリン代わりに入れて、昼飯はおかずが少ない白米+納豆で腹を満たして糖分を脳に強制的に送って活動するというような生活をしている。
なので、嗜好品と物質によって脳の活動、すなわち生き方が変わるって言うのは実感としてあるんですが。
アニメのハーモニーはミァハのドカベンとか食事のための戒律プロトコルとかイラク飯とかチェチェンビール羊餃子とか、とにかく伊藤計劃の原作にあった(おそらくがん患者の欲望の発露としての)食事描写がごっそりなくなっていて、あるとしてもオサレなレストランで顔色も変えずに紙飛行機を折ってるトァンに変わっている。
イラクの非WatchMe地帯で出された野蛮な飯に対して「おいしそう」と呟いたトァンはいない。イラクでの食事シーンはあくまで手紙の受け渡しにしか使われなくてとても残念。
そして、ハーモニーの原作において食事は殺害ともテーマ的にリンクしているし、すなわち生きることの表現として食事が描かれている。
ミシェル・フーコーの権力について語るシーンはアニメでもあるが、アニメはレズ的にうっとりと美少女がくっついているロマンチックな絵だったが、原作では日の丸弁当を平らげたミァハの世界全体に対する大食い天才女児の力強い宣言だった。
アニメでは「ミァハは食べるのが速かったよね」程度だったけど、違うんだよ。伊藤計劃作品にとってはサイバーSFとかレズとかホモとか人類の進化とか以上に、特殊部隊のオッサンがダラダラピザを食いながら無料動画を見たり、女学生が日の丸弁当を食いながら「私って食べても太らない体質なんだよねー」って萌えアニメみたいに言ったり、体に悪いジャンクフードをほおばりながら「うぉお、体に悪いとは分かっていても美味いぜええ」とかほざくボンクラな生々しさが大事なんだよー。
アニメは何ですか。
食という生に通じる身体性の描写を削りながら、画像としてロマンチックに女子がくっついたりキスしたりおっぱいを揉んだり何故かプールや川に一緒に入ってペッティングしたりという、生ではなく「性」の描写を増やした。
だから、百合アニメとしては強調されているんだけど。でも、体を押し倒したりプールで抱き合ったりすることだけが百合なのでしょうか?
昼休みに弁当を一緒に食いながら、「実は私っていくら食べても太らないの」「私は逆にあんまりお腹すかない」と言う他愛もない会話をするのも女学生百合なんじゃないかなー。
まあ、アニメはオシャレファッションレズ映画としてわかりやすくラブストーリーにまとめるためには、頭がいい癖に日の丸弁当をもりもり食ってるギャップ萌え美少女としてのミァハの多面体を描くよりは「天才で儚い永遠の美少女としてのイデオローグ」として単純化しようというわけなのよね。
川辺で本を焼く時も、アニメでは二人が炎をバックに川に入ってイチャイチャレズペッティングをするロマンチックシーンになっていたが、原作ではもっとバカな中学生がバカに思い詰めて川辺でボヤを起こしてボケーってしてる印象だった。
でも、バカな中学生が勝手に思い詰めてるバカな学生時代の一ページも愛すべきものだと思う。
アニメではロマンチックなレズの性的身体的接触になっていたけど、特に触れ合わないで二人の女学生がボケーっと炎を見ながら「社会ってムカつくわ・・・」とか言うボンクラな所も十分、友情だと思う。
ミァハはなんだかんだ言って世界をどうのこうのする力を手に入れたけど、僕から見て本を焼くミァハとトァンは滝本竜彦のNHKにようこそ!で失敗した手製爆弾を公園で地味に燃やして「俺たちに居場所はない」とかボンクラなことを言う佐藤と山崎と同レベルだと思う。
でも、ノイタミナディストピアSFオサレジャパニメーションとして攻殻機動隊に継ぐコンテンツにしたいアニメ版はボンクラ要素を排除してオシャレに描き直しているなあ。
しかし、オシャレコンテンツにしたいのに、こういうLINスタンプを作る。
この場面、ミァハがトァンに「私は昔別の権力に従わされていた(レイプされてた)」と言うシーンなのに、「男子って子供」って軽い台詞を入れていいの?
- 愛しているって言わせんなよ恥ずかしい
まあ、原作を読んだ人の大半が衝撃を受けたであろうレズ告白ですが。
分かりやすいロマンチックなラブストーリーとして描こうという方針がアニメ版にはすごくあるので、身体性とロジック、倫理と野蛮、わたしとせかいのグレーゾーンという文学性よりはレズラブストーリーと人類補完計画にまとめた方がノイタミナっぽさはある。
原作のトァンの銃弾は、もっと色んな意味があると思う。
復讐と言うだけでなく、むしろキアンと父の復讐を果たして清算したからもう一度平等な友達になれたよね。二人で山に登ったね。寒いね、って言う友情ピクニックヤマノススメも百合としては尊いと思うんですが。
殺すくらい怒っていたけど、殺した後は友達だよって言う。
それと、キアンに対してメッセージを送ったミァハには「意識」があったよね、というトァンのミァハに対する指摘もかなり友情としては重大だが、アニメのラストではキアンの存在はほとんど端折られている。原作のラストの登山は最期の会話でキアンの強さを実感したトァンの感情も込みだと思っているんだが、アニメではキアンのことは端折られてミァハとトァンの二人の世界に整理されてしまっていた。
あと、アニメのトァンが「あなたは変わらないままで居て」って言うのも、実はアニメ版の方針としては「らしい」。
ここまでに指摘したけど、原作のトァンは28歳で髪も肌もガサガサで不摂生なダメ人間で、ミァハはあの頃と変わらない美少女のままで自分勝手な考えもあの頃のまま、それって笑っちゃって思わず鉄砲で撃つわ。という肌荒れ女と肌つや女の同窓会での喧嘩みたいな対比もある。
アニメではトァンも肌と髪つやつやでミァハと同じように描かれていて、それで同質化願望そのままにミァハに変わらないままで居て、って言う。
それに、アニメのトァンは原作よりアホで幼い印象だ。それは肌がきれいということだけでも無く。原作ではハーモニー・プログラムの副作用をトァンは普通に推理して父ヌァザに冷静に指摘して、驚かせるという賢さを見せた。アニメではトァンが「意識が消失したのね」と言わず、父親の説明を聞くだけだったので頭が良くなさそうに見える。「植物状態になったミァハはどうなったの?」と感情的になる所は原作の「意識を失ったらどうなるの?ぼーっと椅子に座ってるの?」と冷静に父に聞くトァンのすれっからしっぽさとは違う。
原作のトァンは学生時代はミァハの追っかけだったが、螺旋監察官として紛争地帯を渡り歩く人生の中でタフさを身に付けた。ベルセルク的に言えば、グリフィスを追う夜がガッツを練り上げたと言う感じ。そして、再会したミァハが相変わらず身勝手な女の子だったので、大人になってしまったトァンは笑っちゃってぶっ殺す。それからやっとわたしたちは平等な友達に戻れるのかな、でも、そのわたしもいなくなる、というラストだったんだが。
アニメでは子供時代に留まりたいというレズの未成熟さが強調された告白に見えましたね。
まあ、それはそれで美しいし分かりやすい二人の世界のラブストーリーだと思うが。
そのラブストーリーを謎の白い図書館で閲覧する謎未来の雰囲気もSFっぽいと思いますが。
でも、コーカサスの山が見える所まで連れて行って欲しかったと思いました。
ちなみに、上田麗奈さんの本気はこちらのプリパラポリスぽんかん黄木あじみ先生で見れますダヴィンチ!
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