玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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もう、最後のブログなので、恥は書き捨て。

これからは、個のような趣味に費やしていたエネルギーを対人関係に向けるのだ。
大きな声で話すのだ。ここ数日実験してみた所、私の生きている時代の人間は論理的な意見よりも勢いのある情報に流される段階のようだ。業にいっては業に従え。
だから大きな声で話すのだ。
そのためには大声だ。夢や妄想があると思えば、現実ではエネルギーを使わないようにしてしまうが。もう後がないと思えば、飢えた獣じみた興奮がエネルギーになろう。
女の人の習性として、自分の中では意見がまとまっているが、女は自分が決定者になりたくないがために「こういう風にしたほうがあなたにとっていいんじゃない?」と言う。
それに、小さな声で反論して、それが言語情報として伝わって、同意したかのような返事を得て、会話が成り立ったように見えても。
女の中の決定事項は覆らず、何度も同じ話を繰り返し聞かされることになる。人間の記憶は固定されていないからな。記憶物質を書き換えつづける仕組み自体を書き換えなければ、記憶からなる思考は変化し得ない。
男がそこで論理で行こうとしたら、結局は疲弊して自らの意見を曲げざるを得ない。男は疲れるのが苦手なのだ。
疲れるくらいなら状況を回避するのだ。
だから、大声で話すのだ。大声を出すと、女が何よりも大事にする関係性が強化されたような錯覚を与える事が出来。女の快楽中枢を刺激してやると、それによって女の意見を書き換え、会話が成り立つ。
会話の文脈(情報の交換)ではない方策によって、会話(相互的情報認知の書き換え)が成り立つ。
わかりましたね!
↑威嚇する例
人間関係の半分は男だが。
男は強弱なので、大声で威嚇すればよい。
だから、大声で話すのだ。
だが、これは結局はフェイク。
男の基準である「強さ」は経済、筋力、権力、などだ。ただ、今の平和な日本での普通の人間関係において、そのような優劣確認を一々する余裕が無いので、服、表情、声の大きさなどで近似的に判断しているに過ぎない。
女の基準である「関わり」は、「何をしてくれるか」「どんな快楽をもたらしてくれるか」「好きか嫌いか」なのであるが。僕は何もしたくないし不愉快だしどうでもいい。
だから、女性に対してもフェイクでしかないのだが。
僕はまず、恋人とか言うような深いかかわりではなく、単なる会話を成り立たせるため、社会行動をするためだけのためなので、大声を出す程度でいいでしょう。
(大声と言うが、俺にとっての大声なだけで、ハッキリと腹から声を出すと言うだけのレベルだが、俺にとっては凄く疲れるのだ。)
と、こういう風にブログ長文を一気に書くエネルギーを対人関係のエネルギーに回すのだ。
河合隼雄は人間のエネルギーはどこかで節約したら、どこかに回せるというものではないといっていたのだが。
たしかに、以前バイトしていたときは何もせずに寝てばかりいて、自分のやりたい創作が出来なくなってフラストレーションがたまった。
もう創作がやりたくないのでよかったなあ。
小学校に入る前から萬画ばっかり書いていたが、それが俺の人生で一番不必要な事だったわけだ。
つまり、俺の人生が不必要だったのだ。(そりゃそうだ)
そう言う風に、常に自分の人生を憎んでいたらアドレナリンが沢山出て、大声も出せるだろう。自分は自分が愛した創作も満足に出来ないクズ人間だと一生怒り続けるのだ。
とはいえ、実際、頭は痛いし重いし、息苦しいし、心臓が痛いような気はするのだが、それは一生モノの仕様だと思えば、単にそれだけの事だ。一生心臓が痛いだけだ。機能的な損害は無い。痛いだけだ。それがどうした。
やる気がなくなったり、倒れたりするのは、痛みを言い訳にしているだけだ。
クズ人間!カス人間!
とまれ、そのようにベータ波だけ出して生きていると、俺の不眠症が悪化する一方なのだが。
その時は何度でも脳内恋人を犯せば、その動物的快楽で眠れるのだ。今までの脳内ハーレムは結局は自分の安眠剤を見つけるための実験でしかなかった。その程度でしかなかった。
その程度にしか、恋人を愛していなかった。(と、すると三次元女は皆それ以下なのだから、酷い話だ)
でも、脳内恋人たちはそれでも愛してくれるんだなあ〜〜〜〜〜〜。えへへー。
ただ、ブログとかサイトでそれを暴露する必要があるかと考えた場合、どうでもいいんだな。すべてどうでもいいんだから。
神は死んだのだから。
脳内恋愛は、一生脳内でします!
あとはまかせましたよ!
http://d.hatena.ne.jp/mending_tape/20060128