玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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追記碇シンジ君が不殺を貫くのは、自分が希薄であると言う事。って下に書いたんだけど。

つまり、殺してでもやりたい事って、やるべき事って、奪いたい事って、ちょっとものを考える人には無いんだよね。と言う事でもあるか。
そんだけかなあ。
欲望がシンプルな人はさ、殺してでもザーメンを膣内に排泄したいわけですけど、ザーメンを排泄するだけなら、オナニーでもいいじゃんと、思考を半歩ずらせる人なら、殺さなくても良いんだよねー。
(「殺しながらザーメンを注入する」という1セットの欲望になってる人もいます。)
欲求が満たされる代替手段はいくらでもあります世の中ですからねえ。
パンが無ければマジでケーキを食えばいい。
満たされてるんですよね。

90年代にこういうマンガが増えて、それが受け入れられるようになったのは、受け手の人の側にこー言うオルタナティブな価値観が定着してきたからかもなー。
あと、価値観自体も流動可能と言う。
2次元オナニーでもいいけど、彼女ができそうだったら脱ヲタしてもいいジャンみたいな。
職が無ければフリーターでいいし。
親にたかればいいし。
親が死んだら練炭でいいし。
殺してでもやりたい事って言うのはやっぱ、実感湧かないっすよ。
流動化してると自分の芯と言う欲望も無い
まあ、偉い人が殺してでも日本の誇りを守らないといかんとか言うんなら、まー、そう言うことも在るかもなーって気もしますけどぉー。やっぱ、守りたい物を守るためならー仕方ないかなーって感じもします。
つまり、反動として流動化してるのが嫌だと思ったら、自分探しとか自分にしかないものを守りたいとかになるんだよな。どっちも同じだ・・・。
守りたい人が死んでも別にいいかな。だって、実際死ぬし。