かなり前にまっつねさんに「あしたのジョーの富野演出についてグダさんに語ってもらう」と言われてから、かなり経ったわけだが。ついに来た。
あしたのジョー DVD(5) ~TOMORROW’S JOE~
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あしたのジョー DVD(6) ~TOMORROW’S JOE~
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あしたのジョー DVD(7) ~TOMORROW’S JOE~
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- さすらいの富野と映画的演出の勃興
時に、1970年夏!
あしたのジョーを制作する虫プロダクションは混迷していたっ!(多分ッ)
wikiによると、あしたのジョー(1stTV)の脚本家は35話までは雪室、山崎コンビでしたけど、多分何かの事情で36〜39まで脚本家が不明らしい。40話で雪室、山崎コンビは降板。その後、色々な人が入る。
つまり、36話直前までの第3クールは脚本家の降板や演出家の入れ替わりという事件の前で、色々と現場にストレスがかかっていたころだと推察できる。
そう、高度経済成長時代を支えた日雇い労働者たちがドヤ街ですさんだ暮らしをしていたような・・・。そんな虫プロに・・・富野喜幸が戻ってきた。
と、虫プロを退職して、一度CM制作会社に入り、アニメ業界から離れたという逸話が有名な富野由悠季であるが、エッセイ小説「だから僕は・・・」の年表と富野由悠季全仕事とwikiを見ると、富野喜幸は1967年のリボンの騎士までは虫プロに在籍しており、68年の東京ムービー制作の巨人の星には既に参加してアニメ業界に戻ってきている。虫プロにも68年のアニマル1には参加していて、69年の「どろろ」では杉井ギサブロー総監督の元で出崎統と肩を並べて各話演出であった。
つまり、富野由悠季がアニメ業界を離れていたのは1年にも満たない、というか、アニメーションとCM制作を並行してずるずるとやっていたという表現の方が歴史的には正しそうだ。(数カ月単位の空白期間はあるだろうが)
ていうか、「どろろと百鬼丸」はマジで名作。
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そんな富野があしたのジョーに初参加したのが、第23話「あばよ少年院」である。そして、36話からのウルフ金串との決戦編では4話に渡る脚本不在のまま崎枕の名前で出崎統が3連続演出という暴挙を行った。まさしく暴挙。多分、出崎統が後年にやるのと同じ調子で脚本を全直ししてほとんど直接絵コンテ演出という暴挙を行ったために、それまでコンビローテーションで脚本を書いていた雪室俊一と山崎忠昭がブチキレたと思われる。まあ、出崎統のデフォルトは初監督作品から死ぬまでこんな感じでしたからね。
そんな事件の火種を抱えた23〜35話。内容的には少年院出所からプロテストに合格できるかどうか→プロになってからの初勝利と数試合という感じのだいたい1クール分である。その13話のうち、富野喜幸は実に5本の絵コンテを書いている。のこりの演出家は、序盤〜2クール目から参加していたメンバーの石黒昇2本で、後は波多正美、斎藤博、西牧秀雄、吉川惣司、石山英児(28話のみ)、平田敏夫(18話から)が1本ずつ。
話 放送日 タイトル 脚本、 作画監督 演出 視聴率
第23話 1970年9月2日 あばよ少年院 山崎忠昭 荒木伸吾 富野喜幸 20.8%
第24話 1970年9月9日 帰えってきたドヤ街 雪室俊一 金山明博 石黒昇 22.6%
第25話 1970年9月16日 野良犬の掟 雪室俊一 金山明博 富野喜幸 23.4%
第26話 1970年9月23日 絶望のライセンス 雪室俊一 荒木伸吾 平田敏夫 28.7%
第27話 1970年9月30日 明日に架ける橋 山崎忠昭 金山明博 吉川惣司 21.1%
第28話 1970年10月7日 栄光への賭け 雪室俊一 金山明博 石山英児 20.6%
第29話 1970年10月14日 明日への挑戦 山崎忠昭 杉野昭夫 富野喜幸 29.2%
第30話 1970年10月21日 試練のプロテスト 雪室俊一 荒木伸吾 斎藤博 20.5%
第31話 1970年10月28日 翔たけプロボクサー 雪室俊一 金山明博 波多正美 22.5%
第32話 1970年11月4日 輝くリングへの道 山崎忠昭 金山明博 西牧秀雄 18.0%
第33話 1970年11月11日 初勝利バンザイ 山崎忠昭 杉野昭夫 富野喜幸 21.2%
第34話 1970年11月18日 ボクサー志願 雪室俊一 荒木伸吾 石黒昇 22.7%
第35話 1970年11月25日 ガンバレ! 西 山崎忠昭 金山明博 富野喜幸 15.9%
あしたのジョー - Wikipedia
ハッキリ言って、脚本降板や26歳の初監督出崎統の3話連続演出などの事件の直前の荒れた現場において、4割の演出を行う富野喜幸は異常である。というか、荒れた現場であったからこそ、虫プロに出戻った情けない立場にあった「さすらいのコンテマン・富野喜幸」「絵コンテが早いだけが取り柄の便利屋・富野」に活躍するチャンスがあったと言う事であろう。
それがまた、プロライセンスを無理矢理の手段で獲得せんとする矢吹丈の荒ぶる行いとリンクしていると思わないか、と、君は!
また、テロップでのメインスタッフの入れ替えを見ると、制作はガタガタだったように思えるが、作品自体のテンションはこのカオス期に上がり、29話の富野回ではあしたのジョーの最高視聴率29.2%を叩きだしている。
ネットで孫引きした言葉だが
満足いく演出ができたのは27話くらいから
http://moeve.moe-nifty.com/rot/2011/04/1-34a3.html
だろうから、脂がのってきてはいるようだ。
あと、すごくどうでもいいけど、GyaO!でエンディング映像が現存されてない時はテロップが後付けなんだけど、富野喜幸が富野由悠季って書いてある回があって、ちょっと気持ち悪かった。
- 映像作家、富野喜幸
しかし、このころの富野喜幸はもちろん、単に早い便利屋だけではないのだ。映像のセンスの美しさも際立っている。
(出崎統監督(&おそらく絵コンテ)と各話演出の影響力はどちらが強いかというのはハッキリとは分からないし、やはり出崎統カラーの作品なのだが)
たとえば、この富野初登板回(崎枕回の次でもある)の23話のラストシーン、少年院を去るジョーの前途に光る透過光の海。それ以前の話数には多分なかったイメージ演出の使い方をしてるような気がする。
23話で、力石徹の出場した白黒のボクシング中継テレビをジョーが見るにつれて、カメラがテレビの中の試合会場に入ってカラーになる、というメタ超越演出もカッコいい。
この白黒とカラーでカメラの位置を変化させる演出は後の話でも多用されるようになる。
(白黒とカラーの越境はどろろの影響か?富野は勇者ライディーンでも同じように白黒からカラーへの変化で印象付ける演出を行っている)
また、25話で、台詞の声に被せて「ハーモニー」の大きな一枚絵の一部分を少しずつ、カット割りで見せて行き、最後に一枚絵を見せて迫力を出す、そしてそこにジョーの横顔をオーバーラップさせてカットを変えていく、という技巧的かつ「出崎演出」的な事を派手にやったのも富野回から(?)。
一枚絵の部分部分を台詞に被せて少しずつ見せて行って興味を引く「部分から全体へ」というテクニックって、映像の原則でも書かれていたし、出崎統が好む手法。全体図を見せて分かりやすく説明するよりも、興味の連続で見せて行くと言うのがエンターティンメント芸術。
映像の原則―ビギナーからプロまでのコンテ主義 (キネ旬ムック)
- 作者: 富野由悠季
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このカラー水彩(ガッシュか?)画像は、原作の萬画のカラーページだったりするのだろうか?それとも金山明博作画監督か、原画の人の仕事か?良い絵である。
ハーモニー演出は異化効果とかだけでなく、単純に「セル画より良い絵を見せてくれて”おっ?”と思わせてくれる。もっと細部を見たいと引きつけられる」それくらいで良いと思う。良い絵があったればこそのハーモニーであるなあ。
28話は富野回ではないが、ウルフにクロスカウンターを放つジョーの場面は萬画をそのまま使ったようなざらついた白黒イラストタッチの止め絵の連続であり、これもハーモニーの一種といえる。白黒止め絵の短カットの連続でショッキングさを強調するってのも、良い。
あと、70年制作なのに、動画の髪の毛や服や汗に、エアブラシを使って質感を持たせて、リアリティを高めているのも、良い。デジタルじゃないから全場面じゃないけどね。
一応、今まで思い起こすと、基本的に虫プロらしい手堅い作画が多く、セル画を使っている。人物をハーモニー作画するのは、この25話あたりが初出のように思える。もちろん、印象論であるから、印象に残らないシーンで先に在ったかもしれない。
また、留置所の時点のシーンで、リンチされてボロクズのようになったジョーは、セル画だが鉛筆のタッチを入れまくっているので、ほとんどハーモニー作画と言えなくもない。
ほかにも鉛筆のモノクロ絵とか、ジョーは絵柄が統一されてないと言うか、色んな絵が見れて楽しい。
それまでも、出崎統のカメラワークや背景や照明やカメラのフィルター色の変化や、太陽光や海の光の映り込み等の演出技法は実写と特殊効果を意識したものだったが、富野を迎えた事によってより一層先鋭化したように思える。
すくなくとも、僕の印象では、こういう風に透過光をイメージ的に使った演出は富野回が初めてだったように、主観的には思う。
(富野以前で、ドヤ街のネオンで使われたか?)
出崎演出と言われる物は、出崎統だけの発明ではなく、もしかしたら虫プロで切磋琢磨していた出崎統と富野喜幸の相乗効果かもしれんのだ。と、思った。
色を変えたり、と言うのは漫画に色を付ける延長で発想できる演出だが、透過光や多重ピントは漫画の描画技法ではありえない「撮影」の技法だから、日大で映画を学んだ富野喜幸の力は影響していたかもしれん。
(もちろん、富野の功績だけでなく、富野が参加した時期と出崎統が荒ぶり始めた時期が偶然一致しているだけかもしれん。実際、富野が参加していない26話で、ジョーが発狂したような笑いで髪の毛が緑になるなど、妙にアグレッシブな表現が増えた)
富野自身は「出崎統と言うのは天才だと思った。天才の技を盗んでやろうと思ったけど、やはり感性が違うし、出崎統は天才だったので盗み切れなかった」と言っている。そういうことなんだろう。
だが、出崎統を盗もうとして、やりすぎてさらに新しい事をやっちゃうのも富野なんだと思う。透過光とか、ハーモニーとか。
そして、初監督だった出崎統もそう言う過剰な富野喜幸を見ることで、自分の演出技法というものを己にフィードバックして確立していったのでは、あるまいか?
と、思ってしまうのは僕が富野ファンだから、富野の功績を大きく思いたいからだろうか?
あ、出崎統自身もグラン・プリから画面分割など出崎演出(とアニメファンに言われるような技法)をパクったって公言してるので、富野がいなくても、出崎統って実写のフィーリングが好きだったと思うが。
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出崎統のジョーの演出って、劇画をどうアニメにトレースするかっていうんじゃないんだよなー。
劇画や萬画をトレースするんなら、漫符を各方向に行くわけですよ。実際、最初の鉄腕アトムのアニメとか、戦闘シーンでの閃光や爆発などは、漫符のギザギザで表現してたわけだし。
で、あしたのジョーでは、それがカラーになったからか、透過光など、手書き漫画ではない、「撮影」という段階のある「アニメーション」という別のメディアならではの技法を使ってるんだな。(あ、どろろの1話の雷などは撮影で、露光レベルの明暗処理で表現してたかな?)
つまり、アニメーションは絵や萬画が動いてるだけではないんだ。絵では表現できない物、また、実写では表現できない物を描くものなんだなー。と、当たり前の事ですが、あしたのジョーなどの「漫画動画が日本固有のアニメーションになっていく一歩一歩」という作品を見ると「アニメーションらしさ」を実感しますね。
というか、ものすごく工夫してて面白いです。
絵としてだけでなく、タイミングの取り方や芝居の付け方としても、富野回で超カッコ良かったのは、23話の「あばよ少年院」で西を見送るジョーのシーン。
西が何度も振り返って、だんだん遠くなっていき、そのカットに目をつむって見送るジョーの顔のアップが差し挟まれる。が、最後にジョーは一瞬だけ目を開ける。
これが渋い!
映像技法について書いてきたが、35話の「ガンバレ!西」など、ハートウォーミングなドラマも富野は手掛けている。
これが、地味に良いボトルショーなんだなー。これ、原作に在る話か?
内容は、「ジョーに比べて戦績が振るわない西を元気づけるために、ドヤ街の子供たちが元オヤマのオッサンに女装させて、西が思いを寄せている紀子ちゃんの振りをさせる」っていうベタな話なんだが。
これ、OVERMAN キングゲイナーでそういう話があったんだよ・・・。
オーバーマンキングゲイナー10over「アスハムの執念」 - 玖足手帖-アニメ&創作-
キングゲイナーの10話「アスハムの執念」で、賭けボクシングで金を稼ぐゲインと、そのセコンドとして何故か女装変装しているゲイナー。これが、すごく「ガンバレ西」に似てるwww
このゲイナーの女装の化粧のわざとらしく濃い感じとか。ゲインは西と違って、ゲイナーが女装してる事を知ってるけど、女装ゲイナーに「君のために戦うよ」とか言うのが、「ガンバレ西」だなwww
キンゲで富野は「ガンダムとは違う、おバカで痛快なロボットアクションアニメを復権させたい」って述べていたが、その時に、ガンダム以前のあしたのジョーなどのさすらいのコンテマン時代の作品を参考にしたのかなー。
また、ゲイナーにとってゲインは、明らかに「にくいあんちくしょう」だったので、あしたのジョー→キングゲイナーというラインはある。ていうか、ゲインは別にボクサーではないので、賭けボクシングをする必然性などもないしな。まあ、男のライバルを描いたりとか、エクソダスするヤーパンの天井っていうドヤ街の人々にとって興業を見せるっていうのは、ボクシングは分かりやすいんだけどね。
んで、「ガンバレ!西」で、西は女装ノリちゃん(偽)を見つけて頑張ろうとするんだけど、やっぱりボコられてあきらめかけるの。で、最終的に西がブチ切れてパワーを発揮するのは、リングサイドのジョーが西を見て「負けるなーッ!」って泣いて、「ワイのためにジョーが泣いとんのや!!」ってなったから。
なんだよ。ホモかよ。
っていうか、おっつぁんがジョーに対して最初から「おめえは俺のあしたなんだ!」って面倒を見まくるとか、力石との執着とか、青山とジョーとおっつぁんの一時的な駆け引きの三角関係とか、やっぱり、この漫画は基本的にジョーにほれ込んだヒロイン(ただし、男だ)のハーレムアニメっぽいなーって思います。
キンゲはシンシアとサラやアデット先生がかわいいから、そこまでホモ中心じゃないと思うけど・・・。(笑)
しかし、3クール目の26話でテコ入れヒロインとして初登場した林家のノリちゃんをジョーが白木葉子と一瞬間違えると言うのは、美少女の絵柄に乏しい言い訳なのか、それともこのマンガの世界観において、女は十把一絡げなのか・・・。ていうか、女っ気ないよね・・・。
のりちゃんと葉子以外の女って、ホセの嫁か、落ちぶれた後のウルフが世話になってるジムの娘さんくらい?
・あと、適当な必殺技の覚え方。
あしたのジョーには、あしたのためにシリーズ、クロスカウンターシリーズ、ノーガード戦法などの数々の必殺技が登場します。
今回覚えたのは、ノーガード戦法。両手ブラリ戦法とも言われる有名なアレ。
しかし、これの覚え方が酷い。まず、なんで覚えたのか分からん。29〜30話でジョーと戦った高校国体チャンピオンの稲垣のテクニックに対抗するために、その試合中にジョーが編み出して、ウルフ戦まではこれを多用した技なのだが。
何の説明もなく、ジョーはこれを思いついて、使って、勝つ。何で思いついたのか、何がすごいのか、全く分からん。全部、野生の勘としか思えない。一応、異常に打たれ強いジョーがノーガードでたくさん打たせて、その中で相手が隙を見せたパンチに反応してクロスカウンターで一撃必殺するっていう戦法なんだろうけど、劇中での説明セリフは一切なし。
青山戦でジョーがガードや回避技を憶えたのも、教えられたわけではなく、青山にボコられながら自然に身に付けた技だし。
さすが段取りが嫌いな出崎統だ。クロスカウンターも、「交差させた腕のてこの原理を応用し…」という梶原一騎らしい技の段取りや仕組みがあるのだが、出崎統はクロスカウンターの技の説明も最初の方でやっただけで、最後の方は全然しなかったしな。最後のホセ・メンドーサ戦のトリプルクロスなんかゴロマキ権藤が「やった!トリプルクロスだ!」って言ってたけど、俺はどれがトリプルクロスのパンチなのか全くわからんかった。ただ、ジョーが強いって言う事だけしか分からんかった。まあ、それがテーマなので、別に技の段取りなんかはどうでもいいんだよ!
巨人の星の大リーグボールや、タイガーマスクの特訓など、梶原作品においては、かなり必殺技のしくみや段取りの謎ときが重視される事が多いが、ジョーのアニメはそれを意図的に排していこうという意識が感じられます。別に砂ぼこりでボールが消えたって感動しないんですよ!やっぱり、何に感動するかって言うと、人がすごい事をした時。で、ジョーがすごいって事だけ分かれば、段取りは別にいいんだよ!
キングゲイナーも、オーバースキルの組み合わせで戦う、っていうジョジョの奇妙な冒険のような段取り臭さや知能戦の要素もありつつ、最終的にはゲイナー君が戦っている時のその場の思いつきで、なんとなくオーバースキルを炸裂させてキングゲイナーが勝つ、っていうのが多い。オーバーマルチキックとか、ニンポーカラテチョップとか、キングコールドとか・・・。無理矢理弾幕をよけたり、大量の敵を全部斬ったりって言う力技もかなり多い。
そこら辺のキングゲイナーの適当な必殺技のノリや勢いも、あしたのジョーを参考にした部分がある?いや、ガンダムが盾の下でビームサーベルを構えていて、盾を切り裂いたザクの斧を受け止めるとか、そういう勢いの良い戦い方はキングゲイナー以前からあったか。
Zガンダム新劇場版とか、「ならば!ビーム・コンフューズ!」とか、ラストで大まじめに新必殺技をやっちゃうんだもんなーwww
ちなみにノーガード戦法のモデルはたこ八郎です。ぅゎたこっょぃ。
たこ八郎 - Wikipedia
ファイティング原田の名前が丹下段平から語られたり、針金減量のエピソードが力石で使われたりもしているね。
「ガンバレ! 西」以外の心温まるエピソードと言えば、石黒昇演出回の「帰えってきたドヤ街」と「ボクサー志願」は多分ボトルショー的なショートエピソードなんだが、ドヤ街の人々やジョーのファンの工員などの基本的な人間への信頼感に温かみを感じた。ジョーは基本的に犯罪者なんだが、裏表なく応援してくれたり真っ直ぐな人に対しては割と素直に助けたり謝ったりするんだよな。
石黒さんは出崎統や富野喜幸と違って屈折した所が少ない気がする。あ、ドヤ街の温かさは原作どおりなのかもしれんが。「帰えってきたドヤ街」で、力石が葬式の花を丹下拳闘クラブに送りつけるのはアニメオリジナルの嫌味らしいが。原作も読まなきゃなー。近いうちに。マンガミュージアムなどで・・・。
- ツギハギ職人、富野喜幸とゲリラのドラマ
第25話『野良犬の掟』が、いわゆる3クール前の総集編です。その演出を手掛けたのが、編集の魔術師・富野喜幸。
うわー。さすが、鉄腕アトムでも既存の絵だけで話をでっち上げた事もある富野・・・。出崎統にも信用されて、総集編回をまかされたのだろうか?
しかし、これが単なる総集編ではないと言うのが、出崎統、富野喜幸コンビの恐ろしくも面白い所。
総集編は、丹下ジムに落ち着いたジョーの元に、警察に追われてフラリとやって来た少年院時代の同僚「ゲリラ」とジョーとの一晩の語らい、思い出話を通して回想されるという形式で行われる。
だが、総集編自体のシーンの思い出される順番は、必ずしもそのままではなく、あくまでジョーとゲリラの取りとめのない話の文脈に沿って提示される。それでいて、今までの話を過不足なく思い出させるのに十分なチョイス。
また、総集編だからって、同じ絵を使わないで、ちょっと変えてきてるのもカッコいい。
↑14話
↑25話
そして、単なる総集編ではなく、流しのギター弾きとして旅をするゲリラと、旅をしないでボクシングに落ち着こうとするジョーの「野良犬の誇り」についての議論をするっていう、出崎統的テーマに沿った、原作にはないオリジナルエピソードだ。この、段平と西が眠っている間に、ジョーだけがゲリラと出会って別れるというのも、総集編の繋ぎというだけではない、強い物語性、映画っぽさを持っている。良いねえ、こういう静かで渋い芝居。
そして、ジョーは野良犬から飼い犬になった訳ではなく、力石徹って言う戦う相手がいるから、今はたまたまボクシングをしているだけなんだ、という方向性を明示し、第3クール以降のストーリー展開のガイドにもなっている。
そして、ゲリラが「俺も見つけるよ、俺だけの力石徹をよ!」って男らしく言い放ってすこし靄のかかった暁の街に消えて行くのも映画的で、粋だねえ・・・。
それと、ジョーにとってボクシングというのは人生の目標ではなく、あくまで旅の途中でふらっと立ち寄った人生のイベントの一つ、というのが出崎統らしい。劇場版AIRの国崎往人みたい。
原作では
幻の梶原案ラストシーン「白木邸で静かに余生を送るジョーと、それを見守る葉子の姿」は民放バラエティ番組においてちば直筆色紙で紹介されている。梶原が書いた原稿をちばに渡す前に見ていたという真樹日佐夫も最終回について、ちばとほぼ同様のことを述べているが、ラストシーンがパンチドランカーとなったカーロス・リベラと共に療養所のような所で笑顔で戯れている姿で終わっていたと書いている。
「wiki,あしたのジョー」
だが、出崎統の中のジョーは葉子ごとき女に捕らわれないのだ。
また、野良犬の誇りというのは、出崎統にとって重要なモチーフのようだ。
サウンドトラック・あしたのジョー本命盤に収録された出崎統インタビュー(初出:角川書店「月刊Newtype」98年2月号)によると、
「海鳴り・矢吹丈」
(前略)
原作をどうひっくりかえして読み込んでも、彼がどこで生れ、どう育ったかなんて出てない。「孤児院を何度も脱走し・・・」。そうわずかに述べられているにすぎない。僕は勝手に想像し、思い込んだ。「こいつ、小さい時から一人で生き抜いてきたんだ!」。
(中略)
最初に彼が心を許したのは、孤児院の裏庭に残飯を漁りに来た野良犬だ。名前は彼が勝手に付けた。多分・・・「クロ」だ。
(中略)
必要な分だけ残飯を喰べるとクロは悠然と去って行く。自分の世界に。広々と自由な自分の世界に・・・・・・。
(後略)
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ショートインタビューでも、この原作改変ぶり。というか、原作が流した部分を容赦なく作っていく出崎統っぷり。すばらしい。この旅人哲学が出崎統だなあ・・・。
そんな重要なテーマのオリジナルエピソードの演出を、富野が任された、っていうのは、ちょっといいね。
富野はメカ物をやる前から、こういうしっとりとしたドラマの感覚も得意だったんだよなー。世界名作劇場も。ガンダムもメカや戦闘だけでなく、人の情感が良かったわけだし。
でも、オバケのQ太郎を見て「アニメは非日常を描くべきで、畳の日常なんて描くのは面白くない」とか言ってたりするからなあ・・・。もったいない。ていうかおばけは日常なのか・・・www
でも、ブレンパワードで、勇が、すいとん屋でアルバイトする下町っぽい生活感の話は結構好きです。
あ、あと、ジョーがノリちゃんの学校に行ったりっていう、ギャグパートは多分ちば先生っぽいかんじのほんわかシーンだと思うんだが、(原作はちゃんと読んでない)そこら辺のギャグというか喜劇的な所を、結構富野が演出してたりしてる。
しかし、出崎統も富野も、ギャグセンスは古いよね・・・。テンポは良いんだけどね・・・。
- 後年の出崎統キャラクターと類似するオリジナル
で、原作とは関係なくギター弾きになったゲリラのオリジナルエピソードなど、第3クールのプロボクサーを目指す編はオリジナルキャラクターが多い。
ちなみに、あしたのジョー2のホセ戦の前に少年院時代の仲間たちが喫茶店で集まるシーンも、アニメ版のオリジナルらしい。
WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第58回 遠くなってしまった青春
そこで、流しのギター弾きで夢を追っていったゲリラがワイシャツにネクタイになっているというのが・・・リアルというか・・・。ていうか、ギタリストを諦めるの速いな!
でも、精神病で無職の俺から見ると「ゲリラも青山も、少年院上がりなのに、ちゃんと社会に適応してて偉いなあ。ジョーみたいなケンキチに憧れなくて良いよ」って思いました。これは1stジョー34話の「ボクサー志願」でジョーに憧れた工員の青年に段平が「君は社会人だから、働いて自分の店を持ったり、いろんな夢が見れる。だが、ワシやジョーはボクシングしかできんのだ。だから必死で、君の心を打つファイトが出来るんだろう」と声をかけた所から一貫している。
だから、普通の社会人の方が偉いって!
あと、アレだ。
ドクター大井川。大井川豪平(押しかけドクター) 。こいつは完全アニメオリジナルキャラクター。
なんか知らんけど、丹下ジムのお向かいの河原に勝手に掘立小屋を作り、そこで開業した浮浪者兼医者。無料で丹下ジムの専属ドクターになった。自分をドクターと呼ばせる。無茶苦茶。
第33話「初勝利バンザイ」
杉野作画(富野演出)
ジョーは初勝利ではしゃぐ。
メリーさんの羊を口笛で熱唱♪
ジョーの初勝利に紀子がスミレの花をプレゼントするが、
葉子からのバラの花束と比較し、紀子はお怒り。
大井川豪平ドクター突然現る。
ジョーの専属主治医とし、泪橋川向こうに小屋を建てる。
大井川ドクター、”命短し恋せよ乙女”熱唱♪
(ジョーも”命〜”を口笛で真似る)
また、富野演出回で謎のオリジナルが・・・。ていうか、大井川ドクターが「ジョーは、まだ、菫の美しさを知らぬ・・・」とかポエムっちゃうのが、出崎統の詩人キャラクター全開である!!
もう、これは原作を読んでなくても一発で出崎統オリジナルキャラだと分かった。統過ぎる。
ガンバの冒険のシジン(こいつも医者と兼業)とか、ベルサイユのばらのアコーディオンの詩人とか、雪の女王の中村トオルとか・・・。詩人好きだよね・・・。
で、この話の最後では、大井川に言われなくても、ジョーが自分でノリちゃんに「スミレもいいよな」って言って和解して、ジョーのイケメンぶりをさりげなく見せてかっこいい。
あと、ドヤ街の子供のキノコは原作からいるジョーのキャラクターだが、小柄で皮肉屋で講談調ってのは、ガンバのイカサマに通じるなあー。(ていうか、2では声が同じ堀絢子さんでやんす。1stジョーでは牛崎敬子さん)
- CLANNADに通じる娑婆
ジョーがノリちゃんの実家で、ボクシング好きの主人のいる林屋食料品店に西と一緒に雇ってもらって、おばさんにガミガミ怒られながら慣れない仕事を覚えて苦労するのは、CLANNADアフター編で岡崎朋也が仕事を覚えようとしているシーンに似てる。出崎統はこのシーンに対して「ゲームの原作のこういう部分は人生に対して真摯で良いよね」って気に入っていた様子。
まあ、劇場版CLANNADでは朋也がまじめに働くシーンは全カットされてるけどね!ほら、アニメ版CLANNADで京都アニメーションが忠実にアニメにしてくれるって思ったからwww出崎統の劇場版CLANNADは朋也と渚の時空を超えた恋だけを描く方向でwww
- 情けない父親、丹下段平
で、あと、アレだ。CLANNADといえば朋也の親父なんだが。
ゲーム版や京アニ版だと朋也の親父はダメダメだが、劇場版CLANNADはダメな部分もありながら、息子のために頭を下げたり苦労する良い人になってる。
ここら辺が丹下段平に通じるものがありますねー。
と、いうのは、丹下段平は星一徹のような「父性の象徴」、ジョーに「立て、立つんだ!」とどやしつける男の暴力的な一面がクローズアップされがちなんですが。
なんかアニメを見てたら思いっきりヒロインっぽいというか、乙女っぽい。まず、街にやってきたイケメンのジョーに段平が道でぶつかったのが出会いって言うのが乙女。
回想シーンではジョーはおっつあんに「最初は、こぎたねえ、酒くせえ、社会の屑、底辺、俺が一番嫌いな野郎だと思ったぜ」とか言われるけど嫌われていたおっつぁん。でも、おっつぁんは健気にジョーに尽くして、ジョーのために働いて苦労して、少しずつ二人の距離が縮まって同じ屋根の下に住む事になる。萌える。ていうかイケメンに入れあげる乙女か。
もちろん、ジョーが反抗したり犯罪したら、ジョーを一発で殴り倒して躾ける、というおっつぁんの父親っぽい所もあるんだが。
後半、ジョーがパンチドランカーになったらジョーを心配して、ボクシングを辞めさせようともするっていう母性的な所もあるおっつぁん。
ていうか、ジョーがファイトマネーをろくに計算しないで、勝手に月賦で洗濯機を買っちゃったのは「おっつぁんに楽をさせたかったからなんだぜ」っていうわけだ。オカンか。初任給でオカンに電化製品を買う感じか。愛だ・・・。
だけど、これが、丹下段平が女っぽい、というだけの話でもない。
それが実感できるのは、
第27話「明日に架ける橋」
白木ジム入りを薦められるジョー達。
段平が過去にボクシング業界で嫌われていたから、ジムライセンスがもらえないから、ジョーもプロに成れないという事を聞いたのだ。それに怒ったジョーは段平を蹴り飛ばし、段平は階段下に落下、ガラスへ頭を突っ込みあわや窓から落下の危機へ。
http://members.jcom.home.ne.jp/daoss/SAKUHIN/tv1/tv1best.htm
この、一歩間違えれば、ジョーが段平を殺害していたかもしれないとか、こういう衝突っていうのは、母親との関係ではありえないなー。
親父の昔の仕事のせいで、息子の夢が断たれるっていう。これがクラナドっぽいですね!(あしたのジョーではガラスに突っ込むのはおっつぁんの方だが)
ていうかジョーひでえ。
で、ジョーが怒りにまかせておっつぁんに重傷を負わせた時、リアルにおっちゃんは階段を一階分転げ落ちて、窓ガラスに頭を突っ込んで、そこから体を半分出したまま倒れて動かなくなる。リアルに死んだと思った。西は「もう無茶苦茶やー」って泣いた。
で、まるでエヴァンゲリオンの終盤のアスカと綾波のエレベーターの長尺シーンのように、段平はピクリとも動かない。これは怖い。
ジョーも「ごめんよおっちゃん。売り言葉に買い言葉ってやつでさ、ついやっちまった。すまねえ」って動かないおっちゃんに謝る。ジョーですら謝ってしまうくらい動かないおっちゃん。あーあ。ていうか、買い言葉ってレベルじゃないだろ。暴行。ホント、ジョーは少年院に行ったのが1回で済んだというのが信じられないレベルの暴行。
おっちゃんに暴行した後、ウルフ金串に報道陣の前で喧嘩を売っていきなりクロスカウンターでダブルKOして、実力をアピールして丹下ジムにライセンスを無理矢理発行させるようにマスコミを利用した。
白木ジムの白木幹ノ介も「矢吹君は丹下ジムにライセンスが無いために、才能が開花できないのです」ってマスコミを煽って援護射撃してたけどwww。でも、普通に暴行事件だろ。ウルフは訴えて勝てるだろ。ボクシングじゃなくて。梶原ワールドこわい。
閑話休題。
ジョーが段平に暴行をして、動かなくなったおっちゃんに謝る時の、長尺を使った不安感というのは、「息子が父親よりも力を付けてしまったが、知らずに子供の時のように止めてくれると安心して駄々をこねて暴れたつもりが、うっかり父親に勝ってしまった後の、なんだか気まずい感覚」という、父子の関係性を感じたなー。こういう親子関係って言うのは、割と普遍的な共感を呼びやすいんじゃないでしょうか。大体の人は親から生まれるわけだからなあ。
他にも、ジョーがうっかり段平の一番傷つくような事を勢いで言ってしまって、ちょっとお互い顔を合わせづらくなって、時間がたってからジョーが謝ったりって言う気まずい喧嘩も結構多い。父子っぽい。(DVを振るう彼氏のジョーと、それを支えるヒロインのおっつぁんとも見えるが)
アムロ・レイとテム・レイもそうだよね。
段平について、まっつねさんは
出崎監督の中の「父親像」の変化を感じれることだ。
出崎監督の描く「父親」あるいは「父親代わりの人間」というのは
非常に魅力的で理想的で超人的なオヤジであった。
宗方コーチもある意味ではここに入るかもしれない。
しかし、アトム誕生で描かれる「父親」は魅力的で理想的なオヤジではなかった。
情けなく、現実的で、無力。
ここには出崎監督の心境の変化がありありと描かれている。
今までは母子家庭で育った出崎監督が、
理想的な父親を夢想し
それを描いてきた。
持たないがゆえの憧れ。
ではなぜ。
それは出崎監督もまた「父親」になったからではないか、と思う。
夢想した「父親像」と、「父親」としての自分自身のギャップ。
出崎監督のインタビューで、彼もまた「父親」になっていた事が
伺えるものがある。
2000年代の出崎アニメその2 - まっつねのアニメとか作画とか
と、書いてらしたのだが、どろろの文庫版2巻の解説書に寄せた出崎統の文章を見るに、どろろの時、1969年にはすでに出崎統は子持ちだったようだぞ。
それに、丹下段平はそんなに超人的でも理想的でもないように見える。最初はアル中でジョーに「金を貸してくれよー」って言って軽蔑されるって言う出会いだし、その後も、段平は「ワシの不甲斐なさのせいでジョーの足をひっぱりゃあしねえかと、ワシは怖くなる事があるんじゃ」って愚痴ったり情けなさも見せる。ジョーのためなら土方で働いた金を貢いだり白木葉子に鞭で打たれたりって言う乙女っぷりもある。
だから、すでにあしたのジョーの段階で、出崎統の中の父親像というのは単なる理想像だけではなかったのではないかと思う。父親であっても男として煩悶しつつ生きている人間だという風に描いているんじゃないかな。(もちろん、カッコいい事もします。雪の女王のカイの親父とかな)
お子さんの年齢に合わせて、出崎統の作品像も変わってきているのは事実だと思うけど、同じ人だから、70年代の出崎と2000年代の出崎統が全く別の思想に急転換するとも思えない。あくまで地続きだと思う。
父性というのは、単純に「乗り越える壁」というだけのものではない。
父と子は、同じような人生を歩む先輩後輩、同性としての共感や同情もありつつ、それでも時間の流れで越えてしまったり、立場が変わる気まずさとか恐れもあるんだな。(源氏物語千年紀 Genjiにおいても、光源氏が東宮の親になってしまった後で、父である桐壺帝の霊に泣きついたりという気まずくも泣けるシーンがある。)
ジョーとおっちゃんは互いの夢のために互いを利用し合うっていう仮面ライダーオーズのような共犯関係でもあるから、また複雑な関係だ。
また、越えるべき壁は力石やカーロスやホセだったりもするし。また、その人たちもジョーにとってはヒロインだったりする。
そういう男たちの情感というのは在るよね・・・。
出崎統は、三回パンや、入射光、画面分割、っていう手法のみが注目されがちな、技巧派の演出家と生前から言われてきた。死んだ時も、「アニメの手法を開発した人」と言われたり、山本寛監督の弔辞色紙でも「三回パンや、入射光、画面分割を真似しました。あなたは教科書でした」って書かれたりもしたのだが。そういう分かりやすい技法だけでなく、割と普通の絵コンテの基本である「レイアウトと秒数操作」を使った「情感の盛り上げ方、全体のテンポの制御」って言うのが上手いと思う。
これは山内重保もそうなんだけど。
大事なのは、技法じゃないんだよ!
人の情なんだよ!
それがアニメだ!
それがいいんだよ!
本気が見たいんだよ!
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