玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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出崎統版あしたのジョー41〜48話 何故、力石徹は無法な減量をしたのか

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話数 サブタイトル              脚本       作画監督   演出    視聴率
第41話 力石徹の挑戦        伊東恒久    金山明博 富野喜幸 22.9%
第42話 男の世界        宮田雪     杉野昭夫 崎枕 20.2%
第43話 残酷な減量        伊東恒久    金山明博 崎枕    19.3%
第44話 苦闘! 力石徹        小林幸     金山明博   吉川惣司 23.2%
第45話 打倒! 力石へのスェイバック   松岡清治     金山明博   北島教夫 20.3%
第46話 死を賭けた男        宮田雪      金山明博   崎枕 18.5%
第47話 嵐の前のふたり        田村多津夫 荒木伸吾   富野喜幸 19.2%
第48話 宿命の対決 伊東恒久 杉野昭夫 富野喜幸 22.0%

ある意味、あしたのジョーで一番面白いかもしれない力石の減量編!である!
この半クールはまさしく力石徹が主人公と言える。エンディングも力石のテーマ(作詞:寺山修司)だしヒデ夕木だし。ウワァーォ!
出番的にも、減量に苦しみながらアッパーを磨く力石がメイン。

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矢吹丈は割とぬるい。
減量に苦しんでいる力石とさきまくら演出で対比して、減量から脱落してうどんを喰いに行くマンモス西をボッコボコにするジョーだが、ジョー自身はそんなに減量に苦しんでいない。(このころは)
マンモス西は減量の苦しさに耐えかねたというより、男の世界から脱落したんだ、味噌っかすになり下がっちまったんだよ!という精神的な物の弱さなのだ。
(ていうか、西はボクシングよりプロレスの方が向いてたと思う・・・。タイガーマスクと被るからやらなかったけどさ…)
でも、45話でジョーが力石のアッパーカット作戦に対抗するために二対一のアッパー連続攻撃スパーリングを丹下段平と西の二人にやらせる時、西は特におとがめなしでリングに上がってスパーリングしていたな。練習相手としては使ってやるジョー。個々の場面は、ちょっと困惑した。感情論として、ジョーにあそこまでボコボコにされた西が簡単にジョーの練習相手に復帰するのはラインが繋がってないような気が・・・。

だが、ジョーは西にはほとんど話しかけてないし、西のパンチはよけるだけで、ジョーがスパーリングで殴るのはおっつぁんだけ。ここらへん、ジョーは陰険かもしれん。
(いや、ジョー2での西との最後のスパーリングとかは結構しんみりとしてて良い話なんだよ)
でも、おっちゃんとは一緒に風呂に入ったり、和やか。


力石がアッパーカットでクロスカウンターを封じる作戦をフィリピン人ベテランボクサーを屠る事で見せつけたのに対抗して、ジョーが行うダブルアッパー特訓も、特訓としては特訓なのだが、力石の壮絶さやドラマ性に比べると、ぬるい気がする。こんなにジョーの方がぬるいと、力石の壮絶さの方が強調されて主人公が逆転しちゃうような・・・。
やはり、ここでの主人公は力石徹と言う事か。
しかし、物語の構成で言うと、ジョーは力石と戦った後地獄に落ちるので、ここでジョーとおっちゃんが一緒に風呂に入るくらい仲良くしておいて、幸福度を上げてから落とすというのも、ギャルゲーの泣きゲー文脈としては正しいか。FATEは文学
あと、48話で、力石と実際にジョーが対戦してみたところ、力石のアッパーをよける特訓は出来ていても、反撃が全くできていないとか、力石が減量に慣れてバンタム転向1戦目の対フィリピン人戦よりも血色が良くなっているというのがピンチ感を倍増させるな。勝てると思ってたら新しい課題が出来てたり、ビビる。
明日はどっちだ!

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では、各論

  • まずはメインスタッフ語りから。
    • 脚本総入れ替え!

出崎統の脚本手直しまくり癖に閉口した雪室俊一山崎忠昭コンビが本格的に降板!以降、彼らの登板は無し。以降、この二人が出崎統作品に参加した事はなかったという・・・。(富野が演出で参加したり、出崎統の弟子筋の人の監督作品に参加した事はある)
で、


伊東恒久さんはガンダムF91とかサブングル、ダイオージャ、レイズナー巨人の星、国松さまのお通りだい、ムサシロードで、富野やサンライズ出崎哲、統兄弟とちょっと関係があるね。
宮田雪さんは海のトリトン、松岡清治さんも海のトリトン。このお二人は虫プロ系かな。
田村多津夫さんは「国松さまのお通りだい」とエースをねらえ!もやってる。
そういう人脈がもともとあったのか、とりあえず引っ張ってきて、脚本チェンジ。
富野ファンとしては、機動戦士ガンダムF91伊東恒久さんが気になる。ふはははは怖かろう。
宮田さんと松岡さんについては、富野監督は海のトリトンではラストを黙って作っちゃって脚本家に嫌われたって言ってたので、まあ、そうなんだろうなー。その後の付き合いは無いし。
ホント、初期の富野由悠季出崎統は脚本家に嫌われてきたよなー。最近は若手に尊敬されたりもしてるけど。あと、高屋敷さんとか金春智子さんとか、スタッフが固まって来た後の出崎統は割と良いよね。絵は杉野昭夫さんとのコンビが初監督作のジョーから出来てて、それがかなりあしたのジョーの救いになってる。

    • 演出

8話中、さきまくら演出が3!ウルフ戦ではほぼ一人演出ノー脚本と言う地獄をやったが、ちょっとおちついたな。富野の演出も3・・・。
この後、1/3以上が崎枕、1/4以下が富野、残りがローテーションという富野と出崎統のややツートップ体制で行きます。富野仕事しすぎですね。掛け持ちで。ていうかこの二人は異常。
それにしても、崎枕演出は尖りまくってる。(しかし、大井川ドクター出ないな・・・。初勝利バンザイの菫のポエムをやりたかっただけのキャラか?)
それに対して、富野演出もカッコいいぜ。47話。
しかし、ジョーはこういうはしゃぎ方をしたりするよね。ギャグっぽい和みシーンも入れるね。各話の序盤には。



そして、序盤で和んだ所で、後半にテンションを上げる!っていう構成が多い。(試合中はずっとテンションが上がったままの時もある)
48話で、ついに力石と開戦するのも富野演出。
あと、あんまり関係ないかもしれないけど、下手のジョー派と上手の力石派の観客がガヤガヤと野次を飛ばし合う48話のって、後の富野作品の無責任な大衆達や、そういう人たちを通じて場の流れを描く手法に通じると言えなくもない。ジョー派がドヤ街の労働者で、力石派がサラリーマン風?




あと、書き忘れていたけど、38話のウルフ編とか、分身したりっていう後の出崎統演出の片鱗が。



3回パンはまだハッキリと出てないけど、ズームインする所を3カットに分けてカメラに緩急を付けて依っていくのは3回パンっぽい。


んで、あと、照明や太陽を反射して白眼が光るようなエアブラシ処理もこのころから増えてきた感じ。目が光ったり、それで感情を現わしたり、怖かったり。これも源氏物語千年紀 Genjiまで続く出崎統のキー演出ですねー。三つ子の魂だな。初監督作品って逆にフィルモグラフィだな・・・。




閑話休題


では、本題。
なぜ力石徹は無理にバンタム級に降りたのか?
それは力石徹力石徹だからだ!力石徹が誰でもない、力石徹という魂を持った一個人だという事だからだ!自由だからだ。自らに由るからだ!
結論はこれだけだと、終わるので、ちょっと説明。

    • では、ここでまずはボクシングの階級を整理してみる。

 ヘビー級 86.18 kg 以上 190 ポンド以上
 クルーザー級 86.18 kg 以下 190〜175
 ライトヘビー級 79.38 kg 以下 175〜168
 スーパーミドル級 76.20 kg 以下 168〜160
 ミドル級 72.57 kg 以下 160〜154
 スーパーウェルター級 69.85 kg 以下 154〜147
 ウェルター級 66.68 kg 以下 147〜140
 スーパーライト級 63.50 kg 以下 140〜135
 ライト級 61.23 kg 以下 135〜130
 スーパーフェザー級 58.97 kg 以下 130〜126
 フェザー級 57.15 kg 以下 126〜122
 スーパーバンタム級 55.34 kg 以下 122〜118
 バンタム級 53.52 kg 以下 118〜115
 スーパーフライ級 52.16 kg 以下 115〜112
 フライ級 50.80 kg 以下 112〜108
 ライトフライ級 48.97 kg 以下 108〜105
 ミニマム級(ストロー) 47.61 kg 以下 105 ポンド以下

バンタム級、軽いな!
私の身長は1年戦争時のアムロ・レイカミーユ・ビダンと同じ168センチくらいで、体重は一番絞った時で54キロ、体脂肪率10%でした。今は体脂肪率は18くらいで60キロくらい。ちなみに私は運動はからっきしです。
2011年時点でのバンタム級WBA世界チャンピオンの亀田興毅さんは身長166センチです。意外と小柄ですね。

エグいほど強いで!!

エグいほど強いで!!


んで、力石はどうかと言うと、66.68 kg 以下のウェルター級6回戦デビューで13連続KOの天才ボクサーだったが、野次を飛ばした観客を殴り引退、(アニメ版ではその後も血を求めて盛り場で暴力沙汰を起こし)、少年院へ。少年院でのボクシング大会では、丹下段平に「力石君はライト級はたっぷりある体格だ」と言われていた。61キロ程度。少年院でジョーとのライバル関係を構築する寸前の時点で既に5キロくらい絞られている。
で、少年院の退院後はさらに下がりフェザー級(57キロ以下)に転向。そこでも破竹の快進撃を続け、テレビのスターとなる。
そして、矢吹ジョーがバンタム級のプロボクサーになったので、さらに3キロ以上絞って53.52 kg 以下のバンタム級へ。
ここら辺の階級の変遷は原作もアニメも同じ。
まず力石が少年院出所後にウェルターからフェザーになった時点で異常。やはり、少年院のボクシング大会の変則ルール試合でダブルKOとなったジョーとの決着を望んだからであろう。葉子にも「貴方の骨格はフェザー級でもギリギリなのよ」って言ってる。
しかし、力石自身は少年院出所直前に草拳闘の野良試合の雨が降る二人きりの野外リングで、ジョーと決着するつもりだったようだが、そこでジョーがグローブに石を入れて殴るという無法をやったり刑務官に止められたので、うやむや。そこで、丹下段平が「実はジョーも少年院を出た後はワシの元でプロボクサーを目指すことになっとる。どうかね、決着はプロのリングでつけては」と、言ったのが直接の原因。そこでうやむやのうちにジョーが自分のジムに入る事に決めちゃう。
おっつぁんよぅ・・・。おっつぁんはジョーと力石の階級が違うと熟知していながら、そんな事を言う。ひでえなあ。
何故かというと、ジョーが「どうしても、倒したい相手が出来た」って力石について手紙に書いて段平によこしてボクシングに対するやる気を始めて見せたからだ。
段平は少年院でジョーに防御を教えるために、ジョーを無視して青山の専属トレーナーになって気持ちを二人の気持ちをもてあそんだ前科がある。段平はボクシング界に復帰するというためにジョーを利用しているという一面があるのだ。だから、ジョーにボクシングをしてもらうために力石を利用したんだな。ひっでえなあああ。
だが、あしたのジョーは「自由」の物語なので、おっつぁんにはおっつぁんの意思があって、そのために他人を利用しても良いのだ。そして、ジョーや力石がその上でおっつぁんの意思に乗るか、逆らうか、それも自由なのだ。それこそが自由。自分の意思を貫くってのが、あしたのジョーだから。
ある意味群像劇であり、全員自分勝手だよな。結構そう言うの、好きです。

    • では、それぞれの思惑を整理。

彼らがどのように、力石とジョーの決着を付けるのが理想だと思っていたか?
◆原作での力石の思惑
原作とアニメでは、力石とジョーの台詞が違う。
ただし、僕はアニメでの42話「男の世界」相当分までしか原作を読んでないので、その後でちょっと違う所があったら勘弁な。(ちゃんと原作を読んでからって言う意見は分かるんだが、マンガミュージアムで力石戦の巻だけがずっと借りられてたんです。あと、GyaO!の配信ペースとか)


原作では、力石は「ジョーはいずれフェザー級に上がってくるつもりでしょう。だが、それじゃあだめだ。そのころには奴はぶくぶくと肉がついて俺に優位になりすぎる。だからこっちから降りて行くんです」と言ってた。この台詞は、アニメ版ではカットされていたか?ちょっと説明的過ぎるし、ジョーをなめてるっぽいからかな?
余裕?意地?
原作でもアニメでも「少年院時代で素人に引き分けた汚名を断ち切ってから、プロとして栄光の道に行きたい」と、退院直前のジョーとの野良試合の時に白木葉子に言っていた。

もし…あいつをみごとたたきのめすことができたら そのときにこそおれは おれの野望をめざし 富と栄光とをめざして自信満々つっ走ることができるでしょう
要するに…かんたんにいえば
おれと引き分けたような男が―
たとえ 階級がちがうにせよおなじ世界に生きているということに耐えられんのですよ この力石徹という男は!

プライドの高い力石か?この台詞はアニメの「男の世界」でもほぼ同じだったと思う。
しかし、ジョーはその後成長期になってしまい、金竜飛と戦う時に減量地獄になった。それを見ると、力石はちょっと待ってたらよかっただけな気が・・・。でもジョーは金竜飛戦の後、減量に体が慣れる。


◆アニメでの丹下段平の思惑
ジョーに「少年院での決着を付けろとは言ったがな、力石君はフェザー級、おめえはバンタム級、それぞれでチャンピオンになれば、それで決着って事になりゃあしねえか。それでいいじゃねえか」と、ジョーをプロボクサーに仕立て上げるために力石を目標にさせておいて、うやむやに穏便に収めようとするおっつぁん。策士。ジョーをプロボクサーにしたおっつぁんにしてみれば、必ずどちらかが壊れるようなジョーと力石の試合は得じゃないし、意味のない遺恨試合だし、力石にも損だと思ってる。
だが、それは力石にもジョーにも無視される。もはや、両方とも引く気は無いのだ。



◆アニメでのジョーの思惑
ジョーもフェザー級に乗りこむつもりでいた。ジョーはジョーで余裕だし。
でも、力石が下りてくるんなら、それはそれで受けて立つ。
「少年院でも、ボクシングでも、力石、お前が先輩だよな、だったら先輩の方からこっちへ降りてくるのが筋だよな」と、偉そう。甘えでもある?
同時に、「このバンタム級でも決着がつかなけりゃあ、減量が原因でお前が負けるような事があれば、次は俺がフェザー級だ。それでいいよな。それで恨みっこなしだぜ」とか。(台詞の引用はうろ覚え)
プロボクシングの試合で決着を付けるという枠組みには同意していても、あくまでプロボクシングより、ジョーが重視するのは二人の気持ちの問題でしかない。
ジョーは自由だから、自分の人生を自分で決めて、自分で決めたルールで行動する事を至上とする。
出崎統版のテレビ版ジョーは豚に乗った脱走を力石に阻まれた後、次の話で、実は何にも使わないで脱走に成功している。理由は、ない。だが、笑いながら海岸を走った後、海を見て力石を思い出して自分から少年院に戻った。これはアニメオリジナル。アニメでは「力石に脱走を阻止された」だけじゃなくて「ジョーは脱走くらいやればいつでもできるけど、そういう即物的な事じゃなくて力石がムカつくという心理的な自由の方を優先させて、決着を付けたがる」っていう心情を強化している。
損得とかじゃなくて、自分の気持ちをスッキリさせて生きるってのが一番。出崎統って独自の美学がありすぎだと思う。


◆アニメでの力石の衝動
そして、アニメ版の力石の衝動である。
ウルフ金串戦で、力石がダウンしたジョーに向かって「立て!立つんだジョー!」って叫んで起きあがらせたのは原作もアニメも同じなのだが、アニメだとウルフをジョーが倒した時に「本物だ・・・。矢吹は本物だった・・・」って光る嬉し涙を流した。この涙が重要!
単にジョーが本当に才能のあるボクサーだった、ってだけじゃないのだ。
劇場版AIR国崎往人神尾観鈴ちんに向かって「本気が見たいんだよ!」と叫んだような物だ。ジョーの中に力石の魂の本気を燃えあがらせる炎を見たからだ!だから力石の体の中の涙が自然にあふれるのだ。
ほんと、出崎統は27歳の時から60代で死ぬまで全然ぶれてないですね。ずっとトップスピード。ずっと野獣。

力石がジョーの中に見た本気とは、自由への本気だ!親なし、宿なしの名もないボクサーは鎖を噛み切った!っていうのが力石のテーマなのだ。
だが、最初の力石は血統書付きの名犬、ボクサーのエリート、血に飢えて事件を起こして少年院に入っても白木葉子の飼い犬になり下がっていた!葉子の出た少年院慰問芝居をデレデレとした顔で見ていた。これはアニメ版唯一の力石が気取ってない、カッコ悪いシーン。(マンガ版の最初の方はキャラがぶれていたので、割とカッコ悪かったり、意地悪だったりした。フランケンシュタインの怪物みたいなブサイクで不気味な顔だったし)
力石は白木葉子にボクサーに復帰させてもらうっていう恩義を感じていたが、それ以上に知らず知らずのうちに白木葉子の手の中で安住する弱虫になっていた。それで、ジョーが慰問演劇の時に葉子を侮辱した事に対して怒り、その怒りがあったせいで実力がぶれてジョーとの最初の少年院試合でダブルノックアウトする事になった。
力石徹はボクサーである。
ボクサーにとって一番大事なボクシングに、ジョーは泥を塗ったのだ。それは、恩義のある美少女の白木葉子への力石の感情を侮辱した事よりも、力石にとって重い事だったのだ。だから、力石は白木葉子や白木ジムの意向とは関係なく、ボクシングでジョーと直接決着をしなければいけないと思うようになった。また、力石はウルフ戦などで白木葉子と共にジョーの試合を観戦し、解説役をする事も多かったが、ジョーがのし上がるとともに、力石はジョーを見くびったような白木葉子の感想に対して「いや、お嬢さん、ジョーはもっとすごいですよ」と、反論をして、徐々に葉子に反抗する傾向を強めて行った。
そして、ジョーが名ばかりの狼だったウルフ金串を倒して本物の狼だと見せつけた時、力石もまた、狼になろうという衝動にかられ、ジョーと戦う事を、彼自身も気づかずに流した涙と共に決意したのだ。白木葉子の毛並みの良い飼い犬から、一匹オオカミに自らなろうと燃えたのだ。
アニメ版のあしたのジョーの感情の流れは、原作に対する後出しじゃんけんである事もあるが、非常に上手く制御されている。


エリートコースが約束された実力を持つ力石にとって、矢吹丈と無理して戦う事は何の得もない事、だが、それをしなければいけなくなったのは、力石にとっての「あしたのため」。
ここで、出崎統信者として有名なまっつねさんの言葉を引用してみる。

観鈴ちんを医学的に助ける方法 - 玖足手帖-アニメ&創作-
id:mattune 2009/01/27 22:29
逆にいうと、劇場版AIR
往人が観鈴のオーバーヒートによってオーバーフリーズから解放される話なので
まあ容赦のない話といえば容赦のない話


出崎にとって、他人のフリーズを溶かすほどのヒートというのは
常に命の代償を求めるものなのでしょう


ジョーの力石しかり、エースの宗方コーチしかり、
ベルバラのオスカル(革命というオーバーヒートの代償)しかり
出崎が「白鯨」という話を好きだったのもそこらへんでしょうね


nuryouguda 2009/01/27 22:58
呪われてるわけではない国崎往人がなぜ救う側ではなくて解放される側なのか、って言うのはオタクファンタジーの設定的には根拠が無いですけど。
「男の人生はつらい事の連続」でオッケーでしょうか


mattune 2009/01/28 02:49
>呪われてるわけではない往人がなぜ救う側ではなくて解放される側なのか



それは「なぜジョーはボクシングをせねばならなかったのか」という疑問と同義ですね
頭がきれて喧嘩も強い、度胸もあって顔もいい
でもやっぱりジョーはボクシングをやる必要があった、
多分、あしたのために

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実は、2年前にまっつね氏にこう言われても、いまいちわかってなかった。
「あしたのために」って漠然としててわかんねーよ。


今はなんか、「あしたのため」→「未来決定権を持つ」→「自由」→「他人に人生を左右されたくない」→「拳で自由を守ってきたジョーの場合は力石に負けた事や死なれた事で、人生に負い目を残したくない」「力石の場合は、素人のジョーと少年院で引き分けた負い目を残したくない」→「すっきりとした気持ちで次の日を自分で決めて行くため」と言う事。
か?
って思ってる。


それはつまり、自分の人生に他人を介入させたくないっていう子供の理屈なのか。
というか、社会や大人の枠組みに沿って考えや行動を曲げたくないっていう原始的な本能。
ジョーは42話あたりで段平に「バンタムに拘るならのが大人気ないなら、俺はそんな大人になりたくない」ってはっきり言ってる。ルールとか自分が考えた事以外の事で行動を変えられるのが嫌なの。
まあ、そこで終わらないで、自分が我を通した結果、ジョーが他人の人生を変えて来てしまった事に気付いて、苦しむというのが、あしたのジョーの深い所なんだけどね。
力石に本気のオーバーヒートを見せて燃えあがらせたジョーが、逆に死をかけた力石やカーロスのオーバーヒートを背負ってボクシングの世界チャンピオンを目指し続けるという逆転劇など・・・。どうしても一人では生きられず、何かしらのエネルギーの交換が起きてしまうのがドラマ・・・。


話は変わるが、AIR劇場版CLANNADで、孤独に他人を拒否して生きていた青年が、観鈴ちんだんご大家族と言った他者の命がけのオーバーヒートを受け入れるっていうのは、他人を自分の人生に受け入れて大人になるって事だろうか?それはそれで「あした」の一つの形か?

では、男として一人になろうとする力石やジョーに対して、女としてつきまとう白木葉子についても考えてみよう。彼女もまた、いなければ、この物語は成立しないのだ。
しかし、宇野常寛さんの「母性のディストピア」っていう言葉は便利な言い回しだと思う。だが、それはあくまで宇野さんの造語センスであって、概念や人の行動としては21世紀になってからいきなり出てきたものではないと、あしたのジョーを見ると思う。
そもそも、腕力のない女が男を心理的に絡め取って従わせようとして戦ってきたのは、人類の歴史上珍しい事ではない。そう、母性は男を優しく包み込み、安心を与える代わりに男から自己決定権と言う自由や明日を奪い、支配する力。
母系社会から父権社会に移行した文明社会も、あまりにも働かない怠け者の男(現在も食料が豊富な熱帯の母系社会では男性はあまり働かないらしい)に対して、女性が「男にはプライドがあるのよ」と教え込んでそそのかして裏から操って戦わせて生まれたという説がある。主に富野由悠季とかが言っている。たしかに、男は女をゲットするために張り切って戦う時があるからな。
ただ、あしたのジョーはそういうヒロインを賭けて争う話ではなく、誰のためでなく自分自身のプライドのために闘う物語なので、またややこしいのだ。外面の簡単な話の流れとしては殴り合い勝負でしかないのだが。

力石徹の減量編、崎枕の演出した46話「死を賭けた男」と富野喜幸の47話「荒らしの前の二人」において、その葉子の不気味さ、力石に対する圧力を「水」というユングフロイト的に女を連想させる(?)物質を上手く使って演出していて、見事。これは多少画像をキャプチャー引用して書かねばなるまい。
葉子としては、力石徹が自分を無視して力石の意思で行動して、無茶な減量をして自分だけのためにジョーと決着をつけようとするのを辞めさせたい。力石は大事な白木ジムのホープなのだ。また、葉子は少年院に落ちた力石を救う慈善家の自分と言う自己像を持ちたがっている。また、女の母性本能のダークサイドとして男が勝手に自分の手足(腕力に乏しい女性にとって、恋人や息子は強化された手足でもある)以上の自由意思を持つと、自分の体が上手く動かないような不愉快さを感じるものだろう。
(極端な例だが、加藤智大やお受験競争で母親の期待に応えようとする子供たちの育てられ方を参照。ネットにいくらでも載ってる)
このころの葉子はまだ矢吹丈を認めてはいない。愛してはいない。だが、無意識的にジョーに心をかき乱されてる、という認識。


しかし、力石はそんな葉子を無視している。サンドバックに浮かぶにくいあんちくしょうは、矢吹丈

それでジョーの事だけを考えて減量し、白木邸で寝泊りしていたのを辞めて白木ボクシングジムの地下室に自らを幽閉する。だが、過酷な飢えで、鼠にまで食欲を感じてしまう。思わず口を覆って我慢する力石。(台詞での説明は無く、映像のみ)



さらに、追い打ちをかけるように、力石の安眠を妨害する水の滴り。



減量で一番つらいのは食事よりも乾きだそうだ。力石本人が減量を始める時にそう言っていた。段平によると、減量中は何も考えないで寝るのが一番いいらしい。だが、眠らせない水滴。


耳を覆って眠ろうとする力石。拷問のようだ。
良く考えたら、近代的設備の白木ボクシングジムにおいて、鼠が出たり水が漏れたりと言うのは妙なのだが、力石はドヤ街で何もない所で這いあがってきたジョーの「本物」の精神に近づきたくて、わざとジムの中で一番ボロイ倉庫に入ったのだろう。
そこへ唐突に登場する白木葉子


この観音開きで登場し、後光の射した正面顔が脅迫的だ。(ちなみに、ちばてつやの原作のジョーでは正面顔はほとんどないらしい。特にジョーは髪型の関係でほとんど正面顔が無い。逆に、アニメではジョーも含めて正面顔が多い。アニメの正面顔は、インパクトを持たせるためか、コマ割萬画とテレビ画面では視線誘導の文法が違うからか)


葉子は「たまには外に出てみない?力石君」と誘う。誘った先は、海。
海は出崎統作品では非常に多様な意味を持って、いろんな場面で出る舞台である。(原作のあしたのジョーでは、少年院は農村に隣接した山の中に在ったが、アニメ版では海に囲まれた孤島である)
ここでの海は、前のシーンとの関係を考えると、「力石の渇きを煽る水滴が集まった恐怖の象徴」「飲んでも渇きが癒せない塩水」という恐ろしいものと見える。荒々しい波と、淀んだ曇り空。そして、寒々しい季節。


無人の海の家に座り込んで、それを恐ろしげに見つめる力石。
水辺を歩く葉子。


(下手から上手への移動で、次のカメラのイマジナリーライン越えの視線をスムーズに誘導する歩き)

だが、葉子は渚にたたずみ、荒海の中へ入ろうとはしない。そこがこの時の葉子の決心の弱さ。(ていうか、決心したのはホセ・メンドーサ戦の最後)


蠱惑的に力石を、「こっちへいらっしゃいよ、冷たくて気持ちいいわよ」と誘う葉子。
明らかに「減量を辞めて、私に従いなさい」という水の女。また、水の力を借りて力石の心を砕こうとする策士。水に怯える力石に、大量の塩水を見せるのは嫌がらせだ。(台詞での説明は一切ない)



だが、動かない力石



5秒前とは変り、眉をひそめ、口元を見せない葉子。従わない力石に対して、不満げ。



ほんと、出崎統は母子家庭だったからか、女性関係が派手だったからか、女のこういう嫌な部分もうまく描くよなあ・・・。ロイエンタールか。


そして、また歩き出す葉子。


それを見つめ返すような力石



だが、力石が見ているのは、水辺でウロウロしている葉子ではなく、荒海の水平線の向こう、あしたに向かい夕日からやってくる矢吹の幻影!この視線の角度の微妙なすれ違いの美しさ!男の世界と女の認識の違い!



このジョーの海は、波打ち際に留まって海原と言う戦場(これも出崎統作品によく出るモチーフだな)に出て行かない葉子との対比で、「渇きや苦難を乗り越えた先に在るあした」「あしたからやってくるライバル、ジョー」という、多少肯定的な意味合い。
劇場版CLANNADの渚と汐も連想しないか、と、君は!)



そして、力石は葉子とは逆の方向へ、葉子の靴を残して車の方へ去る。


当てつけるように逆方向へ走る葉子


この絵は日本アート・シアター・ギルド(ATG)映画みたいだ。大島渚世代だ。


車に戻った力石は、オープンカーの幌を下し、窓を閉め、耳と目を塞いで、潮騒の恐怖を断ちきろうとする。海に誘って心を砕こうとする葉子の精神攻撃も嫌だし、海の向こうから力石を命がけの戦いへ誘うジョーの幻影も見ないようにする。



この、減量の渇きと言うのを、食べられないとか体重が減るっていう分かりやすさではなく、「水滴」→「大量の水の親玉である海」で表現する感性が素晴らしいな。アーティスティック!この部分は原作を読んでないけど。


だが、葉子は力石が閉じこもった車に入ってくる。



その手の花は海岸に咲いていた花。多分、葉子は裸足で海辺を走って、冬の岩壁でたった一輪の花を探してきたんだと思う。
荒海のほとりに咲く一輪の花。つまり、渇きの中での潤い、唯一の淡水。葉子の慈しみでもあるが、これは減量と言う苦行に挑む力石へ減量を辞めさせようとの誘惑でもある。花は女の性的な象徴でもある。
だから、力石はそれを受け取る事を拒否する。無言。無視。ついにキレる葉子。

「今のあなたには海や花の美しさも関係ないようね。立派よ、力石君。
あなたはどんなに苦しくとも、自分が力石徹である事を絶えず忘れないのね。
冷酷、非情、相手を倒すことだけに生きる男、ファイティングマシーン、それがあなた、力石徹、そうなのね。
花の美しさを認めた途端、あなたは自分が力石徹と言う事に自信が無くなるんだわ!
そうして力石徹と言う男は誰の助けも借りず、一生強がりを言って生きて行くのね!」

1970年のテレビアニメでは非常に珍しいリップシンクロというか、4段階唇動作でブチギレ長セリフ。
葉子は他人に施しをするほど余裕のある聖女であるが、逆に相手が施しを必要とせず、むしろ施しを受ける事は、自分の魂に踏み込まれて自由を奪われる事だから嫌だと思う場合なら、聖女は途端に無力になってしまう。葉子のそんな部分はジョーにも指摘されてる。「あんたは本当はからっぽなんだよ」って。
だから葉子は怒る。



結局、ジムに戻ってから力石の部屋に活けられた花も、力石にとっては水を目の前にちらつかせる誘惑で苦しみの原因となり、半狂乱になった力石によって割られる。



だが、そこで力石の肉体と精神の苦しみは限界に達し、力石は「減量はもうやめだ!」と口走りながらドアをぶち破り、水を求める。力石の監視役だった練習生は、白木葉子を呼びに行く。



だが、駆けつけた葉子は力石に声をかけず、助けず、陰から見てる。巨人の星の明子姉ちゃんが隠れて見てるよりももっと冷徹。



で、有名な葉子が針金で水道を封印して飲めなくするシーン。
蛇口を針金で留めて、自分が渇きに耐えられなくなった時に備えるっていうのは力石本人の発案なのだが・・・。ジョーの原作のちょっと前に活躍したファイティング原田も減量中にやったらしい。



そこで水が飲めないという事を、シャワー室も全て駆けずり回って確認して絶望しきった力石の後ろに現れる葉子。登場する構図や照明が完全にホラー。
だが、母性あふれる葉子はそこで涙を流し、「私は渇きに耐えかねてあなたが減量を辞めた事を悲しんではいません。ほんの少しでも貴方にも人間らしい弱さがある事がとても、とても嬉しいの」と言った。



この涙も、また「水」のモチーフの一つ。


そして、わざわざイマジナリーラインを越えて、白湯を差し出す葉子。



仏陀の苦行を救うスジャータであり、力石という男の意志を奪い、弱い飼い犬にしようという母性の支配、調教する魔性でもある。
「さあお飲みなさい、力石君。これくらいの白湯を飲んだからと言って急にウェイトが増える事は無いわ。」
「それに万一、この一杯が原因で減量に失敗したのなら、私、お爺様にお話ししてどんな手を打ってでも試合の方は中止してあげます」
↑男を誘惑しながらも、財界の大物である白木幹ノ介お爺さまの男性的権力を利用することを、自分の手柄のように言うのが、女らしいな。おにいさまへ・・・。や青年のための読書クラブ桜蘭高校ホスト部といった学園少女漫画も連想する。少女たちの学園での権力や耽美を支えているのは耽美とは正反対の父親の権力財力なのだ。甘い蜜の部屋とかな。女は嫌だねー。
そんな葉子は
「さあ、たかだかコップ一杯の白湯よ。これを飲んだからと言って、力石徹力石徹でなくなってしまったという人は絶対にいないのよ」
だが、
「そのお気持ちだけ、ありがたく飲ませて頂きます」

そして、再度イマジナリーラインを越えて、カメラも俯瞰にして、力石はその白湯を捨てて、救済と誘惑を拒否する。ここで、力石は完全に自分の意思で母性を卒業した。


他人に評価されるかどうかという問題ではない。力石徹力石徹かどうか決めるのは力石徹なのだ!自分で自分には嘘はつけない。それが、その自由意思を自分の中で強く持つという事が、その苦しみこそが、自由をテーマにするあしたのジョーであり、自由の強さ、厳しさ、素晴らしさなのだ!




だが、力石は葉子を拒絶したのではない。「そのお気持ちだけ、 ありがたく 飲ませていただきます」「お嬢さんの涙で、この力石徹、決心が固まりました」「もう大丈夫です。もう見張りも鍵も要りません」



「お嬢さん・・・・・・ありがとう・・・・・・ほんとうに・・・・・・」



ここで力石が涙を流し、水のモチーフをめぐるジョー、葉子、力石の円環構造が完結する。減量苦を煽る水に怯え、ジョーを連想する荒海と対峙し、葉子の救済の白湯を捨てる力石だが、彼自身が涙の水を流して、人間性を回復する。す、すばらしい!
葉子とも和解するのだ!そして、力石を一方的に救ってやろうとした葉子の気持ちが、逆に力石によって救われるという、自我を張った力石と母性の葉子の対立が、また違うステージへ移行するというドラマの高揚感がある。
そしてラストに鳴り響く力石のテーマ「書け、名前を。”徹・力石”」これで力石は力石だとさらに強くなった。

それに被せて、再び力石とデートした時に美しい花を見つけた葉子の岩壁の絵が挿入されて、46話は終わる。葉子の心は救われたのだ。(悲劇が起きる前の、この時点では)


ここから富野演出の47話。だが、水のモチーフは続く。



ジョーとの試合中で残像のように飛ぶ汗が有名だが、試合前のサウナ内練習シーンで飛び散る汗も、また水のモチーフとして続いている。力石は存分に汗を流しても大丈夫なのだ。強くなったのだ。



サウナ用のストーブの上のお湯がカラカラに沸騰してなくなっても、力石は平気。
これで、力石は試合前に強化が完了したと見える。台詞で力石が減量に適応したと語られるのは、試合が開始された48話に、段平によって「以前より力石の血色がよくなってる」という場面。台詞より先に現象を描く。



しかし、葉子も自由を奪おうとして力石を監視する母親的な女というだけではない。ましてや社会に抑圧された女でもない。実は誰よりも葉子は自由人なのだ。
以前書いたのがこれ。↓

  • 葉子・・・その謎

私は、白木葉子はジョーの半身で裏側だと思う。

白木葉子もジョーと同じく自由を追求する女だ。と、思う。

そもそも、金もある割に、特に何かに縛られたり学校に行っている描写もなく、何にも縛られてない。家の業とか、結婚とかの臭いもない。教育は家庭教師か?

とにかく謎。生活が。
(注:原作では、白木葉子は少年院を慰問する学生劇団のリーダーとの事だったので、学生ではあるようだ。だが、アニメではそこら辺のはっきりした身分をオミット)


でも、すごく達観して、常に勝者の風格を漂わせている。

これがまた、ジョーをムカつかせるわけだ。ジョーが手に入れたがる自由を最初から持っていて、あまつさえ人に与えるような女だからだ。葉子は自由だ。



だが、同時に白木葉子は女であると言うハンディキャップを持っている。

これは男女の腕力差といった単純な問題だけの話ではないのだが。葉子はジョーや力石のように自分で殴り合いをすることはできない。財力も祖父から譲られたものだ。商才を発揮したり、寄付したりイベントをプロモートする能力はあるが、結局イベントを実行し試合をして、寄付された金を生かすのはジョーや他人たちだ。っていうのが、このマンガの世界観ですね。

だから、葉子は「自由でありながら、自由を求めて自分の手で勝ち取る事が出来ない、空っぽで疎外された存在」という、ものすごいめんどくさい条件の立場なのだ。ジョーは「あらゆる自由をもともと持っていないけど、だからこそ勝ち取る”あした”のために戦う事が出来る」という人。

それで、葉子はジョーと同じく「自由」に重きを置く立場でありながら、その「自由」を中心にジョーの裏に立ち続けるしかない存在となる。

だからこそ、ジョーを見ると葉子は自分が空っぽの人間であるように思い、ジョーにもそれを指摘され、それを埋めようとまたジョーや力石に間接的、直接的に関わって、ドツボにハマっていく。

ジョーが葉子に怒りを覚えてしまうのと、同じなのだ。あしたのジョー2でジョー自身が「何で俺たちは、いつも会うたびにこうなっちまうんだろうな・・・」と言っている。

それは、二人が本質的に同じだが、決定的な所で逆で裏の存在だから、同族嫌悪と同時に、自分で自分の顔を見れないような、すれ違いを起こす関係だからだろう。


出崎統版あしたのジョー第1話〜22話後半 - 玖足手帖-アニメ&創作-


そこで、葉子は「私は男の世界に入れないわ・・・」って諦める女ではない。葉子も断食してた。



女だしボクサーじゃないし、男の戦いに入れないが、それでも波打ち際であっても海や戦いの場に入ろうとする、そんな葉子。男たちと拳を交えられないし、魂も通じ合えない女だけど、少しでも近付きたいという魂は持っている人間なんだ。葉子も。
これはホセ・メンドーサ戦のラストシーンまで一貫する。あ、ヒロインっぽい。
こういう人間性の幅広さがジョーと言う作品の魅力だなあ・・・。
また、たっぷりした水の風呂に入るジョーと段平のコンビとの対比にもなってる。


追記:
また、ここでやつれた葉子を先に何の説明もなく映してから、葉子に対して「お嬢さん、無茶ですよ。お嬢さんまで食べないなんて。昨日からトマトジュースだけじゃないですか」と解説する男男が登場。後から解説してインパクトを出すのが富野っぽい。

あと、富野って映像の原則で「瞬きって動画が二枚だけで表情のリズムや雰囲気が作れるから便利」って書いてたけど、実に富野だなー。



そして、カッコいい力石の本領はまだある。
46話で無残に叩きつけられた花は、47話で落ち着いた力石の部屋に飾りなおされている。もはや力石は水滴に怯える事は無く、ぐっすりと眠っている。すごい!


力石の精神と肉体の安定を描きつつ、力石と葉子の精神的な和解も描かれている。力石の紳士的な優しさも。


ここで、花を大写しにしてから、奥の闇の中の力石にピントを交換するのが富野っぽいなー。映像の原則に書いてあった、「カット頭の重要さ」だな。
出崎統っぽさもありつつ、混ざってる。


そして、計量に出かける前の力石陣営の白木幹ノ介財閥会長と葉子の前に、最後の「水」のモチーフ、そのものズバリ「水差し」が。



だが、その部屋に入ってももはや力石は水差しに目もくれず、爽やかな笑顔。



もう、水や減量に対する怯えは無い。か、かっこいい!


そして、白木葉子は力石と共に試合会場の後楽園へ向かう。



ここで、去り際に葉子が水差しをそっと撫でて、でも持っていかないという小芝居が、また富野演出だなー!ワンアクション入れるよな。富野。
これで、「水」からの決別する意志っていう一連の力石と白木葉子のモチーフが絵画芸術として完成するんですよ!


すばらしい!
アニメーションって、なんていい表現媒体なのか!


  • 【番組中の不適切な表現について】

本作品は放送時の時代背景により、現代では一部不適切と思われる表現が含まれておりますが、制作者の意図を考慮し、原作に忠実に配信しておりますことをあらかじめ御了承ください。

今まで黙っていたが、不適切と思われる表現ってなんだよ!視聴者がどう思おうが、出崎統がオーケーを出したら、それは適切な演出表現なんだよ!それが監督なんだよ!
ガタガタぬかすんじゃねえ!

あしたのジョー DVD-BOX(2)~TOMORROW’S JOE~

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しかし、昔のアニメの演出、富野や出崎統の演出はこういう風に解説する俺だが、何故か他の新作アニメではやらないなあ・・・。まあ、カリミカリミさんとか、ill_critiqueさんとか、僕よりも得意な人がいるから別に僕がやらなくても良いな。うん。



次回、決着。

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↑これは実写版。
しかし、伊勢谷友介は35歳で力石徹は二十歳前後・・・。どんだけ力石さんは貫録があるんですか。